奴隷王女~かりそめの愛に濡れて~
第6話
夏の暑さも本格化してきた。政務室も日中は窓を開け、たまに吹く風を待つ。
「はあ……」
「お疲れのようですね」
補佐官のクリムトは苦笑しつつ、アイスティーを淹れてくれた。しかしモニカはそれに口をつけず、重々しい溜息を繰り返す。
「疲れるに決まってるでしょ。何もいいことがないんだもの」
サジタリオ帝国による侵攻、人質となったセニア、王国騎士団の再編成。それだけでも頭が痛いのに、レオン王の拉致も発覚し、ソール王国は窮地に立たされている。
おまけにセリアスはあれから行方知れずとなっていた。忍者とともに城下を出ていったのが最後で、その後の顛末は誰も知らない。
あのひとなら無事だとは、思うんだけど……。
また最近になって、城では反帝国の感情が高まりつつあった。遊技場の一件で騎士団長のブリジットが激怒したことも、要因のひとつとなったらしい。帝国軍と王国騎士団の間では緊張が続いている。
肝心のジェラールはソール城を離れ、帝国との国境付近まで出張っていた。セリアスのことも相談できず、無為に時間だけが過ぎている。
「例の刺客のことは何か掴めたの?」
「それが、まだ……貴族の誰かが雇い入れたものとは思いますが」
セリアスとともにあの忍者の消息も掴めなかった。だが彼のようなアサシンの存在は、ある重大な事実を指し示している。
帝国ではなくソール王国の身内の中にこそ、敵がいるのだ。
王家の血の秘密を知る者が、帝国の介入に焦り、白昼堂々とモニカを狙った。この事実だけで、黒幕は王族に近しいうえ、帝国の動向を逐一監視できる立場にある。
本当に狙われてるんだわ、あたし……早くジェラールに相談しないと。
あれだけ辱められたにもかかわらず、いつしかモニカは彼を頼りにしていた。身体ごと心までこじ開けられたかのようで、前ほどには拒絶できない。
どうして、あのひとは……?
ジェラールがモニカを強引に奪える機会は、いくらでもあったはず。なのに彼は一線を超えようとせず、ぎりぎりのところでモニカの純潔を尊重した。アンナやブリジットにも露出は強要したものの、その肌には一切触れていない。
「手が止まってますよ、モニカ様」
「あ、ごめんなさい」
心配事を大量に抱えつつ、モニカは今日の政務をこなしていった。能率があがらないために残業となり、夏の陽も暮れてしまったが、クリムトは嫌な顔をしない。
やがて今日の仕事を終え、政務室をあとにする。
「お疲れ様、クリムト」
「いえ。モニカ様のお役に立てるなら、僕は何だって……」
廊下に出たところで、不意にクリムトが後ろから覆い被さってきた。幼馴染みの突然の行動にモニカは驚き、顔を赤らめる。
「ち、ちょっと? あなた……」
「少しだけお許しください。少しだけ」
背中に初めて『彼』の感触があった。クリムトも男の子だと、今さらのように認識するとともに、モニカは彼の一途な想いにはっとする。
「あなたまで帝国に奪われるなんて……僕は悔しいんです」
モニカとジェラールの関係には薄々、勘付いていたらしい。クリムトは『今だけ』と念を押しながら、後ろからの抱擁を深めた。
「どうか元気を出してくださいね、モニカ様」
「ありがとう。クリム……」
ところが、それを通りかかったジェラールに目撃されてしまう。
「ジェ、ジェラール? あなた、いつ帰って……」
ジェラールは眉を顰め、強引にモニカの腕を引いた。
「来い」
「ま、待ってったら!」
クリムトを置き去りにして、モニカは離宮の一室、彼の部屋へと連れ込まれる。
彼が『力ずく』でモニカを従わせようとするのは、初めてのこと。モニカの細い腕を掴みあげ、ベッドへと連れ込む。
ポーカーフェイスで気取る余裕もない様子だった。
「きみというやつは! おれ以外の男にも『ああ』なのかい?」
「ご、誤解よ……話を聞い、ひあぅ?」
首筋に乱暴なキスを押しつけられ、モニカはいやいやと悶絶する。
「やめて! 変よ、あなた……いつもはもっと、優しいのに……んっ、んぁ?」
「おれが優しい、だって? それだって我慢してるんだよ」
頬を舐められ、耳たぶを食まれた。ジェラールはモニカの身体からクリムトの感触をかき消そうと、躍起になる。
けれどもモニカはキスに応じず、力いっぱいに顔を背けた。
「い、嫌って言ってるでしょ!」
奴隷の件も忘れて、いつになく彼を頑なに拒む。
嫌悪感はなかった。触られて、鳥肌が立つこともない。それでも『今の彼』を受け入れることはできなかった。
心がすれ違ってしまっているのを痛感し、モニカは切に涙ぐむ。
「あたしの気持ちも考えてったら、ばか! あなただってアンナやブリジットと……」
ようやく彼の手が止まった。
「……すまない」
その表情は悔恨に満ち、許しを乞うようでもある。
「みっともなかったね。おれとしたことが、目の前が真っ赤になって……」
嫉妬だった。ジェラールはモニカとクリムトの睦まじさを目の当たりにして、独占欲を剥き出しにしたらしい。
そっぽを向いたままモニカは頬を染める。
「す、少しはわかったでしょ? あたしの気持ちが」
「ああ」
遠まわしに伝えたつもりなのに、即答されてしまった。
困ったことに、自分はこの意地悪な王子様に心を奪われている。彼の期待に応えるとともに、彼にも応えてもらえたら――そんな想いが胸を満たしつつあった。
「どうかしてたよ。本当にごめん」
モニカから身体を剥がし、ジェラールは自嘲の笑みを浮かべる。
その優しい微笑みひとつで、やっとモニカはすべてを悟った。彼が下卑た欲望のために女性を辱めるはずがない。今までの調教も『モニカへの拘り』は一貫している。
「ジェラール……あなたはソールに何をしに来たの?」
自然とモニカは彼の頬に触れていた。
「……つまらないことさ。モニカ、おれは……」
だが、そのタイミングで扉が蹴破られ、モニカもジェラールも表情を強張らせる。
「そこまでだッ!」
躍り込んできたのは、ブリジット率いる王国騎士団だった。次々と剣を抜き、帝国の王子ジェラールに狙いをつける。
「ブリジット? あなた、どうして」
「離れてください、姫様! われわれはその男を捕らえるために来たのです!」
ブリジットは怒り心頭に声を荒らげ、剣をかざした。
「ジェラール=サジタリオ! ついに尻尾を掴んでやったぞ。まさか、貴様がジェイムズ様を暗殺したとはな……」
その言葉にモニカとジェラールは驚愕する。
「おれがきみのお父上を殺しただって?」
「な、何かの間違いよ! ジェラールがそんなことするわけ……」
ジェラールがソール王国へとやってきたのは、二ヵ月ほど前。すでに父の急逝から一年が過ぎているため、それが暗殺だったにしても、容疑者に数えられる道理はなかった。
にもかかわらず、ブリジットはジェラールを睨みつける。
「いつまでも帝国の言いなりでいるソールだと思うな! 連行しろ!」
瞬く間に騎士団の面々がジェラールを取り囲んだ。これまでの屈辱を晴らそうと、帝国の王子を見据え、剣をぎらつかせる。
ジェラールは抵抗せず、素直に両手を挙げた。
「きみたちの好きにするといいさ」
帝国の王子は騎士団に包囲されたまま、連行されていく。
「ジェ、ジェラール!」
それをモニカは必死に止めようとするものの、ブリジットに阻まれた。真正面から肩を掴まれ、はきはきと諭される。
「しっかりなさってください。姫様はあの男にいいように操られているのです」
「操るだなんて……違うのよ。ジェラールはもっと単純なひとで……」
「とにかく今夜はお休みください。お話は明日、伺いますので」
やっと彼と想いが通じあえたと思ったのに。
ジェラールは王国騎士団によって囚われ、地下牢へと監禁されてしまった。
☆
翌日、モニカは政務室で意気消沈する。
「どうしてこんなことに……」
補佐官のクリムトのほか、今日はメイドのアンナも傍に控えていた。
「誰かに焚きつけられたのかもしれませんね。前々から、騎士団はジェラール様のやり方に不満を溜め込んでいたようですし」
「ブリジット様もジェラール様にはお怒りの様子でしたから……」
モニカとて想像はつく。
おそらく黒幕がほかにいて、ブリジットごと騎士団を利用した。サジタリオ帝国から今回の件を糾弾されたとしても、これなら騎士団の責任にできるという算段だろう。
それは浅はかな考えであって、クリムトは肩を竦める。
「よほど『あと』がないのでしょう。理由はわかりませんが」
「ええ。焦ってるんだわ、きっと」
とうとう『敵』は大それた行動に出た。ジェラールは窮地に立たされてしまったが、モニカたちにとっては千載一遇のチャンスでもある。
ただ、ここで下手を打っては、それこそソール王国の危機を招いた。
「セリアスはどこにいるのかしら」
「わかりません。すでに殺された可能性も……」
サジタリオ帝国がこの件を知れば、王子奪還の名目で軍を派遣してくるはず。ソール王国など一日で陥落し、帝国の支配下に組み込まれるのは、火を見るより明らかだった。
一介のメイドに過ぎないアンナでさえ、双眸に力を漲らせる。
「帝国に気付かれる前に、ジェラール様をお助けしましょう。ジェラール様なら、ソール王国に便宜を図ってくれるはずです」
ただ、女性として彼を信用しているようでもあり、モニカにとっては面白くない。
この事件が片付いたら、引っ叩いてやるんだからっ!
恋人の浮気癖に憤りつつ、モニカは城内の地図を広げた。ジェラールの捕らわれている地下牢は目と鼻の先だが、騎士団が監視の目を光らせているに違いない。
城下に常駐している帝国軍は、まだ王子が拘束されたとは知らない様子だった。
「帝国軍に知られてもまずいわね」
「はい。僕たちだけでジェラール様を奪還するのが、理想ですが」
幸いにして、城の地下牢には秘密の抜け道がいくつか存在した。本来は王族が脱出するためのもので、レガシー河まで続いている。
「とにかくジェラールを助けるのが先決ね。あたしなら、彼のもとまで行けるわ」
モニカは意を決し、地図のうえでルートを見据えた。
「おひとりで大丈夫ですか? 隠し通路とはいえ、例の暗殺者がまた……」
無論、この道のりが安全という保障はない。クリムトは冷静に状況を読んでいた。
「ジェラール様が監禁されたのは、セリアスさんが行方不明になって、すぐのことです。タイミングがよすぎるとは思いませんか?」
「そうね……最悪、あたしがおびき出されるなんてことも」
帝国の王子を捕らえたにしては、ソール城は落ち着いている。ブリジットの独断専行も前から予定されていたようで、貴族の間にさほどの驚きは走らなかった。
「……やっぱりあたしが行くわ。あたしでないと、開かない扉もあるはずだから。クリムトとアンナはみんなの注意を引いててちょうだい」
「わかりました。ですが、ご無理だけはなさらないでください」
モニカたちは作戦を今夜に決め、ルートを確認しておく。
味方が少なすぎるわ……。
頼れるのはクリムトと、メイドのアンナだけ。
ブリジットには再三説得を試みたものの、取りつく島もなかった。それこそジェラールの処刑も躊躇わない勢いで、騎士らも彼女の反乱に賛同している。
「あたしたちで止めなくっちゃ」
「はい。帝国に勘付かれる前に、僕らで解決しましょう」
「微力ながら、わたくしもお手伝いを……」
クリムトは遠方の領主貴族らに働きかけることとなった。時間は惜しいが、城内の人間は誰が敵かもわからない。また、帝国軍に悟られるわけにもいかなかった。
アンナには城下の民と連携し、万が一に備えてもらう。この状況では騎士よりも、買い物の際に会っているような民のほうが信頼できた。
作戦はまず、モニカがジェラールを城の地下牢から救い出すこと。そして城下に潜伏しつつ、状況次第で帝国軍と合流するか、レガシー河から街を離れる。
「僕は城に残ります。あとあと、こちらとの連携も必要になるでしょうから」
「あなたこそ無理はしないでね」
決行は今夜。そのために王女は政務室で仮眠を取っておく。
☆
やがて夜も更けてきた。騎士団の面々は見張りを交替し、夜通しでソール城の守りを固めている。だが彼らは隠し通路の存在を知らない。
母の部屋を訪れていたモニカ王女が、メイドたちとともに離宮から出てくる。
「お部屋までお送りいたします。モニカ様」
「え、ええ……」
王女は終始俯きながら、しずしずと離宮を離れていった。
その様子を『本物』のモニカは母の部屋から見送る。アンナを替え玉とする作戦は、ひとまず成功したようだった。当然、これは母の協力があってこそ。
「騎士団もそうだけど、あなたも大それたことをするようになったわね、モニカ」
「ほかに方法もないんだもの。ごめんなさい、お母様」
寝台の下には正方形の入り口があった。城の要所にはこのような経路が存在し、外まで続いている。母の部屋は離宮の一階にあるため、地下牢とも近かった。
普段は国政に関心がないはずの母が、娘に親書を持たせてくれる。
「私の名では大して役には立たないでしょうけど……地方まで逃げのびたら、これを領主にお見せなさい。お義父様の件についても記してあります」
「お母様? まさか……」
「レオン陛下は幽閉されているのでしょう?」
モニカは驚きつつも母を見上げた。陰謀について、初めて母が口を開く。
「よく聞きなさい。私の夫……あなたの父は殺されたの。そして、お義父様はその事実を突き止めたために拉致されてしまったわ」
「お父様が殺された、って……お母様はすべてをご存知で……?」
「犯人の目星もついてるわ。ジェラールには話したのだけど」
ジェラールが母の部屋に足しげく通っていたのは、このためかもしれなかった。
母がモニカの肩を掴んで、今までになく語気を強める。
「私だって王族の端くれなのよ。お城のことは私に任せて、逃げなさい」
「……お母様!」
これほど頼りになる女性だとは知らなかった。モニカは抱擁を深め、母に誓う。
「ジェラールもお爺様も必ず助け出してみせるわ」
「その意気よ。さあ、行きなさい」
母とモニカのほかには誰も知ることのない隠し通路が、ついに開いた。
モニカはカンテラを掲げ、古い階段を慎重に降りていく。
この先にジェラールが……。
暗闇の中、モニカの脳裏では母の言葉が何度も繰り返されていた。
『よく聞きなさい。私の夫……あなたの父は殺されたの。そして、お義父様はその事実を突き止めたために拉致されてしまったわ』
敵はジェラールの介入に焦り、モニカ王女に刺客まで差し向けている。水面下で計画を進めていたにしては、目に見えてぼろが出始めていた。
この先にはきっと真実がある。
王国はあたしが救ってみせるわ。必ず……!
決意を胸にモニカは細長い通路を抜け、いくつかの仕掛け扉をくぐった。王族が手をかざすことでのみ扉は開き、地下で冷えきった空気に迎えられる。
途中の壁には文字が刻まれていた。
『ここより脱出するような事態に陥ったのなら、軍神ソールとなりうる勇士を探せ』
カンテラを近づけながら、モニカは謎めいたメッセージに息を飲む。
「……剣士を、探せ?」
何代も前のソール家が書き残したのだろう。軍神ソールを復活させろというのなら理解できるが、軍神となりうる勇士、というフレーズが引っ掛かる。
やがて地下牢へと辿り着いた。息を潜めつつ、慎重に隠し扉を開ける。
さあ行くわよ。ジェラールはどこに……?
地下牢は暗いためか、見張りの騎士は階段の上のほうで陣取っていた。この隙にモニカは王族専用の魔法の鍵(マスターキー)で牢から牢を抜け、彼のもとへと急ぐ。
暗闇の中、ジェラールは粗末な寝台で暢気に寛いでいた。
「ジェラール」
「……? ひょっとして、モニカかい?」
「大きな声は出さないで」
その応答ひとつで、彼のほうも事情を察したらしい。カンテラの灯かりが漏れないように注意しながら、ジェラールが布団を丸め、それに上着を被せる。
「こうしておけば、ちょっとは時間稼ぎになるさ」
「ばれちゃうでしょ、こんなの」
「これだけ暗いんだ。あとは落ち込むポーズをさせて……よし、行こう」
騎士らに勘付かれないうちに、ふたりは地下牢を脱出した。隠し通路にさえ入ってしまえば、追っ手の心配もない。
「騎士団に酷いことされなかった?」
「ずっと閉じ込められてただけだよ。ちゃんと食事も出た。ブリジットに罵詈雑言を浴びせてもらえるかと、期待はしてたんだけどね」
「……変態」
帝国の王子様は相変わらずのマイペースで、安心した。おかげで気を遣わず、よいとはいえない今の状況も伝えられる。
「あなたが国境に出張ってた間に、セリアスが行方不明になっちゃったのよ。あたしを助けるために、刺客と戦って……もう三日は経つわ」
「なんだって? ……まあ、あいつなら無事だとは思うが」
城からはかなり離れたはずで、足も疲れてきた。小さな照明だけを頼りに不慣れな道を進むせいか、倍の距離を歩いた気がする。
「この上で休めるはずよ」
「ふう……よかった。このまま河まで歩かされるのかと」
地下通路の上は小さな教会だった。城下の一角にあり、神父や尼がいないにもかかわらず、清潔に保たれている。普段は民が集会などで使っているらしい。
「ソールでも聖人像は撤去されてるんだなあ」
「うちには軍神ソールがいるんだもの」
それだけの場所のはずが、窓際の一室には大きめのベッドが置いてあった。ムーディーなルームランプまであり、外は真夜中でも、部屋の中は淡いピンク色に染まる。
ジェラールがにやりと笑みを噛んだ。
「なぁるほど……ここはカップルのためのお手頃なベッドルームというわけだ。もしかして、おれを誘うつもりで連れてきたのかな? きみは」
「え? ……ち、違うったら!」
あらぬ疑いを掛けられ、モニカは否定の言葉に力を込める。
「誤解しないで? あたしだって、こんなふうになってるなんて……」
「いいじゃないか。おれときみは男と女。……いや、ご主人様と奴隷だったか」
抵抗する間もなく抱きすくめられてしまった。彼の顔が一気に近くなって、瞳の中まで覗き込まれる。同時にモニカも彼の瞳を覗き込んだ。
「おれはだめなやつだよ。きみが危険な目が遭ってるとも知らないで、身勝手に嫉妬したりして……そのくせ、今もきみを抱きたいと思ってるんだからさ」
抱きたい――その言葉にとくんと胸が高鳴る。
不思議ともう嫌ではなかった。ただ心の準備はできておらず、尻込みする。
「だ、だめよ。今はそんな場合じゃ……」
「わかってる。それにおれだって、きみを抱く覚悟はできてないんだ。……男にとっても勇気がいることなんだよ? 女性を抱くのは」
ジェラールの手は弱く震えていた。
「だから、今夜は『予約』だけさせてくれ。モニカ」
その割に抱き締める力は強く、簡単にベッドへと押し倒される。
「ど、どこまでする気よ? ちょっと……待ちなさいってば」
「待たない」
優しいキスが耳たぶに触れた。
押しのけようにも手首を掴まれ、逃がしてもらえない。せめて顔を背けるものの、うなじを舐められ、徐々に抵抗の手段を奪われていく。
「自分でできるようにはなったかい?」
モニカの初心な小顔が真っ赤に染まった。
「そっ、そういうことを聞かないで! ひとりでなんて、あたし……ひゃあ?」
「病みつきになってるんじゃないのか? ほら、脱いで」
背中の紐を解かれ、夏物のドレスは花のように綻ぶ。
頑なに身を強張らせていると、ご主人様の命令がくだった。
「脱ぐんだ」
「すぐそうやって無理強いするんだから……」
それに従うことが、モニカにとっては当たり前になりつつある。むしろ自ら望むように王女はドレスを脱ぎ、純白のブラジャーを露にした。
ショーツはガーターベルトでニータイツと繋がっており、白色の清純さとレースの妖艶さを漂わせる。たまらずモニカは赤面し、華奢な我が身をかき抱いた。
「は、恥ずかしいから……見ないで」
太腿を擦りあわせて、ショーツのデルタでも視線を警戒する。
そんなモニカの恥じらいぶりに彼の目は釘づけになった。
「いい子だ。きみにはご褒美をあげないとね」
ジェラールも上は裸となり、覆い被さってくる。
彼の肌は思いのほか火照っていた。ブラジャー越しに密着すると胸の鼓動まで伝わってくるかのようで、緊張感がシンクロする。
「もしかして、あなた……す、すっごく興奮してるとか……?」
「してるよ。おれはこのためにソールに来たんだ」
会話の途中で唇を塞がれてしまった。モニカに口答えはさせまいと、ジェラールは無茶苦茶に舌をのたくらせてくる。
「んあふっ? い、息ができ……んむぅ!」
「キスはこうするものだろ? おれもきみと前にしたのが、ンッ、初めてだけどね」
熱い息遣いとともに舌と舌がもつれあった。唾液が糸を引いて、頬にも零れる。
「ぷはぁ……初めてなら、あなただって知らないんでしょ?」
「お互い様さ」
モニカのほうからも少しはキスを返せるようになってきた。その間にもジェラールはモニカのブラジャーに手を掛け、小振りな裸乳を取り出してしまう。
「じっとしてるんだぞ?」
「え? あっ、こら……んはぁあ?」
彼の舌がモニカの首筋を滑り落ち、胸の谷間へと差し掛かった。左右の膨らみに頬擦りもしながら、濡れそぼったキスで突起を包み込む。
ぬるりと液を伴って擦れるたび、痺れるような快感が閃いた。
「へあぁあっ! だめったら、ジェラール……そんなにしちゃ、はっ、あぁふ」
みるみるモニカは息を乱し、香汗で身体を蒸らす。その香りで酔いがまわったのか、ジェラールは興奮とともにモニカの柔らかさを堪能した。
「前みたいに『ラル』と呼んでくれないか」
モニカは両手でシーツを握り締め、もどかしくもある快楽に打ち震える。
「よ……呼んだら、今夜はもう許してくれる?」
「ああ。きみの声で聴かせて欲しいな」
彼をそう呼ぶことに照れるも、荒々しい呼吸のせいで、唇を閉じられなかった。苦悶の中、暗示にでも掛かったかのように呟く。
「ラ、ラル……」
「……きみはおれのモニカだ」
さらにジェラールのキスは下へと向かい、おへそを通り抜けた。まさかと思ってモニカは彼の頭を押さえに掛かるも、間に合わない。
とうとう彼のキスはショーツへと達した。
「ちょ、ちょっと! ジェラール、今夜は『予約』だけだって」
「ラル、だろ? きみにはまだまだおしおきが必要だ」
竦んだせいで力が入らず、脚をこじ開けられる。ついにショーツは脇へとのけられ、乙女の不可侵領域を目の当たりにされた。
「や、やめ……えへぁあ?」
熱いキスが入り込んでくるや、全身を甘い痺れに襲われる。
たった一回の呼吸で、肺の中の空気が熱化した。モニカは仰向けのまま腰で跳ね、汗と涎まみれの美乳を揺らす。
モニカの太腿を撫で、ニータイツに指を差し込みながら、彼はキスに溺れた。
「誰も思いもしないだろうね。王女様がこんなところで、いいようにされてるなんて」
「意地悪なこと、言わないで? んはぁ……やっ、ほんとにそこ、ぃへぁあっ!」
モニカは彼の頭に全部の指を立て、狂おしいくらいに身悶える。
自分でも信じられないほどびしょ濡れになっていた。ショーツもぐっしょりと濡れ、生地越しに彼のキスを感覚で追ってしまえる。
不意に飛翔感が生じ、身体を打ちあげられた。
「やだこれ、きちゃう……すごいの、きひゃっ、あはぁああああああーッ!」
嬌声を張りあげ、モニカは全身を弓なりに伸びきらせる。
両脚は爪先まで引き攣り、ジェラールのキスを受け入れるだけになっていた。その中央から女の蜜がとめどなく溢れ、甘酸っぱいにおいを彼の鼻先に直撃させる。
「わかったかい? モニカ。ここにはいずれ、おれが『入る』からね」
「はあ、はぁ……は、はぃ……」
モニカはうっとりと艶を秘め、ジェラールに見惚れた。頭の中まで痺れついてしまい、朦朧としたまま、彼の命令に従うことしかできない。
ただ、この気持ちを自覚はできる。
好きになっちゃったんだわ、あたし……このひとのことが……。
弄ばれて、辱められて。それでもモニカは彼の胸にあるものを感じ、応えられることに喜びを抱きつつあった。命令に従うという、ご主人様と奴隷の関係であっても。
「隣においで」
下着を着けなおしてから、モニカは恋人に添い寝の姿勢となった。
「……なんだか恥ずかしいわ」
「その恰好が?」
「それもあるけど……あなたと、こうしてるのが」
ジェラールは頬を緩め、今までになく穏やかな笑みを浮かべる。
「これで目的は果たせたも同然かな。無理を通して、ソールまで来た甲斐があったよ」
「無理? ……あなた、帝国の指示で来たんじゃなかったの?」
昔からサジタリオ帝国はソール王国を属国とし、圧力を掛けてきた。今回に至っては国王不在の隙に乗じ、王国騎士団の掌握まで進めている。
しかしジェラールの口からはまったく別の真実が語られた。
「戦争が長引くせいで、帝国にはもう余裕がないんだよ。民も生活を制限され、疲弊しきってる。ソールに強硬手段を取ってる場合じゃないのさ」
彼の言葉が戦争に否定的でもあったのは、このためだったらしい。
『相手が見えないところで死んでくれれば、命を奪ったと考えずに済む』
『責任を感じずに済む……だから、勝利に酔いしれるのさ』
帝国は近代兵器の力をもって、破竹の勢いで勝ち続けていた。だが、勝利のたびに祝杯をあげるのは一部の帝国貴族だけであり、民や兵はとっくに満身創痍となっている。
クリムトの言った通りだわ。帝国は限界……。
ジェラールは自嘲を込めながら、そっとモニカの頭を撫でた。
「だから戦争が終わらないうちに、どさくさに紛れてってやつさ。八年前に会った、お姫様……きみを手に入れるためだけに、おれは来た」
本気の言葉に心を揺さぶられ、胸が高鳴る。
モニカは嬉しさに頬を染めながらも、照れ隠しに文句をつけずにいられなかった。
「だったら……最初からそう言ってくれれば、その、よかったのに……」
「いきなり『迎えに来た』なんて言い出す男を、信じるのかい?」
八年前の出会いはともかくとして、ふたりの再会は最悪に近い。しかし独断専行で帝国軍を動かしてしまったジェラールには、猶予もなかった。
「最初で最後のチャンスだったんだ。嫌われてもいい、絶対に手に入れてやろうとね」
「……酷いひとだわ」
その結果がご主人様と奴隷。
「きみがマゾで、おれも助かったよ」
「あなたねえ」
悪態をつくも、もう彼に逆らう気にはなれなかった。
八年前の悪ガキとの思い出にさえ鮮やかな色がつく。彼の温もりを肌で感じながら、モニカは幸せに酔いしれた。
「ラル? あの……い、今からでも、あたし……」
しかしモニカが誘っても、ジェラールは踏み出そうとしなかった。
「それはできない。サジタリオとソールのため、お互いやらなくちゃならないことがあるだろ? きみを抱くのは、すべてが片付いてからにしたい」
頬にキスが触れる。
「その時は思う存分に、ね」
「……ええ」
モニカも王女としての気構えを取り戻し、表情を引き締めた。
今は身体を重ねている場合ではない。ソール王国の騎士団はジェラールの投獄に至り、事と次第によってはサジタリオ帝国の報復もありうる。
「朝になったら、おれは帝国軍と合流するよ。きみも一緒に来てくれ」
「そうだわ! お母様から親書を預かってるの。きっとこれも何かの足しに……」
「頼もしいかただね」
すっかり城下の夜も更けた。
「……セリアスのやつはどこで油を売ってるんだか」
「何者なの? 彼」
「帝国で遺跡を探検する時、一緒だったんだ。かつてはスタルドの異変をも解決した、筋金入りの冒険家……あいつはジョーカーなのさ」
運命の朝は近い。
☆
翌朝、モニカとジェラールは不意の振動で目を覚ました。
「きゃっ! じ、地震?」
「いや、これは……何が起こってるんだ?」
城下も大騒ぎになっている。
教会の外に出て、モニカたちは驚愕した。壮麗にして巨大な鎧騎士が、城下の大通りを闊歩し、城へと迫りつつあったのだ。その雄々しさにひとびとは驚嘆する。
「軍神だ……軍神ソールが復活したぞ!」
「帝国軍をやっつけてくれるのね! でも、どうしてお城へ……」
優に十三、四メートルはあるだろう。
モニカはジェラールと頷きを交わし、ともに駆け出した。
「あっちで馬車を借りましょ! 急がなくっちゃ」
「ああ! こいつはひょっとすると……」
馬車に乗せてもらい、軍神のあとを追いかける。
やがて軍神ソールは城へと辿り着いた。騎士団や貴族の面々は城門の前に集まり、軍神ソールの神々しい姿を畏怖している。
勇猛果敢なブリジットさえそれを前にして、足を震わせた。
「なんという大きさだ……お、お前は本当に我らが守護神、ソールなのか?」
そこへモニカとジェラールが駆けつけ、騎士団に驚きの波が走る。
「ジェラール! 地下牢から消えたと思えば、姫様と?」
「それどころじゃないでしょ! あれは……?」
血気盛んな騎士たちを制しつつ、今一度モニカ王女は軍神ソールを見上げた。
胸部の装甲がスライドし、そこから意外な人物が『ふたり』も出てくる。
「大した歓迎ぶりだな」
ひとりめは剣士のセリアス。彼は髭も剃らず、軍神ソールと同じ青い鎧を身にまとっていた。どういうわけか軍神に『搭乗』していたらしい。
そして、もうひとりの懐かしい姿にモニカは驚愕の声をあげる。
「おっ、おぉ……お爺様っ?」
レオン=ソール=ウェズムング。モニカの祖父にして、ソール王国の正当なる国家元首が、およそ一年ぶりに姿を現したのだから。
「久しぶりじゃのう、モニカよ。……隣におるのは帝国のジェラール王子か?」
「ご無沙汰しております、陛下。これは一体……?」
セリアスの肩を借りながらも、レオン王は持ち前の崇高さを堅持していた。
「わしはずっと地下迷宮の上に監禁されておったんじゃよ。まさか助けが下から来るとはのぉ。面白い剣士がおったものじゃ」
モニカは目を点にして、問題の剣士に尋ねる。
「迷宮? セリアス……あなた、どこで何をしてたのよ」
「王国の地下迷宮とやらに落とされて、彷徨ってたんだ。何の因果か、そこでこんなものを見つけてな。古代王も片付けておいたぞ」
セリアスは淡々と言ってのけるも、城門の前ではどよめきが広がった。
「軍神ソールを蘇らせて、古代王を倒したあっ? 誰か、わかるように説明してくれ」
「待て、待て! どっちも封印されていたんじゃないのか?」
大臣らは真っ青な顔で口元を引き攣らせる。
「こ、これはこれは……どんな手品を使ったのやら」
「軍神ソールが復活したなどと……この巨人も何かの間違いでしょうに」
レオン王にばかり目が行って、モニカも彼らの挙動不審には今、初めて気がついた。
頭上で祖父が怒号を張りあげる。
「ふざけるでないわ、逆賊どもめっ!」
「ヒイイッ!」
そう怒鳴られただけで、大臣たちは一様に腰を抜かしてしまった。モニカやブリジットは唖然としつつ、レオン=ソール=ウェズムングの言葉に耳を傾ける。
「軍神ソールは大きすぎる力を持つゆえ、古代王とともに封印されておった。だが、そやつらは軍神欲しさにわしの息子を口車に乗せ、封印の一部を解こうとした。……結果、息子は古代王に血を貪り尽くされ、殺されてしもうたのじゃ」
軍神ソールとともに古代王もまた、王家の血を糧として蘇るとされていた。ソール家には恨みを抱いているはずで、モニカの父は復讐の憂き目に遭ったのだろう。
「じゃあ、古代王はすでに復活して……?」
「左様。しかしそやつらは事件の発覚を恐れ、息子の死の真相を隠しておきながら、わしに封印の強化を求めてきおった。無論、そう易々と騙されるわしではなかったがの」
大臣たちは秘密裏に事態の収拾を図るべく暗躍した。それをレオン王に見抜かれたために、王の幽閉に至った。
「幽閉されてしまったわしは、この血で密かに軍神を呼び、待っておったのだ。誰かが軍神ソールに乗る資格を得るのを、な」
モニカの命が狙われたのは、軍神をジェラールに渡すまいとする策謀だったらしい。しかし軍神はレオン王の血によって起動し、セリアスを迎えた。
当事者の口からそこまで暴露されようと、大臣どもは認めようとしない。
「陛下を幽閉などとは聞き捨てなりませんな。わ、私が必ずや犯人を締めあげ……」
それをセリアスが鼻で笑った。
「その必要はなさそうだぞ」
いつぞやの忍者がどこからともなく現れ、書類の束を見せびらかす。
「……………」
「貴様らが隠蔽工作で結託したという証拠は、そいつが揃えてくれた。知られすぎたからと、その男を切り捨てたのは間違いだったな」
「おとなしく投降なさいませっ!」
往生際の悪い大臣らに剣を向け、取り囲んだのは、意外にも城のメイドたちだった。モニカの母がこのチャンスに乗じ、包囲網を指揮してくれたのだろう。
ついに大臣たちは諦め、愕然とした顔で膝をついた。
「わ、われわれはソールのために……」
「事故死……いいや、殺人を隠し通そうとするような連中が、王国のためだと? 笑わせるでない。貴様らの罪は今後の裁判で徹底的に糾弾してやろうて」
軍神ソールのてのひらに乗って、セリアスとレオン王がゆっくりと降りてくる。
「そもそも軍神は人間同士の戦争には関与せん。王国を守ることはしても、おぬしらの望み通りに動きはせんのだ。何よりこれを動かせるのは、この剣士だけ」
「古代王も倒したんだ。こいつはお払い箱でいいじゃないか」
まさかの成り行きにはモニカもジェラールも呆然としていた。通りすがりの用心棒に手柄をかっさらわれては、ぐうの音も出ない。
それ以上にブリジットは痛恨の極みといった顔つきだった。
「なんということだ……では、私はいいように騙され、ジェラールに罪を……」
そんなブリジットの肩にレオン王が手を添える。
「おぬしはまだ若い。今回の件はよい教訓となったじゃろう。今後も王国のため、そして我が孫モニカのために働いてくれぬか」
「……あ、ありがたきお言葉!」
ブリジットとともに後ろの騎士らも一斉に跪いた。一年ぶりの国王の威厳を前にして、涙さえ流す者までいる。
これではモニカが泣きじゃくるわけにもいかなかった。
「お爺様ったら、本当によくご無事で……びっくりしちゃったわ」
「セリアスに聞いたぞ。お前には苦労を掛けてしもうたようで、すまぬ」
「苦労だなんて、そんなこと……」
それでも話すうち、涙が滲む。
国王代理に就いたものの、自分の力では及ばなかった。皆の期待に応えられなかった。それを幾度となく痛感しながらも、皆の手前、気丈に振る舞っていたのだから。
「今くらいは陛下に甘えるといいさ、モニカ」
「……うん!」
ジェラールにも背中を押され、モニカは大好きな祖父に抱きつく。
「おかえりなさい、お爺様!」
「ただいま。しばらく見ぬうちに綺麗になったの」
綺麗に――それはきっと彼のせい。
昨夜の情事を知られたら、怒られるに違いなかった。
☆
レオン王の帰還の一報は、その日のうちに王国じゅうに広まった。
これでソール王国は元首を取り戻し、国家としての体裁を保てたこととなる。だが、大臣の大半が例の事件に関わっていたため、王国の中枢部は瓦解してしまった。
高齢の国王のもと、ソール王国は一からやりなおさなくてはならない。
同じくして、サジタリオ帝国も転換期を迎えつつあった。五年にも及ぶ戦争に敗れ、敗戦国となったのである。
東・南の連合軍がゴッツォの要塞を陥落させたことで、帝国貴族らは慌てて休戦を申し入れるも、連合の勢いは止まらず。帝国は降伏を受け入れることとなった。
妹のセニアは万が一のため、ソール王国の国境付近まで逃れていたらしい。当然それはジェラールの計らいだった。
ジェラールは戦後処理のため、帝国へ帰ることに。
その朝、モニカたちは彼らを見送るべく、城門のもとに集まった。
律儀なブリジットが深々と頭をさげる。
「貴公には色々と迷惑を掛けたな。虫のいい話とは思うが、本当にすまなかった」
「構わないさ。おれがいない間、モニカのことをよろしく頼むよ。きみはほかの誰よりも信頼できる騎士だからね」
一方、メイドのアンナはにこやかに微笑んだ。
「ジェラール様は皇位をお継ぎになるのですか? でしたら、モニカ様もいずれは帝国へ……その時は是非、わたくしもご一緒させてください」
「気が早いなあ、きみは。おれは皇帝になるつもりはないよ」
現在のサジタリオ皇帝(ジェラールの父)は長きに渡る戦争の責任を取るべく、帝位を退く。そのため、次男のジェラールも次期皇帝の候補に挙がった。
「兄貴でも姉貴でも、好きなほうがやればいいのさ。末っ子のおれが名乗りをあげたら、また戦争になるかもしれないし」
「お兄さんたちも大変でしょうね……」
帝位を継がないにしても、彼には果たさなければならない義務が山とある。
ジェラールはモニカを抱き寄せ、囁いた。
「目処がついたら帰ってくるよ。きみのいるソールに」
「……待ってるわ」
プロポーズも今はお預け。名残惜しくもモニカは彼と離れる。
そして今朝はセリアスも発つことになった。軍神ソールは姿を消したものの、聖なる鎧として城に残り、新たな所有者の命令を待っている。
「あなたとはこれでお別れなのね。セリアス」
「ああ」
呪われた地下迷宮を突破し、軍神ソールを目覚めさせた、凄腕の剣士。とうとう彼は古代王まで打倒し、ついでにレオン王とソール王国を救ってしまった。
祖父からは騎士団への加入を熱望されたはず。
しかしセリアスは仕官を断り、ジェラールとの契約も更新することはなかった。
「……まだまだソールは大変な時期だもの。あなたのようなひとがいてくれれば、お爺様も心強いとは思うのだけど……」
「俺は戦うことしかできんさ。国造りはできない」
ブリジットが歩み出て、セリアスに握手を求める。
「通りすがりの用心棒に国王陛下まで助けられてしまったのだから、情けない話だ。私は騎士の矜持に固執するばかりで……本当に大事なものは何も見えてなかった」
「運がよかっただけさ、俺は」
彼は握手に応じ、仏頂面なりに表情を緩めた。
「元気でな。モニカ姫、ジェラール」
「あなたもね」
荷物も少ない剣士は、その足で早朝の城下へと消えていく。
それを見送りながらジェラールが呟いた。
「欲のないやつだ。次は『フランドールの大穴』に挑むそうだが……」
「また立ち寄ってくれるかしら? ソールへ」
「それまでに国を立て直しておかないとね。もちろん、帝国も」
ソール王国は新しい朝とともに新しい時代を迎えつつある。国難は続くだろうが、サジタリオ帝国と手を取りあい、乗り越えなくてはならない。
「そろそろおれも行くよ」
「国境までは私も行くぞ。セニア様をお迎えしなくては」
「ふふっ。頼んだわよ、ブリジット」
ジェラールは馬車に乗り、騎士団とともにサジタリオ帝国へ出発した。
メイドのアンナがモニカ王女に微笑みかける。
「寂しいですか? モニカ様」
「どうかしら……寂しがる暇なんて、ないんじゃない? 忙しくなりそうだもの」
予想の通り、モニカは王女として多忙な日々を送ることに。恋人に想いを馳せることも少なくなり、あの夜の愛も、いつからか疑わしくなるのだった。
エピローグ
激務に追われるうち、半年が過ぎた。ソール王国にも冬が来て、今日はちらちらと雪が降っている。サジタリオ帝国のほうはもっと冷え込んでいるらしい。
その寒さにめげず、モニカはいそいそと出迎えの準備に取り掛かっていた。
「お爺様も今日は早めに切りあげてね。大事な日なんだから」
「わかっておる。夕食はみなで一緒にな」
レオン王の帰還によって、ソール王国は一国家としての地位を取り戻しつつある。これまで王国を軽んじていた近隣の国々も、レオン王の威光は尊重するほかなかった。
そんな祖父のもとでモニカ王女は勉強の日々。早ければ、来年には正式に『女王』に就任することが決まり、その体制も整ってきている。
奇しくも、サジタリオ帝国でも女性元首が誕生したばかりだった。
戦場で一度たりとも指揮を執らなかったジェラールは、無血の後継者として次期皇帝の候補に挙がったという。逆に兄のヴィクトールは軍を率いて、八面六臂の活躍をしたことから、やはり順当な世継ぎとして期待された。
しかしジェラールは帝位を辞退し、ヴィクトールも軍人気質の自分では近隣諸国を刺激しかねないと、これを拒否。
戦後のイメージアップも兼ねて、姉が帝国初の『女帝』となった。サジタリオ帝国は戦争の事後処理に当たるとともに、和平路線に舵を取っている。
城の廊下でふとクリムトとすれ違った。
「お急ぎください、モニカ様。先ほど到着されましたよ」
「もう来てるのっ? まだ髪も調えてないのに……」
今後もモニカ王女の補佐官として、彼には大きな期待が寄せられている。国王不在の一年を切り抜けることができたのは、クリムトの臨機応変な対応のおかげでもあった。
モニカはクリムトと別れ、私室へと飛び込む。
メイドのアンナは準備万端の構えで待ってくれていた。
「こちらへどうぞ、モニカ様」
「お願いね!」
彼女に髪を梳いてもらいながら、モニカはドレッサーの鏡とにらめっこする。
「もっと大人っぽいドレスのほうがいいかしら?」
「半年前と違いすぎましても、ジェラール様が困惑されるものと思います」
心なしか、今日はアンナのメイドスタイルにも気合が入っていた。自分よりも彼好みの女性かもしれず、モニカは本能で危機を感じる。
アンナったら、ラルにはあんな目に遭わされたっていうのに……。
そうしてドレスアップを終えたら、アンナと一緒に城門へ。
「遅いわよ、お姉様!」
「ごめんなさい。支度に手間取っちゃって……」
サジタリオ帝国の一団はすでに到着し、こちらは騎士団が迎えに出ていた。ところが騎士団長のブリジットは見目麗しいドレス姿で、モニカの危機感をさらに煽る。
「……ねえ、ブリジット? いつもの騎士服はどうしたのよ」
「えっ? い、いえ、これは……ジェラール様に失礼がないように、と……」
「ジェラール『様』ねえ」
半年ぶりの再会に胸を躍らせていたはずが、不安になってきた。
アンナもブリジットもモニカの巻き添えを食らい、ジェラールの毒牙に掛かったことがある。ふたりのスタイルのよさには彼も釘づけになっていた。
最後の馬車からジェラールが降りてきて、アンナは一際声を弾ませる。
「モニカ様! ラル様がいらっしゃいましたよ!」
「ち、ちょっと? あなたまで……」
こうなっては、いの一番に彼に抱きつきでもして、アピールするしかなかった。モニカは緊張しながらもジェラールのもとへ駆け寄り、両手を広げる。
「おかえりなさい! ラ――」
「モニカ! ただい……」
そのつもりが、脇から先を越されてしまった。姉のモニカを差し置いて、妹のセニアが大喜びでジェラールの胸へと飛び込む。
「ジェラール! 久しぶりね、元気だった?」
「あ、ああ。少し背が伸びたみたいだね」
「わかるぅ? バレエの練習だって、ずっとやってるんだもん。そうそう、お母様もジェラールに会いたがってるんだから。早く早くっ!」
いたいけなセニアを無下にできず、ジェラールはあれよあれよと連れていかれてしまった。モニカたちは挨拶のひとつもできず、唖然と立ち竦む。
「……せっかくドレスでおめかしした甲斐もありませんでしたね、ブリジット様」
「おぉ、お前こそ! いつもの給仕服はもっとフリルが少ないじゃないか」
ライバル同士で火花を散らしても、こうなっては虚しかった。
「ラルはあたしのなんだってば……」
それもこれも彼が悪い。
婿入りに来た分際で、側室などと言い出そうものなら、張り倒す。モニカ王女、十八歳にして闘志に燃えあがるほどの決意だった。
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