傲慢なウィザード #2
ACT.09 学ランのお姫様
偽デートの成果はあったのか、リィンからのアプローチは前ほど強引ではなくなった。それでも廊下ですれ違ったりすると、意味深に微笑みかけられる。
「プリンセス、試験の結果はどうだったの?」
「いつも通りよ。あなたのほうは……勉強は苦手みたいね」
廊下の掲示板には全員の点数が張り出され、順位も明らかとなった。二年生では御神楽緋姫が数学の一位を獲得し、ほかの教科でもほぼ上位に食い込んでいる。
沙耶も上の中といった具合で、安定していた。
周防哲平が平均あたりに留まっていたり、真井舵輪の補習が決定しているのも、去年と変わらない。ただ、その補習組には、リィン=セツナも入ってしまっていた。
「難しいよ……問題の意味さえわからなくて」
「苦手なひとって、そういうわね。ミユキやヤクモも酷いんでしょ?」
噂によれば、一年のミユキ=フランベルなど、全教科で赤点をマークしたという。ヤクモはヤクモで、自分を叱ったことのある教師の教科は、白紙で出す暴挙に出た。
中等部のシオンだけそこそこの成績なのは、詠お姉さんに徹底的に指導されたから、に違いない。他人事とはいえ、リィンたちの成績は少し心配だった。
「あなた、バイトばっかりしてるから」
「来月になったら、プリンセスにプレゼントしてあげるよ」
「いらないってば」
緋姫はリィンと別れ、購買の自販機へと急ぐ。
購入するのはブラックコーヒー。最初のうちは格好つけて飲んでいたものが、今では習慣となり、これ以外では満足できなかった。売りきれることも少ないので、助かる。
自販機の前では愛煌が紅茶を片手に、寛いでいた。
「あぁ、緋姫? 結果、返ってきたんでしょ」
「まずまずだったわ。沙耶も今回は調子よかったみたいだし」
適当に答えながら、緋姫は自販機の出口へとブラックコーヒーを落とす。
「生徒会の役員は揃ったの?」
「体育祭までってことで、かき集めたわ。夏はどうしようかしら」
立候補さえすれば、生徒会には誰でも入ることができた。とりわけ仕事が多いわけでもなく、実績を作るなら無難といえる。しかし『地味そう』『面白くなさそう』といったイメージばかりが先行し、希望者は少なかった。
「あなたが生徒会長を継いでくれたら、私も安心して卒業できるんだけど……」
「勘弁して。あたしがなんて呼ばれてたか、知ってるの? 一匹狼よ」
じきに体育祭。その活動を通して、ひとりでも多く役員を定着させたいのだろう。
「緋姫は種目、何に出るの?」
「体育祭の? リレーと、騎馬戦と……あと応援にもまわされたわ」
「――けほっ!」
不意に愛煌が噎せた。
「お、応援? ……あなたが?」
「そうだけど。あたしが応援って、そんなに変かしら」
何を想像しているのか、俄かに愛煌の頬が赤らむ。
「楽しみだわ、体育祭」
「そう? まあ授業もないし、楽よね」
この時の会話が大きくずれていたことを、緋姫は当日になってから知った。
ケイウォルス司令部にて、緋姫たちは状況の報告に耳を傾ける。
オペレーターの哲平が軽快にキーボードを鳴らした。
「依然として、どこにも完全なカイーナ化は見られません。ですが、突発的なレイのみの出現は、増加の傾向にあります。ただ、さほど強力な個体は現れていませんね」
「こういう言いかたもなんだが、真井舵のアーツでも一撃だったしな」
今日集まったのは、第六部隊の面々のみ。
同じ学園の第十三部隊には、緋姫も愛煌も注意を払っていた。ケイウォルス司令部に配属されてから、確かにリンたちは何度もレイを撃退し、貢献している。だが、初対面の際に襲い掛かってきた件は、まだ落とし前がついたわけではない。
「なるべくあたしたちと、第四部隊で対応したいわね」
「私も同感だわ。どうも信用できないのよ、特にリィンのやつは」
愛煌は椅子にもたれ、疲れの混じった息を吐いた。
「シオンやヤクモはどうなのかしら?」
問題の少年を居候させている紫月が、所見を語りつつ、クロードに目配せする。
「あいつなら別段、怪しいところはないぞ。文句は多いが、稽古にも出てるしな。俺よりもクロードに懐いてる感は、否めないが……」
「僕がたったひとつの避難所なんだよ、彼にとってはね」
クロードは笑みを含みながら、右のてのひらをひっくり返した。
「ヤクモはちょっとわからないな。部屋から滅多に出てこないし……でも、うちの執事とはそれなりに仲良くやってるみたいだよ。まあ、ゼゼーナンは優秀だからさ」
「部屋で何してるの?」
「カップラーメンの研究らしいよ。たまにご馳走してくれる」
いかにもコミュニケーションに難がありそうな、あのヤクモとも、クロードは上手くやっているらしい。彼の屈託ない愛想のよさには、素直に感心した。
「お姫様、ミユキちゃんはどうなんだい?」
「ミユキだけ『ちゃん』づけなわけ? 今のところ問題はないみたいだけど……」
ミユキ=フランベルは緋姫の部屋に居候中で、毎日のように服やCDを散らかしている。とはいえ社交性は高く、沙耶ともすっかり打ち解けていた。
『このへんでさぁ、おっきくても可愛いブラ売ってるとこ、ないのぉ?』
緋姫はデスクに突っ伏し、頭を抱える。
「悪い子じゃないのよ? 悪い子じゃ……その、髪の話題とか? 沙耶はよくても、あたしはついていけなかったりして」
「ん? 入学当初は長かったと聞いたぞ、姫様」
「その分だと、マークすべきはひとまずリィンだけ、ってことね」
愛煌は思案顔のまま、スクリーンの地図を見上げた。
街でのレイの出現は、次までの間隔が短くなりつつある。哲平は眼鏡を調えなおすと、ひとつの推測を提示した。
「気を悪くしないで聞いてください。レイが現れた場所や時間を総合してると、今回の件は去年の……魔女のものと同じで、誰かが糸を引いてるように思えるんです」
緋姫の胸にちくりと痛みが走る。
「魔女……」
去年の夏頃から冬に掛けて、大きな戦いがあった。魔女がカイーナに現れては、レイを凶暴化させたり、イレイザーを罠に嵌めたのだ。
「レイの出現場所はどれも、学園からそう遠くありません。それに出現する時間は、放課後や休日ばかりなんですよ。あまり考えたくはありませんが、学園の生徒が、レイを呼び出してるんじゃないかと……」
「なるほど。それこそ魔女の時みたいに、ね」
愛煌は淡々と呟きながら、ちらっと緋姫に視線を投げた。
「あの子じゃないわよ」
「うん。ごめん、少し不安になっただけ」
しばらく黙り込んでいたクロードが、首を傾げる。
「仮にそれをリィンとしても、どうだろう? 彼も一緒にレイの出現を、ここで確認してから出撃したことだって、あるんじゃないかい?」
「現段階では推測の域を出ないな。とにかく、警戒はしておいたほうがいい」
紫月は腕組みを解き、お茶に手を伸ばした。
「存外、シオンやミユキあたりが話してくれるかもしれんぞ」
「それもそうね。一緒に住んでるけど、ミユキはひとを騙したりするタイプじゃなさそうだし……ちょっと聞いてみようかしら」
「慎重になさい。今日はこれくらいにしましょ」
ミーティングは終わり、愛煌が忙しそうに席を立つ。
「来週末は体育祭よ。あいつらと白黒つけるには、もってこいだわ」
「病院ではミユキちゃんにこてんぱんにされちゃったもんね」
一抹の不安がよぎった。リィンたちがトラブルを持ち込んでくる気がしてならない。
「無事に終わるといいけど……」
「心配いらんさ。怪我だけはせんようにな」
紫月が教師みたいなことを言った。
☆
体育祭の当日は快晴となり、真っ青な空が広がる。
開会式や準備体操を終え、紅組と白組はそれぞれの陣地へと分かれた。緋姫たちは紅組となり、生徒会長の愛煌=J=コートナーがリーダーを務める。
その愛煌がチアガールの恰好で現れ、紅組の男子は沸きあがった。愛煌の性別を知る者はおらず、学内では『絶世の美女』で通っている。
そこいらの女子より脚線も綺麗なのだから、恐ろしい。
「……道理であなた、チアの練習には来なかったわけね。はあ……」
ところが愛煌は緋姫を見つけるや、幻滅でもするように額を押さえた。クロードなど、四つん這いになるほど肩を落として、嘆く。
「お姫様っ? 応援っていうから、期待してたのに」
御神楽緋姫は学ランに身を包み、紅組の『応援団』となっていた。
沙耶が黄色い声援をあげる。
「きゃ~~~! すごくカッコいいですよ、緋姫さん!」
「そお? ありがと」
応援団長は比良坂紫月が務めることに。
「愛煌とクロードは、何が不満なんだ? 姫様」
「さあ……なんか、あたしがチアするって、勘違いしてたみたい」
緋姫は慣れない学ランを撫で、肩を竦めた。
競技が始まる前から、クロードは戦意を喪失したようで、パイプ椅子に座り込む。そんな紅組の陣営へと、白組の天真爛漫なチアガールが飛び込んできた。
「やっぱ可愛い、アキラく~ん!」
「みっ、ミユキ? ちょっと、くっつかないでったら」
愛煌がポンポンで押し返そうと、構わずに距離を詰めてくる。
彼女に遅れて、リィンやシオンもやってきた。
「こらこら。アキラさんが困ってるよ」
「むー! ミユキに指図しないでって、いつも言ってるじゃない。このヘタレ」
体育祭は中等部も合同のため、学校でシオンに会える、珍しい機会となる。
「よっ、ヒメ姉、シヅキ。応援団、そこそこ決まってんじゃん」
「あなたはがっかりしないのね。偉いわ」
「はあ? ……あー、そういやクロードのやつ、昨日はテンション高かったっけ」
シオンは首を傾げ、愛煌とミユキを交互に見比べた。
「ミユキさ、ちょっと脚、太くね?」
「ち、違うってば! 女の子のフトモモはこれくらいがいいのっ!」
「素直に認めろよなぁ、『男に負けてる』って」
仮にチアガールを依頼されたとしても、緋姫は断ったに違いない。愛煌という美少女の隣で足を出せる勇気など、なかった。
あたしは認めるわ。男の子に負けてるってこと……。
ヤクモは『保険委員』の腕章をつけている。その割に顔色は悪かった。
「太陽……ま、眩しい……」
そんなヤクモをのけ、シオンが挑発的な笑みを浮かべる。
「もう寝てろよ、ヤクモ。ところでさ、ヒメ姉、ボクらとは組が敵同士だろ? なんか賭けて、勝負しようぜ」
緋姫は紫月と顔を見合わせた。
「どうかしら? あたしは構わないけど」
「ふむ。応援のし甲斐もありそうだし、いいんじゃないか」
競争するのだから、それで勝ち負けを決めることに異論はない。負けてやるつもりもない。当然、何人かは悪乗りしそうだった。
「ミユキ、それ賛成! 白組が勝ったら、ミユキがアキラくんとデートで、どお?」
「そんなの、お前しか得しないじゃん。でも、そうだな……こっちが勝ったら、ボクは居候先を変えさせて欲しいな」
メンバーが口々に願望を唱える。
リィンは緋姫を見詰め、したり顔で微笑んだ。
「じゃあ、ぼくはプリンセスとデートかな」
「おれ、カップラーメンたくさん……」
ヤクモもちゃっかりと主張しつつ、日陰で背中を丸くする。
ほかの誰よりもプライドの高い愛煌は、二つ返事で挑戦を受けてしまった。
「いいわよ! ただし、こっちが勝ったら、その時は覚悟することね」
緋姫は眉を顰め、熱っぽい額を押さえる。
止めたほうがよかったかも……。
紫月はすでに腹を決めていた。シオンを見据え、不敵に囁く。
「そうだな……お前の稽古の時間を増やしてやろう。もっと強くなれるぞ?」
「げえっ! やっべえ……勇み足だったかな」
クロードもヤクモに挑発を吹っ掛けた。
「君には庭の手入れでもしてもらうよ。日光浴にもなるだろうし」
しかし愛煌や緋姫は思いつかず、難しい表情で腕を組む。
「リィンやミユキにさせたいことなんて……そうね、勝ってから考えるわ」
「あたしも。ミユキ、それでいい?」
「ヒメちゃんのお願いなら、いつでも聞いてあげてもいいけどね。それじゃ、勝ったほうが負けたほうに言うこと聞かせるってことで、勝負!」
かくして激戦の火蓋が切られた。
同じ紅組の哲平は、呪いの言葉を吐いている。
「世の中には運動が苦手な人間もいるんですよ。なのに、こうも画一的にスポーツに参加させようだなんて……現代の教育は間違ってるんですよ、うん」
「百メートル走くらい、さっさと済ませてきたら?」
「はあ……今、行きますよぉ」
スポーツに対する彼の拒否感には、鬼気迫るものがあった。緋姫に宥められて、やっと重い腰をあげ、ふらふらと入場ゲートのほうに向かっていく。
沙耶は花柄の水筒に、冷えた抹茶を入れていた。
「暑くなってきましたね」
「ええ。保険委員に怖いのがいるから、熱中症には気をつけないと」
今のところ、紅組と白組の成績は拮抗している。テニスのデュースを繰り返すかのように、抜きつ抜かれつの戦況が続いた。
そういえば、輪のやつは白組だっけ……。
しばらくして、グラウンドで男子の百メートル走が始まる。運動不足の哲平はやはり遅れ、どんどん離されていった。
その後ろから、輪が猛スピードで追いあげてくる。
「だから、違うって! さっきのは本当に間違えただけで!」
「待ちなさいったら、ダーリン! 観念しなさいっ!」
彼はいつもの女の子たちに追われていた。さすが五股で交際中だけのことはある。
百メートル走の競技は一時中断となった。
何やってんかしら、あのバカ。
アクシデントもあったものの、体育祭はつつがなく進行する。
女子の騎馬戦を前にして、昼休みとなった。沙耶が朝一番で腕によりをかけた、重箱のお弁当を披露してくれる。
「さあ緋姫さん、召しあがれ」
「最高……! 今日のはまた、凝ってるわね」
おかずは卵焼きに唐揚げなど、定番のものが揃っていた。ほかの女子も集まってきて、お弁当の会心の出来を評価する。
「うわあー、美味しそう!」
「みなさんもどうぞ。うふふっ、たくさんありますから」
必然的に緋姫も皆に囲まれ、賑やかなランチタイムとなった。
変な感じ。あたしが、こんなふうにしてるなんて……。
去年の今頃の自分では、考えられない。体育祭もさぼってしまっていた。
「で……御神楽さん? 実際のとこ、どうなの」
「ん、何が?」
噂好きなクラスメートが、にやにやと探りを入れてくる。
「リィンくんのことよ。三年のクロード先輩や、比良坂先輩もそうだけど……誰が御神楽さんの本命なのかなって。教えてよ」
緋姫はきょとんとして、唐揚げを頬張るのを忘れた。
「ええっと……考えたこともないんだけど?」
「えー? 怪しいなあ」
クロードが冗談めかして緋姫を口説くのは、いつものことで、特別な意味はない。紫月とも恋仲に発展するような場面はなかった。リィンには断りを入れている。
ふと思い浮かんだのは、愛煌だった。
毒されてるわね、あたし。女装してる変態とか……。
ランチは女子会の雰囲気となり、男子をシャットアウトする。
……あら? 何してるのかしら、あれ。
皆の向こうで、クロードとリィンが一緒にいるのが、目に入った。クロードに促されるように、リィンも裏庭のほうへと消えていく。
「ごめん、沙耶。すぐ戻るわ」
「はい? 大丈夫ですよ、まだまだたくさんありますから」
緋姫は一旦席を立ち、彼らのあとを追った。校舎の陰から中庭を覗き込む。
「君がお姫様に好意を寄せてること自体は、構わないさ。だが、お姫様の学園生活を無暗にひっかきまわすのは、やめてくれ」
クロードは珍しく真剣な面持ちで、リィンに忠告していた。
「ずっと友達のいなかった彼女が、ああやって友達に囲まれて、和気藹々としてるんだ。それをないがしろにしてまで、彼女を独占する権利は、僕にも君にもないだろう?」
リィンは話の半分もわかっていないのか、首を傾げる。
「ぼくより女の子の友達といるほうが、プリンセスは楽しい……の?」
「そうじゃない。お姫様には必要なんだ。九条さんだけでなく、同性の友人が」
クロードの話しぶりは決して無理強いではなかった。あくまでリィンを諭すように、トーンを抑えながら続ける。
「そりゃあ、僕だって悔しいさ。僕がどんなにお姫様を守っても、彼女の一番は九条さんだからね。けど、それがきっと正しいことなんだ」
「じゃあ……プリンセスはいつ、誰と結婚するっていうの?」
「そこまではまだ、わからないさ。でもいつか、お姫様も成熟して、異性を異性として受け入れる日が来る。その時になってから名乗りをあげても、遅くはないよ」
覗き見をやめ、緋姫は校舎の壁にもたれかかった。普段は冗談みたいにフェミニストを気取っているクロードの、真摯な言葉の数々が、心に響く。
緋姫にとって、恋愛はまだ荷が重かった。リィンの申し出を受けようと、断ろうと、緋姫を取り巻く人間関係は少なからず変化を強いられる。それが怖い。
……ありがとう、クロード。
クロードの優しさには、きっと何度も救われていた。申し訳なく思うとともに、嬉しくもあって、感謝の気持ちが込みあげる。
緋姫は足音を立てないようにその場を離れた。
紅組と白組の応酬は、体育祭の終盤までもつれ込む。
ついに競技は男女ごとにリレーを残すのみとなった。緋姫と沙耶は、ほかの女子ふたりと『紅組・二年女子』のチームとなる。
実際に並走することになる走者は、同じ二年生とは限らなかった。奇しくも『紅組・三年女子』の愛煌や、『白組・一年女子』のミユキと鉢合わせになる。
「ねえ愛煌……これ、女子のリレーなんだけど」
「だから、私が走るんでしょ?」
ミユキはストレッチで全身をほぐしつつ、勝気なウインクを決めた。
「このリレーに勝てば、白組の勝利! アキラくん、約束は忘れないでね~」
「もう勝った気でいるの? 私に当たったこと、後悔することね」
愛煌もふんぞり返って、余裕を見せる。
白組が勝ったら、愛煌、ミユキと付き合うのかしら……。
どうにもイメージが湧かなかった。愛煌が女装しているのが、いけない。
緋姫、愛煌、ミユキはそれぞれのチームでアンカーのため、トラックの南側でバトンを待つことになった。
「それでは、よーい……スタート!」
ピストルの音が弾けると、トラックの北側で第一走者が走り出す。
第二走者になっても、接戦が繰り広げられた。客席のほうでは、応援団長の紫月が団旗を振りあげ、雄々しい声を張りあげる。
「粘るんだ、九条っ!」
紅組・二年の第三走者は沙耶だった。足が遅いわけではないが、陸上部やソフトボール部ほど速くもない。少しずつ遅れ、最後尾までさがってしまう。
隣のレーンでは一足先に愛煌がバトンを取った。
「この勝負、もらったわ!」
「ちょっと、ちょっとぉ! 負けちゃうじゃないのっ」
すぐあとをミユキも追いあげていく。
沙耶は息を切らせながら、緋姫にバトンを託した。
「はあっ、はあ、緋姫さん! お願いします!」
「オッケー! あとはあたしに任せてっ!」
緋姫の左足がグラウンドの土を蹴り、スタートダッシュを放つ。紅組・二年のアンカーは遅れをみるみる取り戻し、愛煌たちに迫った。
「同じ紅組だからって、負けてあげるつもりはないわよ、愛煌!」
「言ったわね? だったら、負けたほうがスイーツ奢りよ!」
熾烈なトップ争いとなり、観客の興奮も最高潮に達する。
「あーもうっ! ミユキが勝つのに!」
ところがミユキは癇癪を起こし、見境もなく『ケルベロスの鞭』を振りあげた。緋姫は咄嗟にジャンプでかわせたものの、愛煌は足をとられ、転倒する。
「ちょ、こら! 反則じゃない!」
「知―らないっ。これでアキラくんはミユキのもの!」
ミユキはウインクを残し、いけしゃあしゃあとトップに躍り出た。
「そういうのもアリなのね。それじゃ、あたしも……ファストクロック!」
緋姫はスペルアーツで脚の動きを速め、加速をつける。
「ええっ? ヒメちゃん、はっ、反則ぅ!」
「あなたが言うの? それ」
砂埃が生じ、舞いあがった。ミユキのケルベロスをかいくぐり、ゴールラインへと滑り込む。辛くも一位は緋姫が奪取し、二位はミユキとなった。
ミユキが自分のことは棚にあげ、地団駄を踏む。
「なし、なし! 今のなし~っ!」
「まあまあ。愛煌には勝ったんだから、一緒にスイーツ、奢ってもらいましょ」
しかし緋姫がそう宥めると、ミユキの小顔に現金な笑みが戻った。
「あ、そっか。ミユキ、チョコパフェがいいなー」
無様にもビリになってしまった愛煌が、緋姫たちをじとっと睨みつける。
「あ、な、た、た、ち、ね……どこでアーツ使ってんのよ」
「「学校で」」
ミユキと息ぴったりにはもった。緋姫はふと、先ほどのクロードの言葉を思い出す。
『お姫様には必要なんだ。九条さんだけでなく、同性の友人が』
同世代の女子と関わるのは、今でも新鮮だった。
プロジェクト・アークトゥルスに巻き込まれたせいで、御神楽緋姫は小学校にほとんど通っていない。中学もさぼり倒して、形だけの卒業をした。体育祭に参加したこと自体、これが初めてだったりする。
「沙耶にも奢ってくれるんでしょ?」
「はいはい。わかったわよ、超美味しいやつ、食べさせてあげる」
愛煌は降参したように肩を竦め、開きなおった。
女子のリレーは僅差で紅組の勝利に。次の男子リレーで、いよいよ雌雄を決する。
第三走者のクロードからバトンを受け取るや、アンカーの紫月は、さながら弾丸のように駆け出した。ヤクモをあっさりと離し、ゴールテープを切る。
紅組の陣営で歓声が巻き起こった。
「優勝! 紅組の完全勝利!」
白組の陣営も紅組の健闘を称え、拍手を鳴らす。
アンカーで走る羽目になったヤクモは、膝をついてうなだれた。
「な、なんでおれが……ぜぇ、こんなこと……リィンは?」
当初はリィンがアンカーとして走る予定だったのに、彼の姿がない。そのためアンカーの大役が、同じチームのヤクモにまわってきた。
貧乏くじを引く羽目になったヤクモに、紫月が手を差し伸べる。
「お前はもう少し運動したほうがいいぞ」
「……大きなお世話」
そう呟きながらも、ヤクモは紫月の手を取った。
「しかしリィンのやつはどうしたんだろうな。午前中は熱心だったはずだが……」
心当たりのあるらしいクロードが、溜息交じりに視線を落とす。
「僕だってひとのことは言えないさ、リィン。……君を脅威に思って、お姫様から遠ざけたくもあったんだ。ずるいやつだろ?」
その物憂げな横顔に、紫月は目を瞬かせた。
「……クロード?」
「いや、なんでも。さあ、打ち上げにいこうじゃないか」
閉会式についての放送が響き渡る。
片付けの作業もあり、打ち上げが始まる頃には、空は橙色に染まっていた。
☆
今夜の夕食はレストランで済ませて、マンションへと戻ってくる。
その玄関先で緋姫は立ち止まった。
「沙耶、ミユキ、先に行ってて。コーヒー買いたいから」
ルームメイトたちは特に緋姫を追及することもせず、頷く。
「わかりました。行きましょうか、ミユキちゃん」
「あとで一階まで降りるの、めんどーだもんね。はあ、疲れた~っ!」
ひとりになったところで、緋姫は電信柱の陰に隠れている人物に、声を掛けた。
「出てきなさいったら、リィン」
「……ごめん」
闇の中から街灯のもとへ、リィンがゆらりと姿を現す。しかしいつものように、緋姫に愛を囁くことはしなかった。
「打ち上げにも来なかったじゃない。みんな、心配してたわよ」
「ちょっとひとりで……考えてたんだ」
リィンの寂しそうな顔つきが、緋姫に罪悪感をもたらす。
彼の一方的ではあるが純朴な好意を、緋姫は頑なに拒んでいた。答えを迫られても、恋愛に関して未成熟なせいか、緋姫には結論が出せない。
その優柔不断さは、きっと彼を苦しめていた。
緋姫は自分の胸を押さえながら、思いきって尋ねてみる。
「ねえ、リィン。どうして、その……あたしと結婚したいって、思うの?」
リィンは夜空を見上げ、雲間の月を探した。
「明日は降るのかな」
「質問に答えて。ミユキに、あなたは結婚に憧れてるって、聞いたわ。なぜなの?」
緋姫も同じ空を眺め、星の瞬きを瞳に溶かし込む。
やっと彼の唇が開いた。
「ぼくらはもともと地上の人間なんだ。だけど、居場所がなくなって……ミユキも、ヤクモも、自分で死のうとしたら、地獄に落ちた。そこで閣下に拾われたんだよ」
「閣下……シオンもそんなこと言ってたわね」
「地獄の魔王のひとり、デュレン=アスモデウス=カイーナさ。ぼくらはデュレン閣下の下僕となって、地獄で死神のお仕事をすることになった。でも……」
リィンの声が沈む。
「それが幸せだなんて、思えなかったんだよ。ぼくはまだ幸せじゃない」
緋姫はそっと彼の頬に触れ、泣いていないのを確かめた。
「幸せだって思いながら生きてるひとって、そんなにいないと思うけど……」
「かもね。でもぼくは、自分は幸せだって、信じられる根拠が欲しかったんだ。そしたら地獄で、人間の女の子の話を聞いて、これだって思った」
リィンの瞳が一途に緋姫だけを映す。その微笑みは儚い色を帯びていた。
五月中旬にしては涼しい夜風が、ふたりの間を吹き抜ける。
「人間の女の子は、地獄に落ちると、素敵な恋をする……そんなジンクスがあってね。その子と恋をすれば、ぼくも幸せになれるんだ。きっと」
彼の言い分に根拠などなかった。ただ『幸せになりたい』という、焦りを孕んだ気持ちだけは、ひしひしと伝わってくる。
「ミユキじゃだめなの?」
「ミユキはぼくと同じ境遇だからね。違うんだ」
リィンの手が緋姫の髪に触れた。しかし積極的にはせず、遠慮でもするかのように、毛先から指を解いていく。
「あたしじゃなくても、いいんでしょ」
「まさか。きみなら地獄に来ても、酷いことにはならないからさ」
「……そういう意味じゃなくて。地獄に来て結婚してくれる女の子が、ほかにいたら、その子でもいいって話」
「確かにそうだね。でも、そんな子はいない」
緋姫とリィンの言葉は、まるで噛みあっていなかった。
リィンはあくまで緋姫に、これは『恋』だと主張する。だが、ほかの女の子でも代わりになるようでは、緋姫の心は動かない。
「好きだよ、プリンセス」
それでも率直な告白は、免疫のない緋姫を、今までになく動揺させた。
「……困るわ、そういうの。あたしにはまだ……」
彼を放って、ないがしろにして、逃げることもできない。
やがてリィンの手が離れた。
「ごめん。ぼくはきみを苦しめてるよね」
違うのよ、と言いきれない。緋姫の胸にちくりと痛みが走った。
「もう帰るよ。また学校で」
リィンが儚げな笑みを残して、夜の街へと消えていく。街灯に照らされながら、緋姫は彼の言葉を静かに、味わうように反芻した。
『好きだよ、プリンセス』
異性からの、初めての告白。
心はすっかりかき乱されていた。
※ 当サイトの文章はすべて転載禁止です。
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