Rising Dance

第四話

 ファーストコンサートの日程が決まった。その場でNOAHはメンバーを発表し、持ち歌の『湖の瑠璃』を披露することになったの。

 今日もさっきまで、パートの合わせをしていたところ。

 それから事務所に戻って、私は客間で杏さんに勉強を教えてもらっていた。

「ここの『で』は打消しの助動詞が入ってるから、まずは『ならない』と訳して……」

同じソファに座った杏さんがやや前のめりになって、私のテキストに赤線を引く。

 杏さんは名門女子高に通っており、成績も上々。私が苦戦する一方の難問を、すらすらと解いていっちゃう。けれども私のオミソでは説明を聞いたところで、何が何やら。

「はあ……」

情けない溜息が口をついて出てしまった。

 すると杏さんが手を休めてくれる。

「少し休憩にしましょうか。……それにしてもリカ、来ないわね」

 NOAHの勉強会は大抵、私と杏さんだけだった。リカちゃんはたまに来ても、居眠りしてるのがパターンなの。勉強のこと、芸能学校ではうるさく言われないみたい。

 私は普通の高校で、中の下くらいの順位を維持するのが、やっと。芸能活動があってもなくても、成績は変わってないと思う。

だけど一部の先生は、私の成績を芸能活動と結びつけていた。

私はもう一回大きな溜息を漏らしつつ、打ち明ける。

「最近、学校に居づらいんですよ。先生に、芸能学校でやれ、とか言われたりして」

「ひどい先生ね。気にすることないわよ、そんなの」

 杏さんが私の頭を優しく撫でてくれた。

 校長先生や教頭先生としては、私に芸能活動で花を咲かせて欲しいみたい。生徒の創作活動を応援します、なんてふうに宣伝したいわけね。

 反面、生徒の芸能活動を疎んじてる先生も多いわ。そういう先生は私のしがない学力に目をつけ、プレッシャーを掛けてくる。

 友達は応援してくれるけど、こっちはまだ何も話せない段階だった。

 学業成績がよくて、歌手としての実力も申し分ない杏さんのことが、羨ましい。

「あの……杏さんは、専門の学校に行こうとか、思わなかったんですか?」

「わたし? 音大は目指してるわよ。……あ、今の高校ね」

 杏さんは両手の指を編みあわせて、顎を乗せた。

「歌の勉強なら、ママと同じ環境があったし。世間知らずにはなりたくないなあって。でも、学校も楽しんじゃおうって思うようになったのは、最近かしら」

 杏さんの穏やかな瞳が、私の顔を映し込む。

「たまにだけど、合唱部に顔出してみたりして。ひとと話す機会も増えたわ。あなたに影響されちゃったんでしょうね」

 以前の杏さんはお仕事を優先し、自分の学校の文化祭に出席することもなかった。それが今では一転して、学校と積極的に関わりを保とうとしてる。

「本当に……あなたのおかげよ、結依」

 杏さんの繊細な手が、そっと私の手に触れた。

 掛け時計が六十秒ぶりに長針を動かす。

事務所に詰めてるスタッフは壁の向こうだから、客間は私と杏さんのふたりきり。

「そ、そんなことないですよ」

私はテキストのほうを向いて、杏さんの視線をやり過ごそうとした。でも杏さんが私の手を取り、逃がしてくれない。ほんのりと頬を染め、純真な瞳を潤わせる。

「いいえ、あなたがいてくれたから。私はまた歌えるようになったし、歌だけじゃないってこと、ちゃんと知ることができた。だから……今度はわたしが、ね」

 手を繋いだまま、杏さんが肩に寄りかかってきた。

「ねえ、結依。近頃、様子がおかしいわよ? 理由を聞かせてもらえないかしら」

 その言葉に私はぎくりとする。

 多分、私の悩みは態度に出てた。薄暗いものを抱え込みながら笑っていられるほど器用じゃないし、強くもない。

「そ、そうですか?」

 とぼけたくても、勝手に声が上擦ってしまった。心臓はすごく動揺してる。

 杏さんに聞いて欲しい気持ちもあったけど、同じくらい、聞いて欲しくない気持ちもあった。私の悩みは、杏さんに対する劣等感でもあるんだもの。

 杏さんにせいになんか、したくない。

「嘘でしょう。だったら、わたしの目を見て言って」

 私は視線を落とし、唇を噛んだ。杏さんの顔を見るのが、今は怖い。

 杏さんは声のボリュームを落としつつ、私の髪に触れた。

「あなた、コンサートの日取りが決まってから、上の空だし……練習も集中できてないでしょう」

 見透かされてる。私、杏さんに心配ばかりかけてる。

「これは、その……私の問題っていいますか」

 それでも往生際の悪い私は口を噤んで、はぐらかそうとした。

 頭の中で色んなことがぐるぐるしてる。

 マーベラス芸能プロダクションで、藤堂さんに言われたこと。同い年くらいの女の子たちが猛練習に励んでること。NOAHのファーストコンサートは二千人の動員を予定していて、普通のデビューとはスケールが違いすぎること。

 二千人のお客さんを呼べる杏さんには、わからない悩みに違いない……なんてふうに、杏さんのことを貶めてしまう自分勝手な考えすら、脳裏をよぎった。

「……ごめんなさい、無理に問いただすつもりはなかったの」

 私の髪から、杏さんの手が離れる。

「でも結依、聞いて。わたしは、NOAHのセンターは御前結依だと思ってるわ。リカもきっと同じことを言うんじゃないかしら。あなたにはちゃんと実力がある」

「な、ないです。そんなの……」

 おそらく杏さん、私の悩みを把握してくれていた。私が杏さんやリカちゃんに、埋まることのないキャリアの差を感じ、劣等感を抱いてるって。

「自信を持って。おまじないしてあげるから」

 発破を掛けてもらって、ようやく私は顔をあげた。

 杏さんが綺麗な瞳で見詰めてくる。私も遠慮がちに、その瞳を覗き込む。

「じっとしててね、結依。あ、あなた、こういうのが好きみたいだから……これで」

「……あ、杏さん?」

 胸がとくんと高鳴った。

最初に驚きがあって、戸惑いもある。でも私の心を波立たせているのは、恥ずかしさと期待を孕んだ、心地よい高揚感だった。

杏さんも緊張していて、照れる表情がいじらしい。それが私に動悸をもたらす。

「ふ、深い意味はないの。ただ、ちょっとだけ……い、嫌ならいいのよ?」

 私も嫌じゃないから、困ってた。

 歌がとても上手で、面倒見がよくて、優等生で……でも脆いところもある、杏さん。私なんかじゃ釣りあいが取れないくらい、才能と可能性に溢れてる。

それでも杏さんは私を見詰め、おもむろに目を閉じた。

花びらのような唇を、私の頬に当てながら。

「んっ……」

 杏さんからキスを受ける資格なんて、私にはない。

 だけど杏さんの温もりと、切ない息遣いは、瞬く間に私を蕩けさせてしまった。我慢できなくなって、私からも少しだけ、杏さんの華奢な肩を抱き寄せる。

 キスを終えても、甘いムードが充満してた。

「い、今でのよかったのかしら……?」

 杏さんが大袈裟に姿勢を正し、恥ずかしそうに俯く。

「あの、杏さん……私のこと、絶対……誤解しちゃってます」

 私もしどろもどろになって、赤面した。キスの感触は頬にじんわりと残ってる。

 それから互いに遠慮しつつ、私たちは適当な話題でムードを誤魔化した。

「つ、次は英語にしましょうか。仮定法がわからないんでしょう?」

「えっと、でもほら、古文がまだ途中ですし?」

 気を遣いすぎて他人行儀になっちゃう。

 それがかえってこそばゆくって、私も杏さんも笑みを綻ばせた。

「結依~っ! ゲーセンいこ!」

 と思いきや、客間のドアがいきなり全開に。

 私たちは悲鳴を上げるのと同じ顔になって、慌てふためく。

「リリリッ、リカちゃん?」

「リカぁ? いい、い、いつからいたの?」

 立ちあがった際に筆記用具がばらけ、テキストもひっくり返った。あからさまに動揺してる、意味深な空気になっちゃう。

 リカちゃんは首を傾げつつ、しれっと答えた。

「いつからって、今来たんだけど……杏、まだ勉強すんのぉ?」

「そ、そうね……そろそろ切りあげようかなって、思ってたところよ」

「ふーん?」

 リカちゃんの視線をやり過ごしつつ、私と杏さんは手早く片付けを済ませる。

 もしかしたらリカちゃん、気付いてるのかもしれなかった。いつぞやのドッキリの時みたいに、『気付いてない』ふりをしてる可能性もある。

「結依、行こっ! 新作が入ってたんだって。あー、杏も来るぅ?」

「わたしはいいわ。ほどほどにね、リカ」

 杏さんは作り笑いを浮かべ、小走りで事務所を出て行った。

 緊張しつつ、私はリカちゃんの手前、平静を装う。

「新作って?」

「よくやってたじゃん、ダンスのやつ。混まないうちに急ごー!」

 リカちゃんは嬉しそうに私の手を引き、スキップするみたいに駆けだした。

 

 事務所とレッスン場の中間くらいに、行きつけのゲームセンターがある。

ところが、リカちゃんの言うような新作ゲームは見当たらなかった。リカちゃんが悪戯を明かすみたいに、舌を出す。

「ごめん、ごめん。実は結依に、一番に聞いて欲しいニュースがあって……」

 ゲームセンターの中は騒がしいけど、端に出たところの自販機の傍なら、会話も充分にできた。私はお茶を買うだけ買って、蓋を開けずに持つ。

 リカちゃんは缶コーラに口をつけ、一息ついた。

「なんとね! こないだ受けたドラマのオーディション、受かったの!」

 快活なガッツポーズが決まる。

NOAHとしてではなく、玄武リカ個人で審査を受けてたみたい。私はお茶の缶を置き、ささやかな拍手でリカちゃんの勝利を称えた。

「すごいね、リカちゃん。でもオーディションなんて、いつの間に?」

「黙っててゴメン。落ちたら恥ずかしーし、変に気ぃ遣われたくないってゆーか」

 リカちゃんが隣に座りなおして、ラインが綺麗な脚を組む。

「そんな大した役じゃないんだけどね。あっ、コンサート終わってからだし」

「うん。さすがだなあ……」

 過去の実績だけで採用が決まるような業界じゃないってこと、私も理解していた。子役の頃の名声を別にしても、リカちゃんには才能に裏打ちされた実力がある。

 なのにリカちゃんは投げやりに呟いた。

「まっ、学校には行きづらくなっちゃうんだけどさぁ」

 リカちゃんが通っているのは、その筋では有名な芸能学校だったはず。先生に転校を勧められたりしたから、私も名前くらいは知っていた。

「なんで行きづらいの?」

 そもそもリカちゃん、ほとんど学校に行ってなかったような。

「うちの生徒限定のオーディションってやつでね。ほら、あたし、あんまし授業出てないじゃん? そんなのがオーディションだけ通ったら、反感も買うわけ」

 リカちゃんの視線が何気なくゲームセンターを見渡した。芸能学校の制服を着ることなく、今日も私服にマフラーを巻いてる。

 私はマーベラス芸能プロダクションで、練習に飛び入り参加したのを思い出した。芸能学校でも多分、あれくらいは練習してるんだわ。

そんな場で新参者が真っ先に採用されたら、雰囲気は相当悪くなるはず。

「ぶっちゃけ、専門学校って居心地悪いんだよね。センセーは決まった子にしか教えないし、ほかの子はそれを肌で感じちゃうから、ほら……ええと」

「ギスギス感?」

「そうそれ。一年のうちは出しゃばらない、なんて暗黙のルールもあったりするし」

 リカちゃんはコーラを飲み干すと、その空き缶をゴミ箱へと放った。

「これが入ったら、次は映画女優!」

 空き缶が放物線を描いて、ゴミ箱に飛び込む。

 リカちゃんは学校で『浮いてる』らしかった。子役時代の実績があるだけに、教師受けもいいだろうし、ほかの生徒から妬みの対象にされてるんだわ。

「……あたしと仲良かった子が、オーディションを辞退しちゃったりしてさ」

 リカちゃんが私や杏さんの事情においそれと踏み込んでこないのは、そういう環境で育ったから、かもしれない。

「杏くらい神経が図太かったら、心配いらないんだけどね」

「杏さんはすっごいデリケートだってば」

 それでもみんな、情熱と意地を懸け、凌ぎを削ってた。

 なのに私は、松明屋杏と玄武リカの名でデビューを保障されながら、悠々自適に日々を過ごしてる。そんな自分が情けなくて、悔しい。

 黙りこくっていると、横からリカちゃんが私の顔を覗き込んだ。

「どしたの? 結依」

「それが、その……学校の先生にね、芸能学校に移ったらどうだ、って言われてて」

「だめだめ。あんなとこ行ったって、みんなで同じことやるだけなんだし」

 リカちゃんの手がふと、私の膝のあたりに触れる。

 騒がしいゲームセンターの一角で、リカちゃんはぽつりと囁いた。

「……あのさ、外れてたらゴメン。結依、なんか悩んでない?」

 リカちゃんにも気付かれてる。杏さんと同じ目で、私の弱い心を見透かしてる。

「杏には言った?」

「ううん。聞かれたけど、上手く話せなくて……」

「じゃ、あたしも聞かないでおいてあげる」

 リカちゃんは編んだ両手を、頭の上で裏返し、ストレッチを決めた。

「それにしてもさぁ、結依も杏も、伸びてきたよね。最初会った時は、偉そうなのと、ゲーセンの連れって感じたったのに」

 初めて会った日のことなら、私も鮮明に憶えてる。

 あの時は杏さんもリカちゃんも、さっさと出て行っちゃって。ユニットの件は別にしても、挨拶くらいしておこうと思って、追いかけたんだっけ。

「あたしさ、時々思うんだよね。結依たちとユニットやってるの」

「それ、私も。ふたりとも、最初はユニットのこと断ってたじゃない?」

 リカちゃんは額を押さえ、うなだれた。

「そんなのが、ファーストコンサートで二千人って……あたし、自信ないわよ」

 私は目を瞬かせて、リカちゃんの憂い顔を見定める。

「リカちゃんでも?」

「そりゃそうだってば。杏はどうか知らないけど」

 NOAHのファーストコンサートは日時とともに場所も決まっているため、大体の動員数も予想がついた。藤堂さんが私にリークした通りの規模で、間違いない。

 しかも本番は二時間を予定していた。『湖の瑠璃』しか持ち歌がない私たちでは、杏さんやリカちゃんでトークを繋いでも、尺が厳しい。

「マーベラスに『Gガールズ』っているじゃん? その子らがバックダンサーやる、みたいなこと、ちらっと聞いたわ」

「コンサートはVCプロの企画なのに?」

「お、結依もわかってきたじゃん。Gガールズもステージで持ち歌をお披露目、なんてことになったら、テレビ局が企画の中心になったりするワケ」

 うんちくを語りつつ、リカちゃんは声を潜めた。

「Gガールズはどう思ってんのか、知らないけどさぁ」

 コンサートは徐々に全容を見せ始めてる。

 じきにチケットの販売と並行して、『NOAH』の名も大々的に宣伝されるはず。松明屋杏、玄武リカとともに、御前結依が舞台に立つ日も近かった。

 モチベーションの上がらない私を、リカちゃんが励ましてくれる。

「当日はあたしもフォローするし、杏もいるから。結依もリーダー、頑張ってよ」

「……私がリーダー?」

 私は目を点にし、鸚鵡返しで呟いた。

 リカちゃんがあっけらかんと笑い飛ばす。

「だって、ほかにいないじゃん。結依がいなかったら、あたし、一緒にはやってなかったし。なんつーか……結依には、さ、いつも引っ張ってもらってるから」

 リカちゃんの綺麗な瞳が、水面のように私の顔を映し込む。

「あたし、影響されやすいってゆーの? 周りの友達が頑張ってくんないと、なかなか続かないのよ。オーディションに挑戦してやるって思ったのも、結依のおかげ」

 杏さんに続いてリカちゃんまで、私を持ちあげすぎ。

「だから、その……これからも一緒にやりたいんだよね、あたし」

 リカちゃんは頬を赤らめ、おずおずと私に正面を向いた。艶のあるまなざしで私をじっと見詰め、離そうとしない。

 その手も私の袖を掴んで、逃がそうとしなかった。

「……結依と、ね」

ゲームセンターのサウンドよりも、胸の鼓動が音を大きくして、私を高揚させる。

さっきも杏さんとキスしたばかりなのに、私は胸の高鳴りを抑えきれなかった。そんな浮気者の私を、リカちゃんの視線が突き刺す。

「杏とだけなんて、だめだからね? さっき事務所で何やってたのよぉ」

「うっ。リカちゃん……気付いてたの?」

 私は真っ赤になりながら、杏さんとの情事を懺悔した。

「空気でわかるってば。で、いいわけ? 杏のことだから、藤堂さんみたいなのに簡単に引っ掛かっちゃいそうだけど」

「そ、そういう関係じゃ」

 抵抗する間もなく、リカちゃんが私の腕にひしと抱きつく。

 そして私の頬に、ちゅっと唇をつけた。一瞬で始まり、一瞬で終わったはずのキスが、消えることのない陶酔感をもたらす。

 でも陶然としているのは、リカちゃんのほうだった。

「はぁ……キス、しちゃった……」

後味を確かめるように、その唇を指でなぞり、色っぽい吐息を漏らすの。

 私も無意識に頬を撫で、リカちゃんの名残を探して、包む。

「リカちゃん……」

「なぁんてね。元気、出た?」

 ゲームセンターの喧騒が耳へと一気に戻ってきた。沈みきっていた気持ちが、リカちゃんのおかげで少し楽になった気がする。

私は赤らんだ顔を押さえつつ、素直に頷いた。

「……ありがとう。ごめんね、なんか心配かけちゃって」

「いいってば。あたしと結依の仲なんだし」

 リカちゃんにも杏さんにも、とても敵いそうにない。それでも気持ちは同じスタートラインに立ってるのを、実感できた。

 だからこそ、私もふたりの力になりたい。NOAHのメンバーとして。

 杏さんやリカちゃんと堂々と一緒にやっていける、実力が欲しい。

「ゲームして帰ろ、結依」

「うん」

 翌日から、いよいよチケットの販売が開始された。

 

 

 冬の寒さも日に日に増して、やってきたのはクリスマス・イヴ。

 デビュー前のNOAHにクリスマス公演なんて、あるはずもない。私たちは事務所の客間で、ささやかにパーティーを開いてた。

 ついでに事務所の留守番も兼ねて。井上さんたちスタッフはクリスマスならではのイベントに顔を出すので忙しいみたい。

「かんぱ~い!」

 手頃な曲を流しながら、三人で乾杯。

 クリスマスツリーもないから、鉢植えに星型のカードを乗っけてみた。

 乾杯の後も、杏さんは携帯電話を弄っている。

「杏さん? ケーキ切りますよ」

「あ、ごめんなさい。ママからメールが来てて……向こうはちょうど朝みたいね」

 杏さんのお母さんは今夜も、世界のどこかで歌ってるんだって。

「杏ママ、帰ってくんの?」

「この時期は公演が目白押しだから、難しいでしょうね」

 リカちゃんはふてくされながら、ティーパックをぷかぷかと沈めた。

「あたしたちもクリスマスに仕事欲しい~! バイトっぽいのじゃなくてぇ」

 杏さんもふうと溜息を漏らす。

「コンサートまで間が空くのよね。井上社長なりに何か考えがあるんでしょうけど……」

 年明けに放送予定のドラマで流れる『湖の瑠璃』とともに、NOAHの名前も世間に露出し始めていた。でも、まだメンバーは公表されていないの。

 NOAHというユニット名だけが独り歩きしてる。

「レッスンも飽きた~。……あ、あたし、イチゴおっきいやつ」

「怠け癖が出てるわよ? まあ、わからなくもないわね」

 公開されてる『湖の瑠璃』の歌声から、松明屋杏の存在は予想されていた。

 リカちゃんはドラマに出演してるし。

 あと、私の高校の文化祭で、杏さんに続きリカちゃんも見つかっちゃったでしょ? あの件が露出しちゃってて、さまざまな憶測が飛び交ってる。

 私はケーキを切り分け、ナイフを置いた。

「はい、どうぞ」

 リカちゃんは真っ先にイチゴを平らげちゃう。

「さんきゅー。もぐもぐ……ふぇもさぁ、んぐっ、NOAHのメンバーはあたしたちですって発表しても、パンチ弱くない? みんなも多分わかってることじゃん」

 イチゴは最後に残しておくタイプの杏さんが、そうね、と頷いた。

「ひょっとしたら、隠し玉があるのかもしれないわよ」

 私はケーキを頬張ることなく、口を閉じる。

 藤堂さんの言葉を思い出したの。御前結依は有名タレントの娘じゃないのかって。

「ごめん。私、何の切り札もなくて……」

 小さな声で零すと、杏さんにオデコを指で弾かれた。

「まだそんなこと言ってるの? 誰もそんなこと思ってないわよ」

「みねみーになんか言われたとか? 結依、気にしないほうがいいってー」

 リカちゃんが杏さんのイチゴを掠める。

「あー! 最後に残してるのわかってて、やったでしょ!」

 ふたりとも、私をNOAHのメンバーとして、友達として扱ってくれた。でも、それは嬉しいようで、辛くもあるの。

 単なる素人のくせに、私はふたりの名声に頼って、デビューするだけ。

 一緒に練習してても、杏さんの歌唱力や、リカちゃんの演技力に、縮まることのない距離を感じてしまう。

 ダンスだって、マーベラス芸能プロダクションの候補生に、練習量で負けていた。

レッスンで軽く汗をかく程度で、彼女らに追いつけるはずもないわ。かといって、何もかも捨てて打ち込むわけでもなく、部活みたいに続けてる。

「考え過ぎよ、結依」

 そんな私の不安を、杏さんは自然と察してくれた。リカちゃんも肩を竦める。

「そーそー。コンサートがプレッシャーなのはわかるけどさぁ、なるよーにしかなんないって。まだ年も明けてないんだし」

「じゃあ、結依の景気づけに、初詣は一緒に行きましょうか」

「う、うん。せっかくのパーティーで、ごめんなさい」

 今は一緒でいられるふたりに、いつか置いていかれるのが怖かった。NOAHの先に杏さんはオペラ歌手を、リカちゃんは映画女優を見据えているんだもの。

 でも私にはNOAHから先がなかった。

 リカちゃんが携帯電話を開けながら、ぼやく。

「あー、あたし、元旦はちょっと無理かも。うち、家元だから、いろいろとね」

 気分を変えたくて、私はリカちゃんの話題に喰いついた。

「それって、どんなことするの?」

「親戚や門下生が集まって、書き初めとか」

「さすが玄武家ね、本格的じゃないの。じゃあ……結依、わたしとふたりで行く?」

 杏さんが俄かに頬を染める。

 リカちゃんは不満そうにむくれた。

「ずーるーいー! そんなら、結依、元旦はうちに来なよ」

「え、行っていいの? お邪魔にならないかな」

「だったら、わたしも行くわ。あなたたちをふたりきりにだなんて……」

 ケーキを頬張りながら、私は緊張感のない笑みを浮かべる。

 流しっ放しのクリスマスソングが、次の曲に変わった。先日、藤堂さんから井上さんの手に渡った、ダンスミュージックだわ。

 タイトルは『Rising Dance』。

 温かい紅茶で一服しつつ、杏さんが耳を澄ませた。

「最近よく流してるわね、これ」

「あたし、こういうの好き。歌詞当てたりしないのかなぁ」

 私とリカちゃんもしばらく曲に聴き入る。

 藤堂さんの作曲といったら、大半がジャズなのに、これは王道のロックなの。楽曲のジャンルが違いすぎるから、藤堂昶の名前では発表しづらいのかも。

 歌詞を前提としているのか、音が足りていない気がした。

「わたしたちにはまだ難しいでしょうね」

「そお? いけると思うけど」

 もう少し聴いていたかったけど、リカちゃんがテレビを点ける。そろそろクリスマスライブの生放送だもんね、怜美子さんの。

 屋外のナイトステージがライトアップされ、虹色の輝きを放つ。

テレビで見てるだけでもわかるくらい、ライブ会場は熱気に包まれていた。ステージの上では怜美子さんが歌って、踊って、声援を浴びてる。

無意識のうちに、私は思ったことを呟いてた。

「怜美子さん、やっぱりすごい……」

杏さんとリカちゃんもライブ映像に、真剣に見入ってる。

「まさしく天才でしょうね」

「素人出身でコレだもん。こっちは立場ないって」

 リカちゃんの一言が耳に残った。

「え? 怜美子さんって、素人出身なの?」

 私は瞬きを繰り返しつつ、テレビの怜美子さんを見詰める。

「そりゃ誰だって、素人から始まるでしょ。あたしや杏みたいなのが例外なだけで」

「でも観音さんの場合はデビュー自体が遅かったから、驚異的よ」

 私と同じところからスタートを切って、頂点まで登り詰めたっていうの?

 だけど怜美子さんには稀有な才能がある。候補生がレッスンで汗だくになってるのを眺めながら、肉まんを食べてても許されるほどに。

 メドレーが終わると、アンコールラッシュが巻き起こった。

「いいなあ……」

 憧れと諦めの両方を抱きつつ、私はテレビを眺める。

『みんなー! 今夜はありがとう!』

 煌くステージで、怜美子さんはファンの声援を独り占めしていた。

 

 

 年も明け、いよいよコンサートの練習が本格化してきた。

 例のドラマは前編が放送され、好評を博してる。エンディングテーマの『湖の瑠璃』に関しては、色んな噂が飛び交っていた。

 ファーストコンサートまで、残りは一ヶ月ほど。遊んでられる時間はない。

 今日の練習では、杏さんから順番にソロで歌っていた。オペラの先生が弾くピアノに合わせて、声の音階も正確に、かつ綺麗に変わっていく。

 先生は満足そうに頷いた。

「大変よろしいわ、杏さん。この数ヶ月で見違えるほど上達したわね」

「あ、ありがとうございます!」

 褒められて、杏さんが珍しく照れる。

 松明屋杏はもとより歌唱力が高かった。そこに『表現力』が加わったの。

 その歌声を聴いているだけで、歌い手の表情や仕草が浮かぶ。息継ぎさえ、余韻のように感情を含んで、歌のイメージを具体化した。

もう『楽器の音を声で再現』するだけの歌手じゃない。

次はリカちゃんの番だわ。

「ソロだから、好きなように歌ってみなさい」

「はーい」

 以前は外れがちだった音階も、練習の甲斐あって、揃うようになってきてる。

何といっても、儚げな表情と、指先までの細やかな仕草が、物語めいた雰囲気を醸し出していた。杏さんに負けず劣らず、曲の情景が鮮明に浮かんでくる。

「悲しさを出すのが早いわ。ふたつ目の『会えない』で、一気に出してみなさい」

「あ、そっか。もっかいやってみますー」

 松明屋杏と玄武リカは、互いの不足を補うように成長していた。

 杏さんは勉強熱心で目標意識も高かったけど、理屈に固執しがちだった。よく言えば真面目で、悪く言えば頑固。一方、リカちゃんは直感を信じるタイプで行動力もあるけど、飽きっぽいところがあった。よく言えば柔軟で、悪く言えば大雑把。

 このふたりがユニットを組むことで、それぞれの長所が、上手い具合に相手の弱点を補ってるの。そのためのユニット結成だったのね、おそらくは。

「結構よ、リカさん。最初の頃に比べたら、かなり聞けるようになったし」

「……それ、褒めてるんですかぁ?」

 リカちゃんも歌い終わって、先生から評価を受ける。

「じゃあ、あとは結依さんね。前に出なさい」

「は、はい」

 最後に私の番がまわってきた。練習の通りに歌って、厳しい先生の感想を待つ。

「まあ、いいでしょう」

 しかし先生は特にコメントせず、今日の練習を切りあげてしまった。

「この調子なら、三人とも問題ないわね。お疲れ様」

 私と杏さんは頭をさげ、リカちゃんはうーんと伸びをする。

「次はステージ練習かぁ。はあ、めんどーい。杏、大根役者なんだもん」

「だ、だから、練習するんでしょう?」

 杏さんの苦笑が引き攣った。

「ごめんなさいね、結依。あなたまで付き合わせて」

 話しかけられたことに気付かず、私は返事が遅れてしまう。

「……結依?」

「あっ、すみません! 早く行きましょう」

 上の空になってたみたい。やっぱり私、まだ自信を保てずにいた。レッスンでもさっきのように、杏さんたちと実力の差を痛感することが多くて。

 なのに世間は、NOAHには松明屋杏と玄武リカのほかにもうひとり、同等のベテランが控えてるって噂してた。私はみんなの期待を裏切りつつある。

 私の沈みがちな面持ちを、杏さんが覗き込んだ。

「結依、顔色が悪いわよ? 少し休んだほうがいいんじゃないかしら」

「大丈夫です。お正月気分が抜けきってないだけで……」

 気まずくなりそうなところで、リカちゃんがフォローに入ってくれた。

「気晴らしでも行く?」

「……う、ううん。レッスンしよ」

 私はかぶりを振って、正面を向きなおす。

 練習に集中できてないこと、ふたりとも勘付いてるに違いなかった。いつまでふたりに心配ばかりかけて、気を遣わせるんだろ、私……。

 杏さんは水筒のお茶で一息ついた。

「ところで……ねえ、結依はデビュー曲のこと、どう思う?」

「素敵な曲だと思いますけど」

 NOAHの『湖の瑠璃』は松明屋杏が歌ってることもあって、評価が高い。そのはずが杏さんは難しい表情で眉を曲げ、腕組みを深めた。

「わたしばかり曲と相性よすぎるのが、気になってて」

 世間は『湖の瑠璃』を『松明屋杏の曲』ってふうに認識してる。曲自体も、演奏よりも歌声に比重を置いた構成のため、杏さんの歌唱力に頼るところが大きい。

 リカちゃんも腕組みして、呟いた。

「あたしのイメージとはかけ離れてるよねー。別にいいっちゃ、いいんだけどさ」

 確かに『湖の瑠璃』って、落ち着いたイメージの曲調だから、天真爛漫なリカちゃんより、おしとやかな杏さんのキャラクターに馴染んでる。

「結依のイメージでもないっか」

 ふと、リカちゃんの言葉が耳に残った。

 ……私にもイメージって、あるの?

「そのあたりは一度、井上社長に聞いてみましょう」

「オッケー。も~いい加減、全部白状してもらわないとね」

 杏さんとリカちゃんは足取りも軽く、次のレッスン場に向かった。

 その後ろを、私はとぼとぼとついていく。ふたりと並んで歩くのが、怖い。

「結依も、早く!」

「あ、うん。今行きます」

 その後のステージ練習も、私だけ身が入らなかった。

 

 

 練習が終わったら、今日もひとりで家に帰る。

 冬の日入りが早いせいで、空はとっくに茜色に染まっていた。

「……いつまでこんな調子なのかな」

 中学の頃もバスケットボールで不調に陥ったことはあるけど、次元が違う。

 そもそ中学のバスケ部は、県大会で勝ち進めるほど強くはなかったし、チームメイトもそこまで考えてなかった。単に『楽しいから』やってただけ。

 だけどNOAHの芸能活動は、遊びなんかじゃない。杏さんもリカちゃんも大きな目標を持って、真剣に取り組んでるんだもの。

 私なんかより有望な子は、ほかにいくらでもいるわ。私の前を今も大勢が走ってて、後ろからも大勢が追いかけてくる。

 そのトップに立つ大物女優が、街頭テレビを独占してた。

 怜美子さん。こうして街を歩いてるだけでも、私たちは彼女に会える。あれはクリスマス公演のワンシーンね。

「いいなぁ……」

 映像の中で歌う怜美子さんは、幻想的なほど輝きに満ちていた。

「タイヤキ食べるぅ?」

「……は?」

 突っ立って街頭テレビを見上げていると、怪しい女性に声を掛けられる。

 いくら寒いとはいえ、マフラーとマスクに、サングラス。厚手のコートを羽織って、タイヤキでいっぱいの紙袋を抱えてる。

 私は手を横に振って、そのひとから距離を取ろうとした。

「い、いえ、いらないです。急いでますから」

「ちょっと、ちょっと? 大先輩に向かって、そんなでいいのぉ?」

 すると女性がサングラスを外し、目元を露わにする。それは今も街頭テレビに映っているのと同じ、観音怜美子の顔だった。驚いた拍子に、私の声が大きくなっちゃう。

「れ、怜美子さん? どうしてここに」

「しーっ! わたしが何のために変装してると、思ってるの」

 どうやらこれが怜美子さんの外出スタイルらしい。声を掛けられなかったら、まったく気付かずにすれ違ってたところ。

「黒あんとー、抹茶あん、あとカスタードもあるけど、どれがいい?」

 相変わらずの食いしん坊で、紙袋はぱんぱん。

「私、お腹空いてませんし」

「遠慮なんかしたら、はったおす」

「……いただきます」

 刺激しないうちに、私は怜美子さんに従うことにした。

 街頭テレビの近くには自然公園が広がっていて、今くらいの夕暮れ時には、犬の散歩やランニングのコースとして親しまれてる。

 この寒い季節にベンチで休もう、なんていうひとは少ない。待ち合わせに使ってるひとも今日はいなかった。噴水は静かに、夕焼け色の波紋をたたえてる。

「タイヤキ買いに、マーベラスプロから、こんなところまで来たんですか?」

「まっさか。さっきまでVCプロにいたのよ」

 怜美子さんに続いて、私も同じベンチに腰掛けた。

 怜美子さんがマスクを外し、タイヤキに頭からかじりつく。

「ふぉら、結依ちゃんも。かすはーどへいい?」

「清純派アイドルが食べながら喋らないでくださいよ……」

 冷めないうちに、私もぱくり。カスタードと思いきや、抹茶の味がした。

「抹茶ですよ、これ」

「そお? ごめんごめん」

 それでも焼きたてのタイヤキが美味しいことには、変わりなし。有名人が変装してでも買いに行きたくなるわけよね。香ばしさが食欲をそそる。

 そういえば今日のお昼、残しちゃったんだっけ。

「すごい偶然ですね。ばったり会うなんて」

「このへんで結依ちゃんたちが、よく走り込みやってるって聞いたから」

 怜美子さん、わざわざ私をからかいに来たみたい。

口元にあんこをつけてる横顔は、とても一流の女優のものじゃなかった。私と同じ素人からスタートを切って、大成功を収めたひと。

「あの……怜美子さんって昔、井上さんにプロデュースされてたんですよね。それって、井上社長に素質を見出されてとか、えぇと……なんていうのかな」

「ん? 何が聞きたいのよ」

 緊張しつつ、私は思いきって率直な疑問をぶつけた。

「怜美子さんの昔のこと、聞きたいんです」

 怜美子さんが唇のあんこを薬指で拭き取り、ぺろっと舐める。

「そーねえ……どうしようかしら」

 しかしもったいぶって、簡単にはサクセスストーリーを話してくれそうになかった。

「単に興味があるってわけでもないんでしょう? 何があったの、結依ちゃん」

 このひとはきっと、私が本当のことを白状しない限り、口を開かない。

 それに私自身、どこかで吐き出してしまいたかった。杏さんやリカちゃんには言えないことでも、第三者の怜美子さんになら、まだ話せる。

「私……自信がないんです」

 できるだけ小さな声で、でも玲美子さんには聞こえるだけの声で、私は胸の中にあるものを吐露した。言葉にすると、情けなさと恥ずかしさが込みあげる。

「あら、どうして?」

 私の悩みなんて、超一流の怜美子さんにとっては、ちっぽけなものよね。

 私は俯き、ぎゅっとスカートを握り締める。

「杏さんはお母さんがオペラ歌手だし、リカちゃんだって子どもの頃から芸能界にいたんですよ。でも私だけ、何もなくて……」

 いつか怜美子さんに『ちょっと感化されたくらいで芸能界に来たのね』と茶化されたことがあった。その通りでしかなかったことが、今になって悔しい。

「ふんふん。ふぉれで?」

 怜美子さんは気ままにふたつめのタイヤキをかじってた。

「ふたりの足を引っ張っちゃうんじゃないかって。そんなことばかり、頭の中でぐるぐるして……レッスンにも集中できないんです」

 こんなこと玲美子さんに話したって、どうにもならない。それはわかってる。

 もう私は引導を渡して欲しかったのかもしれなかった。ここで怜美子さんに『あなたには無理よ』と言われたら、諦めるきっかけにできる。

「ちっちゃい悩みね」

 玲美子さんの言葉は辛辣だった。

「何かと思えば、そんなくだらないことで、スランプごっこ?」

「そうですっ! 私、ごっこしかできないんですから!」

 逆撫でされ、むきになってしまう。怒りで一度口が開くと、ずっと溜まっていたものがどんどん言葉になって、溢れだした。自分じゃもう止められない。

「私は怜美子さんとは違うんですから! 怜美子さんはいいじゃないですか、歌も演技も上手で……才能があって! 私なんか、単なる体力バカってだけなのに……」

 視界の底で涙が滲んだ。

私は立ちあがって、嗚咽を漏らしながら、必死に唇をわななかせる。

「わたひには、ひぐっ、何も……」

 この悔しさが、惨めさが、少しでも玲美子さんに伝わればよかった。だけど玲美子さんはタイヤキをかじったまま、腕時計に目を留める。

「わたしに偉そうなクチ利いた罰よ、結依ちゃん。今からこの公園、走って一周してきなさい。全力でね」

「な……何ですか? それ」

「いいから。カウントいくわよ、8、7、6……」

 説明もなしに秒読みが始まった。

「わかりました。……走ればいいんですよね? 走ればっ!」

 半ば自棄になって、私は反抗をやめた。カウントを待たずにスタートを切る。

「こらこら、合図を待ちなさいったら!」

 地面を後ろに蹴ると同時に、身体がぐんっと前に出た。スカートだろうと構わず、ランニングコースを一気に駆け抜けていく。

 同じコースを走ってるひとを、何人も抜いてやった。

練習着じゃないから走りづらい。でも一周くらい、トップスピードを維持してやる。

これしか取り柄がないんだもの、私は。身体が火照るほど、呼吸はリズムに乗って、酸素を一度に多く取り込む。全身を燃焼させる。

 やがて最初のベンチが見えてきた。

怜美子さんは腕時計を見ながら、私を待ってる。

「はい、終了~」

「っはあ! はあ……はぁ」

 そのラインを切ってから、私は膝に手をついた。ウォーミングアップもなしにいきなり走ったせいか、苦しい。心臓が暴れてる。

 今の走りは、中学の頃の記録を塗り替えたに違いない。

「これでよかったんですか? はあっ、怜美子さん」

 怜美子さんは感心するようにタイムを読んだ。

「この公園って、一周が1・5キロくらいでしょう? それがあなたは五分未満」

 そんなもの、歌や演技には使えない。何の役にも立たない。

「結依ちゃん、これがあなたの武器よ」

 ところが、玲美子さんはにんまりと笑った。

「……私、の?」

「そう。バスケで培ったリズム感があるし、感受性が高いのね、杏ちゃんやリカちゃんの技術もしっかり吸収できてる」

 そして私の頭を撫で、言い聞かせるように声の調子を柔らかくする。

「何てったって、いきなりステージで踊っちゃえる、規格外の度胸。それがあれば、いつだって全力で、最高の舞台ができるのよ。こんなふうに」

 呆然とする私の前で、怜美子さんは華麗なターンを決めた。人気のない公園の一角で、リズムを取り、『あの曲』を歌いだす。

 

   冷えきった闇の中で 私のパトスが飢えていた

   身体じゅうを巡る 生きてる証

   その熱さを伝えたくて 暗闇をかき分けた

   目が眩むような光の波 私は飲まれてひとつになる

   いくらだって踊るわ 月よりも綺麗に、偉そうに

   Rising Dance!

 

「……ってね。これくらい、結依ちゃんにもできるでしょう?」

 それは藤堂さんが作曲し、井上さんに贈られた、あのメロディだったの。

「どうして玲美子さんが、その曲を……?」

「さあ? っと、誰かが聴いてたら、まずいわね」

 玲美子さんはサングラスをかけなおし、帽子を深めに被った。

 このひとはお世辞や気休めを言ってくれるタイプじゃない。だから、私を褒めてくれたのは意外で、奇妙なくらいだった。

 私は息が切れていたのも忘れ、玲美子さんを見詰める。

 玲美子さんは少し切なそうにはにかんだ。

「面白い話をしてあげるわ。わたしが初めてステージに立った時のこと。わたしが中学生の頃、何の仕事してたか、結依ちゃんは知ってる?」

「歌手……ですよね、確か」

 その人差し指が私の額をつっつく。

「ハズレ。声優よ」

 ふと私は、マーベラス芸能プロでのボイス収録した時のことを思い出した。スタッフが玲美子さんに、どことなく遠慮してる節があったこと。

「男の子向けの、恋愛ゲームってやつね。ヒロインに声を当ててたのよ。メーカーはそんなに売れないと思ってたらしくって、当時は安く使えるわたしが選ばれたわけ」

 玲美子さんの声が、風の音に紛れそうになる。

「でもね、そのゲームはだんだん人気が出てきて、ラジオも始まったわ」

 傾きつつある日差しが、私たちの影を細長く伸ばした。玲美子さんの横顔が逆光でオレンジ色に染まり、見づらくなる。

「当時はね、母さんたちに声優の仕事、猛反対されてたんだけど。ゲームの続編が決まったら、頑張るしかないでしょう? そして、ゲームのライブをすることになったの」

 私は立ち竦んだまま、耳を澄ましてた。

「そのライブが怜美子さんのスタートだったんですか?」

「……だったら、よかったんだけど」

 木枯らしが吹き、怜美子さんのロングヘアをさらうように波打たせる。

「ゲームの続編が、ファンの期待してたのと、違いすぎてたのよ。しかもゲームディレクターは、わたしを、気まずい舞台に置き去りにしてくれたの」

 人気ゲームの続編に期待して、ファンは胸を膨らませていたんだわ。全国から熱狂的なファンが集まって、盛りあがったに違いない。

 ところが、ファンを怒らせるような真実があって……。

「持ち歌のイントロが流れたからって、歌うどころじゃなかった。わたしは恥を晒す羽目になったわ。しかもその後、ゲームディレクターがわたしに、何て言ったと思う?」

 私は押し黙り、かぶりを振った。

 急に玲美子さんが剣幕を張って、私の胸ぐらを乱暴に掴みあげる。

「なんで歌わないんだ、馬鹿野郎! 俺のゲームを潰す気か!」

 不意打ちで凄まれたせいで、私の身体がびくっと震えた。

「ひ、ひどい……」

 今の話のどこを聞いても、怜美子さんに責任なんてない。にもかかわらず、ステージで恥をかかされたうえ、理不尽な八つ当たりまで。

 怜美子さんが長い髪を、風任せにせず、自分の手でかきあげる。

「声優生命はそこでおしまい。わたしをプロデュースしてくれてた井上さんが、何度も謝ってくれたわ。『ごめんなさい』って、泣きながらね」

「そう……だったんですか……」

 フォローの言葉なんて、ひとつも思い当たらなかった。

 でも玲美子さんの表情は吹っ切れてる。 

「まっ、おかげでわたしは声優を卒業して、今の道に進めたわけだし……今でもあのライブのこと持ちだして、笑うやつもいるけど、それがどうしたってもんよ」

観音怜美子の軌跡はサクセスストーリーだと思ってた。しかし本当は、私よりも若い頃に、悲惨な目に遭っていて。それをバネにしてるから、玲美子さんは芯が強いの。

「だから、結依ちゃんが羨ましくって。意地悪したくなるのよね」

 玲美子さんの人差し指が、私の顎をすくった。

「……私が?」

「だって、初ステージで派手に転んだくせに、ちっとも堪えてないんだもの。これは大先輩が徹底的に教育してあげないと、ってね」

 女王様の意地悪な笑みが、今だけはとても優しい。

 玲美子さんだって苦難を乗り越えて、前に進んだんだから。まだ何もしていないのに、私が落ち込むには早すぎる。

「結依ちゃん、あなたはどうしたいの?」

 具体的なビジョンはなくても、欲求はあった。

「将来のこととか、考えたことないですけど……ただ、ステージに立ちたくて」

 言葉にして、それが自分の正直な気持ちなんだって、自覚する。

 私はステージに立ちたいの。あの熱気の中で、思いきり歌って、踊りたい。

「単純ね。でもみんな、そういうところから始まるのよ。あははっ、割と子どもよね」

 玲美子さんは陽気に笑い飛ばすと、私を撫でてくれた。

 そこにふたり組のランナーが駆け寄ってくる。まさか玲美子さんに気付いて、と思ったけど、ふたりの視線は私のほうに向いた。

「ほら、やっぱり結依じゃない」

「ぜえっ、ぜえ……杏、早いってばぁ」

 練習着の杏さんとリカちゃんだ。私は驚いて、目を瞬かせる。

「ふたりとも、どうして?」

「こっちの台詞よ。いきなり追い抜かれちゃうから、びっくりして……って、そちらは観音さんだったんですか? こんばんは。お世話になってます」

 杏さんが挨拶する傍らで、リカちゃんはごろんと寝っ転がった。

「ギブ~! はあっ、ちょっとだけ休ませてぇ」

「あなたが言い出したことでしょう? 観音さんに挨拶しなさいったら」

 ここでランニングしてたみたい。私は頭に血が昇っちゃってたから、何人か追い抜いた中にふたりがいたなんて、気付かなかった。

 それ以前に、体力作りのトレーニングなら、いつも三人で一緒にやってるのに。

「れみこさん、ぜぇ……いつもおせわ、なってまぁ~す」

「しっかりしなさいよ、まったく」

 疲労困憊のリカちゃんに呆れつつ、杏さんが明かす。

「ほらね、わたしたち、結依のダンスについていけないことがあって。あなたには物足りないメニューでしょうから、ふたりでやってたの」

「そうだったんですか? でも『湖の瑠璃』にダンスなんて、そんなに……」

「もう一曲あるじゃないの、結依ちゃんには」

 怜美子さんがマスクをつけなおし、不審者の身なりに戻った。

「結依ちゃんったらさっき、あなたたちに着いてく自信ない~って、いじけてたのよ」

「れ、怜美子さんっ!」

 慌てる私には、タイヤキの残りが押しつけられちゃう。

「ほんとのことじゃない。あと、これテキトーに片づけといて。わたし、カスタードとか抹茶って、あんまり好きじゃないし」

 玲美子さんは投げやりに手を振って、街頭テレビのほうに歩いていった。

 タイヤキの香りにつられ、リカちゃんが復活する。

「抹茶! 抹茶味、あるの?」

「え? うん、同じ味も何個かずつ……」

「そんなの、あとにしなさい。結依?」

 杏さんはタイヤキに目もくれず、私の頬をぎゅうっと抓った。

「いひゃっ! あんじゅひゃん?」

「相談してって言ったでしょう。リカだって心配してたんだから、ねえ?」

 リカちゃんはもうタイヤキを頬張ってる。

「ふぉーよ、ふぉーよ。キャリアの差とか気にしたって、しょうがないじゃん。あたしだって歌は杏に敵わないんだし」

「ええ。わたしもリカの演技には、逆立ちしたって届かないもの」

 ふたりの視線が私の顔で合流した。

「わたしもリカも、NOAHのリーダーはあなただって、認めてるんだから」

「ちゃんと頼りにしてんのよ? リーダー」

 俄かに目頭が熱くなる。

 杏さんも、リカちゃんも、私のことを認めてくれてた。それくらい、わかっていたはずなのに、私ってば耳を塞いで、目を閉じて。

 杏さんに抓られた頬を押さえつつ、私は決意を込めた。

「ごめんなさい、杏さん、リカちゃん。まだ始まってもないんだよね」

 私の武器は、バカみたいな体力と、行き当たりばったりの度胸、そして、杏さんやリカちゃんとの、かけがえのない繋がり。

「ところで結依、さっき観音さんが『もう一曲ある』って……」 

「そ、そうです! NOAHの曲なんです、井上さんに聞きに行きましょう!」

「これ食べるまで待って~。結依と杏は食べないのぉ?」

 ぐうっとお腹を鳴らしたのは、杏さんだった。露骨に顔を赤らめちゃうのが可愛い。

「ち……ちがっ、今のはね?」

「あははっ! 杏さん、カスタードでいいですか?」

 三人で軽く腹ごしらえをしてから戻ることに。

 

 VCプロの事務所に戻ると、社長のデスクで、井上さんが口元を指さした。

「ついてるわよ、クリーム。あと私の分は?」

「えっ? あ、すみません」

 私の頬にカスタードのクリームが残ってたみたい。さっきから杏さんとリカちゃんが笑いを堪えてたのは、これだったのね。

「で、どうしたの? 今日の練習は終わったんでしょう?」

「えぇと……『Rising Dance』のこと、教えてください」

「あら、怜美子にでも聞いたのかしら?」

 井上さんが最新の資料を広げる。そこには藤堂さんの曲と、歌詞のコピーがあった。

その詞はさっき玲美子さんが歌っていたもの。

「あなたたちのメイン曲として、『Rising Dance』を使いたいのよ。オーダーしてた歌詞も、やっと仕上がってね」

 杏さんは歌詞に目を通し、それをリカちゃんにもまわした。

「作詞は……MiMi? 聞かない名前ですね」

「ふぅん。いいじゃん、これ」

 楽曲全般に詳しい杏さんでも、作詞家の名前を知らない。その正体を知ってるのは、おそらく私と井上さんだけ。

 ほかにもダンスの振りつけ資料があった。これならすぐに練習できそうね。

「曲は前から聴かせてるから、憶えてるでしょう。一ヶ月で仕上げてちょうだい」

「相変わらず無茶言うよね、社長……まっ、あたしは賛成かな」

 リカちゃんは乗り気だし、私もすごくわくわくしてる。

 ただ、杏さんは反対こそしないものの、井上さんに確認を取った。

「どうして『湖の瑠璃』をメインにしないんですか? 完成度を取るなら、今から新曲を練習するより、『湖の瑠璃』のほうが賢明でしょう」

 と言いつつ、私にこっそりウインクする。

 私たちはすでに『湖の瑠璃』の舞台アレンジを練習し、それなりに歌えるようになっていた。今から曲を追加しても、『湖の瑠璃』以上の完成度になる保証もない。

 井上さんはしたり顔で私を見据えた。

「確かに『湖の瑠璃』は話題性が高いし、曲自体も悪くないわ。だけど、『湖の瑠璃』だと松明屋杏の個性ばかり強調されて、結依とリカがオマケになっちゃうのよ。私としては、NOAHは、御前結依をセンターにして売りたいし……」

「わ、私がセンター?」

 社長の言葉に動揺して、私は声を上擦らせる。

 けど杏さんもリカちゃんも、それほど驚いてなかった。

「なるほどねー。無名の新人があたしたちを連れてるほうが、面白いってこと?」

「期待してるわよ、結依。わたしとリカで、とことんサポートするから」

 ふたりが両サイドから私の手を取り、発破を掛けてくれる。

「やってみせます。ねっ、結依」

「やってやろ、結依!」

 まだ実感がなくて、私の返事だけ遅れちゃった。

「うっ、うん!」

 NOAHの三人で音頭を取るみたいに、繋いだ手に力を込める。

 井上さんは満足そうに頷くと、ほかの作業を再開した。

「ダンス自体は、結依なら問題ないレベルだと思うわ。杏とリカは、結依の歌唱力と表現力を念入りに見てやって。じゃあ、今日は解散」

 私たちはエレベーターのあたりまで戻りつつ、歌詞を読み込む。杏さんもリカちゃんも気に入ってくれたみたい。

「これって、誰が書いたのかしら。藤堂さんなら、もっと詩的な表現にするでしょうし。かなりストレートな言いまわしよね」

「こんくらいわかりやすいのが、いいんだって。パートはどうするぅ?」

 心当たりはあったけど、私は黙ってやり過ごしちゃった。

 ふつふつと意欲が沸いてくる。

「今からもっかいスタジオ行きませんか? 早く歌詞入ってるの、聴きたくって」

「そうね。まずは曲に当ててみないと」

「めんどくさいなぁ……ま、いっか。面白そうだし?」

 今日のうちに私たちはスタジオに飛び込み、新曲の編集を始めた。

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