傲慢なウィザード #3
ACT.15 アンティノラ、開門
旅行も終わり、緋姫たちはケイウォルス学園へと戻ってきた。まだ夏休みは続いているが、メンバーの過半数は部活で忙しい。
愛煌は生徒会。紫月は剣道部、ミユキは女子バスケットボール部で、夏の大会に向けて練習に励んでいるらしい。
最近になって調理部に入った、ヤクモの様子も見に行きたかった。
カナヅチの緋姫は今日も水泳部で浮身の練習。
「お待たせ、沙耶」
「お疲れ様です、緋姫さん」
そのあとは手芸部の沙耶と合流しつつ、エレベーターで学園の地下へと向かう。そこにはARCケイウォルス司令部が秘密裏に存在した。
メインオペレーターの男子生徒が、端末を弄りながら振り向く。
「こんにちは、御神楽さん、九条さん。旅行のほうはどうだったんですか?」
「楽しかったわよ。哲平くんも来られたら、よかったんだけど」
周防哲平は敏腕オペレーターとして、愛煌の補佐についていた。情報処理に関しては抜群のセンスを発揮し、これまでにも幾度となく緋姫たちの窮地を救っている。
眼鏡がトレードマークで、アニメが大好き。
「結局、臨海地区のカイーナは攻略できなかったんですね」
「そうなのよ。まあ危険ってほどじゃないし、引き続き警戒って話で、まとまったわ」
旅行先で調査した『鳥居のカイーナ』は、謎だけを残した。
緋姫たちのあと、第四部隊が挑んで、真井舵輪も散々な目に遭ったという。おまけに輪は女湯に潜入したことが明るみになり、二学期早々、厳重注意を食らっていた。
「わたし、お茶を出してきますね」
「ありがと。哲平くんもちょっと休憩にしたら?」
しばらくして司令官の愛煌=J=コートナーが降りてくる。今日は愚痴で始まった。
「夏休みだってのに、どうしてこう生徒会は忙しいのかしら。ねえ?」
「いいじゃないの。充実してて」
「そう思うんなら、あなたも生徒会に入りなさい、緋姫」
運動部の大半は夏に大会があるため、生徒会は、応援などの段取りをつけなければならない。生徒会長の苦労が絶えないことは、容易に想像がついた。
「愛煌さんもどうぞ。冷たいですよ」
「助かるわ、沙耶。……そうそう、オペレーターの件だけど、あなたにもやってもらうことになりそうよ。詳しいことは哲平に教えてもらいなさい」
「はい! ありがとうございます」
ケイウォルス司令部にイレイザーが増えたことで、オペレーターのヘルプ要員として、九条沙耶の採用が決まっている。
沙耶自身、皆の力になりたいという意志は、前々からあった。しかしこれは『九条沙耶は危険ではない』ことをARCに証明するための、苦肉の策でもある。
この子はもう魔女なんかじゃないのに……。
魔女事件を経て、ARCも多少は改善されたとはいえ、気に入らない部分は多かった。ARCへの不信感は今なお燻っている。
「ほかの面子は部活のようね。剣道部は来週でしょ、公式試合」
「団体戦で副将なのよ。応援に行かなくっちゃ」
紫月の話題になって、愛煌は首を傾げた。
「……あいつ、剣道部のエースなんでしょ? 大将は務めないわけ?」
「副将でいるのが好きらしいわ。大将の役は、来年主将になる後輩に任せたいって」
紫月は決して、過度に遠慮や謙遜をする人物ではない。前向きな考えがあって、副将の立場に専念しているはずで、きっと勝利をもたらしてくれるはずだった。
愛煌の溜息が落ちる。
「あなたと紫月って……妙に息が合ってるっていうか」
「わかります! 緋姫さんも紫月さんも、言葉にしなくてもわかってるって雰囲気、ありますよね。紫月さんが緋姫さんの恋人になるなら、わたしも許可しちゃいますよ」
女子トークの乗りになってしまい、緋姫は肩を竦めた。
「あたしの恋人になるのに、沙耶の許可が必要なの? ……とりあえず、あたしと紫月がどうこうって話には、ならないから」
「え~? じゃあ、やっぱりリィンさんですか?」
一度火がついてしまうと、この手の話題はなかなか終わらない。
しかしクロードが来たことで、沙耶は女子トークを切りあげた。愛煌も顔つきを神妙なものに改め、クロードを迎える。
「……例の子も一緒ね」
「ああ。愛煌さんの言う通り、連れてきたよ」
クロードは沈んだ表情で、小さな女の子の手を引いていた。
どことなくクロードに似ている彼女の名は、マリアン=ニスケイア。鳥居のカイーナにクロードが単身で乗り込んだ際、見つかった少女だった。
愛煌の視線に怯えてか、マリアンはクロードの背中に隠れてしまう。
「実家のほうはどうなってるの?」
「大騒ぎだよ。あのマリアンが帰ってきた、ってね」
クロードが名乗りをあげたことで、例の鳥居から出てきたらしい。しかしクロードの妹と同じ姿でありながら、少女には一切の記憶がなかった。
検査の結果、クロードとの血縁関係も確認できなかったという。
そもそも本物のマリアンが『生きて』いれば、今頃は高校生になっている。だが目の前の少女は、小学一、二年生くらいの風貌だった。
クロードの妹マリアンのようで、マリアンではない。
それでもクロードは、この少女を自宅で保護したい、と願い出た。
「何も分からずじまいってことね。哲平、あなたの意見は?」
「あの迷宮は出現してから半年が経過しています。探索もほぼ完了してますし、要救助者が取り残されていた……という線はないでしょう」
「もうしばらく様子を見るしかなさそうね。その子の記憶も戻るかもしれないし」
マリアンは不安そうにクロードにしがみつく。
「こらこら。制服が伸びちゃうじゃないか」
「ふふっ。クロードの妹さんにしては、可愛いじゃないの」
あえて緋姫は明るく茶化した。少女の目線まで屈んで、微笑みかける。
「マリアン、だったわね。あたしは御神楽緋姫よ」
少女はきょとんとして、たどたどしく呟いた。
「……みかぐ、らめ?」
「み、か、ぐ、ら、ひ、め。あたしのことは『緋姫お姉ちゃん』でいいわ」
マリアンの純朴な愛らしさに惹かれ、沙耶も前のめりになってくる。
「マリアンちゃん! わたしは沙耶お姉ちゃんですよー」
愛煌がしたり顔でにやついた。
「緋姫だと怖がって泣いちゃいそうだから、沙耶、なるべくあなたが相手してあげて」
「ちょっと……どういう意味よ、それ」
緋姫が愛煌に対して凄むと、マリアンのほうが怯えてしまう。
「ほら。言った傍から」
クロードはいつもの優男の調子で、やにさがった。
「お姫様、レディー、悪いけど、この子の普段着とか見繕ってやってくれるかい? 男の僕じゃ買うに買えないものも、いろいろと必要になってくるからさ」
「もちろんいいですよ! 緋姫さん、マリアンちゃんとお買い物に行きましょう」
沙耶はすっかり乗り気になって、景気づけに両手を鳴らす。
「愛煌さんも一緒にどうですか?」
「あなたに任せるわ。可愛い服、選んであげて」
緋姫もこのあとはゲームセンターに寄るくらいで、特に予定はなかった。マリアンのため、洋服や日用品を買い集めに行くことにする。
ショッピングにはクロードの厚意で車をまわしてもらえた。
「本日はお願い致しますよ、御神楽様」
運転手は執事のゼゼーナン。気さくな老紳士で、その品格には気後れするほど。緋姫のような一庶民にも律儀に礼を尽くしてくれる。
「いつも運転ばかりさせちゃって、ごめんなさい」
「いえいえ。屋敷の使用人が男ばかりでしてなあ、マリアン様のお召し物をどうしたものかと、困っていたのですよ。九条様にも来ていただいて、こちらこそ助かります」
「うふふっ。ご期待に沿えるよう、今日は頑張りますね」
クロードはケイウォルス司令部で留守番となった。先日の単独行動について、愛煌から何らかのペナルティがあるのだろう。アイギスがあろうと、たったひとりでカイーナに足を踏み入れたのは、自殺行為に等しい。
マリアンは沙耶と一緒に後部座席で揺られていた。
「お腹空いてませんか? マリアンちゃん」
「買い物が終わったら、どこかで食べていく? でも中途半端な時間になるかしら」
助手席には緋姫。ハンドルはゼゼーナンが握っている。
「なんでしたら、夕飯はお屋敷でご馳走しますよ。フランベル様も、ぜひ」
「フランベル……あぁ、ミユキのことね。あとで電話してみるわ」
やがてショッピングモールへと入った。駐車場に車を停め、適当なブティックで子ども服を探してみる。
「今着てるのって、クロードが見つけた時に着てたやつ?」
「……くろ、ど……おにいちゃん?」
「そうよ。あなたのお兄さんってお洒落だから、あなたもお洒落しないと。ね」
こうして買い物に来た理由を、マリアンは認識できていない様子だった。きょろきょろと店内を見まわし、不思議そうに首を傾げる。
ゼゼーナンは席を外した。
「それではおふたりとも、よろしくお願いします。私は待っておりますので」
「あ、ごめんなさい。なるべく早めに済ませますから」
「いいえ。どうぞ、ごゆっくり」
洋服だけでなく、マリアンの下着も買わなければならない。男性には苛酷なショッピングになるのは目に見えていた。
そのことに、おそらく沙耶は気付いていない。
「緋姫さーん! マリアンちゃんって、ブラはいると思います?」
「ま、まだいらないでしょ……それより声が大きいってば」
ショッピングは沙耶の主導で進められた。
マリアンは喜びもせず、嫌がることもせず、淡々と着せ替え人形の役をこなす。
「やっぱりピンク色でしょうか……でも、ブルーも捨てがたいんですよね」
「こっちの紫のはだめなの?」
「あ! グリーンもいいですね、清楚な感じで」
「……聞いてよ」
洋服だけでは飽き足らず、帽子まで新調する流れになった。すっかり沙耶の独断場となってしまい、緋姫でもついていけなくなる。
しかし緋姫が選んでは、男の子の恰好みたいになるに違いなかった。
「沙耶、ちょっとゼゼーナンさんのとこ行ってくるわ」
「はーい。マリアンちゃん、次は……」
ここは沙耶に任せて、少し休憩させてもらうことにする。
ゼゼーナンはショッピングモールのベンチに座って、一服していた。偶然にも、緋姫と同じブラックコーヒーを持っている。
「おや? 御神楽様」
「あははっ。沙耶の勢いについていけなくって……」
緋姫も隣に腰を降ろし、缶コーヒーを開けた。
別に沙耶と遊び疲れたわけではない。ただ、ゼゼーナンには聞きたいことがあった。
「あの……ゼゼーナンさん。いいですか?」
それだけで、ゼゼーナンは緋姫の質問を悟ってくれたらしい。
「マリアン様のことですな」
「ええ。クロードに妹がいる……いたなんてこと、今まで知らなかったんです」
クロードにはマリアンという妹がいて、すでに他界していることは、緋姫も先日知ったばかり。彼の苦い表情は、死んだ妹と再会してしまった、驚きと戸惑いに満ちていた。
「クロード様にはふたつ年下の妹君がおられたのですよ。とても仲がよろしくて……クロード様はヴァイオリンを、マリアン様はピアノをお弾きになりまして」
「そういえば、クロードは演奏部だったわね」
「左様でございます。ですが、部活動にあまりご熱心にならないのは、マリアン様のことを思い出してしまうからでしょうな」
ゼゼーナンの声が俄かにトーンを落とす。
「……事故でございました。マリアン様が信号を無視して飛び出し、乗用車にはねられてしまったのです……」
緋姫には返す言葉が思い当たらなかった。ひとの死は、話に聞くだけでも重い。
「それからです。クロード様はひどく『庶民』を毛嫌いなさいまして。教養のない庶民が妹を殺したのだと、とてもお怒りになっておられました」
当時の彼には、妹を失った悲しみと怒りをぶつける相手が、必要だったのだろう。いつぞやの地獄で見た、幼いクロードの憎悪を思いだす。
『ぼくが庶民の学校だなんて、父様はどうかしてるよ。汚いのが伝染るじゃないか』
『お前らがぼくと同じ空気吸ってるだけで、イライラするんだよ!』
緋姫は背筋に悪寒を感じ、唇を噛んだ。
クロードの後ろ暗い面はあまりに生々しい。友達感覚で同情するのは、クロードの尊厳を踏みにじる行為にも思えた。かといって、無関心ではいられない。
「……ですからマリアン様が急に戻ってきて、喜んでいいのか、クロード様もおわかりでないのだと思います。御神楽様、どうか……クロード様をお支えください」
「はい……あたしにできることなら」
ひとしきり話し込んだところで、沙耶がマリアンを連れてきた。
「次はマグカップを見に行きませんか? ゼゼーナンさんも一緒に」
「ははは、よろしいですなあ」
ゼゼーナンが柔和な笑みを浮かべる。
延長に延長を重ねたショッピングのあとは、ニスケイア邸へ。
すっかり遅くなってしまったため、夕飯のお誘いには助かった。お腹を空かせたミユキもやってきて、大きな食卓を囲む。
「あれ、クロードは?」
「クロード様は紫月殿と外食されるそうです」
客人を迎えるべき主の椅子は、空席となっていた。
……しょうがないわよね。
マリアンのことで思うところがあるのだろう。今はそっとしておくことにして、緋姫は沙耶たちと一緒にディナーを待つ。
「ヤクモさんのお料理も久しぶりですね。楽しみです」
「最初はカップラーメンばっか作ってたのに、ねえ? 変わるものだわ」
間もなくヤクモが滑車で料理を運んできた。同僚のミユキと目を合わせるや、不機嫌そうに眉を顰める。
「げ。……なんで、いるの?」
「ちゃんとお呼ばれしたんだから。で? それがあんたの作った、おりょ……」
ミユキはおそらくヤクモを馬鹿にするつもりで、口を開いた。
ところが食卓へと運ばれてきたのは、色鮮やかなディナーの数々。メインはビーフストロガノフで、トマトの赤みが綺麗に出ている。
「……まじであんたが作ったわけ? 閣下が作ったみたい」
驚きのあまり、ミユキは目を点にした。
ヤクモは自慢するふうもなく、淡々と言ってのける。
「閣下が趣味でやってたの、何が面白いのか、わからなかったけど……こっち来て、色々試してたら、割と面白くなってきた」
すでに緋姫よりは上手かった。
御神楽緋姫の手料理は、栄養価はともかくとして、大雑把らしい。
「あたしも練習してみようかしら、お料理」
「お菓子作りもしましょうよぉ。女の子の特権ですよ」
沙耶はマリアンの傍につき、胸元にナプキンをかけてやった。
「さあ、マリアンちゃん! まずはちゃんと『いただきます』してくださいね」
「いただき、ます……?」
見様見真似でマリアンが両手を合わせる。
ミユキは複雑な表情でストロガノフを味わっていた。
「ウソでしょ? だって、ヤクモって……料理はミユキと同じくらいで」
「……ぷ」
「ちょっと、ヤクモ? 今、笑った! 笑ったわね?」
ミユキとヤクモの喧嘩は日常茶飯事のため、誰も気に留めない。
緋姫は食事を進めながら、マリアンの拙い手つきを眺めていた。ナイフやフォークを使えそうな歳に見えるが、初めて触るかのようにぎこちない。
いたいけな少女がフォークひとつに懸命になるのを見て、沙耶はうっとりとした。
「はあ……誘拐しちゃいたいです、もう」
「うちを犯行現場にしないでね」
沙耶の発言は冗談にしても、マリアンの愛らしさには緋姫も心を揺さぶられる。一緒にお風呂に入ったり、一枚の布団で寝たりしたい。
同じような気持ちを、兄のクロードも抱いているのだろうか。
マリアンのこと、クロードはどう思ってるのかしら……。
クロードに対し、踏み込んでいいものか迷った。
相手が紫月であれば、きっと何でも正直に話してもらえる。けれどもクロードには掴みどころのない面もあり、飄々とかわされる気がしてならなかった。
妹のことも、ろくに話してもらっていない。
「そろそろコーヒーをお持ちしましょうか。ふふっ、御神楽様はブラックで?」
「あ……はい。ありがとうございます」
ゼゼーナンにもっとクロードのことが聞きたかった。
帰りはゼゼーナンにマンションの前まで送ってもらう。
「入らないんですか? 緋姫さん」
「うん、先に行ってて。もうちょっと夜風に当たってから、戻るわ」
沙耶とミユキは一足先にエレベーターで上がっていった。緋姫は街灯の下で腕を組み、待ち伏せしていたらしい人物に声をかける。
「リィンが同じ真似をするわけね。あなたの教育?」
「……ケケケッ!」
夜空から大きなコウモリが降りてきた。それが人間の形になり、足で立つ。
「言うじゃねえかァ、ミカグラ」
地獄の魔王のひとり、デュレン=アスモデウス=カイーナ。厳密には魔王の代理らしいが、緋姫にとっては意味のないことだった。
髪を三色に塗り分けた派手な容貌で、大きなピアスが光る。
その見た目の通り、粗暴には違いなかった。しかしリィンやミユキ、ヤクモを救った人物でもあって、ミユキからは『優しい』と評価が高い。
「どうしたのよ、閣下。お城がなくなって、住むとこがなくなっちゃったとか?」
「あの城はガタが来てたから、いいんだよ。……ハハハッ!」
デュレンは牙を剥いて、あっけらかんと笑った。
「ちょいとリィンどもの様子を見にきたついでに、なあ……てめえにアドバイスのひとつでも、くれてやろうと思ったわけよォ」
魔王の助言など、信用する気になれない。しかしデュレン=アスモデウス=カイーナは緋姫よりも地獄の理に精通しているはずで、無視はできなかった。
「……アドバイス、って?」
こちらが殊勝な素振りを見せると、デュレンが満足そうににやつく。
「精霊協会のやつらの計画が、じきに動きだすぜェ? プロジェクト・エデンがな」
その名を聞いた途端、寒気がした。
かつて緋姫や沙耶を翻弄したのが、ARCのプロジェクト・アークトゥルス。それと同じようなものが、どこかで息を潜めているらしい。
「……精霊協会を潰せばいいのかしら」
「ククク! そいつはいいが、精霊協会も一枚岩じゃねえ。動きだしてから、アタマを血祭りにあげてやるのが、楽なんじゃねえかァ?」
緋姫は正義感など持ちあわせていなかった。しかし沙耶や仲間を害するものであれば、絶対に容赦はしない。
「それで、どういう計画なわけ?」
「さあなァ。おれも全容は知らねえんだよ。だがまあ、名前からして、『天国』でも作る気でいるんじゃねえか? カミサマがいるようなやつを、よォ」
デュレンは唇の端を吊りあげた。
「好きにしな。ルイビス」
「あたしは緋姫よ」
魔王の姿が再びコウモリとなって、街灯の光を避けるように、闇に紛れていく。
「またな、ミカグラ。ハーッハッハッハッハッハ!」
邪な笑声だけが響き渡った。
さっきまでは心地よかった夜風を、不気味な吐息のように感じる。
「プロジェクト・エデン……ね。上等だわ」
緋姫は決意とともに右手を掲げ、月の輝きを握り締めた。
☆
高校生の夏休みはまだ半分以上が残っている。
先日の女子バスケットボール部に続き、今日は剣道部の大会一日目だった。紫月を応援するため、緋姫たちはゼゼーナンの車で会場を目指す。
クロードは助手席で肘をついていた。
「天気は今ひとつだけど、屋内なら問題ないかな」
「午後からは晴れる予報ですし、降りはしないでしょう」
後部座席には緋姫と沙耶が、マリアンを囲う形で座っている。最近は沙耶がニスケイア邸に足しげく通っているおかげもあって、マリアンも沙耶には懐いていた。
「沙耶お姉ちゃん、今日は?」
「紫月お兄さんの試合を、みんなで応援するんですよ」
けれども緋姫のほうには振り向いてくれない。
「ちょっと、沙耶? マリアンを独り占めしないでよ。あたしだってねえ……」
「しょうがないですよぉ。マリアンちゃんは、この中でわたしが一番好きなんですから」
沙耶の自信過剰な発言に、助手席のクロードが笑みを零した。
「ふっ。今日からレディーの妹になるかい? マリアン」
「……ううん。お兄ちゃんがいい」
ふられてしまった沙耶は、がっくりと落ち込む。
「むう。クロードさんはずるいです……」
「沙耶ってば、なんか最近、嫉妬してばかりね。さては余裕がないのかしら?」
「ひ、緋姫さんっ? そんな意地悪言うなんて、信じられません!」
やがて会場へと到着し、先に緋姫たちは入り口の手前で降りた。そこへ後ろから一台のバイクが近づいてくる。
ヘルメットを外したのはリィンだった。
「やあ、プリンセス」
「あなたも来てくれたのね。……って、バイクで?」
免許を取ったらしい。リィンの生活は半分がアルバイトのうえ、イレイザーの給料もあるため、バイクを買うのも難しくはないだろう。
「中古だよ、これ。でもこいつ、まだ走りたそうな顔してたから」
「ふぅん……あたしも一時、考えてたのよね、バイクの免許」
リィンはヘルメットを被りなおした。
「今日は紫月の応援でしょ? 先、行ってて」
「オッケー。お昼は一緒に、ね」
彼のバイクとゼゼーナンの車を見送ってから、会場に入る。
空いていることもあって、緋姫たちは適当な客席に落ち着いた。
「ところでシオンくんは来ないんですか? 紫月さんと一緒に住んでるのに……」
「新作のゲームが出るからパス、ですって。あとで詠さんに絞られそうね」
そう遠くない距離にケイウォルス高等学園の剣道部が見える。比良坂紫月は黙々と座禅を組み、精神統一に専念していた。
紫月の試合って、あたし、見るのは初めてなのよね。
「プリンセス! お待たせ」
しばらくしてリィンとゼゼーナンも合流する。
「……その『プリンセス』っていうの、確定なの?」
「ふふっ。そのうち本物のお姫様になるかもしれないじゃないか」
リィンにもクロードにも持ちあげられ、恥ずかしかった。学校ならまだしも、こういう場所で『プリンセス』だの『お姫様』だの呼ばれることには、抵抗もある。
おかげでマリアンに誤解されてしまった。
「緋姫お姉ちゃん、お姫様なの?」
「ち、ちが……」
「そうなんですよ! 普段は格好いいんですけど、本当はとても可愛いんですから」
溜息が重たくなる。
「はあ……」
そんな雑談をするうち、試合開始の時間となった。選手代表の宣誓などを経て、参加校はそれぞれ一回戦の段取りを始める。
団体戦では双方が五人ずつ選手を出した。紫月は四番手の『副将』に当たる。
カイーナでは朝霧の刀で縦横無尽に活躍する紫月でも、剣道の試合となれば、勝手も違った。だからこそ、おそらく紫月に浅はかな油断はない。
ケイウォルス学園の剣道部は、一年生の先鋒が相手に食らいつき、続く次鋒も善戦してくれた。しかし相手校も、中堅からは冷静な立ちまわりで反撃してくる。
『一本! それまで!』
相手の副将にこちらの中堅が破れ、ついに紫月の出番となった。
紫月が竹刀を正眼に構え、対戦相手を睨みつける。兜を被っているため、表情までは見えないが、気迫は全身から伝わってきた。
始め、と合図が入っても、互いに攻めようとしない。すり足でじりじりと間合いを取りつつ、相手の隙を窺う。その静かな攻防ぶりに頷いたのは、ゼゼーナンだった。
「これはレベルの高い勝負ですぞ。先の先を取るか、先の後を取るか……」
観客も固唾を呑んで見守っている。
「……どうして、どっちも打たないんです?」
ルールをよく知らない沙耶のため、リィンが口を開いた。
「剣道ってのは竹刀を真剣に見立ててるからね、決まれば一撃必殺とみなされるんだ。実力伯仲となったら、動くに動けない」
「ですが、勝負は一合のうちに決まるでしょう。……むっ?」
ゼゼーナンがぴくりと眉をあげる。
先に動いたのは相手のほうだった。一瞬のうちに竹刀をしならせ、紫月の面を狙う。しかし紫月の薙ぎ払う動きは、さらに速かった。
相手の右の脇腹へと、紫月が竹刀を強烈に叩き込む。
「一本っ!」
あまりの速さに沙耶はぽかんとしていた。それが見えていた緋姫はリィンに尋ねる。
「相手も刀は右にあるのに、右を打つわけ?」
「左ってさ、侍だったら、刀の鞘とか脇差しを差してるでしょ? だから左を打っても、致命傷を与えたことにはならないんだ」
「あ……なるほどね」
「それだけに防御が甘いですから、あえてそこを狙う技もございますが」
さらに紫月は相手校の大将を破り、ケイウォルス高等学園は二回戦へと駒を進めた。
その後も緋姫なりに観戦は楽しめる。しかし子どもには退屈のようで、マリアンは眠そうに欠伸を噛み始めた。
「ふあぁ……紫月お兄ちゃん、次はいつ?」
「まだ先ですよ。ちょっとお外に出ましょうか、マリアンちゃん」
「それなら、あたしとリィンで行ってくるわ」
緋姫はマリアンの小さな手を引いて、おもむろに席を立つ。急な提案に沙耶は首を傾げはしたものの、追及はしてこなかった。
「じゃあ、お願いしますね」
「マリアン、お姫様の言うことはちゃんと聞くんだよ」
リィンも連れて一旦、ロビーに出る。
予報の通り、窓の外は晴れつつあった。大半の客は観戦中のため、ベンチはどれも空いている。緋姫たちは先にマリアンを座らせ、自販機に向かった。
「おれが出すよ」
「そう? ありがと」
リィンが自販機に小銭を放り込む。
こうしてマリアンとともにリィンを連れ出したことには、理由があった。緋姫はいつものブラックコーヒーで一服しつつ、声を潜める。
「あなたはどう思ってるの? この子と、クロードのこと」
「ぼくが?」
「あなたは元死神でしょ。あたしには見えてないものが、見えてるんじゃないの?」
リィンは押し黙り、マリアンの頭をそっと撫でた。
「……多分、ヤクモも気付いてるだろうけど。この子、肉体と霊魂にズレがあるんだ。なんていうか、人形に魂を入れてるような、ね」
マリアンが不思議そうにリィンを見上げ、大きな瞬きを繰り返す。
まさか人形であるはずもなかった。実際に検査もおこなわれ、クロードの血縁者ではないものの、異常は確認されていない。
「地獄ではね、人形を作ることは禁止されてるんだ」
「え……どうして?」
「魂が勝手に入っちゃうからさ」
何度か話に聞いた『地獄』は、オカルトじみていた。
地獄は一種のシステムとして、罪人の魂を浄化させるため、機能している。地上の罪人は生きているうちに魂を抜かれ、地獄で四十九日間の更生を強いられた。
死んでしまっては、魂の浄化が困難になるという。
そして死神は、地上の罪人から魂を切り離したり、返したりする役目を担った。地獄とは地下鉄線を併用し、汽車で行き来する。
「あたしたちも罪人になったら、魂だけ連れてかれちゃうのかしら」
何気なく口をついて出ただけの言葉だったが、リィンの表情は俄かに沈んだ。
「……もうしないよ」
「あ、ごめんなさい。あなたを責めたんじゃないの」
彼は御神楽緋姫から『ルイビス』の魂を切り離し、緋姫の自我を崩壊寸前にまで追い込んだことがある。
「もう疑わないよ。きみはぼくのプリンセスだ」
今にも消えそうなほど儚い笑みを浮かべながら、リィンは緋姫の頬に触れた。緋姫は赤面し、視線を明後日の方向に投げる。
「ちょ、ちょっと、リィン? マリアンが見てるから……」
マリアンはじっと緋姫の動揺ぶりを眺めていた。
「……お姫様だから、王子様?」
わかったふうに首を傾げつつ、リィンに特権階級を与えてしまう。
「いいかい、マリアン。王子っていうのはさ、きみのお兄さんや、アキラみたいな美男子のことをいうんだ。……あれ、アキラは違うっけ」
愛煌の性別はマリアンにも内緒に決めた。
大会の一日目はつつがなく終わる。
緋姫たちはロビーで紫月を待った。そこでリィンがいないことに気付く。
「……あら? リィンは?」
「彼ならバイトがあるって、さっき帰ったよ」
「んもう……バイクの話とか、色々聞きたかったのに」
緋姫たちに遠慮があるのかもしれないが、そもそもリィン=セツナという人物は、ふらふらする傾向にあった。第十三部隊はリーダーがこの調子のため、まとまりがない。
間もなく剣道部の面々がやってくる。
「紫月! お疲れ様」
「待っててくれたのか。悪いな」
ケイウォルス高等学園は無事、明日の第三試合へと進むことができた。とはいえ紫月は勝利に奢るはずもなく、次を冷静に見据えている。
「順当に行けば、第四試合で去年の準優勝校に当たるんだ。難しいかもしれん」
「でも負けるつもりはないんでしょ?」
「無論だ。……と、今日はすまん。あまり相手もしてやれんで」
紫月の手がマリアンの頭に触れた。
剣道部の女子が小さなマリアンに気付き、目の色を変える。
「比良坂先輩、この子、誰かの妹さんですかあ?」
「なんとなくクロード先輩に似てますよね。可愛い~!」
マリアンの愛らしさは、女性にとって普遍の真理らしい。マリアンはきょとんとしながら、お姉さんたちとの握手に応じた。
和気藹々と盛りあがっているところへ、ひとりの少年が駆け寄ってくる。
「こっちにいたよー、ヨミ姉!」
紫月の実家に居候中のシオン=チコリス。
その後ろから、紫月の姉、比良坂詠もやってきた。比良坂道場の師範代を務めるほどの実力者で、凄腕のイレイザーでもある。
「いい試合だったわよ、紫月」
「どこにいたんだ? 姉さん。シオンも来ないんじゃなかったのか」
「逃げようとしたら、捕まったんだよぉ。はあ……」
今度は剣道部の男子も声をあげた。
「こ、こんにちは、比良坂さん! おれたちの試合、見に来てくれたんですか?」
「弟が出るんだもの。みんなも久しぶりね」
比良坂詠はこの剣道部のOBであって、在校生の頃は、個人戦で輝かしい成績を残している。紫月さえ詠には剣道で敵わないらしい。
「そっか。詠さんもケイウォルス学園の出身だったものね」
シオンが愉快げに笑い飛ばす。
「ヨミ姉が女子高生だったって、何年前の話だよ? あっはっは!」
詠お姉さんはにっこりと微笑んだ。
「あらあら、シオン? そんなに稽古をつけて欲しいの? 甘えん坊ねえ」
「は……ちっ、ちが! さっきのはヒメ姉が」
「あたしのせいにしないでったら。よかったじゃない、綺麗なお姉さんに扱かれて」
出来の悪い中学生のフォローなど、してやるわけがない。
沙耶も一緒に、緋姫はマリアンと手を繋いだ。
「紫月は詠さんと剣道部のほうに行ったら? この人数だし」
「そうするか。明日もあることだしな」
こっそりと緋姫のほうに紛れ込もうとするシオンは、剣道部の女子に拉致される。
「じ、じゃあボクはヒメ姉と……おわあっ?」
「シオンくんはこっちでしょ? 噂通り、可愛いね~」
「まっ、またこのパターンかよ! クロード、見てないで、助けてくれって!」
この小生意気な少年は、あどけない容姿もあって、年上のお姉さんに大人気。緋姫の水泳部やミユキの女子バスケットボール部でも、同じ目に遭っていた。
緋姫は唇をへの字に曲げる。
「シオンがもてるのは構わないのよ。けど輪がもてるのは、むかつくのよね」
「エッチだからじゃないですか? あのひと」
前科持ちの覗き魔には、沙耶も手厳しい。
しかし賑やかな一方で、クロードの口数は少なかった。
……クロード?
普段の彼なら、愛想のよさを全開にして、剣道部の面々や詠に笑いかけるはず。詠に挨拶さえしないクロードなど、普通ではなかった。
緋姫はマリアンの手を引きながら、クロードに耳打ちする。
「どうしたの? さっきから。あなたらしくないわよ」
「……ああ。キョーダイってやつは何なのかなって……思ってさ」
彼の視線の先では比良坂姉弟がじゃれあっていた。
「まったくもう。どうせあなたが、シオンに変なこと吹き込んだんでしょう」
「言いがかりだ! シオンの味方をしてやるつもりはないが、姉さんは少し横暴だぞ」
「横暴、ねえ……紫月にも教育が必要かしら」
クロードの胸にあるらしいものが、緋姫に伝わってくる。
クロードは妹のマリアンと、比良坂姉弟のようにふざけあうこともできなかった。マリアンは何年も前に亡くなっており、どこにもいない。
傍にいるのは妹ではない、マリアン。
マリアンは緋姫から手を離し、クロードの裾を引っ張った。
「クロードお兄ちゃん……元気、出して?」
一度は驚き、見開かれたクロードの瞳が、温かな優しさを秘める。
「心配かけてごめんよ、マリアン。みんなで美味しいものでも食べに行こうか」
クロードとマリアン。
ふたりが兄妹になるのは、これからかもしれない。
☆
時同じくして、ケイウォルス高等学園、地下司令部。
愛煌=J=コートナーは地獄の門が開くのを、今まさに目の当たりにしていた。
「とんっでもない事態になったわね」
部活で学校に居合わせていたヤクモとミユキも、それを前にして戦慄する。
「やばいよ、これ」
「ちょっと、ちょっと! まだ広がるわけ?」
哲平の手は震えていた。司令部は息苦しいほどの緊迫感に包まれる。
「瘴気の数値はカイーナの上限を突破しています! もう『第一地獄』のレベルじゃありませんよ、愛煌司令?」
警報がけたたましく鳴り響いた。
ケイウォルス高等学園を中心とした、半径五キロ圏内の『地下鉄』がすべて、カイーナと化しつつある。
「まだ乗客がたくさんいるはずだわ! 総員、ただちに出撃!」
「これだけの広さを、救助してまわるんですか? 近辺の支部から応援をかき集めても、イレイザーが足りません!」
「わかってるわよ、そんなことは! あなたは鉄道会社と連携を取りなさい!」
さしもの愛煌も切迫し、声を荒らげた。
地下は地獄に近いせいか、カイーナ化が爆発的に広がりやすい。だからこそ、日頃から警戒の目を光らせていたが、今回の規模には対処できなかった。
エレベーターからリィンが駆けつけてくる。
「アキラ! 外がおかしいよ。地獄みたいな瘴気が蔓延してるんだ」
「でしょうね。……ちょうどいいわ。死神トリオで先行してもらえるかしら」
リィン、ヤクモ、ミユキの三人は真剣な表情で頷きあった。
「紫月は大会の途中なんだよ。邪魔はさせない……!」
「……おれもゲーセン行けなくて、困るし」
「徹夜になるんじゃないの、これぇ? はあ、しょーがないな」
もはやカイーナの次元ではない。愛煌は冷や汗を拭いつつ、宣言する。
「これより今回のカイーナを『アンティノラ』と呼称するわ」
第二地獄アンティノラ。
大迷宮が誕生した瞬間だった。
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