サジタリアスの円盤 01
かつて大陸の中北部にガリウスという王国があった。
ガリウスはいたずらに侵略戦争を繰り広げ、暴虐の限りを尽くしたという。次第にガリウスの民も人心を忘れ、飽くことなしに国家の勝利を求めるようになった。
それを裁く神はいなかった。
だが、彼らの所業はある大魔導士の逆鱗に触れたのだ。
魔導士は神に代わってガリウスに天罰をくだした。
その日からである。ガリウスの民が人間の姿でなくなったのは。
彼らは皆、醜いモンスターと化した。リザードマン、ワーウルフ、ゴブリン……。
人間の姿を奪われ、民は怒り狂った。そして自分たちの城へと攻め入り、次々と王侯貴族の首を取って、魔導士のもとに捧げた。
しかし魔導士は決して彼らを許さなかった。
「そなたらは暴力でしか物事を解決できんようじゃな」
魔導士を打ち倒そうとした者は、ことごとく返り討ちに遭っている。
ただ、魔導士はひとつだけ条件をつけた。
「そなたらの中でもっとも勇敢で、もっとも聡明、そしてもっとも思いやりに溢れた者を寄越すがよい。そやつが我が試練を乗り越え、この『サジタリアスの円盤』を手にしたなら、みなも元の姿に戻れようぞ」
ガリウスの民は勇者を求め、続々と挑戦者が名乗りをあげる。
謎めいたサジタリアスの円盤を奪取するために。
ある者は武勇の誉れ高い、屈強な戦士だった。ある者は王国じゅうの山を登りきった、稀代の探検家だった。だが、ひとりとして魔導士のもとから帰ってはこない。
それから百年の時が流れた。
未だに勇者は現れず、ガリウスの末裔たちも昔話程度にしかこの災厄を知らない。ひ孫の代となっては、もはや元の『人間』の姿を目にすることもなかった。
リザードマンはリザードマンとして、ワーウルフはワーウルフとして、ささやかな生活を営んでいる。幸いにして、怪物だらけの土地に余所の人間が来ることもなかった。
平穏であれば、化け物の姿でも構わない――。
だが、あるリザードマンの青年が昔話に興味を持った。
別に人間の姿など、どうでもよい。単に好奇心に駆られただけのこと。
「退屈だろ? おれと行かないか」
「面白そうだな。小生も付き合わせてもらうぞ」
「#$%&……」
彼の名はスタン。ワーウルフのニス、ムォークのモーフィらとともに、今日より魔導士の試練とやらに挑む。サジタリアスの円盤を求めて。
ガリウスの民が呪いを掛けられてから、実に百年後のことだった。
日中にもかかわらず雲が厚いせいで、あたりは夜のように薄暗い。この百年の間、ガリウス城の一帯は一度として晴れることがなかった。
雑草は下を向き、咲く場所を間違えたらしい花はしおれている。
とはいえ、リザードマンもワーウルフも夜目が効くおかげで、視界には困らなかった。スタンは目を赤々と光らせながら、うらぶれた古城を見上げる。
「やっと着いたなァ」
かつて民によって一夜のうちに攻め滅ぼされたという、ガリウス城。
百年前は雄壮を誇ったはずの王城も、今では見るも無残な廃墟と化していた。四方の堀はひからびて、跳ね橋は片方の鎖が外れている。
ワーウルフ(狼人間)のニスがロザリオを掲げた。
「戦死者たちに冥福を……」
このワーウルフは信心深い人物で、何かと神の威光に結びつけたがる。そんな堅苦しいところが、自由奔放なスタンとはかえって気が合った。
もうひとりの仲間、モーフィも城を仰ぎ見る。
「#$%&」
毛むくじゃらのムォーク族は発声器官に問題があるようで、会話が不得手だった。実をいうとスタン自身、どうして彼がついてきたのか、わからなかったりする。
「にしても、少し冷えるなあ……」
「そうか?」
「お前らは体毛が生えてっから、温かいんだよ」
この面子で大丈夫なのか? そう不安になるのも、とっくに十回を超えていた。
(何も知らねえしな、オレたち)
百年が経った今、かの魔導士がまだ生きているとは思えない。ひょっとしたら、あの昔話自体、真っ赤な嘘である可能性もあった。
リザードマンはリザードマン。ワーウルフはワーウルフ。最初から『人間』とやらではなかったのかもしれない。
それでもスタンは好奇心を断ちきれず、こうして城まで来てしまった。自分にとって最悪のパターンは、この城が単なる廃墟でしかなかった場合だろう。
かの魔導士はガリウス城を乗っ取り、勇敢にして無謀な挑戦者を待ち構えたという。
「人間になったら、そうだな……大陸じゅうを旅して、まわってみるか」
「神が与えた試練なのだぞ。我欲は禁物だ」
「#$%&」
崩れかかった跳ね橋を渡り、スタンたちは城門をくぐり抜ける。
中庭もすっかり荒れ果てていた。土に埋もれ、花壇と通路の見分けさえつかない。正面の扉は瓦礫で塞がっているため、とりあえず裏手にまわってみることに。
「気をつけろ、スタン。井戸があるぞ」
「これが、か? そうか……百年が経ってんだもんな」
古井戸も壊れ、ただの落とし穴と化していた。小石を投げ込んでみても、水音は返ってこない。飲み水がなくなったら、河まで引き返すしかないようだ。
城の裏手には水汲みの際に召使いが使っていたらしい、小さな扉がある。鍵は壊れており、すんなりとスタンらを迎え入れてくれた。
「泥棒にでも入った気分だなぁ」
「#$%&……」
モーフィが相槌を打った気がする。
城の厨房にしても、かろうじて原型を留めているだけの有様だった。かまどには土砂の類が入り込んで、鉄板の上には野良犬のものらしい白骨が転がっている。
誰かがこの犬を焼いて、食べたのだろうか?
こんな廃墟の台所で?
スタンはかぶりを振って、考えるのをやめた。
「ちょいと気味が悪いなあ。幽霊は専門外だぜ? オレ」
「退魔法なら心得がある。小生に任せてくれ」
「……本当かよ」
百年も放置されていたせいで、ガリウス城には幾度となく盗賊が侵入したのだろう。今となっては、怪物だらけの王国で宝など大した意味もないが、物好きはいる。
さしずめスタン自身も、傍目には盗賊と変わらないのだ。
「小生としては書庫があれば……」
「探してみようぜ。どうせアテもねえんだ」
警戒しつつスタンたちは厨房を抜け、さらに奥へと進んだ。
かつてのダイニングルームも朽ち果て、タペストリーは黄ばんだうえで裂けてしまっている。燭台はロウにまみれ、灰色の埃を被っていた。
「#$%&!」
毛むくじゃらの男は潔癖症の気があるらしい。
「我慢しろ、モーフィ。こんな城じゃ、どこに行っても埃だらけさ」
この食堂も、百年前はガリウスの栄華を誇ったのかもしれない。しかしシャンデリアは崩れ落ち、窓は単なる穴と化していた。
依然として城主の気配はない。
「スタンよ。やはり魔導士とやらは、すでに……」
「かもな」
スタンの期待は裏切られつつあった。だが、まだ厨房と食堂をまわっただけのこと。
半壊しているとはいえ、この広大なガリウス城を調べ尽くすには時間が掛かる。まずは調査の拠点を早急に確保しなくてはならなかった。
モーフィが上への階段を指差す。
「#$%&」
「上か。調べてみる価値はあるな、よし」
ガリウス城には四本の尖塔が存在し、うち二本はまだ残っていた。南西の塔に当たりをつけ、スタンたちは窮屈な螺旋階段を少しずつ登っていく。
その最上階でスタンは思わず息を飲んだ。
「……!」
この城で、初めて『ひと』を見つけたのだ。絵画が所狭しと並べられ、その中央ではひとりのワーラット(ネズミ人間)がカンバスへと一心に筆を走らせている。
「#$%&……」
モーフィは怯え、階段の陰でしゃがみ込んだ。
ニスは表向き平静を装っているものの、節々に動揺が見られる。
「こんなところに画家が……?」
「#$%&」
その一方でスタンは胸を躍らせた。
さっきから廃墟を見てまわるだけで、退屈していたのだ。こうして見る分には、彼は自分たちと同類であって、凶暴なモンスターではない。
「挨拶してみようぜ、ニス」
「……わかった。失礼がないようにな」
スタンの一行は部屋に足を踏み入れ、おずおずと彼に声を掛けた。
「こんにちは」
絵描きのネズミが手を止める。
「ん……? ほう、こんなところに客人とは珍しい」
振り向いた拍子に小さな眼鏡が光った。
「賊の輩ではないようじゃの。まあ、わしがこの城に来た時には、宝物庫なんぞとっくにカラッポになっとったが……ふぇふぇ」
気さくな話しぶりで年老いた笑みを綻ばせる。
「御仁はおひとりなのですか」
「そうとも。もう八年……いや、十年になるかの」
ようやくモーフィも落ち着いたようで、スタンの傍まで歩み出た。
「#$%&」
「リザードマンにワーウルフ、それにムォークとな……探検にでも来たんか? それとも……ふぇふぇふぇ、サジタリアスの円盤を探しておるとか?」
朽ち果てたこの城を訪れる理由など、ほかにない。
「ああ。何か知ってたら、教えてくれ」
「スタン? 挨拶がまだ」
「構わんよ。わしも休憩しようと思っておってな」
ワーラットの画家は筆を置くと、窓辺でパイプを燻らせた。
「わしはブライアン。ほれ、見ての通りワーラットのジジイじゃよ」
ジジイと自嘲するだけあって痩せており、毛並みもくたびれた印象がある。しかし眼鏡の奥にある瞳は力強い輝きをたたえていた。
単に時間を持て余しているだけの老人ではない。
「おれはリザードマンのスタンだ」
「小生はニス。あと、このムォークはモーフィというそうです」
「#$%&」
「ふぇふぇふぇ! よろしく、お若いの」
モーフィは興味津々にブライアンの作品を眺めていた。
ブライアンが陽気に笑う。
「なかなかのものじゃろう? 絵を描くことだけが、昔からの取り柄での」
どの絵も色鮮やかな出来栄えだった。
今となっては、こういった趣味に興じる者も少ない。この百年の間に『人間』らしい文化は忘れ去られ、ひとびとは動物と変わらない日々を送っている。
聖書などを愛好するニスも、奇異の目で見られた。
ただ、単に古い書物の字面を追っているだけのニスと違い、ブライアンは明らかに百年前の『技術』を継承している。
「この画材はどうしたのですか? ブライアン殿」
「自分で作るんじゃよ。絵描きの先生に教えてもろうた」
作品は風景画がほとんどで、鳥や犬といった動物の絵もあった。殺風景な城の中にあっては、幻想世界の入り口にも思えてくる。
「#$%&」
「ん? どこの景色かって? ……さあのぉ」
ブライアンはネズミの髭を撫でながら、窓の外へと視線を投げた。
「わしも先生と同じで、たまに妙な景色が『見える』んじゃ。ひょっとしたら、あれはガリウス王国の昔の姿なのやもしれん」
かつてこの地で栄華を誇った王国は、もうどこにもない。
「百年前のガリウス……」
「左様。ここには昔、本当に立派な国があったのじゃ」
その王国は繁栄を極め、飽くことなく支配圏を広げたという。いたずらに侵略戦争を繰り返し、時には無抵抗の都市で略奪さえ働いた。
そのためにガリウス王国は、ある魔導士の怒りを買ってしまったのだ。
王国の民は怪物の姿にされ、城下町は一夜にして炎にまかれた。支配者のいない城だけが残り、百年もの時を数えている。
(本当の出来事なのか……?)
この災厄が始まった頃は、民も必死に抵抗した。とりわけ『人間』の姿を奪われた一世代目のひとびとは、死力を尽くしたに違いない。
だが、いつしか民はすべてを受け入れた。ガリウスという国家があったことも記憶の彼方へ追いやり、愚鈍であれ、今の安寧の暮らしに満足している。
それがスタンにとってつまらなかった。何よりも自分は『退屈』が嫌いらしい。
「で……結局、誰も『サジタリアスの円盤』は見つけられず終いってか」
「それも百年前の話だ。今となっては真偽のほども……」
「んなこと言ってっけど、お前も探しにきたんだろ? そいつを」
スタンとニスは期待を胸にブライアンの回答を待った。
「#$%&」
モーフィが一枚の絵画を指差す。
その絵を前にして、ブライアンは口を開いた。
「お前さんは気づいたか、モーフィ……だったかの? ふぇふぇふぇ」
そこに描かれているのは奇妙な生き物。
下半身は馬だが、上半身は体毛もなく剥き出しで、頭部だけが毛に覆われている。それはリザードマンやワーウルフと同じ『ひと』の形だった。
「こりゃあモンスターの絵かい? 爺さん」
「そいつがモンスターに見えるって? ふぇふぇ、愉快なことじゃなあ……これこそが半人半獣の象徴、サジタリアスじゃよ」
ニスが目を丸くする。
「サジタリアス! こ、この……不思議な生き物が?」
そもそもサジタリアスが怪物の名前であることも初耳で、スタンも呆気に取られた。
「ケンタウロスともいうがの。昔は星座のひとつにも数えられとったんじゃぞ」
人間でありながら怪物でもある、サジタリアス。
その異形はまさしくガリウスの民の現状を端的に表していた。
ブライアンが溜息をつく。
「じゃが、わしはこうも思うよ。百年前、ガリウスの民は怪物の心が人間の身体に宿っておった。逆に今は、怪物の身体に人間の心が宿っておるやも……とな」
「考えたことねえなあ、そんなこと」
スタンは一笑に付すも、ニスは思い詰めた表情で頷いた。
「心が人間でいられるうちは、まだ……」
「こうして絵を愛でるのも、人間の特権じゃて」
ブライアンはパイプを置き、とんとんと腰を叩く。
「さて……と、サジタリアスの円盤について聞きたいんじゃったな。話してやろう」
スタンたちは彼の助言に耳を傾けた。
「サジタリアスの円盤を求めてここに来たのは、お前たちが初めてではない。わしがここで絵を描いとる間に……ふむ、五か六は来おったかの」
災厄の時代からずっと、この尖塔は画家のアトリエとして使われているらしい。ブライアンは何代目かのそれに当たり、作品の製作がてら、ここで案内役を務めていた。
「サジタリアスの円盤とやらは、わしにもよくわからん。ただ、かの魔導士の試練はこの城で始まるんじゃと」
スタンは仲間たちと顔を見合わせる。
「とにもかくにも、こん中を隅々まで調べるしかなさそうだな」
「しかし城だけでも、この大きさだ。一日や二日ではまわりきれないぞ」
「#$%&」
「ああ、じきに陽も暮れる。まずは拠点を作るのが先決か」
円盤の探求は長丁場になりそうだった。
「広間の石碑にも目を通しておくとよいぞ」
「わかったよ、爺さん。ありがとう」
「大して役には立てなんだが。ふぇふぇ、またおいで」
一行はブライアンの作業場をあとにして、尖塔を降りる。
「手頃な部屋を拠点にしようぜ」
「ブライアン殿の迷惑になってもいかん。なるべく離れよう」
モンスターもコウモリやヘビくらいしか見当たらなかった。二階の南東に見当をつけ、なるべく小奇麗な場所を探す。
「#$%&」
「わかってるって。潔癖症だもんなぁ、お前」
「水を汲めるものが欲しいな」
これまでの旅路でも野宿が多かったため、別段戸惑うほどではなかった。手分けして物資を集め、夕暮れには大体の目処がつく。
「ただいま~。ちょっと小せえのばかりけど、そこそこ獲れたぜ、ニス」
「こっちも一段落したところだ。モーフィも食事にしよう」
近くの川は水源となるうえ、魚も獲れた。スタンたちは石造りの床で焚き火を囲む。
「地図はお前に任せちまっていいか? モーフィ。おれ、細かい作業は嫌いでさ」
「#$%&」
「スタンでは間違えそうだものな」
「一言多いっての。んじゃ、明日は城の一階から……」
ところが食事の途中、スタンははっとした。
「……どうした? スタン」
「静かにしろ。誰かがこっちに来てやがる」
足音がするのだ。
その足音からして、四つ足の動物やモンスターではなかった。ただ、スタンたちを警戒しての『忍び足』ではない。石造りの城に堂々と音を響かせる。
念のためスタンは扉から間合いを取った。
「もしかして、ブライアン殿では?」
「だったらいいけどよ」
緊迫感の中、焚き火がぱちっと鳴る。
間もなく扉が開いた。その人物を一目見るや、モーフィが慌てふためく。
「#$%&~!」
スタンとニスも動揺を隠しきれず、うろたえた。
「ド、ドラゴンネオだと?」
「もっと離れろ、スタン! やつは危険だ!」
半人半竜の怪物、ドラゴンネオが真っ赤な目を光らせる。
「……………」
トカゲ人間のスタンや狼人間のニスと同類ではあるが、ドラゴンに限っては意味が違った。百年前の災厄において、このドラゴンネオだけは『人間の心』を失っている。
もはや理知のないモンスターも同じなのだ。
ドラゴンネオはほかの種族を敵視し、手当たり次第に襲い掛かってくる。スタンたちもこの城に辿り着くまでに、ドラゴンネオと二回ほど交戦した。
ニスが棍棒を握り締め、スタンは剣を構える。
「敵はひとりだ。いくぞ、スタン!」
「おうっ!」
「ま――待ってください!」
そのつもりが、相手はおたおたとあとずさった。
「僕に戦う意志はありません。とりあえず話を聞いてくれませんか?」
肩透かしを食らい、スタンたちは唖然とする。
「お、お前……ドラゴンネオだろ?」
「そうです。けど、僕は少し『違う』みたいで……」
その証拠にと、彼は自ら槍を捨てた。
敵意はないらしい。スタンとニスは目配せして、武器を納める。
「突っ立っててもなんだし、まあ座れよ。ニス、お前も別に構わないだろ?」
「ここで彼を拒んでは、神のご意志に逆らうことになりそうだ」
ドラゴンネオがキャンプに加わったことで、三人前の夕食を四等分に。
「おれはスタンだ。で、こいつがニスで……」
「僕はエルロイです。初めまして」
自己紹介がてらエルロイはジャガイモを提供してくる。
「驚かせてしまったお詫びに、どうぞ。スタンさん、ニスさん、それから……」
「#$%&」
恐る恐るモーフィがそれを受け取った。
「ブライアンの爺さんのほかには、もう誰もいないものと思ってたんだ」
「こっちから声が聞こえまして……もしかしたら、と」
話すうち、ニスもエルロイと打ち解けていく。
「まさかドラゴンネオと食事ができるとは……いや、気を悪くしたなら、すまない」
「いいえ。僕もこういう場は初めてなもので、緊張してしまって」
ドラゴンネオが凶暴な種族であることは、エルロイも素直に認めた。一説によれば、かつてのガリウス王国軍の兵士がドラゴンネオになったという。
侵略戦争の勝利に乗じて、略奪と虐殺に走った兵隊ども――彼らはすでに人間ではない正真正銘の怪物だったのだろう。その後もドラゴンネオは繁殖を続け、今や最悪のモンスターに位置づけられている。
「でも、あんたは正気みたいじゃないか」
「ドラゴンネオも全員が全員、理性を失ってるわけではありません。僕は物心がついた時から、こうだったんです」
しかしエルロイは決して凶暴な魔物ではなかった。理性を持ち、スタンやニスと言葉を交わすこともできる。
「エルロイ、おぬしはなぜこの城へ?」
「……もちろん、サジタリアスの円盤を探しに来たんです」
エルロイの声がトーンをさげた。
「というより……知りたいんですよ。真実を」
百年前に何があったのか。ブライアンも語ってくれたとはいえ、それは『おとぎ話』の域を出ず、今となっては信じる者も少ない。
「百年前の災厄が本当であれ、嘘であれ、僕は納得できる答えが欲しい。そう思って、試練とやらに挑みに来たんです」
「なるほど。ってことは、おれたちと似たようなもんか」
スタンとて、すべてを鵜呑みにしているわけではなかった。
ただ、百年前には『何か』があったはずで、そのヒントはこの城に隠されている。それだけでスタンの冒険心は触発され、胸が躍った。
ニスが聖書を開く。
「汝、友を迎え入れよ……どうだ? スタン。彼を仲間に入れては」
「そいつはおれも考えてたとこだよ」
「#$%&」
モーフィも反対しなかった。
「お前もひとりじゃ大変だろ? おれたちと一緒に来ないか」
スタンが誘いを掛けると、エルロイもはにかむ。
「実を言うと、どうやってそれを切り出したものか、迷ってたんですよ。ぜひ僕もご一緒させてください、みなさん」
「こちらこそ。改めてよろしく、エルロイ殿……いや、エルロイ」
かくして一行はエルロイを加えることに。
「サジタリアスの円盤はおれたちで見つけてやろうぜ!」
「#$%&」
リザードマン(トカゲ人間)のスタン、ワーウルフ(狼人間)のニス、ムォーク(正体不明)のモーフィ、ドラゴンネオ(ドラゴン人間)のエルロイ。
サジタリアスの円盤を求め、探求が始まった。
☆
エルロイは二日ほど前から城を探索していたという。彼の地図をスタンたちのものと合わせると、ガリウス城の全体図が浮かびあがってきた。
門は南と北にあり、本殿を囲むようによっつの塔が建っている。しかし塔の半分はすでに崩れ、北東と南西のものしか残っていなかった。
南西の塔にはブライアンが住む。
「ブライアン殿は、食事はどうしてるんだろうな……」
「もしかして、塔にいるワーラットのお爺さんのことですか?」
「そうだよ。まだ挨拶してないのか?」
スタンたちは城の一室に拠点を設け、少しずつ行動範囲を広げていった。
目的は百年前の真相を解き明かすこと。そしてサジタリアスの円盤を手に入れること。しかし城は百年のうちに荒れ果て、もはや廃墟でしかなかった。
「このあたりの壁はやけに黒ずんでんなあ」
「#$%&」
「なんだって、モーフィ? ……火事で焼けた?」
単に長い年月が経過しただけではない。あの災厄によって、城は壮絶な戦場となったのだろう。壁面には武器が当たったらしいキズも目立つ。
『広間の石碑にも目を通しておくとよいぞ』
ブライアンの助言に従い、スタンたちは手始めにその石碑とやらを探した。
「広間っていうくらいだしよぉ、多分、大きい部屋なんだろ?」
「小生たちが前に入った、あの部屋じゃないか? スタン」
ところがブライアンの言う『広間』が見付からず、首を傾げる。ニスが怪しんだのはダイニングルームだったようで、足の折れたテーブルくらいしか見当たらなかった。
スタンとニスで途方に暮れていると、エルロイが苦笑する。
「あの……僕は『謁見の間』のことだと思うのですが」
「#$%&!」
彼の言葉にモーフィも頷いた。
そもそもスタンたちは『城』という建物を知らない。国王一家の住む屋敷――その程度の認識であり、ここが王政の中枢であったなどと想像できるはずもなかった。
「要するに、王の前で家臣や騎士が集まるための場所があったんですよ」
「なるほど……礼拝堂みたいなものか」
ニスが『本当はわかっていた』とでも言いたげに相槌を打つ。
スタンは丸っこい頭をぽりぽりと掻いた。
「部下が王様に挨拶するためだけに、部屋があったって?」
「そうじゃないぞ、スタン。国王が臣下の者に挨拶『させる』ための部屋なんだ」
「どっちでも同じじゃねえか」
確かにリザードマンにせよ、ワーウルフにせよ、族長などの支配者は存在する。ただ、族長はあくまで集団生活を牽引するための役割であり、それ以上のものではなかった。
ガリウスが滅んで以降、この呪われた地で新たな国家は興っていない。何よりガリウスの民は侵略戦争を推し進めた第一人者である『王』を忌み嫌った。
「……で? 結局んとこ、その広間はどこにあるんだよ」
「王が権威を誇るための場所ですから、やはり城の中央でしょう」
博学なエルロイとともに、スタンたちはガリウス城の中心部を目指す。
だが、それらしい場所には大きな吹き抜けがあるだけだった。立派な扉こそあれ、その向こうは下のフロアへの階段となっている。
「部屋なんてどこにも……」
吹き抜けの真下には無数の瓦礫が積みあげられていた。
「#$%&」
モーフィが階段のほうから扉を開けては、また閉めるのを繰り返す。
「な~に遊んでんだよ? モーフィ」
「#$%&ッ!」
この毛むくじゃらは言葉を話せないため、何かとジェスチャーを多用した。
スタンには『いないいないばあ』で遊んでいるようにしか見えない。その一方でニスはモーフィの発想にはっとする。
「そうか! 小生たちの立っている『ここ』が、広間なのだ」
「はあ? お前までどうしたんだよ、ニス」
「この城が破壊される前の話だ。おそらく……あっちの壁まで足場があったのだろう」
目の前の吹き抜けは本来の構造ではなく、破壊の跡――その下に瓦礫が散乱していることも、それで一応の説明がついた。
ニスやモーフィの想像通りなら、家臣らは階段をあがった先で扉を開け、王との謁見に臨んだこととなる。
「僕もそう思いますよ、ニス。このラインにも壁があったものと……」
「それだと大きな長方形になるな」
ガリウス城の昔の姿を思い浮かべながら、スタンは吹き抜けを覗き込んだ。
「へえ~。こいつが百年前の戦争でできた穴、なあ」
「ここで大勢の兵が亡くなったのだろうな……」
ニスは聖書を胸に添え、祈りを捧げる。
吹き抜けをぐるりと迂回して、ようやくスタンたちは大きな石碑を発見した。城の石材とは明らかに違って経年劣化もせず、鏡のような光沢を保っている。
むしろ廃墟の真中にあるからこそ、神秘性が際立った。
スタンは腕組みを深め、口を噤む。
「……………」
ニスはやれやれと肩を竦めた。
「読めないんだろう? まったく……少しは勉強しないか」
「#$%&」
モーフィにも呆れられたような気がする。
「う、うるせえな。文字なんか読めなくっても、生きていけらあ」
「すみません、スタン。僕にはフォローできません……」
好奇心旺盛なリザードマンの冒険家も、これではぐうの音も出なかった。
「それよりなんて書いてあんだよ? エルロイ」
「ええと……ちょっと待ってください」
気を取りなおして、スタンたちは石碑を見上げる。
サジタリアスの円盤を求めし者よ。
かつての姿に戻りたくば、汝、その資格を心で示せ。
善き者は善き姿に。
悪しき者は悪しき姿に。
汝の心が汝の形を決めることであろう。
ニスは神妙な面持ちで呟いた。
「何度も聞いたおとぎ話と同じだが……お前はどう思う? スタン」
「なんだよ? さっきはおれをアホ扱いしやがったくせに」
スタンに限らず、この地では誰もが百年前の物語を知っている。
ガリウス王国は飽くことなく侵略戦争を続け、その勝利に民も酔いしれた。ガリウスの民は驕り、人心を忘れ、いたずらに暴虐を好んだという。
そんな彼らに神は天罰を降さなかった。
だが、ひとりの魔導士が憤怒し、神に変わってそれを実行した。ガリウスの民は邪悪な心に相応しい怪物の姿となり、内乱に至っている。
エルロイが溜息をついた。
「サジタリアスの円盤で人間に戻れる……とは言ってませんね」
「#$%&」
モーフィは石碑の文面を手帳に書き写す。
一方で、スタンは読めない文字を見ているうち、頭が痛くなってきた。
「お前らは考えすぎなんだよ。その……なんつったっけ、魔法使い? そいつが百年前、サジタリアスの円盤を探せって言ったんだからさ」
石碑から宝物でも出てきやしないかと、ばんばんと叩く。
「こら、スタン! バチが当たるぞ」
「だったら当ててみろって話だよ。魔法使いにしたって、もう生きてねえだろーし……化けて出てくれりゃあ、面白いじゃねえ……うわっ?」
俄かに石碑が光り始めた。
「#$%&!」
「離れてください、スタン!」
モーフィはエルロイの後ろに隠れ、エルロイはニスを盾にする。
「お、お前たち! 小生をなんだと……」
しかし不思議な光は間もなく消えた。スタンは腰を抜かし、尻餅をつく。
「びっくりしたぁ……脅かしやがって」
「……スタン、それは?」
「へ?」
いつの間にか、石碑の前に奇妙なものが転がっていた。ハムを分厚い輪切りにしたような形で、材質は石碑と同じらしい。
「ひょっとして……こいつがサジタリアスの円盤……?」
形が丸くて平らなだけに、『円盤』と呼べなくもなかった。
エルロイが驚きの声をあげる。
「見てください! 石碑のメッセージが増えてます」
「な、なんだって?」
石碑のほうに振り向くものの、またしてもスタンには読めなかった。
新しい一節をニスが読みあげる。
「道はコンパスが教えてくれよう……か」
「じゃあ、こいつが……」
それはモーフィの持つ方位磁石と似ていた。
「#$%&」
「言われてみりゃ、まあ……でもよ、肝心の針がないぜ?」
ただ、方角を示すための部品が欠けている。これでは使い物にならない。
少し期待もあったせいか、落胆は大きかった。
「この件はブライアン殿に聞いてみてはどうだ? スタン」
「あの爺さんか……まだ色々と知ってそうだしなぁ」
モーフィが石碑のメッセージを写し終えたところで、エルロイが提案する。
「もう少し城を調べてみませんか? ほら、北東の塔とか……地下もありますし」
「ここで考え込んでても、しょうがねえもんな。片っ端から行こうぜ」
スタンたちは石碑のもとを離れ、探索を再開した。
この城で目を引くのは、やはり『塔』だった。南西のものは画家のブライアンがアトリエとして好き放題に使っている。
それと同じものが北東にもうひとつ。その麓でスタンたちは一様に仰向いた。
「こんなでかいもん、なんでわざわざ建てたんだ?」
エルロイとニスがうんちくを披露する。
「城には軍事拠点としての役割もあったんですよ。見張り台に使ったのでしょう」
「神のいる天へ少しでも近づきたかったのさ」
「#$%&」
モーフィも持論を展開したらしいが、何を言っているのかわからなかった。それでもスタンは勉強家どもの高説を嫌い、あえてモーフィを支持する。
「だよなー。さすがモーフィ、言うことが違うぜ」
「スタン? モーフィの言葉がわかるのか?」
「おう。そんじゃ入ってみっか」
ところが冗談だらけのムードは一瞬にして霧散した。
最上階から窓を乗り越えるようして、ひとりの人影がおもむろに立つ。
「ま、まさか……?」
それを見上げ、スタンたちは顔を強張らせた。
人影はふらりと前のめりになって、一直線に落下する。
「なんてことだ……早く助けなくては!」
「あっちのほうに落ちましたよ!」
高さにしておよそ二十メートル。強靭なリザードマンやドラゴンネオであれ、耐えられるわけがない。だが、スタンたちはそれを理解できないほどに混乱していた。
「――ッ!」
無残な有様を目の当たりにして、スタンは息を飲む。
そこで倒れているのはリザードマンの女性だった。優美なドレスを着て、長いスカートからはトカゲの尻尾が食み出している。
靴は履いていなかった。
エルロイが不思議そうに呟く。
「どうして上から落ちてきたんでしょうか……」
足を滑らせたようには見えなかった。誰かに突き落とされたのでもない。
自ら身を投げた――スタンたちが目撃したのは、まさに自害の瞬間だったのだろう。ただ、疑問は山とある。
「それ以前によぉ、こいつ、こんなところで何やってたんだ?」
この廃墟は女性がたったひとりで訪れるような場所ではなかった。しかも彼女はパーティーにでも出席するかのような格好で、さほど汚れてもいない。
ニスが歩み出て、聖書を開いた。
「詮索はあとにしろ。死者の冥福を祈るのが先だぞ」
「お前はまた……」
ところが、急に女性の死体が動き出す。
「#$%&!」
「離れろ、ニス! まだ生きてやがるぜっ!」
スタンやモーフィはそれを目の当たりにして、慌てふためいた。
「何をそんなに驚いてるんだ? どう見ても事切れ……」
ニスはまんまと後ろを取られ、振り向くとともに聖書を放り投げる。
「うふぉおっ?」
「変な声出してんじゃねえよ、急げ!」
「今助けますよ、ニス!」
エルロイは槍を構えつつ、奇怪な死者を睨みつけた。
しかし彼女はニスを襲うこともせず、ふらふらと塔の中へ戻っていく。スタンたちは助かったものの、いささか拍子抜けしてしまった。
「な……なんだよ? あいつ。無視して行っちまいやがったぞ」
「無視というより、小生たちに気づいてないふうだったな」
どうにも寒気がする。
(今のは普通じゃねえぞ……おれたち、やばいモンを見ちまったんじゃ……?)
冒険心をくすぐられる一方で、不安を拭いきれないのだ。
いうなれば、恐怖。単にドレスを着ただけの、リザードマンの女性を『怖い』と感じ、ここから先の深入りを尻込みさせる。
「あとを追いかけてみませんか? 城のことが何かわかるかもしれませんよ」
「#$%&」
とはいえ、仲間たちの前で『怖い』などと言えなかった。それに彼女がサジタリアスの円盤の在り処を知っている可能性も、なくはない。
「そうだな……行ってみっか」
スタンたちは彼女を追って、北東の塔へ足を踏み入れた。
内部は南西のものと同じ単純な構造で、迷うことなく進める。ただ、コウモリのモンスターがやたらと多かった。
「……こりゃ、どっかにこいつらの巣があるな」
「さっきの女性はこの中を、ひとりで?」
避けようにも避けきれず、スタンたちはコウモリの群れを迎え撃つ。
「血を吸うやつじゃねえよな? ニス」
「まだ一ヶ月前のアレを引きずってるのか? 安心しろ、ジャイアントバットだ」
敵は羽根で塔の中を自在に飛びまわった。しかし爪や牙だけが攻撃手段のため、わざわざこちらの射程範囲まで降りてくる。
エルロイの槍が一匹のジャイアントバットを貫いた。
「これくらい大したモンスターではありませんよ。スタン、ニス!」
「小生は無益な殺生は好まないのだが……」
ニスは棍棒を握り締め、手頃な一匹を殴りつける。
神に仕える身として、彼は刃物の使用を嫌った。そのくせ棍棒による殴打や撲殺は少しも躊躇しない(無論のこと、相手はモンスターに限られる)。
スタンも自慢の剣でジャイアントバットを切り裂いた。
「吸血タイプじゃねえってんなら……とおりゃっ!」
リザードマンならではの筋力や俊敏性を活かし、次々と仕留めていく。
「さすがスタンだな。戦うことに関してだけは、天才だ」
「その『だけ』ってのは何だよ? ニス」
そうしてスタンたちがモンスターを引きつけている間に、モーフィは錬金魔法の準備を済ませた。ジャイアントバットの群れは赤い煙に包まれる。
「#$%&ッ!」
それまで機敏だったジャイアントバットの動きが、やけに鈍くなった。目をまわしたように宙でふらついては、ひっくり返る。
「これはコンフュージョン(混乱)か? モーフィもやるではないか」
「#$%&」
敵の群れはもはや格好の的だった。スタンとニスで数を減らし、とどめにはドラゴンネオのエルロイが十八番を披露する。
「あとは僕がやります、さがってください! ハアァーッ!」
高熱のブレスが残りのジャイアントバットを一気に焼き尽くした。
スタンは剣を納め、余裕を浮かべる。
「まっ、こんなもんかな。すげえじゃねえか、エルロイ。火を吐けるなんてよ」
「ドラゴンネオの仲間がこれほど心強いとは……」
ニスからも賛辞を受け、エルロイは照れながらも謙遜した。
「ハハハ……スタミナを消耗しますから、せいぜい一度の戦いで一回が限度なのですが」
「モーフィの魔法もあるし、おれたち、割といいパーティーなんじゃねえ?」
先ほどの戦いに確かな手応えもあって、スタンたちは意気投合する。
付き合いの長いスタンとニスの息が合うのは当然、モーフィのサポートもタイミングがよかった。また、エルロイは槍とブレスで中距離をカバーできる。
「錬金系統の魔法にあまり攻撃的なものはないそうだが」
「#$%&」
「そんなこと言うなよ、ニス。モーフィが怒るだろ」
おかげで、ジャイアントバット程度のモンスターに苦戦する道理もなかった。
「それより……あの女性が見当たりませんね」
「ん? ……おっと、忘れてたぜ。変な女を追ってたんだっけ」
スタンたちはモンスターの奇襲を警戒しつつ、塔の階段を昇っていく。
「いたぞ、スタン。あっちだ」
リザードマンのご令嬢はおぼつかない足取りで、スタンたちの少し先を進んでいた。こちらには気付きもせず、黙々と歩くだけ。
階段の脇には看板が立っていた。
『宝石姫の滑稽な最期はこちら。あなたも笑えるはず!』
意味がわからず、一同は首を傾げる。
「……笑える、だって?」
「あと少しで最上階のはずです。行きましょう」
さらに昇ると、半壊した扉があった。これも『広間』のものと同じく昔は豪奢なものだったらしい。蝶番も外れ、向こうから冷たい風が吹き抜けてくる。
その先は誰かの私室だった。とうに朽ちているとはいえ、箪笥やベッドなどから、部屋の主の立場や生活を窺い知ることができる。
「こんな高いとこに住んでたってか? おれの婆ちゃんじゃ昇れないぜ……」
「小生の祖父も無理だな」
壁の一部は大きな鏡となっていた。扉や家具は壊れている中で、その鏡だけは目立った破損もなく、先ほどの女性を映している。
真正面からそれを見て、リザードマンの令嬢は急に狂乱し始めた。しきりに丸い頭を撫で、何かを引っ張ろうとする。
「な、なんだ?」
「様子がおかしいですね……」
大声で喚き散らしているようだが、声は聞こえなかった。
そして窓へと近づき、それを乗り越えようとする。
「いかん! やめろ!」
咄嗟にニスが手を伸ばすも、彼女に触れることはできなかった。
女は身を投げ、塔の下まで落ちていく。
「……………」
スタンたちは絶句した。窓から見下ろせば、再び立ちあがるのが見える。
「彼女は小生の手をすり抜けたのだ。実態がない、ということは……」
背筋にぞっと震えが走った。
「じ、冗談だろ? 幽霊だなんて……ハッ、ハハハ」
スタンは青ざめ、慌てて窓から離れる。
鏡の前でモーフィが小さなものを見つけた。
「#$%&」
「大分傷んでますけど、靴ですね」
エルロイに『靴』と言われて、スタンも気付く。
「あの女の持ち物ってか?」
「それにしては小さすぎるぞ。履くのが子どもならまだしも……」
見たところ、その靴は彼女のドレスに合わせてのものらしかった。だが、さっきの女性の足とはサイズが一致しない。
特にリザードマンは脚力に優れる分、足が大きかった。
スタンたちだけで考え込んでいても、答えは見つかりそうにない。
「……腹も減ったし、今日はこのへんで切りあげるか」
「僕も賛成です。陽が暮れては、動きづらくなりますから」
「#$%&」
踵を返そうとしたところでニスが提案した。
「やはり一度ブライアン殿に聞いてみてはどうだ? 石碑のこともご存知だったんだ」
「それしかねえか。ここには長いこと住んでるみたいだし……」
話しがてら一行は塔を降りていく。
その途中で令嬢の幽霊とすれ違った。延々と身投げを繰り返しているのだろう。
『宝石姫の滑稽な最期はこちら。あなたも笑えるはず!』
あの看板は彼女を嘲笑っていた。
☆
夜は焼き魚を土産にして、ブライアンのアトリエを訪れる。
「エルロイも来りゃよかったのによォ」
「ん? 誰のことじゃ?」
ただ、エルロイは自分がドラゴンネオであることを気にして、拠点で待っていた。ブライアンを脅かすまいと、ニスが適当にはぐらかす。
「小生たちのほかにも冒険者がいるのです。機会があれば、紹介しますとも」
「珍しいこともあるものじゃ。この城でばったり会ったわけか」
ワーラットの老人は差し入れを平らげると、満足そうにパイプを噴かせた。
「ふ~っ。あとは酒でもあれば、言うことなしじゃのう」
「煙草はお持ちなのですね。ブライアン殿」
「#$%&」
年上の相手にニスやモーフィは礼儀を尽くす一方で、スタンはあっけらかんと尋ねる。
「そろそろ教えてくれよ。あのリザードマンのお化けはなんなんだい? 爺さん」
「こ、こら! スタン……」
「ふぇふぇふぇ! そっちの若いのはせっかちみたいじゃな」
ランプの赤い灯を見詰め、ブライアンは寂しげな表情を浮かべた。
「百年前の災厄は知っておろう?」
静まり返った部屋の中でスタンたちは耳を済ませる。
ガリウス王国は百年前、災厄に見舞われた。民は怪物の姿に変えられ、彼らの慟哭と絶望は大規模な内乱を引き起こしている。
かくして王国は瓦解し、この地は化け物だらけとなった。
「お前さんらが見たのは、テレサ王女の霊じゃよ」
「へえ~。あれがお后様ねえ」
微妙な沈黙が流れる。
「……スタンよ。王女というのは国王と后の娘で、姫のことだぞ」
「わ、わかってるっての。ちょっと勘違いしただけだろ」
もとよりこの地の者は『王家』とやらを毛嫌いする傾向にあった。そもそも強欲な侵略戦争を始めたのは百年前の王であり、そのせいで民も辛酸を舐めさせられている。
だからこそ、子どもたちには王子様や王女様に憧れるといった発想がなかった。城についても『王の大きな家』くらいにしか知らない。
「で、そのテレサってお姫様がどうしたってんだい? 爺さん」
ブライアンは声のトーンを落とした。
「それはもう美しい姫じゃったそうな。宝石が好きで、『宝石姫』とも呼ばれたとか」
「宝石姫……塔の看板にもそんなことが書いてありましたな」
見目麗しいテレサ王女もまた災厄に巻き込まれたのだろう。彼女は『人間の女』としての姿を奪われ、『トカゲ人間のメス』になってしまった。
「自分の姿に絶望して、自害したんじゃよ。……じゃが、悲劇はこれで終わらんかった。テレサの兄ロイアスと、王女の婚約者にして王国一の騎士ジェイド……」
そしてテレサの死を巡り、ふたりの男性が熾烈な決闘を繰り広げたという。
「どっちが勝ったんですか? ブライアン殿」
「相打ちじゃ。ロイアスはジェイドの腕を、ジェイドはロイアスの脚を切り落とした。なんとも悲しい結末じゃのう……」
ブライアンの言葉にニスやエルロイは頷いた。
しかしスタンは同情する気になれない。
「要はテレサ王女が死んじまった責任を、押し付けあったってことだろ?」
思ったことを正直に口にすると、ニスに呆れられた。
「見も蓋もない言い方をするんじゃない。はあ……まったく」
ブライアンは哀れみの言葉を漏らす。
「いやいや、なんも間違っておらん。ロイアスとジェイドは亡きテレサのために憎しみおうて、殺しあい……今も城のどこかで苦しんでおる」
「……今も?」
「生きとるんだか、死んどるんだか……どれ、地図は持っておるか?」
「#$%&」
モーフィが手製の地図を差し出すと、二箇所に絵の具で印が書き加えられた。
「ロイアスはこの訓練場に……して、ジェイドは地下牢じゃ。もっとも、わしも何年も前に冒険者に聞いただけじゃから、真偽のほどはわからんが」
「サンキュー! 行ってみようぜ、ニス、モーフィ」
モーフィに代わってスタンが地図を受け取り、明日の探索に意気込む。
「スタン……地図が上下逆さまになってるぞ」
「へ?」
いつもの漫才にブライアンは大笑いした。
「ふぇっふぇっふぇ! スタン、おぬしは見所があるぞい。じゃからこそ、あの石碑もおぬしにコンパスを与えたのじゃ」
スタンははっとして、石碑の前で拾ったアイテムを取り出す。
「……こいつが?」
「いかにも。まあ、あとはおぬしら次第じゃがの」
サジタリアスの円盤を探求するに相応しい者が、石碑の前に立つと、このコンパスが与えられるとのことだった。
「ですが、これには『針』がないのですよ」
「ふぇふぇふぇ、焦ってはいかん。いずれ円盤への道は開けようて」
ブライアンは煙草を消し、窓から夜空を仰ぐ。
「わしは人間になりたいなどと思わんが……テレサ王女は身投げするほど、リザードマンの姿に耐えられんかったんじゃろうなあ」
「おれに失礼だよなあ、それ」
ガリウス城から見える星々は、百年前と変わらないのかもしれなかった。
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