Rising Dance
プロローグ
夏の暑さも最高潮の、八月上旬。
高校で初めての夏休み、私はバスケ部の後輩に誘われ、あるアイドルのコンサートに来ていた。長蛇の列を吸いあげたコンサートホールは、ファンの熱気に満ちてる。
連れの後輩はそんな熱気に参って、救護室に担ぎ込まれてしまった。もともと風邪気味だったのもいけなかったみたい。
「ごめんなさい、はあっ、御前センパイ……せっかく付き合ってくれたのに」
誘っておきながらダウンしたことで、彼女は明らかに責任を感じていた。
その汗ばんだ額に、私が冷たい手拭いを乗せてあげる。
「気にしないで、ゆっくり休んで。気付かなかった私も悪いんだし」
後輩の不調を緊張か何かと思っていたのが、間違いだった。子犬のようなまなざしに涙を溜め、申し訳なさそうに私を見上げてくる。
こんなつもりじゃなかった、よね。
救護室ではほかにもたくさんのお客さんが休んでいた。当日に無理がたたって倒れるケースが多いらしくって、スタッフがきりきり舞いになってる。
友達の付き添いで居座るのもまずい、か。
「何か飲みたいものある?」
「あ、いえ……センパイはライブ見てきてください、始まっちゃいます」
「私のことはいいから。適当に買ってくるね」
落ち込む彼女の額に、私はちゅっと口づけを落とした。手拭い越しだけど。
すると彼女が真っ赤になった顔を、鼻まで布団に隠す。
「うぅ……見られたらどーするんです?」
「大丈夫だってば。じゃあ、ちょっと待ってて」
私はしれっと返しつつ、救護室をあとにした。そして廊下に出てから、鼓動が高鳴っているのを感じ、壁際で溜息をつく。
またやっちゃった……。
この私、御前結依は本日、『彼女』とのデートに来ていた。
女の子(つまり同性)に告白されたことが三回もあって、その三回目の子と半年ほど交際してる。ただし『夏休みの間だけ』という、相手のほうの要望つきで。
もちろん抵抗はあったけど、一緒に買い物に行くくらいなら、と受け入れてしまったのが始まり。断って傷つけたくなかったんだと思う。
今は『ちょっと仲のいい友達』くらいの距離感で、適度にやれてるはず。
彼女にとっては真剣な恋愛かもしれない、けど、ごっこ遊びなのかもしれない。高校受験を前にして、最後にデートがしたいと言い出したのも彼女。
私は彼女の真意に触れないよう、今日までやり過ごしてきてる。
異性より同性に憧れちゃう気持ち、か……。
おかしなフェロモンでも出ちゃってるのかな、私?
いやいや、まさか。
私こと御前結依は、バスケットボール部が得意なだけの体育会系女子だもん。
でも同性に憧れる気持ちがあること、少しは理解してるつもり。今日のライブだって、お客さんは女の子が多いんだし。
今をときめくアイドル歌手、観音怜美子こと『みねみー』のコンサートは、満員御礼の熱狂ぶりだった。不意に歓声が沸き、壁越しにも空気が振動する。
貰いもののチケット、無駄にしちゃったかなあ。
当初の予定では、彼女と一緒に遊園地に行くつもりだったの。ところが彼女の友人筋からチケットが転がり込んできて、今日のライブに変更したわけ。
みねみーのことは知ってるけど、大好きってほどでもない。始まっちゃえばそれなりに楽しめるよね、程度の期待値だった。
ライブが始まったことで廊下が空いてるうちに、私は手頃な自販機を探す。
しかし自販機はどれも空っぽ。およそ六千人という人間が集まってるんだから、自販機なんかでドリンクの供給が間に合うはずがなかった。
かといって、エントランスの売店は遠い。
でも『関係者以外立ち入り禁止』のテープの向こうには、まだ残っていそうな自販機があった。少しだけお邪魔して、使わせてもらうことにする。
まずは自分の分として、サイダーをひとつ。自販機の傍で蓋を開け、冷たいうちに、渇いた喉へと流し込む。
「ふう……」
デートは風邪が治ってからやりなおし、かな。
私だけライブに戻っても意味がないし、それ以前に不可能だし。大勢のファンで混雑を極める中、一度でも列を外れたら、チケットがあっても物理的に戻れない。
そうだ、CD買って帰ろうっと。
彼女の分も買っておこう。
「いたいた! いましたよ、先輩!」
そんなことをぼーっと考えてたら、スタッフたちが慌ただしく駆け寄ってきた。
「休んでないで、急いで! もうみんな、準備終わってるんだから!」
「え? あの、あたしは……」
「もしもし、チーフ? 確保しました! 間に合いそうです!」
両サイドから私を囲み、早口でまくしたてる。
「ち、ちょっと待ってください! 違いますってば、あたし」
「迷ってたの? そういう時はすぐ電話してくれないと」
勘違いされているのはわかった。だけどスタッフは焦ってるせいか、私の話をちっとも聞いてくれない。
私は飲みかけのサイダーを取りあげられ、ずるずると引っ張られていく。
そのまま控え室なんぞに放り込まれてしまった。
「早く着替えて! メイク、急いで!」
「だっだから、違うんです!」
女性スタッフ総出で服を脱がされ、悪い予感は確信に変わる。靴下まで奪われ、私は思わず悲鳴をあげた。
「きゃあああっ! 待って、や、やめてください!」
「なんでこんな面倒くさい服を着てくるの? ジャージで充分でしょ!」
おしゃれ着なのは、客だからに決まってるじゃない? でもスタッフは殺気立って、勘違いを暴走させてしまってた。靴下の次はブラジャーも飛ぶ。
ラメ入りのステージ衣装を身体に巻きつけられながら、手早く髪もポニーテールに結いなおされた。慌ててるにしては手際がよく、急ピッチでメイクも済ませる。
ど、どこかで誰かが気付いてくれるはず……そ、そうでしょ?
ひとまず私は抵抗をやめ、なるべく顔を見せるように努めた。促されるままサイズ違いのブーツを履いて、よろよろと立ちあがる。
おそらくスタッフは私を、遅刻してきたバックダンサーか何かと思い込んでた。着替えの済んだ私をさらに引っ張り、歓声がするほうに連れていく。
「あ、あのっ! 人違いですから」
私も焦燥感に駆られ、ブーツの底を床に擦りつけた。
しかしぐいぐいと引っ張られ、ステージの袖まで連れていかれてしまう。
そこでは私と同じ恰好の女の子たちが待機していた。……いや、あたしが彼女たちと同じ格好をしてるんだっけ?
混乱する私の顔を見て、彼女らが首を傾げる。
「ねえ、あなた……誰?」
と聞かれそうになったタイミングで、歓声が一気に沸きあがった。
み・ね・みー! み・ね・みー!
音という音が氾濫し、私たちの言葉はかき消される。
舞台が暗転すると、スタッフがバックダンサー(私を含む)にGOを指示した。
ほかの子たちは戸惑いつつ、ステージにあがっていく。駆けださなかった私は、スタッフに背中をばしんと叩かれてしまった。
ステージに上がっちゃったら、大声で『違うんです』とも言えない。真っ暗なステージの上で、バックダンサーらと等間隔に距離を取り、端っこに立つ。
次の曲を期待してか、闇の向こうで客席が静まり返った。
隣の子が私に手を振る。
「――あなた、聞こえてる? こっちでタイミング作るから、上手く降りて」
「え? あ……うん。ごめんなさい」
散々慌てふためいてたスタッフよりも、彼女らのほうが冷静だわ。なるべくステージの端に寄っておき、いつでも動けるように重心を浮かせておく。
どっ、どうしよう……?
ついさっきまで、私は気前のいい自販機くんと、サイダーの爽やかさについて語りあってたはずなのよ。ところが今はステージの上で、喉が渇いてしょうがない。
観客席は真っ暗で、サイリウムの灯が点々としていた。イントロが流れ始めると、それが全面で一挙に数を増やし、あたかも海面のごとく光を波打たせる。
ワアアアアアッ!
満場の声援が空気を震わせた。咄嗟に竦んだ私の身体も震えて、鳥肌が立つ。
もう自分が息をしているかどうかも、わからない。
頭上でスポットライトがメビウスの輪を描いて、舞台に熱い光を溜め込む。ステージが輝かしく浮かびあがると、観客のボルテージは最高潮に達した。
サイリウムの振りが大きくなって、七色の光を無限に混ぜあわせる。ステージの角で煙がシューッと噴きだした。
私の全身が、光と音の洪水に飲まれていくの。
声援を受けてるのは私じゃないってこと、わかってる。ステージの中央に立つ観音怜美子が手を振るだけで、サイリウムの水面に喜びの波紋が広がった。
「みんなーっ! いっくわよー!」
全員が熱狂するステージの上には、私もいる。今、その一部になってる。
緊張もしたし、恐怖だってあった。まだ心の半分以上は戸惑ってる。でも、ステージの上で、少なからず興奮している私もいた。
胸が高鳴る。楽器に使えそうなくらいの鼓動が、リズムをつける。
ステージの後方で、バックダンサーが一様に同じポーズをスライドさせた。私が気付いた時には遅く、躍動的なダンスが始まってしまう。
「えっ? え?」
私も見様見真似で手足を振ってみたけど、まったくついていけなかった。ぎこちなくステップを踏んでは、遅れてバンザイする。隣の子のスロー再生にすらなってない。
そんなちぐはぐのダンスを見て、やっとスタッフは状況を把握したみたい。舞台の袖に集まって、『え?』とか『まさか』と囁きあってる。
だけど、もう遅い。
スポットライトが届かないぎりぎりの位置で、私は踊ってる。
それから隣の子に腕を引かれるまで、私の稚拙なダンスは続いた。何とか舞台の脇に抜けるや、身体が勝手にへたり込む。
今さら腰が抜けたのかも。
疲労感とともに妙な達成感も込みあげ、私はしばらく呆然としていた。
ステージを離れても、一向に落ち着かない。私はステージ衣装のまま、控え室のほうで休ませてもらうことになった。
本当にさっきまで、私、ステージで踊ってたんだっけ……?
次に目を開けたら朝が来るんじゃないかと思って、試しに目を瞑ってみる。だけど目はとっくに覚めていて、夢を見てるはずもなかった。背中はべっとりと汗をかいてる。
やっぱりスタッフは私を、遅刻してきたバックダンサーと間違えていた。おかしいと思ったスタッフもいたらしいけど、それ以上に焦ってた、って。
立ち入り禁止の場所だったうえ、すでにライブは始まっていたから、自販機の前にいるのは関係者と思い込んだわけね。
それでも、どこかで誰かが気付きそうなものだけど。
控え室でサイズ違いのブーツを脱ぎ、スリッパに履き替えていると、スーツ姿の女性が入ってきた。ほかのスタッフは大忙しなのに、そのひとは時間を持て余してるみたい。多分、えーと、ディレクターとか……そういう立場のひとなのかな。
私は立ちあがり、頭をさげた。
「あっあの、勝手に混ざったりしてすみませんでした!」
「ちょっと変わったバックダンサーがいただけのことよ。映像もカットできるから、気にしないでちょうだい」
それを彼女は、あっけらかんと笑って済ませる。
「一服するといいわ。お茶でよかった?」
「じ、じゃあ、いただきます……」
勧められたお茶を、私はおずおずと受け取った。パイプ椅子に座りなおしてから、震えがちな指で缶を開ける。今になって緊張しちゃってるみたい。
渇ききった喉に、冷たいお茶がじんわりと染みた。
「ふう……あ、ありがとうございます。えぇと」
「井上よ。そういえば名前も聞いていなかったわね、あなたは?」
「はい、御前結依っていいます」
井上さんもパイプ椅子に腰掛け、コーヒーの缶を開ける。
「悪いけど、今日のこと、ほかのひとには内緒にしてね。結構な大問題だから」
「そ、そうですよね」
井上さんの言葉に納得しつつ、私はお茶で気持ちを鎮めた。
お客さんを間違えてステージに上げちゃった、なんて世間に知られたら、大騒ぎになるわよね。私もおかしな面倒事に巻き込まれたくない。
ふと井上さんが溜息を漏らした。
「現場っていうのは混乱するものだけど、今回みたいな件は聞いたことがないわ。遅刻なら遅刻で、人数を減らして出すとか、やりようはあったでしょうに」
「どうしてそうしなかったんですか?」
今回のスタッフの行動は、素人の私から見てもわからない。
バスケットボールの試合だったら、遅刻なんて欠席扱いにするものだし。そもそも全員揃って現地入りしていない時点で、論外だわ。
「まあ……ね。観音怜美子のライブは色々厄介なのよ」
井上さんの物言いには何やら含みがあった。でも私が聞いていいことでもないし、聞いてもわからないことは想像がついた。
「あの、私はもう大丈夫ですし……井上さんも忙しいんじゃないんですか?」
「ん? あー、いいのよ。私は事務所も違うし」
芸能界に疎い私には、事務所というだけでも何が何やら。
井上さんが缶コーヒーの縁を指でなぞる。
「……みさきゆい、ねえ。みさきって、海辺の岬?」
「いえ、ゴゼンって書いて『みさき』です」
「あぁ、そっちの。ふぅん……声なんかも悪くはないわね」
首を傾げるあたしに、井上さんはさらに一枚の名刺を差し出してきた。名刺には『ビジュアルコンテンツプロダクション』の社長、『井上亜沙子』ってある。
「社長ってことは、会社なんですか?」
「そりゃそうよ。何も知らないのね……でも、高校生だとそんなものかしら」
「高校一年です」
「高一? な、る、ほ、ど……」
井上さんは納得するふうに頷いた。質問はまだまだ続く。
「今日は怜美子目当てで来たの? ひとりで?」
「中学の後輩と……その子の友達が行けなくなったとかで、チケット貰っちゃって」
ライブに興味がないような言いまわしになってしまった。私はかぶりを振って、社長さんの手前、修正しておく。
「あっ、でも、みねみーは好きです! 今日はCDも買いますから!」
「ふふっ、ありがと。私も怜美子が好きだわ」
井上さんはそう呟くと、肩を竦めた。天下のアイドルを『怜美子』と平然と呼び捨てにするあたり、観音怜美子よりも立場が上なのかもしれない。
ビジネスルックのスーツも、プロの芸能ディレクターらしく決まってる。
「どう? 御前さん。今度、うちに話だけでも聞きに来ない?」
「……はい?」
私はきょとんとして、瞳をぱちくりさせた。
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