トライアングルサモナー ~召喚士の恋人~
第5話 少女の迷い
和平パーティーもつつがなく終わり、二週間が過ぎた。
ここのところ、フランはクレハ女王の代理として、いくつかの政務に出向いている。専用の執務室を与えられ、日中はそこに詰めることも多くなった。
「内海に海賊だなんて……穏やかじゃないわね」
おかげで、書類を山積みにしたデスクが、フランの定位置になりつつある。
補佐官として、天界からはメタトロンを、魔界からはルキフグスを召喚した。祖父が斡旋してくれたもので、主神も冥王も差し置き、フランの契約下にある。
「海賊など、今すぐ兵を差し向け、殲滅してしまいましょう」
「待て、待て。上手く交渉に持ち込んで、防衛力に転用しようではないか」
メタトロンとルキフグスは毎度のように正反対の意見を挙げた。とはいえ口やかましく喧嘩をすることはない。むしろ相手の言い分を尊重しつつ、妥協点をすりあわせる。
「罪は罪です。海賊行為で傷ついたひともいるのですよ」
「無論、落とし前はつけたうえでのことよ。船だけ取りあげてもよい」
その中央でフランはペンを走らせていた。
「とりあえず沿岸部の警戒と、民の保護が最優先ね。海賊の処遇については、もう少し情報を集めてからでもいいでしょ?」
「私に異論はありません。フラン様の仰せのままに」
「我々はあくまで助言を与えるのみ。すべて、フラン様がお決めになることだ」
白い法衣スタイルのメタトロンは眼鏡を拭き、黒い喪服スタイルのルキフグスは書物を畳む。天界は白で魔界は黒という色の差異は、通念となっていた。
肩に凝りを感じ、フランは座りながら伸びをする。
「……お爺ちゃんがどこにいるか、知らない?」
「ウォーロック様でしたら、城の地下にいらっしゃるかと」
偉大な祖父が、最近は姿を見せなかった。フランにも話さず、ひとりで何やら秘密裏に動いているらしい。
「ネクロマンサー殿に常識は通じんよ。さて、そろそろ休憩にしようか」
「まだ大丈夫よ。女王様から預かってる案件も残ってるんだし……」
「無理はいけません、フラン様。お休みになることも施政者の義務なのですから」
疲労が溜まっているのを見抜かれ、フランはあれよあれよと執務室を追い出された。廊下で胡坐をかいていたミノタウロスが、無言で腰をあげる。
「……あなたもあたしに、休め、って?」
「ンモォー」
メタトロンとルキフグスは曲がりなりにも天界、魔界の者にもかかわらず、フランとの契約に律儀に従い、ともに力を貸してくれていた。
祖父の召喚術には未だ謎が多い。天と魔の眷属さえ意のままに操る、圧倒的な『支配』の術。さらには、召喚した者の潜在能力を、最大限に引き出すこともできる。
ただしその代償として、祖父は肉体の大半を失っていた。
賢者によって調整されたものとはいえ、フランの術式にもリスクはあるだろう。いずれ人間でさえなくなるかもしれない。
「はあ……」
今日も政務で時間を潰すつもりだったフランは、溜息をついた。
嫌いな勉強事に集中していられることには、理由がある。ロイドやリュークを避ける方便にはもってこいで、和平パーティー以降はずっと執務室に籠っていた。
ロイドには天界へと誘われ、リュークには魔界へと誘われて。
ふたりとも、ほんとにあたしを……?
仮にロイドを受け入れればリュークを拒むことに、リュークを受け入れればロイドを拒むことになる。もうひとりの気持ちをないがしろにしてまで、一緒には行けない。
悩むうち、ロイドやリュークを傷つけたくないのか、単に自分が傷つきたくないのか、わからなくなってきた。
私室に戻る途中で、アスタロッテと出くわす。
「やっほー、フラン。今日もお仕事ぉ?」
「ええ。……ところで、それは?」
彼女は大きなカボチャを抱えていた。すぐ後ろからロイドもやってくる。しかしフランとロイドは顔を会わせるや、それぞれ逆の方向に視線を逸らした。
「……や、やあ、フラン。忙しいみたいだね……」
「こ、こんにちは、ロイド」
夜会の一件があってから、彼とはぎくしゃくしてしまっている。もっと普通に接したいのに、過度な遠慮ばかり先走って、会話も続かない。
雰囲気のぎこちなさに、間違いなくアスタロッテは勘付いていた。
「これからロイドがね、ケーキ作ってくれるの。フランは食べないんでしょーけど」
「カボチャはちょっと……知ってるでしょ?」
幼少の頃、迷宮でカボチャのお化けに散々驚かされたせいで、この緑と橙の果菜には苦手意識が強い。けれどもロイドの手作りなら、少しは食べられそうな気がした。
「よかったら、あとで持っていくよ」
「じゃあ……お願いしようかしら」
いつまでもぎこちない関係でもいられない。フランは笑みを作って、ロイドからの申し出に快く応じた。すると彼の表情も柔らかくなる。
「カボチャが嫌いだなんて、初耳だよ。ひょっとして無理してないかい?」
「子どもじゃないんだから。アスタロッテ、邪魔はしちゃだめよ」
「料理はフランよかできるしー」
ロイドたちは厨房のほうへと向かっていった。その去り際、アスタロッテがちらっと振り向き、意味深にウインクする。
こういうことには鋭いわ、あの子……。
下手に相談すれば、からかわれるのは目に見えていた。
祖父にもどう話してよいかわからず、ひとりで抱え込む羽目になっている。
さっきはロイドと少し話せたものの、時間が解決してくれる見込みもなかった。むしろ時間が経つにつれ、気まずくなってしまう。
「そうだわ。女王様にお伺いしてみようかしら」
フランはミノタウロスとともに進むルートを変え、クレハ女王の寝室を目指した。
女王の部屋は、以前は城の最上階にあったらしい。しかし杖では階段の昇り降りが大変なため、数年ほど前から離宮の一階に移っている。
その中庭では、クレハ女王がゆったりと日向ぼっこしていた。
「あら、フラン。いらっしゃい」
アンティーク風のティーチェアに腰掛け、老いた笑みでフランを歓迎する。
「執務には飽きてしまいましたか? うふふ」
「いえ、あたしなりに、やり甲斐みたいなのは感じてます」
挨拶で返しつつ、フランは向かいの椅子を借りようとした。ところが、その背もたれには一羽の鳥がとまっている。
「こっちにいらっしゃいな、フェニックス」
フェニックスは一声鳴くと、クレハ女王の左肩へと静かに移った。
空いた席にフランは腰を降ろし、執事にお茶を淹れてもらう。ミノタウロスは輪に入ろうとせず、木陰で腕組みのポーズを取っていた。
クレハ女王がくちばしに触れると、フェニックスが懐っこい鳴き声をあげる。
「フェニックスとお話ができるんですね、女王様は」
「あなたもそちらのミノタウロスと、そうでしょう? 召喚の契約によらない関係は、友人と何ら変わりありません」
ミノタウロスとは物心がついた頃から一緒で、話し言葉こそ通じないが、彼の唸り方で大体の感情を察することはできる。
しかし相手がロイドやリュークになると、言葉は通じても、感情は読めない。
「女王様、実は……」
フランは声のトーンを落とし、夜会での出来事を打ち明けた。
「あらまあ」
一通りの経緯を聞き終えたクレハ女王が、口元に笑みを含める。とはいえ興味本位のものではなく、穏やかで、安心するような面持ちだった。
「あなたも女の子ですものね。先生みたいに鈍いんじゃないかと、心配してましたの」
「お爺ちゃんはそういうの、超越しちゃってると思うんですけど」
色恋沙汰の話題にフランは照れ、テーブルの陰でスカートを握り締める。
「……ですが、厄介なことになってしまいましたね」
事はロイドやリュークとの、個人的な問題ではなかった。片や天界の王子、片や魔界の王子であって、みっつの世界のバランスにも影響しかねない。
「どうすればいいのか、わからなくて……」
ロイドを選ぶのか、それともリュークを選ぶのか。もしくはどちらも選ばないのか。フランはテーブルに肘をついて、両手を組んだうえに熱っぽい額を乗せた。
そんなフランを、クレハ女王が宥めるように撫でる。
「世界の命運を選ぶことでしたら、わたくしにも憶えがあります」
「命運……ですか?」
「ええ。この子、フェニックスとともに、あの時……」
女王の瞳が悲しみを秘めた。フランは顔をあげ、『その時』に耳を傾ける。
今より十六年前、天界の王女ミーシャと魔界の王子ジニアスが、無念を抱きながら戦場で散った時。クレハ女王はある決断に迷った。
フェニックスの力を借りれば、死に瀕した者を新生させることができる。
ただし、ひとりだけ。ミーシャかジニアスのどちらかを諦めなくてはならなかった。
「この子はわたくしを新生させると言っていましたが、見ての通り、わたくしはもう長くありません。ですから、ずっと、ほかの命をお願いするつもりでした」
「でも、お父さんもお母さんも……」
もしミーシャを蘇らせれば、形勢は天界の優勢へと傾く。逆にジニアスを蘇らせれば、魔界のほうが優位に立つのは、火を見るより明らかだった。
「地上の独立のため、わたくしはふたりを見殺しにしたのです」
クレハ女王の口振りに後悔が滲む。
「見殺しだなんて、そんなこと」
その罪悪感が少しでも軽くなればと、フランは彼女の痩せ細った手を取った。
「女王様、ご自分を責めないでください」
「ですが考えてしまうのです。わたくしはこれほど長く生きているのに、わたくしよりも若い者が、戦禍の中で次々と……」
フランの母ミーシャ、そして父ジニアス。天界の王女と魔界の王子というカップルだったからこそ、ふたりの悲劇は今なお語り継がれている。
その一方で、語られることもなく終わった命の数は、計り知れない。
クレハ女王は老いながらも輝く瞳で、うら若きフランをまじまじと見詰めた。
「あなたに背負わせるのも酷な話でしょう。でも、どうか……この平和を恒久のものに」
その声色には期待と、それ以上の申し訳なさが入り混じっている。
女王様はやっぱり、あたしに次期女王になって欲しいんだわ。
力になりたいとは思った。幸い、今ならロイドやリュークの協力も仰げるだろう。そのためにも、彼らとの関係を修復しなければならなかった。
フランは決意を込め、クレハ女王を見詰め返す。
「ロイドやリュークと、ちゃんと話してみます。今は大事な時だって」
「焦ってはなりませんよ、フラン。恋愛事に正解など、ありはしないのですから」
正解はないと聞いて、しっくりときた。
ロイドを選んだとしても、リュークを選んだとしても、それが自分にとっての『答え』であればいいのかもしれない。ただし世界の天秤を揺らすことにはなる。
「お爺ちゃんって、すごいんですね。天界も魔界も出し抜いちゃうなんて……」
「ふふっ、本当に恐ろしい方ですよ。あの方なら、過ちさえ、真実にできましょう」
十六年の平和は、賢者が狡猾な駆け引きによってもたらした、かりそめのものに過ぎなかった。それを本物にできるかどうかは、フランの双肩にかかっている。
「そろそろ失礼します、女王様。ご自愛ください」
「心配ばかり掛けて、ごめんなさいね」
二週間分の溜息を深呼吸で出しきってから、フランはミノタウロスとともに離宮をあとにした。まずは城の南に陣取っている、リュークのほうから当たってみる。
守衛のトロルたちは快くフランを通してくれた。
「りゅーく様ナラ、地下ニ降リテ、突キ当タリノ部屋ダ」
「ありがとう。……ミノタウロス、あなたはここで待っててくれない?」
フラン第一の下僕を自負するミノタウロスが、渋々と一歩さがる。
「ごめんね」
悪いと思いつつ、フランの都合でしかない色恋沙汰に巻き込むのも、忍びなかった。ここから先はフランひとりでリュークの陣営に足を踏み入れる。
地下に降りても、特に迷う構造ではなかった。道なりに突き当たりまで進んで、リュークの部屋へと辿り着く。
「リュ……」
「待ってくれよ! まだそんな時期じゃねえだろ?」
開けっ放しの扉に近づいたところで、リュークの大声が聞こえた。苛立ちを隠しきれない様子で、姿見の向こうの誰かと話している。
『チャンスはいくらでもあるはずだ。天界の王子に渡したくはあるまい』
ドアの陰から覗き込む角度では、その鏡面を目視できなかった。
気性の荒いリュークさえ、正面切って反抗しようとしない。険しい表情で赤い髪をかきあげ、弁解の一言にも口ごもる。
「けどよ、その……あいつの気持ちってやつも」
話し相手の正体に勘付き、フランは密かに息を飲んだ。
「天界の出方を待つって言ってたじゃねえか。それにネクロマンサーもいるんだぜ?」
『ククク。やつは世界の理から外れた異端者よ、これ以上の干渉はできぬ』
王子がへりくだる相手といったら、もはや冥王のほかにいない。
遠い魔界との交信のせいか、冥王の声は低く掠れていた。
『フラン=サモナーを奪え』
その命令がフランの胸にぐさりと刺さる。
リュークが、あたしを……?
「だから待てって! 今はもう、昔みたいな戦争をやってんじゃねぇんだぞ」
『ん? あの女を奪うと豪語していたのは、貴様だったではないか』
「そ、そりゃあ……」
無意識のうちにフランは部屋に立ち入っていた。リュークが驚き、瞳を強張らせる。
「フランっ? き、聞いてたのか?」
パーティーの夜の出来事が、嘘か幻に思えてきた。あの夜、星空のもとでフランに愛を囁いてくれた素敵なリュークと、今うろたえるだけのリュークが、一致しない。
唇がわなないて、声も勝手に震えた。
「冥王の命令だから、あんなこと言ったの……?」
「聞けって! そのつもりだったのは最初だけで、今は、んなこと……」
リュークは狼狽しつつ、フランを落ち着かせようと弁明する。
『ハッハッハ! リュークの花嫁よ、魔界で待っているぞ』
フランが直視するより先に、鏡の映像が消え、それきり声も聞こえなくなった。
今のが……冥王ハーディアス?
リュークとの関係には、少なからず冥王の意志が介入している。男女間の事情さえその影響下にあることに、怖気を禁じえなかった。
「誤解すんなよ? 今のは冥王のやつが言ってるだけだからな」
リュークの言葉は焦りに満ちている。
「立ち聞きなんかして、ごめんなさい。すぐに出るわ」
フランは彼の手を振り払い、ブロンドの髪を翻すようにターンした。心の動揺を見透かされまいと俯いて、目を合わせないようにする。
「おい、フラン? 俺は……」
「さよならっ!」
続きを聞くのが怖くなって、駆け出さずにいられなかった。
リュークの陣営を走り抜け、ミノタウロスの前も突っ切る。城の三階にある自分の部屋まで戻った時には、息切れを起こしていた。
ベッドのシーツを取り替えていたアンナが、フランの乱入に驚く。
「フラン様、どうされたのですか?」
「はぁ、はあ……なんでもないの。気にしないで」
「……? では失礼します」
首を傾げる彼女を見送ってから、フランはベッドに寝転がった。シーツを替えてもらったばかりなのに、ちっとも快適に感じられない。
走った分の疲労が、不快な倦怠感となって残り、気分も沈む。
リュークは冥王の命令を受け、この地上に来ていた。ロイドのほうも当然、主神の差し金としてフランに近づいている。
それはフランにとっても、わかりきっていたことのはずだった。ロイドを天界の、リュークを魔界の使者と見て、警戒していたのは、そう昔のことではない。
ところが今は彼らとの関係に、それ以上のものが含められていた。求められるのを嬉しく思う一方で、拒んで傷つけたくない、と不安も感じる。
それほどロイドやリュークの存在は、フランにとって大きなものになっていた。
しばらく休むうち、気持ちもいくらか落ち着く。
『誤解すんなよ? 今のは冥王のやつが言ってるだけだからな』
リュークのさっきの言葉は、きっと真実だった。自身の恋愛事に政治の都合を持ち込めるほど、彼は要領がよくない。フランのことを当初は『女』と侮っていたのも、単なる強がりだったらしいと、今ならわかった。
なのに、フランは下手に動揺し、リュークを遠ざけてしまっている。
「……上手くいかないものなのね」
やがて陽も傾き、窓の外がオレンジ色に染まった。眩しい西日が室内に差し込み、背丈ほどある姿見で反射する。
その鏡面に赤い文字が浮かびあがった。強い魔力を感じ、フランは身体を起こす。
「これって、もしかして……」
城内のあちこちで悲鳴が聞こえた。どうやら城じゅうの鏡で同じ怪現象が起こっているらしい。その文面からして、騒ぎは城下町のほうにも広がっていた。
ツォーバの民よ、明日のこの時間、天と魔の総攻撃が始まる。
戦えぬ者は逃げよ。
メイドのアンナが血相を変え、駆け込んでくる。
「フラン様っ! これは?」
「……落ち着いて。大丈夫よ、お爺ちゃんの魔法だわ」
十六年を経てなお続く膠着状態に、主神も冥王も痺れを切らしたのだろう。フランを手に入れて優位に立つべく、両者とも血眼になっているに違いない。
あたしが立ち聞きなんてしちゃったから……?
突然の戦争は、しかし冥王のみならず、主神からも始められるらしかった。タイミングを合わせてくることが腑に落ちない。
「女王様に報告しなきゃ!」
フランは部屋を飛び出し、離宮へと急いだ。
すでに離宮の中庭では、ロイドとリュークも合流している。
「フラン! さっきのことは……」
「あとにしましょ、リューク」
フランとリュークが意味深に頷きあうのを見て、ロイドは首を傾げた。
杖を支えにクレハ女王が出てきて、物憂げに夕空を仰ぐ。
「この地上で、再び戦争が始まろうというのですか? 先生……」
「残念じゃが、わしにも止められんよ」
賢者もゆらりと現れた。空洞の両目を赤々と光らせながら、かたかたとしゃべる。
「おぬしらも知らんかったようじゃな? 天と魔の王子ども」
「そうなんだ。総攻撃だなんて話は、一度も……」
ロイドは悔しそうに歯噛みした。リュークも苦い表情で舌打ちする。
「チッ! 急に交信をよこしてきやがったから、何かあるとは思ったんだ」
最前線の王子にさえ知らされていない、明日の総攻撃。祖父は天界や魔界の動向を監視し、今回の情報を掴んだのだろう。
「両方に攻められては、このツォーバなど、ひとたまりもあるまいて」
「で、でも……まだ休戦は有効じゃないの?」
「適当な大義名分をでっちあげてきよるはずじゃ。フラン、おぬしを保護するとかの」
自分自身が戦争の火種にもなりうることに、フランは青ざめた。
あたしのせいで、戦争が……?
身震いするフランの肩を、ロイドとリュークがそっと叩く。
「君が気に病むことはないよ」
「そうだぜ。俺が冥王に文句言ってやる」
城下町のほうもざわついているようだった。大勢の不安が空気に満ちている。
「とにかく戦うにせよ、逃げるにせよ、準備をせんとな」
クレハ女王は杖を掲げ、勇ましい号令を発した。
「地上のため、みなの命を貸してください! われわれは戦います!」
兵士たちが一斉に唸り声をあげる。
決戦の時は近い。
☆
防衛の準備は城の者が総出で、かつ夜通しで進められた。非戦闘員のアンナも焚き出しに加わり、篝火のもと、夜食の配給にまわっている。
「あなたは逃げていいのよ、アンナ」
「朝になったら、みなさんとお城を出ますから」
ツォーバ王国の兵力は、他国に比べれば、たかが知れていた。わざわざ天界と魔界を敵にまわそうという分の悪い国家に、優秀な戦士は集まらない。大抵は天界もしくは魔界の庇護下にある大国で実績をあげ、富や名誉を得るほうを選ぶ。
しかしクレハ女王とフランには召喚術があった。配下にはゴブリンのほか、妖精やオークの軍勢もいる。ミノタウロスやサイクロプスといった屈強な下僕も心強かった。
「ンモォー」
「もちろんよ。頼りにしてるわ」
ミノタウロスの意気込みに相槌を打ちながら、フランは祖父を捜す。
お爺ちゃんも戦ってくれたら、いいんだけど……。
賢者にはほかにやることがあるようで、姿が見えなかった。
城下町の北にはロイドの天界騎士団が、南にはリュークの魔界奇兵団が布陣を敷く手筈となっている。目標に友軍がいれば、天界も魔界もおいそれと攻撃はできないだろう。そこで交渉を持ちかけ、軍を退かせるのが狙いだった。
ロイドの補佐にはメタトロンが、リュークの補佐にはルキフグスがついている。
そうよ、ロイドたちがいるんだもの。
フランは内心、ほっとした。天界の軍にはロイドが、魔界の軍にはリュークが対応すれば、戦闘自体を回避できる見込みは大きい。
それでも万が一に備え、明け方には編成が完了した。眠たい瞳に朝日が眩しい。フランは一旦部屋に戻って、正午まで仮眠を取ることにする。
私室の前ではミノタウロスではなく、ロイドとリュークが待っていた。
「お疲れ様、フラン」
「面倒くせぇことになっちまったな」
本来ならふたりとも、ツォーバ王国に味方する立場にない。しかし間違いなくフランのため、ツォーバに留まり、危険な前線の役を買って出てくれた。
そんな王子たちに感謝を込め、フランは頭をさげる。
「ごめんなさい。あたしたちの都合に巻き込んじゃって……」
「言うなって。俺たちの問題でもあるんだしよ」
じきに決戦だというのに、リュークの調子は軽かった。ロイドも柔和な笑みを浮かべ、緊張の素振りを見せない。
「心配いらないさ。僕もリュークも、必ず君のもとに帰ってくる」
「おう。どっちかが死んで不戦勝、ってのはなしにしようぜ? ロイド」
何の話かと首を傾げるフランの右手を、ロイドが取った。左手はリュークが取り、紳士が淑女にするように、その甲に口づけを落とす。
「ち、ちょっと? どうして……」
まさかのキスに戸惑い、フランは顔を赤らめた。
ふたりが跪く姿勢でフランを見上げる。
「僕が守るよ」
「俺が守ってやる」
ロイドの指では金色の、リュークの指では銀色の指輪が輝いた。どちらもフランの魔力と結びつき、ささやかに共鳴している。
「てめえには渡さねえよ。フランは俺がいただいていく」
「ふっ、望むところさ。君の好きにはさせない」
髪が空の色に似ている王子、ロイド。炎の色に似ている王子、リューク。
そんなに見詰められたら……。
熱いまなざしを向けられるだけで、胸がとくとくと高鳴った。恋の相手はひとりだけ、と頭ではわかっていても、心は壊れた天秤のように揺らいでしまう。
だ、大事な戦いの前なのよ? あたし。
キスの名残にふたりの想いを感じながら、フランは表情を引き締めた。次の戦いを切り抜けなければ、始まりつつある恋にも、未来はない。
「頑張りましょ。誰も、何も奪われないために」
ロイドは頷き、リュークはあくびを噛む。
「全身全霊を尽くす、と約束するよ」
「ふあぁ……とっとと終わらせて、釣りにでもいこうぜ」
朝日は次第に高くなり、ツォーバ王国を春の陽気で満たした。小鳥の囀りが、動物たちにとっての一日が始まったことを報せる。
戦いが終わったら、みんなで……。
ツォーバに来て、フランは多くの友人を得た。クレハ女王にアンナ、それからロイドとリューク。昔馴染みのミノタウロスや、育ての親である祖父も傍にいる。
「またパーティーがしたいわ。今度はね、ちゃんと踊るの」
「ヘッ、そいつはいいな」
「ワルツを教えてあげるよ。君ならできるさ」
最後の太陽が沈むまで、フランは夢を見ていた。
ふたりの王子と手を取りあって踊る、煌びやかなダンスパーティーの夢を。
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