聖なる泉の伝説~カシュオンの試練~

 今日もフランドールの大穴に穏やかな風が吹く。

 自称・新進気鋭のカシュオン団は風下の廃墟を抜け、小さな森へと入った。魔導士のメルメダが木々を見上げ、髪をかきあげる。

「こんなところに森があったのねぇ」

「ワッハッハッハ! 涼しくて結構ではありませんか」

 老兵のゾルバは陽気に笑った。

 四人目となるメンバー、暗黒騎士チャーリーの素顔はフルフェイスの兜で覆い隠されている。腕組みのポーズでマントを棚引かせるさまが何とも凛々しかった。

「……地図にはない場所のようだな。カシュオン、現在位置はわかっているのか?」

「大丈夫です。僕にはこのコンパスもありますから」

 リーダーの少年もチャーリーと同じくフルプレートを身にまとい、金属音を鳴らす。

 カシュオン団の目的はフランドールの大穴で『聖杯』を探すことにあった。数十年ほど前、何者かによって聖杯が盗まれ、この大穴へ運び込まれたらしいのだ。

 カシュオンの一族は先祖代々、聖杯の監視を務めている。しかし三年に一度の奉納祭でさえ、聖杯をみだりに表に出すことはしないため、事件の発覚が遅れてしまった。

 コンパスは魔力の強いものに反応し、方角を指し示す。

 何度か『ハズレ』は引いたものの、いずれは聖杯に行き着くはずだった。

「どんどん反応が強くなってるよ。もうすぐだ」

「今度こそお宝だといいわね」

「タリスマンかもしれませんぞ? 城塞都市グランツにも、カシュオン様の名が知れ渡ることでしょうなあ! ハッハッハ!」

 ゾルバやメルメダ、チャーリーを連れ、カシュオンは森の中を進む。

 モンスターの気配もなかった。チャーリーがディバインスピアを降ろし、一息つく。

「これは……聖なる力か?」

「言われてみればそうね。精霊とか、そんなのがいる感じだわ」

 フランドールの大穴には邪悪な者ばかりが蔓延っているのではなかった。昔ながらの守り神や精霊も存在し、冒険者の関心を集めている。

 かのセリアス団も画廊の氷壁で氷竜に遭遇したらしい。

(僕だって活躍して、イーニアさんと……)

 十三歳の少年は恋に燃えていた。相手はふたつ年上のハーフエルフ、イーニア。

 華奢な容姿、純朴な表情、品のある物腰――すべてが少年の憧れで、夢に見ることもしばしば。聖杯も大事だが、それ以上に彼女のことが大切でならなかった。

 しかしライバルは多い。イーニアより十も上のセリアスは外すにしても、吟遊詩人のジュノーなど、油断のならない美男子がイーニアの傍にいるのだから。

(シズさんもイーニアさんと一緒に魔法の訓練してるみたいだし……急がないと)

 早く彼女の恋人に相応しい『男前』となって、愛を告白したい。グランツに滞在していられるのも聖杯を発見するまでのことであり、猶予は限られた。

 メルメダが肩を竦める。

「またイーニアのこと考えてるの? カシュオン」

「ちちっ、違いますよ! 僕はその……」

 秘密にしていたつもりの恋は、いつの間にか大勢にばれていた。ただ、カシュオンにもっとも近しいゾルバだけは、未だにその事実を受け入れようとしない。

「メルメダ殿、カシュオン様が思い煩うような女性など、ひとりしかおりませんぞ。カシュオン様は婚約者のプリプリン嬢にゾッコンでございますからなあ~、ガハハ!」

 婚約者の名がカシュオンの心胆を寒からしめた。

(ひいいいっ! 早くなんとかしないと……)

 プリプリンはホルート族のさる令嬢で、カシュオンのことを将来の夫と慕っている。甘やかされて育ったため、少し我侭ではあるものの、性根の悪い子ではなかった。

 だが、どうしても『鼻の穴』が気になる。

 またホルート族は足の裏に毛が生えており、それを美しさとする慣習があった。しかしプリプリンの毛は足首を越え、スネをもごわごわに覆っている。

 仮に結婚しようものなら、あのスネ毛を擦りつけられる――恐怖でしかなかった。

(僕は真実の愛に生きるんだ! 親が勝手に決めた縁談なんて、絶対……)

 愛のため、イーニアのため。少年の決意は固い。

 無論、十分の一くらいは婚約者が恐ろしいからでもある。

やがてカシュオンたちの一行は綺麗な泉へと辿り着いた。一対の石像に守られ、一帯には神秘的な雰囲気が立ち込めている。

「随分とまあ逞しい石像ねぇ」

 石像はどちらも筋骨隆々とした巨漢を模っていた。

 泉の前に不思議な男が忽然と姿を現す。

「ようこそ、力を求めし者よ。この『聖なるプロテインの泉』へ」

「うわあっ?」

 カシュオンは驚き、あとずさった。代わってチャーリーが冷静に問いかける。

「お前は何者だ? 悪意はないようだが……」

「これは失礼。私はマッスルシファーと申す者……ルシファーとお呼びいただきたい」

 博識なメルメダが青ざめた。

「ル、ルシファーですって? そんな名前で恥ずかしくないの? あなた」

 ルシファーとはもっとも神に愛された天使にして、堕天使。神に反逆を企て、敗れはしたものの、魔界にて最大の魔王となった。

……などと、オカルト神話では定番の物語とされている。

「私は君たちを導くだけの案内人に過ぎません。それより力が欲しいのでしょう?」

 カシュオンは前に歩み出て、マッスルシファーとやらに答えた。

「力じゃなくって、僕たちは『聖杯』を探してるんです」

「ふむ……聖杯ですか」

「まさか知ってるんですかっ?」

 マッスルシファーがぱちんと指を鳴らすと、泉の上にビジョンが浮かぶ。

「ここで聖杯といったら、これのことですよ。われわれは『男杯』と呼びますが」

 それは探し求めている聖杯に似て非なるものだった。しかし問題の聖杯は数十年も前に失われているため、カシュオンも正確な姿を知らない。

「あれが僕らの聖杯なのか? ゾルバ」

 ゾルバが自慢の顎髭をごわごわと撫でた。

「うぅむ……わしも拝見したのは一度きりでございましてなあ」

 聖杯である確証はない。が、コンパスが反応している以上、無視するわけにもいかなかった。カシュオンは一抹の不安に駆られながらも、マッスルシファーに尋ねる。

「あの杯は何なんですか?」

「お答えしましょう。男杯とは、まさしく男の願いを叶えるモノ……」

 願いを叶えるという点も『聖杯』と一致した。

マッスルシファーがほくそ笑む。

「あれをこの泉の水で満たし、飲み干せば、理想のカラダが手に入るのです」

「……へ? それだけ?」

 肩透かしを食らい、カシュオンはあんぐりと口を開けた。

「あ、不老不死とか?」

「いいえ。理想のカラダでございますよ」

 メルメダが抜群のプロポーションを見せつける。

「要するに女の場合は、私みたいな感じになるってことかしら」

「申し訳ございません……この男杯は男子にしか効果がないのです」

「あら。面白くないわねぇ」

 どうやら本当に男性が理想のカラダ、すなわち筋肉を手に入れるためのものらしい。ゾルバにしこたま鍛えられたカシュオンにとっては、無用の長物だった。

「ハズレみたいだね。帰ろうか」

「そうでございますな」

 ゾルバたちとともに一度は踵を返す。

 そんな少年の背中にマッスルシファーが誘惑を投げかけた。

「フフフ……残念ですね。男杯の力をもってすれば、ホルート族のあなたが『長身』を手に入れることも、不可能ではないのですが……」

「っ!」

 その言葉がカシュオンの心を鷲掴みにする。

「な、なんだって? 身長が……?」

「伸びますとも。試練を乗り越え、この男杯を手にすれば」

 ドーパミンが駄々漏れの脳内でイメージが膨らんだ。

 長身の美形となり、イーニアに思いのたけを打ち明ける――その光景が目に浮かぶ。

『イーニア。君に僕のロマンティックをあげるよ』

『嬉しいわ、カシュオン……あぁ』

 そしてふたりは愛に溺れ、ベッドの中でアグレッシヴ・ビースト・オン。

 顔を赤らめつつ、カシュオンはもじもじと弁解を始めた。

「そ、そうだなあ……やっぱり聖杯かもしれないし? 面倒くさがらずに、ちゃんと調べたほうがいいと思うんだよねー、うん」

 メルメダは呆れ、かぶりを振るも。

「好きになさいな。リーダーはあなたなんだもの」

 ゾルバのほうは俄然やる気になった。

「やりましょうぞ! 男をあげるための試練、面白そうではありませんか」

 この老兵は若き主人の采配を信じ、たとえカシュオンが急にてのひらをひっくり返そうと、必ずフォローしてくれる。

 寡黙な暗黒騎士も反対しなかった。

「やってみるがいい。私にできることがあるなら、協力しよう」

「ありがとうございます、チャーリーさん」

 あえてカシュオンはルシファーの挑発に乗り、男杯の試練とやらに挑むことに。

「教えてください、ルシファー。試練とは一体……?」

「では、そのコンパスをお貸しくださいませ」

 マッスルシファーがコンパスに念を込めると、針がくるくると回転した。

「これと同じ石像が、大穴の各地に何体もございます。このコンパスで探せるようにしましたので、石像を巡って、試練をお受けになってください。……ただし、試練に挑めるのはカシュオン、あなただけです」

「わかりました。石像をまわり終えたら、あとは?」

「再びここへ。その時こそ、男杯はあなたのものとなるでしょう」

 マッスルシファーの姿は消え、聖なるプロテインの泉は静寂で満たされる。

「よぉーし! 石像を探すよ、みんな!」

「ガッハッハ! その意気ですぞ、カシュオン様」

「しょうがないわねぇ。付き合ってあげるわ」

「……………」

 カシュオン団の石像探しが始まった。

 

 

 画廊の氷壁にて、早くも一体目の石像を発見する。

「あった、あった! 割と簡単じゃないか」

「……待て! 来るぞ」

 カシュオンは喜ぶも、チャーリーはディバインスピアで構えを取った。ゾルバもデストロイヤー(戦斧)、メルメダもエレメンタルブラスター(杖)を握り締める。

 石像から何かが飛び出してきた。

「無粋なものを私に向けないでいただきたいものだ」

 カシュオンは愛剣の名前も紹介できず、その異様にたじろぐ。

「あ、あなたは……?」

「私は紅のオシリス。これから君を男杯の試練へといざなう者だよ、フフフ」

 紅のオシリスはカシュオンに逞しい後ろ姿を見せつけた。

 全身が筋肉で固められているのは当然のこと、特に尻の肉付きが厚い。ビキニパンツのTバックが食い込んで、怪しげな色気を漂わせる。

 ゾルバは戦慄に震えた。

「なんという身体つきだ……お気をつけくだされ、カシュオン様。こやつ、まさしく全身が凶器そのものでございますぞ!」

 一方、メルメダは興味なさげに目を逸らす。

「こういうタイプはちょっと……てゆーか、雪山で寒くないの?」

「氷壁の寒さ程度で凍えていては、男ではないよ。レディー」

 オシリスはカシュオンに人差し指を突きつけ、高らかに言い放った。

「君も男なら、身体ひとつで勝負したまえ。愛する者を抱き締めたいのならッ!」

「――ッ!」

 その言葉が少年を奮い立たせる。

 脳内のベッドではイーニアが寝そべり、恥ずかしそうにカシュオンを待っていた。この時のためにも、自分は彼女よりも背が高くなくてはならない。

「ゾルバ、メルメダさん、チャーリーさん! みんなは手を出さないでください! この試練は僕がひとりでやり遂げてみせます!」

 カシュオンはフルプレートを脱ぎ捨て、相手と同じビキニパンツ一丁となった。

 ドワーフ族のゾルバに鍛えられただけあって、小柄なりに筋肉は発達している。それを目の当たりして、紅一点のメルメダも感心した。

「脱ぐと意外にすごいのねえ、あの子」

「あれくらいでないと、あの鎧では歩けんだろう」

 闘志に燃えているおかげで、寒さなど感じるはずもない。

「その意気やよし! さあ、来たまえ……われわれのステージへ!」

 突然、足元がドーナツ型に抜け落ちた。カシュオンとオシリスは落とし穴に囲まれながらも、中央のリングで相対する。

「ルール無用の尻相撲だよ。もちろん、穴に落ちたら負けだ」

「望むところです。でも、これくらいの高さなら……」

「どうかな? よく見たまえ」

 周囲の穴を覗き込んで、カシュオンはまさかの恐怖に青ざめた。

 穴の下では婚約者のプリプリンが何十人とひしめきあっていたのだ。つぶらな瞳どころか『鼻の穴』でカシュオンを見上げ、熱をあげる。

「カシュオン様~! 早くいらしてぇ~!」

「うわあああっ?」

 少年は腰を抜かしそうになった。

 幻影のようだが、恐ろしいにもほどがある。下に落ちようものなら、ビキニスタイルの自分など、彼女らの分厚い唇で骨の髄までしゃぶり尽くされてしまうだろう。

(あんなとこに落ちたら、再起不能だぞ? これ……)

 想像しただけでもチビりそうになる。

 レフェリーには暗黒騎士チャーリーが名乗りをあげた。

「審判は私が務めよう」

 メルメダはそっぽを向いて、コンパクトと睨めっこしつつ眉毛を抜き始める。

「終わったら、言ってー。適当に休んでるから」

「繊細な女性には刺激が強いようですな。カシュオン様、気合ですぞ!」

 ゾルバは声の大きいギャラリーとしてカシュオンの背中を見守っていた。試合開始のゴングが鳴り響き、寒空の下、男たちの激闘が幕を開ける。

 オシリスのケツが弾丸じみた勢いで飛んできた。

「これこそが私の美学だ! 氷壁をも砕くヒップアタック、食らいたまえ!」

「ぐううっ?」

 それを小さなお尻で受けるも、全身を一方通行のベクトルに乗せられる。

「ま……まだまだ!」

 かろうじてカシュオンは腰を捻り、その衝撃から逃れた。ヒップアタックの空圧は穴を飛び越え、氷壁に一対の丸い窪みを刻む。

 あまりの威力にゾルバさえ驚嘆した。

「なんという破壊力じゃ……あれを食らっては、ひとたまりも」

 しかしカシュオンは臆さず、オシリスに向かって尻を繰る。

「心配しないで、ゾルバ。勝負はこれからさっ!」

 カシュオンのヒップアタックも火を噴いた。

「甘いね!」

 が、体格差もあって、オシリスに難なく受け止められてしまう。身長が百三十のカシュオンと、百八十に近いオシリスとでは、実に五十センチもの開きがあった。

こちらは背伸びも必要で、それだけお尻の威力が落ちる。

「男と男の勝負、手加減はしないよ。ヒップアタック・ラーッシュ!」

 肩越しに振り向きながら、オシリスは怒涛のケツを放った。一撃ごとに『二発』の衝撃を叩き込まれ、カシュオンの尻が喘ぐ。

「あぐっ! これは……まさか?」

 尻が割れているために『二発』なのだ。極端なTバックもケツを割り、攻撃力を倍増させるためのもの。乱打に晒され、少年はじりじりと穴の脇へと追い詰められていく。

 プリプリンの大群と目が合ってしまった。

「カシュオン様ァ~!」

「ひ……ひいいっ! 落ちるもんか!」

 負けじとカシュオンのほうからもケツを放ち、少しでもオシリスを遠ざける。

 オシリスは余裕たっぷりにやにさがった。

「なかなか粘るじゃないか。……だが、これには耐えられるかな?」

そのケツが谷間で鞭をしっかりと挟み、変幻自在に振りまわす。

「ぐわあああッ!」

 低い位置にあるお尻を上から滅多打ちにされ、カシュオンのバランスが崩れた。

 まさしく前門の虎、後門の狼。眼下ではプリプリンの群れが諸手を上げ、カシュオンの落下を待っている。

(もうだめだ……こんなところで終わるのか? 僕は……)

 敗北を悟った、その時。いつぞやのセリアスの言葉が脳裏をよぎった。

『大きい者にとっても小さい者とは戦いづらいものなんだ。身長の差だけで勝負は決まらん。力の使いどころを間違えるんじゃないぞ』

 光明を見い出し、カシュオンは反撃に打って出る。

「この! このっ!」

「見苦しいぞ、少年! 潔く落ちたまえ!」

 それに誘われ、オシリスもヒップアタックを重ねてきた。

ガンガンと熾烈に撃ちあうものの、ついにはカシュオンが膝をつく。

「ぐ……」

「もらった! 奥義、紅の尻ゥ弾(しりゅうだん)ッ!」

 オシリスのケツが唸った。

 が、カシュオンの瞳は勝負を諦めていない。

「今だあッ!」

 可能な限り姿勢を低くして、オシリスの尻ゥ弾をくぐり抜ける。

オシリスは尻を下げるも、俄かに無理が生じた。

「ぬあっ? し、しまった……腰に!」

 小柄なカシュオンが相手では、屈んで戦わねばならず、腰に来たのだ。低め、低めに奥義を放ったことが、彼にとっては自爆のトリガーとなった。

 カシュオンのケツがオシリスのケツに反撃を始める。

「そこですじゃ、カシュオン様!」

「えいえいえいっ! これでとどめだ、ええーいッ!」

 目にも止まらぬ連続攻撃がオシリスの尻を真っ赤に染めた。

「ぐはあああ~ッ!」

最後は華麗に打ちあげ、オシリスはプリプリンの巣へと落ちていく。

 それを、カシュオンはぎりぎり手で繋ぎ止めた。敵に手で触れることは反則だが、レフェリーは黙っている。

「しょ、少年……なぜ私を?」

「勝負はつきました。それに僕とあなたは、殺しあってたわけではありませんから」

 真剣勝負で競いあってこそ、芽生えた敬意。そしてプリプリンの群れに放り込まれようものなら、彼とて死ぬという確信。

 少年が敵に手を差し伸べる光景には、ゾルバも涙した。

「カシュオン様、なんとご立派になられて……このゾルバ、感無量でございますぞお!」

 オシリスが穏やかにはにかむ。

「フ……負けたよ。君は身なりは小さくとも、器のでかい男のようだね」

 かくして第一の試練はカシュオンの勝利。

 聖なる男杯の探求は幸先の良いスタートとなった。

 

 

 竜骨の溶岩地帯にて、カシュオン団は次なる石像を発見した。

「これでふたつめの……」

「カシュオン様! あれをご覧くだされ」

 真っ赤な溶岩を押しのけ、試練のためのリングが徐々に浮かびあがってくる。

「よく来たね、少年!」

 その中央に降り立ったのは、スーツ姿の紳士だった。立派な髭を生やし、そこはかとないダンディズムを醸し出す。

「お初にお目にかかる。私はバッカス男爵と申す者」

 彼こそが今回の相手なのだろう。

 その優雅な佇まいを前にして、ゾルバは声を震わせた。

「油断してはなりませんぞ、カシュオン様。こやつはオシリス以上の手練かと」

「そうみたいだね……。メルメダさん、チャーリーさんも手は出さないでください」

 カシュオンはフルプレートを脱ぎ捨て、ビキニパンツ一丁となる。

「僕だけ鎧を着ていては、フェアじゃありませんからね」

「フム! 見上げた根性ではないか」

 男たちは戦いにも美学を求めた。

 一方でメルメダは岩場に腰掛け、暢気に爪を研いでいる。

「試練はカシュオンだけでいいんでしょう? まあ頑張んなさいな」

「さすがはメルメダ殿。カシュオン様の勝利を信じておられるのですな」

 暗黒騎士チャーリーは今回も審判を務めることに。

「溶岩には落ちるんじゃないぞ、カシュオン」

「はい! チャーリーさんは公平なジャッジをお願いします」

 カシュオンは円形のリングに立ち、バッカスと相対した。少年の身体は小さくとも、曲線のついた筋肉で固められ、ボディビルダーばりに引き締まっている。

 バッカスはファイティングポーズを取りながら、小刻みにステップを踏んだ。

「私との勝負は純然たる格闘技だよ。いいね?」

「望むところです!」

 カシュオンもゾルバに教わったドワーフ拳法の構えに入る。

 不意にマグマが噴きあがり、リングを持ちあげた。しかし揺れなどものとせず、バッカスがローキックで奇襲に打って出る。

「ゆくぞ、少年!」

 それをカシュオンの腕が防いだ。スウェーバックも織り交ぜ、間合いを一定に保つ。

「ほう? 素人ではないようだな」

「驚くには早いですよ、バッカス男爵!」

 そして時間差で踏み込むとともに、カシュオンはアッパーカットを放った。

 リーチの短さは跳躍力と瞬発力で克服し、一気に詰める。

(決まった……!)

 タイミングはばっちりのはずだった。ところが命中の寸前にバッカスの身体がくねり、アッパーカットをかわす。

「ふっ。その程度かな? ムキムキの少年よ」

「ま、まだまだ!」

 続けざまにカシュオンは肘鉄、蹴りと繰り出した。

 しかしバッカスには掠りもせず、空を切る。

(……おかしいぞ? これは一体)

 攻撃すればするほど、違和感は大きくなっていった。

 一発さえ当たらないのは、決してリーチが足りないからではない。むしろカシュオンの攻撃はすべてバッカスを『掠めて』いる。

 バッカスは付かず離れずの距離で常にリズムに乗っていた。

「も、もしかして……?」

「フフフ! おわかりいただけたかな」

 戦うにしては優美なダンスが、少年の身体まで弾ませる。

「これぞ我がダンディー奥義! ダンシング・イリュージョンだッ!」

 そのリズムに無意識のうちに乗せられ、カシュオンもまた『彼に合わせる』ようにステップを踏んでいたのだ。これでは攻撃しようにも、タイミングは彼に決められる。

 バッカスのダンスにはゾルバも目を見張った。

「迂闊に近づいてはなりませんぞ、カシュオン様!」

「そ、それがだめなんだ……はあっ、逆らおうとしても……!」

 カシュオンは踏み留まろうとするものの、俄かに息を乱すばかりで、足は勝手にステップを刻む。始まったが最後、自分の意思ではダンスを止められなかった。

「今度は私から失礼しよう! ハアッ!」

 ノリにノリながら、バッカスが拳打を浴びせてくる。

「ぐぅ? がっ、ぐはあっ!」

 一発ごとに鉛のように重たいパンチがカシュオンを苦しめた。なまじ身体が頑丈なせいで倒れることもできず、サンドバッグ同然に打ちのめされる。

(このままじゃやられる……ど、どうすれば……?)

 バッカスの猛攻に耐えつつ、カシュオンは反撃の糸口を求めた。

 審判のチャーリーは兜の中で押し黙っている。

「……………」

 それは試合の続行、つまりカシュオンにまだ逆転の余地があることを意味した。

(そうだ、どこかにチャンスがあるはずだ!)

 今一度カシュオンの瞳に闘志が宿る。

「防戦一方では勝てんぞ、少年!」

 その間もバッカスは攻撃の手を緩めなかった。

 だが、ラッシュの合間にふと悲しげな表情を浮かべる。

(このひとは……もしかして?)

 彼のダンスもまた、音もなしに痛切なメロディを奏でていた。戦いの最中に流れる、苦悩と葛藤の旋律――それが少年に閃きをもたらす。

「も、もうやめてください、男爵……!」

「うん? 命乞いかね?」

「そうじゃありません。さっきから『泣いてる』んですよ、あなたのダンスが!」

 その一言にバッカスが顔色を変えた。パンチを打ちきれず、カシュオンをラッシュから解放してしまう。

「な……何を言ってるんだね? 君は」

「あなたにもわかってるはずです。ダンスを武器にすることの愚かしさが」

 片方の膝をつきながらも、カシュオンは彼に本気の言葉をぶつけた。

「一緒に踊ってたら、伝わってきたんですよ。あなたはみんなを楽しませたくて、ダンスを始めたんですよね? なのに、今は戦いに勝つために躍ってる」

「ぬ、ぬぬぅ……」

 少年の気迫に気圧され、バッカスはたじろぐ。

「あなたは間違ってるんです!」

「ぐはああッ!」

 ついにはバッカスにダメージを与え、ダウンを奪った。

「はあ、はあ……なぜお前の言葉がこれほどに……」

 暇そうに見物していたメルメダは、何のことやらと首を傾げる。

「……あの子、バッカス男爵とは今日が初対面でしょう? どうしてあんなに男爵の事情に詳しいのよ」

「フッフッフ! それはわしがお答えしよう」

 ゾルバはにやりと笑みを噛んだ。

「あれこそがカシュオン様の素質! 『崇児孔の切気予』なのじゃ!」

 ごく一握りの勇者だけが生まれながらにその力を持つ。かの崇児孔(すうじこう)はこれを切気予(せっきよ)と呼び、悪に染まりきれない敵への切り札とした。

 相手に有無を言わせず、己が間違いを悟らせる。ほかの誰でもない崇児孔と、その意志を継いだ者だけが、神によって許されている神聖な一撃なのである。

「有り体に言えば『大きなお世話』ってやつでしょ? それ」

「水を差さんでくだされ、メルメダ殿。もっと素直な心で物事を……ぬうっ?」

 バッカスはゆらりと立ちあがり、再び得意のステップを踏み出した。

「少年よ。悪いが、私ももうあとには引けないのだよ。ダンスを悪としたからには、最後まで悪を通すのみ! せぇえええぃやあああっ!」

 高速でスピンも交えながら、猛然とカシュオンへ迫る。

 だが、すでにカシュオンはダンスの支配から解き放たれていた。

「この……わからずやめーーーッ!」

 渾身のアッパーがバッカスを高々と打ちあげる。

「がはあああっ?」

 放物線を描いて、バッカスは今度こそリングへと沈んだ。

 カシュオンとて彼を力任せに殴り飛ばしたかったわけではない。そのような迷いだらけのアッパーカット、バッカスほどの実力者なら簡単にかわせるはずだった。

 あえて彼はカシュオンの一撃を受けたのだ。

「ふ、ふふふ……私の完敗だ。心優しい少年よ」

「バッカス、あなたは……」

「もっと早く君と戦っていれば、私も道を踏み外さずに済んだかもしれんな」

 打ちのめされながらも、バッカスは吹っ切れたようにはにかむ。

 そんな彼にカシュオンは手を差し伸べた。

「まだまだこれからですよ。男爵」

「……ハハハ! 大した男だ」

 新しい友情が芽生え、ゾルバは感激のあまり涙する。

「カシュオン様、ずびいっ、また大きくなられて……わしは嬉しゅうございますぞぉ」

 その一方でメルメダは口元を引き攣らせていた。

「え、ええと……? これって、もう次に行っていいのかしら?」

 暗黒騎士チャーリーは溜息を漏らす。

「私の目に狂いはなかったようだな。フッ……」

 かくしてカシュオンはバッカス男爵の試練を乗り越えた。

 

 

 その後もフランドールの大穴のあちこちで石像を見つけては、試練に挑む。

 美の化身オフロディーテとの戦いでは、お互い丸裸となり、一輪のバラだけを武器とした。露出しても敗北となるため、不埒な息子はバラで隠す。

「これでとどめだ、少年! ビューティフル・ローズ・チェーン!」

「相手を傷つけることが美しいもんかっ!」

 カシュオンとオフロディーテはすれ違いざまに渾身の一撃をぶつけた。

 オフロディーテのバラだけが散り、絶世の美男子はくずおれる。

「まさか私を降すとは……」

「女子だっているんだから、少しは遠慮なさいよねぇ」

 試練をこなすにつれ、男と男の勝負も白熱した。

 

 やがてすべての石像を巡り終える。

 カシュオン団は風下の廃墟を抜け、再び聖なるプロテインの泉を訪れた。どこからともなくマッスルシファーが現れ、カシュオンの活躍を称える。

「素晴らしい! ここまでやり遂げたのはあなたが初めてですよ、カシュオン」

「へへへ……みんなのおかげです。僕ひとりじゃ石像のもとへも辿り着けませんから」

 石像を探してフランドールの大穴を探検するうち、カシュオン団のレベルもあがった。メルメダやチャーリーはA級冒険者に数えられ、依頼も増えつつある。

 だからこそリーダーのカシュオンにも隙はなかった。

「さあルシファー殿、男杯をカシュオン様に……」

「まだだよ、ゾルバ。これから最後の試練が始まるんだ」

「な、なんですと?」

 マッスルシファーがシニカルに微笑む。

「フフフ……では、いよいよ最強の戦士にご登場いただきましょう!」

 魔方陣が浮かびあがって鈍い光を放った。その中からビキニパンツの巨漢が現れ、威風堂々と鋼の筋肉を見せつける。

 ギャランドゥの魔人にはカシュオンも戦慄した。

「アラハムキ……やっぱりあなたが最後の試練だったんですね」

「その通り。果たしてオレに勝てるかな?」

 城塞都市グランツには『サラス団』という冒険者パーティーが存在する。彼ら――いや彼女らは武器や防具を一切使わず、鍛え抜いた己の身体だけで戦った。

 そんなサラス団のメンバーにして、バーバリアン族の狂戦士。

「さあ、リングにあが……ガハッ?」

 そのはずが、アラハムキはカシュオンと拳を交わすことなく倒れる。彼を一撃で仕留めたのは、筋肉質という意味で肉感的な女性だった。

「ずるいわねえ……男だけで面白そうなことして。私も混ぜてくれないかしら」

 サラス団のリーダーことサラス=バディ子の登場にゾルバは面食らう。

「なんとおっ? お、おぬしはアマゾネス族の……!」

「ご存知のようね、この私を……」

 不意にバディ子の姿が消えた。

「いいえ、私の強さを!」

「グハッ?」

 そして一瞬のうちにゾルバの背後を取り、逆立ちの姿勢から、脚だけで老戦士の首を絞める。さしものゾルバも青ざめ、苛烈なロックに苦悶した。

「ぐぬぬぬ……ぶはあっ! はぁ、はあ……」

「うふふ、冗談よ。ごめんなさいね」

 あと一押しのところでそれを外し、バディ子はくるりと着地する。

 先ほどのアラハムキへの奇襲にしても、カシュオンにはまるで見えなかった。

(只者じゃないぞ? このお姉さんは……)

 武者震いではない、恐怖による震えが脚に来る。

「いいでしょう? ルシファー。最後の試練は私がやっても」

「もちろんです。さあ、おふたりとも戦いの舞台へ!」

 聖なる泉の上でテトリス石が次々と組みあわさり、四角いリングとなった。

 カシュオン団の面々がリーダーの少年に発破を掛ける。

「敵は強大ですぞ! カシュオン様、今こそ男の見せどころでございましょう!」

「やあね、男、男って……私としてはあっちに勝って欲しい気もするけど」

「骨は拾ってやる。全力で行け」

 カシュオンは鎧を脱ぎ、なりは小さくとも逞しい姿となった。

「いってきます!」

 リングの上でカシュオンとバディ子が睨みあう。

「それでは楽しませていただきましょう。レディー……ファイッ!」

 マッスルシファーがゴングを鳴らした。

 いきなり真っ向からバディ子の肘鉄が襲い掛かってくる。

「ハアッ!」

「ぐ? ……くっ、くく!」

 防御は間に合ったものの、凄まじい『重さ』を感じた。一回受け止めただけでも腕が痺れ、指の感覚が怪しくなってくる。

「どんどん行くわよ! てやっ! はっ!」

 さらに裏拳、膝蹴りと繰り出され、こちらは防御に徹するほかなかった。

(つ、強い……! これがサラス団のリーダーの実力!)

 強力無比な連続攻撃に晒され、肝を冷やす。

 それでもカシュオンは抗い続け、ひとまずバディ子の猛攻を凌ぎきった。感心したようにバディ子が目を丸くして、小柄なカシュオンをしげしげと吟味する。

「思ったより頑丈なのね。並みの戦士ならもうダウンしてるのに」

「生憎、僕は『並み』じゃないんです」

 強気に返すものの、策があるわけでもなかった。

「カシュオン様もガンガンお攻めくだされ! 攻撃は最大の防御ですぞ!」

 が、ゾルバの声援にはっとする。

「そうだ……僕はここへ戦いに来たんだっ!」

 奇跡の男杯を目前にして、尻込みしてなどいられない。

 脳内のお風呂ではイーニアが腰まで湯に浸かり、恥ずかしそうに背を向けていた。それを振り向かせるためにも、カシュオンは小さな身体に全身全霊の力を漲らせる。

「勝負です! バディ子さん!」

「そうこなくっちゃ!」

 カシュオンとバディ子のラッシュが真正面から激突した。

 互いに相手の後ろに抜け、カシュオンだけが膝をつく。

「い、一発も入らないなんて……?」

 カシュオンの拳打が十に対し、バディ子は二十を超えていたのだ。ダメージは大きく、脚に力が入らない。

 バディ子のほうは余裕を持て余していた。

「本当によく頑張るわね。でも手加減はしないわよ、カシュオン!」

 少年の健闘ぶりを称えながらも、奇妙な構えでてのひらを揺らめかせる。そしてロープへ飛び、たっぷりとバネをたわめた。

「私の四神大筋星に耐えられるかしら? 青龍上腕筋!」

 砲弾じみたラリアートがカシュオンの喉笛を抉る。

「ガハ……ッ?」

 カシュオンは首で『く』の字に折れつつ、ロープへと投げ込まれた。跳ね返ってきたところを、今度はブリッジで真上に打ちあげられる。

「玄武腹筋!」

 それを追いかけ、バディ子はロープから矢のように跳躍した。

「さらに白虎大腿筋!」

「……ッ!」

 空中で少年のみぞおちに膝蹴りがめり込む。

「これでとどめよ! 朱雀背筋!」

 フィニッシュは宙返りで勢いをつけ、カシュオンをボディ・プレスで撃墜。

「ぐはあああぁああああッ!」

 カシュオンはリングへと強烈に叩きつけられてしまった。

 ゾルバは真っ青になり、ルシファーの言葉も聞き流す。

「あ、あああ……カシュオン様が……」

「これほどの実力差は如何ともし難いでしょう。頑張ったほうだとは思いますが」

 メルメダは唖然とし、チャーリーは黙り込んだ。

「無茶するわねぇ。あの子、大丈夫なの?」

「……………」

 勝敗は誰の目にも明らかとなる。

(僕は……負けるの……?)

 痛みが感覚できるレベルを通り越してしまい、何も感じられなかった。身体は指一本さえ動かず、磔にでもされたかのようにリングで仰向けになる。

 薄れゆく意識の中、カシュオンは悟った。

(……違う、僕はまだ全力じゃ……)

 確かにサラス=バディ子は強い。試合を一度や二度やりなおしたところで結果は変わらないだろう。ただ、少年は百パーセントの力を出しきっていなかった。

 たとえ正当な試合であっても、女性に手をあげることなどできない。断じて。

 幼い頃よりホルート族の勇士として、何より『名誉』を重んじてきたのだから。それこそがカシュオンの美徳であり、美学なのである。

 しかし『名誉』を学ぶ以前の自分は、こうではなかった。

(あ……あの時の潔さがあれば、き、きっと……)

 マッスルシファーが右手をかざす。

「では、バディ子さんにお納めいただきましょうか。勝者、バ――」

 ところが審判の判定は降りず、一同は目を丸くした。

「カ、カシュオン様っ?」

 カシュオンがゆらりと立ちあがって、勝負を続けようとするのだ。とはいえ目の焦点は合っておらず、足元もおぼつかない様子で、意識があるかも怪しい。

 これにはメルメダも見かね、口を挟んだ。

「もう充分でしょう? ルシファーも、バディ子も」

「……さあ? どうかしらね」

 しかしバディ子は表情を引き締め、再び少年と相対する。

「さっきと全然違うわよ、この子。……私の闘争本能にビリビリ来てるわ!」

 真の格闘家である彼女は直感したらしい。カシュオンの底力を。

 少年は俯いたまま弱々しいピースを掲げた。

「……?」

 誰もが首を傾げる中、ゾルバはぎょっと顔色を変える。

「まま、まさか! カシュオン様、それは!」

 そのピースを裏返し、カシュオンは自ら鼻の穴へと突っ込んだ。人差し指と中指がそれぞれ同時に鼻孔を拡げ、穿り返す。

「あれはダブルホジホジッ!」

 よもやの禁じ手を目の当たりにして、ゾルバはただただ驚愕した。

「な、何よ? それ」

「女性と相まみえることで、幼き日のご自身を思い出されたのでしょう。……カシュオン様は昔、ああやっておなごを驚かせるのが大変、お好きだったのでございます」

 女の子に鼻水や毛虫をけしかけ、面白がる男児はいる。カシュオンはそのような幼少時代を過ごし、多くのものを失ってしまった。

「そのせいで許婚の候補者にはことごとく逃げられ……最後まで残ったのが、プリプリン嬢なのですじゃ。おお、カシュオン様が純粋無垢であったがために!」

「だったら止めなさいよ、あなたも……」

 カシュオンは念入りに鼻を穿り、ねばっと鼻水を絡め取る。

「へへへ……」

 無邪気な薄ら笑いがバディ子をも戦慄させた。

「そ、そんなことで私が逃げ出すとでも? 次こそリングに沈めてあげるわ!」

 バディ子が一気に距離を詰め、少年に怒涛のラッシュを浴びせる。

 だが一発も当たらなかった。カシュオンの不規則でいて変幻自在の動きを捉えきれず、すべての拳打が空を切る。

 ルシファーは感心気味に少年のフットワークを眺めていた。

「驚いたね。戦いに夢中になるあまり、彼は一種のトランスに陥ったんだ」

 依然としてカシュオンに意識はない。にもかかわらず、バディ子の猛攻を見切り、ついには間合いの内側へと入り込む。

 不意に後ろを取られ、バディ子はぎくりとした。

「なっ? いつの間に……」

 カシュオンは両手の人差し指と中指を揃え、目をぎらつかせる。

「そ、それだけは! なりませんぞ、カシュオン様!」

「えええぇえーいっ!」

 禁断の技が、あろうことか女性に炸裂した。

「~~~ッ!」

 ×××に無慈悲な直撃を受け、女戦士の美貌も歪む。

 カン・ツォー。それもまた幼少期のカシュオンが好んだ荒業のひとつだった。バディ子はくずおれ、リングに沈む。

 マッスルシファーが高らかに叫んだ。

「勝者、カシュオン!」

 ゾルバは泣いて喜び、メルメダは口角を引き攣らせる。

「禁じ手の封印を破り、ここ一番で逆転なさるとは! さすがでございますぞぉ~! このゾルバ、今日ほどカシュオン様のご成長に感じ入ったことは……ずびびっ」

「……セリアス団に鞍替えしようかしらね」

 マッスルシファーに右手を掴みあげられ、ようやくカシュオンは我を取り戻した。

「あ、あれ? 僕は一体……?」

「君が勝ったのですよ」

 リングには自分ではなくバディ子が倒れ、ぴくぴくとのたうっている。

 際どかったものの、とうとう最後の試練も突破できたらしい。これまでの戦いを振り返りながら、カシュオンはマッスルシファーを見上げた。

「じゃあ、僕に『男杯』ってやつをくれるんですね」

「もちろんです。さあ、これで泉の水をお飲みください」

 カシュオンの手に聖なる男杯が委ねられる。

(やったぞぉ! これで僕も憧れの長身に……!)

 その杯を少しだけ泉に浸し、カシュオンはプロテインとやらを掬った。期待を胸に口をつけ、小さな喉へと流し込む。

 そのはずが、さしたる変化は感じられなかった。百三十センチの背も伸びない。

「……あれ? 何も起こらないぞ?」

 マッスルシファーが愉快そうに破顔する。

「ハッハッハッハ! それはそうでしょう。これはただの水なのですから」

 思いもしなかった事実を突きつけられ、少年は目を点にした。

「エ……エエエ~ッ?」

 暗黒騎士チャーリーが寡黙な口を開く。

「やはり気付いてなかったか。このたびの男杯の試練は『修行』でもあったのだ。カシュオン、お前が強くなるためのな」

 メルメダはやれやれと肩を竦めた。

「そんなこったろうと思ってたわ。おかげで秘境もたくさんまわれたし」

「なんと……わしらはこやつに一杯食わされた、と?」

 聖なるプロテインの泉はただの水。苦難の末に手に入れた男杯も、単なる器。

 しかしカシュオン団は試練のために数々の秘境を突破し、力をつけた。男杯などに頼らずとも、劇的なパワーアップを果たしたのだ。

 それでもカシュオンは悲哀に暮れる。

「そんなあ~っ!」

 憧れの高身長よ、さようなら。大きくなった身体で愛する女性(イーニア)を抱き締めることも、夢(淫夢)に終わる。

 サラス=バディ子が目覚め、カシュオンへと歩み寄った。

「あっ、バディ子さん! もう平気なんですか? 僕、よく憶えてなくて……」

「ええ。ナイスファイトだったわよ、あなた」

 その色っぽい唇が少年の頬にちゅっと口付けする。

「えええっ? あ、あの……?」

「これはご褒美」

 カン・ツォーで勝負を決したにしては、爽やかな結末となった。

 暗黒騎士チャーリーがマントを翻す。

「さて……グランツへ戻るか」

「そうねぇ。お腹も空いちゃったわ」

 顔を赤らめながら、カシュオンも聖なるプロテインの泉に背を向けた。

「うん。帰ろう!」

「このゾルバ、どこまでもお供致しますぞ」

 カシュオン団は試練を終え、戦いの場をあとにする。

 

 

 その帰り道、急にメルメダとチャーリーがペースをあげた。

「さ、先に行くわよ? カシュオン」

「私も失礼する。契約外のことはしない主義でな」

 カシュオンはゾルバとともに首を傾げる。

「……どうしたんだろ?」

「はて。腹でも壊したんでしょーかのぉ……ぬおおっ!」

 ところが不意に足元の感覚がなくなった。

「うわあああ~っ!」

 カシュオンとゾルバは真っ逆さまに落ち、亜空間へと迷い込む。

「……ここは?」

 亜空間はおぞましい気配で満たされていた。怒り、嫉み、僻み――どす黒い感情が空気を汚染し、暗黒の瘴気を漂わせる。

「許さん……お前だけは……」

 不気味な声が響き渡った。

 突如、暗黒の最中から大男の集団が溢れるように飛び出してくる。彼らは奇妙なフォーメーションを組み、カシュオンたちの前に立ちはだかった。

 ゾルバが慄然として、老いた顔を強張らせる。

「これはもしや、かのバーバリアン族の!」

「いかにも! バーバリアン式決戦闘法『毛星乱舞』、とくと見よッ!」

 フォーメーションの真っ只中で小さな爆発が連続した。誰かが打ちあげられ、カシュオンの前へと落ちてくる。

「あ、あなたは……ルシファー?」

「ぐふっ! 逃げなさい、カシュオン……ま、魔人がめざ、め……」

 マッスルシファーに続き、オシリスやバッカスも降ってきた。

「そんな! ど、どうして」

「男杯の試練で会うた男ばかりですぞ!」

 今まさに毛星乱舞によってひとりずつ処刑されているのだ。オフロディーテも血祭りにあげられたうえで、無造作に投げ捨てられてくる。

 カシュオンは怒号を張りあげた。

「やめろ! なんのつもりでみんなを傷つけるんだ!」

「フッフッフ……オレに『崇児孔の切気予』は通用せんぞ?」

 毛星乱舞の頂上にひとりの巨漢が立つ。

「なぜなら、オレは善も悪も超越した男……いいや、『魔人』なのだからな」

 亜空間に雄叫びが轟いた。

「カシュオン! 貴様はあろうことか、オレのバディ子からキスを受けた! バディ子の唇、吐息、囁き……それが貴様の頬に残っている! なればこそ!」

 獰猛な魔人が大いなる翼を広げ、下腹の剛毛を震わせる。

「そんなものは……このオレのギャランドゥが上書きするッ!」

 その威光を浴びせられただけで、カシュオンもゾルバも残りHPが1になった。

「カシュオン様! や、やつは……やつは!」

「うっうわ、わ――うわあああああッ!」

 マッスルを越えて終末が近づく。

 

 その様子を遥か遠方の水晶で眺めている、数人の実力者がいた。

「……カシュオンがやられたか」

「所詮、やつはわれわれ冒険者の中でも、最弱……」

「やつが『主人公の説教』を使いだした時は、焦ったが」

「次の主人公となるのは、やつではない」

 その言葉が一同をざわつかせる。

「ラノベ主人公……フフフ、なんと甘美な響き!」

「嫁は三人くらいで始めるのが定石よ」

 城塞都市グランツにて暗躍する秘密結社、その名をHIMOTE。彼らは今なお野望に燃え、同志を増やしながらも、互いに監視の目を光らせていた。

「カシュオンが脱落したのは大きいぞ。あれでもショタ属性持ちだからな」

「セリアスのロリコン計画も潰えた今、われわれにもチャンスはある」

 恐るべき陰謀が渦巻く。

 

 

 三日後――傷は癒えたものの、カシュオンはエドモンド邸の一室で寝込んでいた。

「はあ……。どうしてあんなことに……」

 結局、男杯の試練など真っ赤な嘘で、普通の水を飲んだだけ。コンプレックスの身長は一センチたりとも伸びず、自暴自棄にもなる。

 今日もメルメダが見舞いにやってきた。

「いい加減、起きなさいったら。あなたの元気の源を連れてきてあげたから」

「元気のぉ~? メルメダさんに僕の何がわかるって……ヒャアアッ!」

 カシュオンはふてくされるが、イーニアの登場に度肝を抜かれる。

「こんにちは、カシュオン。具合はどうですか?」

「だっ、だだ……大丈夫ですから!」

 彼女と顔を会わせるに会わせられず、少年は布団の中へ逃げ込んだ。次に会った時こそ告白を、と意気込んでいただけに心が挫けそうになる。

「イーニアさん、僕は……情けない男なんです。今日のところは帰ってください。僕が男としての自信と尊厳を取り戻すまで……あなたに会うわけにはいかないんです」

 イーニアはきょとんとした。

「あのぉ、何を言ってるんですか? カシュオンは……」

「……ったく、しょうがないわね。イーニア、よく聞きなさい?」

 メルメダが彼女に何やらひそひそと耳打ちする。

「はあ、わかりました。やってみます」

 背中と布団の向こうでイーニアが近づいてくるのを感じた。それでもカシュオンは頑なに布団から顔を出さず、小さくなる。

「こっ来ないでください、イーニアさん!」

「えぇと……そう言わずに出てきてください」

 不意に甘い囁きが零れ落ちた。

「どんなことだって、お姉さんが教えてあげますから」

 少年は衝撃に打たれる。

「――ッ!」

 お姉さんが教えてあげる。それは自分が年下でなければ成立しない、素敵な恋の駆け引きだった。たった一言がカシュオンの男心を刺激し、あっさりと立ちなおらせる。

 カシュオンは布団を払いのけ、イーニアを見上げた。

「イーニアさん、僕、これからも頑張ります!」

「元気が出たみたいですね。うふふ」

 柔らかい笑みが少年の心を救ってくれる。

(やっぱりイーニアさんだよ。清楚で優しくって……悪女っぽいメルメダさんやムキムキのバディ子さんとは、何もかもが違うんだもん。うんうん!)

 だが、この時の彼はまだ知らなかった。グランツにあの許婚が来たことを――。

「そうだ! 今夜は僕たちと夕食をご一緒しませんか?」

「ごめんなさい。お友達と約束があるんです」

 アラハムキの剛毛を散々擦りつけられたあとは、プリプリンのスネ毛で。

 少年が毛根恐怖症になる日は近い。

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