こいつらアイドル幻想神話

プロローグ

 夕刻の色を幕としていた野外ステージが、眩いほどライトアップされる。

「……オレを呼ぶのはどこのどいつだ?」

 たった一言でファンの熱気は熱狂となった。黄色い歓声が一斉に沸きあがり、特大のボリュームで会場のすべてを振動させる。

「キャ~~~ッ! タクト様~!」

「タクト様ぁ! 早くお姿をお見せになって!」

 虹色のサイリウムが揺らめき、コンサート会場に波を広げた。

「エンジェルちゃんがこんなに集まってくれてんだ。オレも本気出すしかねえ」

 ステージへと無造作に放り込まれたかに見えたマイクを、その手がしっかりと掴む。

 霧崎タクトの歌い出しに呼応し、ミュージックもサビをイントロにして始まった。声援がカウントを数える中、もうひとり、またひとりとステージに参上する。

「今日は僕たちのライブ、めいっぱい楽しんでってよ!」

「テメエら、だらしねえようなら置いてくぞ!」

 アイドルユニット『RED・EYE』の存在感を直視してしまったファンのボルテージは、瞬く間に最高潮に達した。

 センターのタクトが前髪をかきあげ、マイクの先端に声を落とす。

「ガラスの靴が──」

 プツンッ。

 そんな最新のライブ映像を、聡子は事務的かつ速やかに消した。

「また点けっぱなしで、まったくもう」

 散らかったデスクを片付け、ゴミらしいものをダストボックスにまとめて放り込む。

 芸能界では最大手となるスターライト芸能プロダクションにて、月島聡子はバイト業務にほどほどに精を出していた。

 芸能界に興味があるわけではなく、あくまで事務のバイトだ。叔父がこの芸能プロダクションで重役を務めており、コネのパワー全開で紹介してくれたのである。

 仕事に必要なスキルは『口の堅さ』だけ。興味本位で欲さえ出さなければ、それこそ聡子みたいな高校生でも充分に働くことができた。

とはいえ、それもあと一ヶ月のつもり。

 叔父の勧めで始めてみたものの、芸能事務所の雑用は聡子の性に合わなかった。叔父との義理は果たしたうえで、すでに辞める旨は伝えてある。

次はもっと、ちゃんとお給料分のやり応えがあるお仕事にしましょ。

 トレードマークの眼鏡を拭いていると、事務室に内線が入った。

『聡子ちゃん、まだいるかな? もしも~し!』

「あ、はい。何の御用でしょうか?」

 聡子は受話器を取りながら、時計を確認する。

 高校生である以上、午後六時を過ぎれば時間も気になった。三月中旬はまだ冬並みに日入りが早く、すでに窓の外は薄暗い。

『ごめんね、月島副社長が呼んでるんだ。今すぐ第三企画室まで来てくれないかな』

「はい、わかりました」

 通話を終え、最初に出たのは溜息だった。

叔父さんが私にわざわざ? バイトを辞めないように引き留められたら、なんて断ろうかしら。……はあ、悪い人ってわけじゃないんだけど。

 好々爺で親バカを地で行く叔父のことだ、またよからぬことを考えているのかもしれない。何しろ以前は、姪っ子というだけで、ド素人の聡子にオーディションを受けさせようとしたのである。バイトはその妥協点でもあった。

 今日はもう遅いことを理由にして、さっさと切りあげてしまうのがベターだろう。エレベーターで上の階に向かいながら、頭の中で角の立たない断り方をシミュレートする。

 第三企画室では、叔父がひとりで聡子を待っていた。

「来てくれたか。すまんな」

「こんばんは、叔父さん。お話ってなんですか?」

 スーパーのタイムセールは始まっているのだから、悠長にしていられない。聡子のほうから切り出し、長くなりそうな世間話を避ける。

 しかし今日の叔父は姪っ子にデレデレするわけでもなく、険しい表情だった。一度は煙草を取り出すものの、聡子に遠慮してか、火をつけずに仕舞い込む。

「うむ。聡子、来月にはここを辞めるそうじゃないか。それなんだが……」

「ごめんなさい、叔父さん。やっぱり私には合わないみたいで」

 聡子は真摯に頭をさげ、仕事を投げ出す立場を詫びた。

 それを叔父が『違う違う』と、手を振って否定する。

「いやいや、それは構わんのだよ。わしも無理を言いすぎたかもしれんし。ただ、辞めるなら最後にひとつ……ダメモトでやってみて欲しい仕事があってな」

 デスクでは書類の山が崩れそうになっていた。

その一番上には、意味深な診断書のコピーが乗っている。

「どなたか、ご病気に?」

「おおっと! これじゃない、こっちだった。実は聡子に、あるユニットのマネージャーを臨時で頼みたいんだよ」

 胡散臭い診断書を隠しつつ、叔父はこれまた胡散臭い笑みを浮かべた。

「……バイトの私がマネージャー?」

 叔父の挙動不審を見れば、第六感が特別優れていなくとも嫌な予感はする。

 そもそもアイドルユニットのマネージャー業を一介のバイトに任せようなど、異常な提案でしかなかった。運転免許を持たない高校生では、足にもならない。

 ファイルを開くと、誰でも知っている有名人と目が合った。

「き、霧崎タクト?」

 それは紛れもなく、今しがたテレビでも見かけたばかりのアイドルスター、霧崎タクトだった。ファンから『神に選ばれし大天使』と称され、圧倒的な支持を得ている。

 ほかの二名もタクトと同じ『RED・EYE』のメンバーだ。

「……叔父さん、冗談でしょう?」

 途中で読むのをやめ、聡子はファイルを閉じてしまった。

 一介のバイトにマネージャーというだけでも奇天烈なのに、大人気アイドルの世話など規格外もいいところ。

「お断りします。というより、できるわけ……」

「いやわかってる、聡子が言いたいことはよぅくわかってるんだよ? わしもな」

 だが叔父は悩ましそうに頭を抱え、さっきは仕舞った煙草を取り出した。窓際で灰色の煙を一回だけ吹いたら、すぐに火を消してしまう。

「何から話せばいいものやら……とにかく聞いてくれ。実はな、RED・EYEを制御できるマネージャーがおらんのだ。その、問題児というかな……タクトはもう二十歳だが」

 頭の回転にそこそこ自信のある聡子は、事情を察しつつあった。

 曲がりなりにも芸能プロダクションで働いているおかげで、情報は勝手に耳に入ってくる。その筋の情報によれば、RED・EYEはトラブルがあとを絶たないという。

 自分たちの人気に天狗になってしまって、スタッフの意見に耳を貸さないとか。ライブに平気で遅刻するとか。収録で共演者を怒らせる事態もあったらしい。

一番関わりたくないタイプね。

 そういった傲慢で不遜な人間は、聡子がもっとも毛嫌いするタイプだった。人気を鼻に掛けるようなタレントは、間違っても好きになれない。

「そこまでトラブル続きなのに、よく誰もクビにしませんね。スターライトプロの信用が問われるんじゃないですか?」

「そりゃRED・EYEはウチの稼ぎ頭だからなあ。一回の興行で億の金が動くとなったら、なかなか……おだてて使えるなら、まだいいんだけどねえ」

 金の成る木を手放すに手放せないプロダクションは、今後ともRED・EYEを使っていくほかないようである。

それがちょっとやそっとの問題行為なら、逆手に取って話題性を高めるイメージ戦略もあるだろう。しかし叔父の疲れた面持ちからして、事態は相当深刻らしかった。

「本来ならマネージャーがしっかり監督するべきなんだが、今までのマネージャーは全員ストレスで脱落してしまってな。精神的に参ったというか」

 先ほどの診断書は、心労で倒れたマネージャーのものに違いない。

「素人の私に頼まないでください。そういうことは、れっきとしたプロに」

 同じ目に遭うつもりはない聡子は、即答ついでにかぶりを振った。しかし叔父は藁にもすがる心境とばかりに食い下がってくる。

「これ以上ウチのスタッフを犠牲には……いやいやいや! 聡子を犠牲にしようって意味じゃないぞ? ダメならダメでいいんだ。試しに、な?」

「やめてください! セクハラですよ?」

 しつこくしがみついてくる。

「そこをなんとか! ほら、聡子は眼鏡を掛けてることだし」

「眼鏡は関係ありませんっ! もう帰っていいですか? 弟の夕飯を作らないと」

「待ってくれ! そうだ、今夜は三人で食べに行こうじゃないか!」

 これは頷くまで帰してもらえそうにない。

 聡子はやれやれと嘆息し、今夜のディナーを条件に承諾するのだった。

 

 


 

 

第一話 アイドルのアレな素顔

 

 

 

 

 夜勤明けの母親に朝食を置いてから、そろっと家を出る。

 聡子は始発の電車に乗り、N駅へと向かった。学年の節目で宿題の少ない、せっかくの春休みを一日棒に振った気分である。

「ふあ~あ……ホントにこんな時間から?」

 今日は午後からRED・EYEのサイン会が予定されており、聡子の仕事は『三人を必ず連れてくる』ことだった。

そのひとりを確実に捕まえるには、朝一番を狙うしかないとか。先代マネージャーのダイイングメッセージじみた地図には『城ノ内透、この辺』と印が入っている。

地図で見たところ、ちょうど踏み切りの手前だ。

 しがない高校生にマネージャーをさせるのだから、よほど厄介な連中なのだろう。できることなら会わずに済ませてしまいたい。

 けれども叔父にフルコースをご馳走され、弟が舞い上がっていた先日のことを思い出すと、肩が重たくなった。

……はあ。やるだけやってみるしかないわね。

 せめて今日のサイン会くらいは成功させないと、叔父に会わせる顔がない。上手く弟をダシに使われてしまったわけである。

 やがてN駅に到着したが、まだ午前六時前。わずかに人が点々といるだけで、踏み切りが鳴り止むと途端に静まり返る。

たまにはこういう早起きも悪くないか。

 まだヤル気を出さないアサガオを眺めつつ、聡子は線路沿いに目的地を探した。

 踏み切りを斜めに捉えるアングルで、ひとりのカメラマンが三脚を調整している。帽子のせいで顔はよく見えないが、背格好は城ノ内透に似ていなくもない。

多分あのの人……よね。いきなり話しかけて大丈夫かしら。

作業中に話しかけてよいものか、赤の他人だったらどうしようと緊張する。しかし仕事は人目に触れる前に済ませなければならなかった。

「あの~、おはようございます。城ノ内さん、ですか?」

「へ? えっと、いや……」

 名指しで声を掛けると、彼が帽子を目深に被って顔を隠す。プライベートをファンに目撃された有名人の反応、に間違いない。

「大丈夫です。私はスターライト芸能プロダクションの者ですから」

 周囲に人気がないのを確認してから、聡子は昨日叔父に作ってもらったばかりの名刺を渡した。RED・EYEのマネージャー月島聡子、と。

「……キミがマネージャーだって? ああ、悪い。俺が透で合ってるよ」

 彼が一度だけ帽子を取り、聡子に正体を明かす。

 城ノ内透。それはRED・EYEの右をポジションとする、ワイルドさがウリのキャラクターだった。細身なりに筋肉質で、デビュー以前は水泳で記録を持っている。

 髪は短く刈りあげ、額の端には星のペイントを施していた。

オフィシャル情報によれば、血の気が多い風貌でありながら乙女座らしい。

この人が城ノ内透。まずはひとりめ、ね。

「キミは月島、さ、さと……聡子ちゃん、でいいのかな」

「あ、はい。よろしくお願いします。城ノ内さん」

「俺のことは透でいいよ」

 素の彼には、テレビで見るような荒々しさはなかった。

もしかするとキャラクターを『作って』いるのかもしれない。私生活と仕事でまったく人格が異なるタレントは、別段珍しくもなく、聡子もいくつかの例を実際に見ている。

割とフツーの人じゃない。緊張することなかったわ。

 第一印象は聞いていたほど悪くなく、むしろ好感が持てる相手だ。新米マネージャーを煙たがる様子もなく、鼻唄交じりに三脚の固定に没頭している。

「あの、透さん。今日のサイン会のことなんですけど……」

「っと! ちょっと後にして!」

 踏み切りが鳴り出すと、透は素早く撮影の体勢に入った。ベストアングルはすでに決めているらしく、あとはタイミングを待つのみ。

 通り過ぎていく列車の雄姿に、連続でシャッターを切る。

「ヒューウ! 次は向こうが二分後で……聡子ちゃんはカメラ、わかる?」

「ごめんなさい。撮影とかは素人でして」

「じゃあしょうがねえか。手伝ってもらえたらと思ったんだけど……お、きたきた! ごめん、もう少し待ってて!」

 しばらく待っていれば終わるもの、と思っていた。

 だが透の撮影は一回や二回で終わらない。手際よくアングルを変えては、踏み切り越しにシャッターを切りまくって。

「透さん? あの~」

「やっべ、今のすげえ! 本日の一枚は決まったか?」

 傍に聡子がいることも忘れている熱中ぶりで、瞳を爛々と輝かせる。

「透さんってば! サイン会の予定──」

 カタンゴトンガタンゴトン!

 声を張りあげても、踏み切りと電車の騒音でかき消された。

 

 結局三十分も待たされる羽目に。

「ふんふ~ん……あれ? キミ、何しに来たんだっけ? えーと名前は確か……」

 休憩に入ってようやく、透は蹲っている聡子に気付いた。

 こっちは待つことに疲れ、へとへとなのに。

「月・島・聡・子、です。マネージャーの」

「ごめんごめん、俺、電車んコトになると頭がいっぱいになっちまって」

 不意にぐうっと音が鳴った。聡子は赤面し、自分のお腹を両手で押さえる。

「えっと、その」

「今のは俺だって。朝飯がまだでさあ……よかったら聡子ちゃんも一緒にどう? 待たせちゃったお詫びに、なんか奢るよ」

 それを透は自分の音と言いながら、さり気なく誘ってくれた。女性に対して人並みのデリカシーはあるみたいだ。三十分も放ったらかしにしたことは別にして。

「蕎麦でいいかな? 駅の立ち食いで」

「はい。ご馳走になります」

 聡子としても、朝の五時起きでは朝食の加減がわからず、寝ている母を起こしたくないため、トーストを一枚かじっただけ。食事の誘いは正直ありがたい。

 透はカメラ機材をボストンバッグに詰め込み、てきぱきと撤収を終わらせた。

 ついでに落ちていた吸殻を拾って、掃除まで。

「透さんって今、十九ですよね?」

「吸わねえって。コレクションにニオイがつくのも嫌だし」

撮影のために早起きして、自らゴミ拾いをするなど、まれに見る好青年だった。

いい加減そうなタレントって、実は私生活はきっちりしてるのよね。

 城ノ内透の第一印象に点数をつけるなら、待たされたことを引いても六十点は堅い。芸風とする荒々しさはどこへやら。

 ところが別のカメラマンを見つけるや、透の顔つきが豹変した。

「ゴルァアアア! 線路に入ってんじゃねえぞ!」

 怒り心頭に声を荒らげ、ずかずかと大股歩きで迫っていく。

「写真撮るならマナー守るのが当たり前だろ! お前みたいなヤツがひとりでもいると、ほかのファンまで偏見で見られんだよ!」

「ちっ、ちょっと、透さん? 待ってくださいってば!」

 聡子が慌てて制したくらいでは止まらない。

「オロして刺身にすっぞ、コラ!」

 違反者は透の顔を見ることなく逃げ去り、大事にならずに済んだ。

「ったく、ああいうヤツがいるから、俺たちみんなが迷惑……なあ? 聡子ちゃんも思うだろ。マナーってのはみんなが守らねえとな」

 粗暴な怒鳴り声にびっくりしてしまって、新米マネージャーは放心気味。

「そ……そうですね。危ないですし。でも、別に怒鳴らなくても」

「あれくらい言わなきゃわかんねえヤツが多いんだよ。は~、声出したら腹減った」

 聡子の胃袋も空気だけになって、ぐうっと萎んだ。

 

 

 女子であっては滅多に機会のない立ち食い蕎麦が、なかなかイケる。

「ほんとに立ったまま食べるんですね」

「抵抗あった? でもほら、この時間はどこも開いてねえから」

 隣では透がホカホカのてんぷら蕎麦をすすっていた。

「そういや、マネージャーがバイトとか言ってたけど、聡子ちゃんは大学生?」

「この春から高校三年です」

 大学生やOLに間違えられるのは、聡子にとって毎度のこと。それなりにお洒落な眼鏡とシックな服装のせいか、外見が大人びて見えるらしい。

 透は蕎麦をすすりながら、目を丸くした。

「三年になるって、今は十七? 高校生には見えねえよ。あ、悪い意味じゃなくて」

「よく言われるから慣れてます。スーツ着たりするとOLみたい、とか」

 これきりにするには惜しい蕎麦を平らげ、聡子は静かに箸を置く。カロリー面でも安心かつ、空きっ腹に程良い量の献立だった。

「ごちそうさま。成り行きで奢ってもらっちゃって、すみません」

「いいって。俺もごっそさん。……さあて、コンビニ寄っていいかな? あいつらの朝飯買ってってやらねえと」

 RED・EYEのトリオはひとつのアパートに集まって生活しているらしい。つまり透の帰宅に着いていけば、必然的にほかのふたりにも会えるはず。

 誰にも聞かれないよう、仕事の話は蕎麦屋を出てから。

先ほどのアサガオはどれも花を開き、うららかな朝日を満喫していた。

「俺のこと『透さん』っての、まだ堅いなあ。今までのマネージャーは『透くん』とか『志岐くん』って呼んでたぜ」

「わたしのほうが年下ですから。まあ、失礼でないなら透君と呼ばせてもらいます」

 同世代の男子と接点のない聡子にとっては、名前で呼ぶこと自体に抵抗がある。しかし必要以上に堅苦しくなって仕事にならないようでは、来た意味がない。

聡子は声を潜めつつ、本日のスケジュールを読みあげた。

「今日は二時からサイン会の予定ですよ」

「へ? ……あれ、今日だっけ?」

 ところがプロであるはずの透から、素っ頓狂な声が返ってくる。

「俺たちオフのつもりで……あっちゃー。今日は湾岸線まで出るつもりだったのに。ええと、写真集の撮影が、何時からって?」

「サ・イ・ン・会、ですってば。透君、ほんとに聞いてるんですか?」

 スケジュールはとっくに決定していることなのに、透は決めあぐね、首をほぐすように一回転させた。

「まいったなあ。俺はまあいいけど。志岐とタクトがなー」

当然イベントの会場は手配済みで、ファンも大勢集まるだろう。にもかかわらず当の本人たちが『忘れていた』では困る。

そういった面をサポートすることがマネージャーの仕事かもしれないが。

「前のマネージャーっぽい人が、全然カオを見せなくなっちまったからさ。俺たち、あんまスケジュールを把握できてないんだよな」

「そ、それもそう……かしら?」

 聡子のマネージャー歴はまだ一時間足らずであり、按配を把握できなかった。

自分のスケジュールくらい、知ってて当たり前じゃないの?

朝食を調達してから、いよいよRED・EYEの私生活スペースへ。

「ここだぜ。……あれ、どうかした? 聡子ちゃん」

 そのアパートらしい建築物を見上げ、聡子は呆然と立ち竦んだ。

「……本当にここなんですか?」

 何しろボロい。見るからにみすぼらしい安アパートだ。

 大人気アイドルの自宅といったら、最新のセキュリティで守られた高層マンション、と相場が決まっている。情報漏えいを防ぐためには、そういった施設が欠かせない。

 ところがRED・EYE専用のアパートは、壁に隙間あり、障子に張り替えなしの様相だった。柱は欠け、屋根が丸ごと落ちてきそうで怖い。

「大丈夫だって。中は結構キレイだし」

「いえ、そういう意味じゃなくて……ええっと、女子高生の私が一緒に入るとこ、誰かに見られたりしたら一大事ですよ?」

「この時間ならバレない、バレない。ここで待ってたら、聡子ちゃんが不審者だよ」

 ここまで来て、入らずに済ませるわけにはいかなかった。人気がないうちに、聡子は透に続いてボロアパートに足を踏み入れる。

「じゃあ、ちょっとだけ。お邪魔しま~す……」

 ここは本当に人気アイドルのプライベートスポットなのだろうか。二階への階段は剥き出しになっており、外から丸見えだ。

 先に階段をあがる透の足が、途中でぴたりと止まる。

「……聡子ちゃんって、マジックインキのニオイとか平気なほう?」

「マジックの? 意識したことないです」

「ちょっとニオうかもしんないよ。志岐のヤツ、多分今も噴いてるから、その髪はまとめといたほうがいいかもな」

「ふいてる?」

吹奏楽器の練習でもしてるとか?

促されるまま聡子は髪をまとめあげ、簡単なアップに仕立てる。

 202号室のドアを、透がノックにしては激しく叩いた。

「おーい、志岐! 朝飯買ってきてやったぞ! あと俺たち、今日サイン会だってよ」

「……え、何? 聞こえないよー」

「あ・さ・め・し! それからサイン会! 開けていいかー?」

 中からドタドタと駆け足の音が近づいてくる。

「待って待って! ホコリが入るから!」

「お客さんもいるんだ。早くしろよ」

 しばらくして、202号室のドアが中から開いた。

「……うっ?」

 反射的に聡子は鼻を摘み、顔を部屋とは逆方向に向ける。

「なんなんですか? このにおい……物凄いですよ」

「だろ? ちょっと離れてたほうがいいって」

 透の忠告通り強烈なニオイがした。シンナー系に特有の、まさにマジックインキの原液が部屋中で溢れ返っているかのような。

「あれ? 透~、そっちは誰?」

 しかも部屋の主は屋内にもかかわらずレインコートを羽織り、大型のゴーグルとマスクで顔を保護していた。髪を包むように三角巾まで巻いている。

(……実験中?)

 両手の作業用手袋は塗料で滅茶苦茶に汚れていた。

「ちゃんと換気してんのか? 志岐。俺が出た時からずっと篭ってるよな」

「やっと合わせ目処理が終わったからさー、早く塗装したくてウズウズしちゃって。昨夜はあんま寝てないんだよね……ふあ~」

怪しいゴーグルとマスクを外すと、RED・EYEのお気楽ボーイ、周防志岐の素顔が露になる。人気の秘訣は母性をくすぐる童顔と、あどけない仕草の数々だ。

周防志岐って、こんなに小柄だったのね。

 こう見えても実年齢は聡子と同じ十七のはず。身長は聡子のほうがいくらか高い。

「で? 僕とはハジメマシテだよね、お姉さんは?」

「月島聡子です。ええと、臨時の仮免マネージャーになりました。私も十七ですから、年上ってわけじゃ……けほっ」

「うっそ、同い年?」

「ドア閉めろって。塗料のニオイが漏れてんぞ」

 とても入室できたものではなかった。

 代わりに201号室、透の部屋で改めて挨拶することに。

 城ノ内透の部屋は異臭こそなかったが、鉄道のミニチュアが所狭しと整列していた。電動で走るものもあり、部屋全体を立体的な環状線として、プラレールが周回している。

 城ノ内透が大の電車好きであることは、もはや疑うまでもない。

「透くんの趣味なんですね。すごい数」

「つい集めちゃうんだよ。実家も電車だらけでさ」

 コレクションに触れないよう、聡子は慎重に腰を降ろした。

 着替えてきた志岐が、念入りに手を洗ってから朝食のおにぎりにがっつく。

「月島聡子ちゃん、なら……さっちゃんでいいかな。同い年でしょ?」

「構いませんけど。志岐君はさっき何をやってたんですか?」

「ふもっふ、僕はね、ふらもつくっふぇはんだ」

 透は人数分の茶を淹れ、それを真っ先に志岐に渡した。

「食べながら喋るなよ。ああ、志岐はプラモデル作ってんだよ。換気が終わったら見せてもらうといいさ。女の子でも驚くぜ」

 オフィシャル情報では志岐の趣味はサッカーだったが、実際は違う。それはさておき、本当の趣味がプラモデルだったとしても、聡子には俄かに理解できなかった。

「プラモデルってあんなニオうんですか?」

 弟もいくつかプラモデルを持っているが、あれほどの異臭が蔓延したことはない。

絶対カラダに悪いわ、さっきの……。

人によっては一時間もしないうちに意識が遠のくだろう。

 志岐が得意げに親指を立て、残ったご飯粒をぺろりと舐める。

「塗料によるかな。アクリルはほとんどにおわないけど、やっぱ僕、ラッカー使いたいんだよね。アクリルはベタつくし」

「ごめんなさい、よくわからないんだけど。ラッカ?」

「塗料の種類だよー。同じ色でも、アクリルとラッカーは見栄えが全然違うんだ。ほんとはエナメルが金属っぽい光沢で一番なんだけどさあ、あれはプラスチックを溶かしちゃうのが難点で。だからまず、ラッカーを下地にして、その上から……」

 聞いたところで、素人の聡子にはわからない言葉だらけ。

「はいはい、そこまで。志岐、そーいうのは教えるべき相手に教えろって」

 見かねた透が割り込んでくれた。

「それより今日はサイン会だってよ。お前、なんか聞いてた?」

「まじで? あーあ、今日は下地のホワイトを一気に仕上げるつもりだったのに」

 サイン会の予定は志岐の耳にも届いておらず、無邪気な小顔が意気消沈する。

「明日は雨っていうし、今日中に仕上げたいんだよね。今からサイン書いて渡すからさ、透、ひとりで行ってきてくんない?」

「ふざけんな。俺だって予定キャンセルして、サイン会行くんだからな」

「道連れかよ! もう、僕のサインなんか貰ってどうすんだよぉー」

 人気絶頂のアイドルグループはやはり天狗になっているようで、『僕のサインなんか』と言い切り、ファンに執着しない。

「ねえ、さっちゃん。僕のサインとか欲しいって思う?」

 ファンを小馬鹿にするような言いまわしだったが、聡子は右から左へ流した。

「私はタレントさんにそういう興味はありませんから……でも志岐君のサイン色紙、オークションですごい値段がつくみたいですよ」

志岐が不機嫌そうに頬を膨らませる。

「オークション~? 僕、あれ大っキライなんだよね。なんでもかんでも価値基準をお金にしちゃってさ。転売屋なんかもゴロゴロいるし」

RED・EYEのライブチケットが転売で取引されていること、に腹を立てている様子ではなかった。単純にオークションそのものが嫌悪の対象らしい。

「はあ……現実ってつまんないよ、ほんと。どこもカネ、カネ、カネでさ」

 夢を売る商売をしている人間の台詞とは思えなかった。

「っと、こうしちゃいられない! 昼から仕事ってんなら、早く終わらせないと」

 志岐が朝食の締めにお茶を飲み干し、せわしなく退席する。

「出発は時間ギリギリまで待ってやってくれる? 志岐のヤツ、区切りのいいところまで進めないと動かねえから」

「はあ、間に合うなら構いませんけど……」

 今までのマネージャーたちの苦労を垣間見た気がした。

なるほどね。これは深刻だわ。

 彼らはディープな趣味を優先するあまり、仕事を疎かにしてしまうのだ。おまけに仕事に対するプロ意識も低い。

「こんな天気のいい日は、沿岸線で撮りまくりたかったんだけどなあ」

 朝一番に捕まえなかったら、透も電車に乗ってどこへ消えていたことか。

 最後のひとり、霧崎タクトの正体に一抹の不安を禁じえない。

「タクトさんは203号室になるんですか? わたし一応、顔合わせの挨拶と、今日のスケジュールの確認をしてきます」

「えっ? サイン会のことなら俺が伝えとくよ。……どうしても会ってくわけ?」

 透の言葉は『会わないほうがいい』という助言に聞こえた。

「……すごいんですか?」

「すごいっつーより、異常。絶対引く」

聡子も薄々、見てはならないモノが203号室にあることに勘付いている。しかしタクトにだけ挨拶しないのも非常識だった。

「じゃあ俺、サイン会の準備してっから。なんかあったら呼んで」

「ありがとうございます」

 聡子はタクトの分の朝食を預かり、透の201号室をあとにする。

二階の一番奥……ここに、神に選ばれし大天使がいるのね。

すうっと深呼吸してから、新米マネージャーは203号室のドアをノックした。

鬼が出るか、蛇が出るか。

「霧崎さーん! 挨拶に伺いました、月島聡子と申します。……霧崎さん? まだ起きていらっしゃらないんですか? 開けますよ」

 あまり大声で呼んでは、近所に霧崎タクトの所在地を知られかねない。

 鍵は掛かっておらず、古びたドアがぎいっと開く。

 部屋の中に広がっている異世界を目の当たりにし、聡子はあんぐりと口を開いた。

「……………」

 壁も天井も、アニメの美少女キャラクターだらけ。フリルをまとった可憐な女の子たちが、ウインクしたり、恥じらったりしながら、来客の聡子を見詰めてくる。

 スカートの異様に短いフィギュアもたくさん。

奥のほうでは部屋の主が、真剣にアニメを眺めていた。

「おおおっ、水着回か!」

夢中になっており、聡子の気配にまったく気付いていない。

「早くオレの真奈美を映せっ!」

「あ、あの~。お忙しいところ失礼……」

「ピンクのフリルだと? 何故ストライプじゃないんだ! ぬうっ、オレも二次元の住人ならプレゼントしてやれるのに」

 アニメキャラクターの水着姿が期待外れだったらしい。それにしては、食い入るようにテレビ画面を覗き込む。

その後ろ姿は、残念ながら霧崎タクトのものだった。

ファンが見たら卒倒しそうだわ。

「タクトさんっ! 今日はサイン会ですよ、朝ご飯食べて、準備してください!」

「うお? だっ、誰だ、オレの後ろを狙っているヤツは!」

 振り向いた彼のTシャツにも、等身大の美少女キャラクターがひとり。

髪型など、身なり自体は整然としているからこそ、そのシャツは異様な存在感を放っていた。美男子のせいで、現代人には新しすぎるファッションに見えるのが恐ろしい。

タクトは立ちあがり、あるものを武器みたいに握り締めた。

「貴様は何者だ? 誰の許しを得て、オレの聖域に土足で踏み込んできた!」

魔法少女のロッドである。

こ、これは強烈ね……。

霧崎タクトの正体は正真正銘、それもウルトラヘビー級のオタク男子だった。別段彼のファンというわけでもない聡子さえ、眩暈を覚える。

「えぇと、透君に通してもらいましたけど……」

 人気アイドルの私生活空間だけあって、ラベンダーの香りが漂っているのが、ギャップをさらに深刻なものにする。

 これがファンを『エンジェルちゃん』と呼ぶ大天使の、本当の姿なのか。

「新しいマネージャーの月島聡子です。初めまして」

「マネージャーだと? 待て待て、マネージャーならなおのこと、オレの聖域に入る資格はない! 今すぐ出て行ってもらおうか!」

 タクトはムキになるほど声を荒らげ、ロッドの先で聡子を追い返してしまった。

「ち、ちょっと待ってください!」

「冗談ではない! これ以上誰も犠牲にさせるものか!」

 勢い任せにバタンと扉を閉じきられる。

 何があったのか、何を見たのか整理がつかない聡子は、唖然としていた。

「……あの? 霧崎さん?」

 状況を予想していたらしい透が、201号室から顔を出す。

「タクトのヤツ、前の……その前かな? マネージャーにフィギュアを捨てられたことがあるんだよ。おかげであの日は収録もトラブってさあ」

「わ、私は捨てたりしませんよ。透君、何とか言ってもらえませんか?」

「ごめん、今から風呂。まあ聡子ちゃんは女の子だし、『タクトくん』って呼んでやれば、喜ぶと思うよ。最近のゲームとか、実際に名前で呼んでもらえるらしいし?」

 頼みの常識人は薄情にも引っ込んでしまった。

「……ゲーム?」

 果たしてまともな助言なのかどうか。

 再び聡子は203号室の前に立ち、鍵が掛かっているドアをノックする。

「ごめんくださーい! ええと、お届け物にあがりましたー!」

「真奈美が来たのかっ?」

 冗談のつもりが、ドアは簡単に開いてもらえた。

 タクトが聡子を見つけるや、心底嫌そうに眉を顰める。

「……なんだ、まだいたのか。よくも姑息な嘘をついてくれたな」

端整な顔立ちはさすが現役アイドルのもので、目を合わせているだけで緊張した。聡子は視線を少し降ろし、Tシャツの美少女キャラと見詰めあう。

「ご、ごめんなさい。その……タクト君? 少しお話があるんです」

「ふむ、タクト君……?」

 彼は神妙な顔つきで頷き、渋々と聡子を迎え入れた。

「眼鏡っ子にそう呼ばれてもピンと来ないが、いいだろう、入るがいい。ただしオレの大切な嫁たちには指一本触れるなよ。それが法律だ」

「ヨ……ヨメ?」

「オレと同棲している、恋人たちだ!」

 フィギュアの美少女たちはタクトにとって、ひとつひとつ、むしろ『ひとりひとり』がかけがえのない存在らしい。迂闊に触れようものなら、次こそ入室禁止になるだろう。

 すべてクリアケースの中に陳列され、ホコリと湿気を完璧に遮断している。

ものはたくさんあるけど、案外片付いてるわね。

 本棚は漫画と映像ソフトが山ほど。しかし量こそ多いが散らかっているわけでもなく、全体にインテリアとしての統一感があった。

「さっきの分を巻き戻さんとな」

 女性の前であるにもかかわらず、タクトがわざわざ水着シーンの視聴をやり直す。

透は入浴、志岐はプラモデルの塗装中では、ほかに行くあてもない。恐る恐る空いたスペースに座って、聡子も美少女アニメを眺めることに。

「タクト君、午後からサイン会だってこと、知ってますか?」

「せっかくの水着回だぞ、静かにしろ」

 こっちは仕事の話をするために入室したのに、彼はアニメから目を離さない。

部屋の隅で唯一乱雑に扱われているのは、仕事関係の資料だった。

これって大切なものじゃないの?

RED・EYEの写真集は表紙が折れ曲がっているわ、プロモーションビデオはディスクがケースから食み出しているわ。

人気声優の直筆らしいサイン色紙の遥か下で、霧崎タクトの色紙サンプルは無惨にもホコリを被っている。

「タクト君、仕事の資料はあんなふうに……」

「待て! ほう、ゲームの初回特典はスクール水着か。わかっている」

「本当にわかってるんですか?」

「開発チームはわかっている! ははっ、あのシーンを再現できるじゃないか!」

 CMに入っても、タクトはマネージャーの言葉に耳を貸さなかった。

 次回予告まで終わってから、やっと『話し相手』と認識される。

「で、マネージャーが何をしに来たんだ?」

「マネージャーが来るのは当然……はあ、もういいです。それより今日のサイン会、準備してもらえますか? 午後二時、遅刻厳禁ですから」

「午後二時だと? 無茶を言うな!」

 またもタクトは激昂し、至極個人的なスケジュールを明かした。

「四時からナナノナナ様のサイン会だぞ! オレがサインをしている場合か!」

 サインするべき本人が、他所でサインしてもらうことを優先したがる。

 頭が痛くなってきた。

……マネージャーが続々脱落したわけだわ。

 聡子は溜息を落とすように漏らし、眼鏡のずれを調える。

 鉄道マニアにプラモデラー、そして美少女系のアニメオタク。アクの強い三拍子が揃ったトリオのスケジュール管理は、相当なストレスになりそうである。

「じゃあその、ナナさん? のサイン会場までクルマを手配しますから。それならサイン会に来てくれますよね、タクト君」

「……本当か? サイン会の後で別の仕事をさせる魂胆じゃないだろうな?」

 これまでのマネージャーがあの手この手を尽くしたせいか、タクトは疑り深く、素直に頷いてはくれなかった。

「今日はサインだけです。もし嘘だったら、何でもお詫びしますから」

「三次元の貴様に詫びられてもな。……名前は?」

「あ、はい。月島聡子です」

自己紹介するや否や、彼の顔色が驚きと戸惑いで一変する。

「つきしま? スターライトプロめ、やってくれるな……まさか伝説のタイヤキヒロインと同じ苗字とは。くっ、つまりこの女がマネージャーなら、オレは日常会話で『つきしま』と口にできるわけか」

 一挙手一投足がわざわざ詩的表現を伴い、やかましい。

「なんという禁断の果実!」

月島聡子はげんなりとして、苗字で呼ばれることを却下した。

「普通に名前のほうで呼んでください。じゃないと、返事しませんよ?」

 これでは呼吸のすべてが溜息になりそうだ。

「う、うむ……まあ名前はともかく、イメージが違いすぎるしな。仕方ない、百歩譲って貴様を『聡子』と呼んでやろう」

 霧崎タクトの尊大なキャラクター性は、演技ではなく素だった。美少女アニメのキャラクターシャツを、見せびらかすようにふんぞり返る。

「いいか? ナナノナナ様のサイン会に遅れるようなら、容赦はせん。貴様には『タイヤキアンバランス』を全話視聴してもらう」

「わ、わかりましたから。朝ご飯食べて準備してください」

 今日一日だけの我慢と思いつつ、聡子は顔を引き攣らせるのだった。

 

 

 サイン会の会場は、すでに長蛇の列。大勢の女性ファンが今か今かとRED・EYEの登場を待ち侘びている。

 しかし控え室ではアクシデントが発生していた。

 三人の中ではもっとも常識人と思われた城ノ内透が、唐突に行方を晦ませたのだ。現場はパニックになり、スタッフが青色吐息で走りまわっている。

 聡子もあっちを探して、こっちを探して。

「どこに行ったか心当たりはないんですか? 志岐君、タクト君!」

 周防志岐はホビー誌を眺めつつ、あっけらかんと答えた。

「またどっかで電車でも撮ってんじゃない? カメラは持ってたみたいだし」

 霧崎タクトは『美少女キャラクター』というエネルギー源がないせいか、イベントの台本を顔に被せたまま動かない。

「透のヤツめ……オレはこの後、ナナノナナ様に会いにいかなければならないんだぞ。オレとナナノナナ様の関係に亀裂が入ったら、どうしてくれる」

「タクト君、ちゃんと変装はしてってくださいね?」

「当たり前だ。オレなんかのためにナナノナナ様に迷惑は掛けられんからな」

 不意にタクトの携帯電話が鳴り出す。

「透か? ……ったく、お前というやつは。先に始めているぞ」

「透君から? 今どこに」

「さあな。途中で合流するから、始めておいてくれとさ」

 彼らのプロ意識の低さには、言葉もなかった。

どこまで身勝手なのかしら!

 横っ面を引っ叩いてやりたい、と憤っているスタッフもいるだろう。

現にプロダクションでは、RED・EYEほど才能や技能に恵まれていなくても、懸命にレッスンに励んでいる若者が大勢いた。

お客さんに見せなければいいっていうの? 酷い業界だわ。

カネさえ稼げれば正しい、という芸能界の考え方に聡子は失望する。大学では経営学を学ぶつもりだが、間違っても芸能関係は選択肢になかった。

 慌しく駆け込んできたスタッフが、タクトの尊大な存在感に気圧されつつ、話しやすい志岐の肩を揺する。

「ほんと自覚してよ! キミたちは国民的人気アイドルで! 売れてるの! 果てしなく売れてるんだよ、キミたちは!」

 しかしスタッフの苦悩をよそに、志岐は暢気な笑みを緩ませた。

「またまた~。そんなに売れてるなら、作業場に別荘でも買うってー」

「売・れ・て・る・の! 透くんとは連絡ついたのかい? ああ、もう時間が!」

聡子は目を点にする。

……あら? ど、どういうこと?

 もしかすると彼らは、天狗になっているのではなく、自分たちの人気絶頂ぶりを認識していないのでは。

「オロオロすんじゃねえ」

 リーダーのタクトが机の上に足を乗せ、ふんぞり返る。

「透が来るまでオレと志岐で繋ぐ。それより、さっさとイベントを始めようぜ。朝イチで待ってくれてるエンジェルちゃんもいるんだろ」

 顔面蒼白だったスタッフに生気が戻った。

「さすがタクトくん! やっと本気を出してくれたか、頼もしいよ!」

「世辞はいらねえ。スケジュールは前倒しで進めろ」

 メンバーが揃っていないにもかかわらず、イベントの開始を前倒しにするというタクトの大胆さは、まさしくトップアイドルの采配だった。

……少しでも早く終わらせて、サイン会に行きたいのね。ナナノナナの。

 真相を知る身として、聡子は複雑な気持ちを噛み締める。

 

 イベントホールではファンが前へ前へと詰め寄り、ヒーローの登場を待っていた。

本当に大丈夫なんでしょうね?

マネージャーの聡子は不安を抱きつつ、袖から舞台を覗き込む。

「みんなー! 今日は僕たちのためにありがとう!」

最初にステージに現れたのは、周防志岐。

前転の姿勢から軽やかに起きあがり、ピースを決める。

「キャ~! 志岐きゅん、可愛い! なでなでしてあげた~い!」

「お家に連れて帰りた~い!」

会場のボルテージは瞬く間に最高潮に達し、黄色い声援が空気を震わせた。

「サインの前に一曲どうかな? だって、僕たちの歌声はキミたちのものだから!」

だが志岐の独走など、王者である大天使が許さない。

「志岐、その程度でエンジェルちゃんたちをヘブンに昇天させるつもりか? そいつは慈悲ってもんがねえ。いい子は素直にオレに抱かれて、逝きな」

キャアアアアアアアアアアアアッ!

舞台袖の聡子もうろたえるほど、歓声が一気に爆発した。

「本物のタクト様よ! ホンモノ! ぐすっ、来てよかったあ~!」

「声だけでも色気すごいのに、もうだめ、腰が抜けちゃいそお!」

 ファンは感涙し、感激して、霧崎タクトの醸し出すフェロモンに溺れていく。

「ずるいよ、タクト! 人間は人間同士で愛しあうべきなんだ。アークエンジェルのキミは、それを見守るのが役目だろ?」

「ふっ。生憎、雲間から見えたエンジェルちゃんたちが魅力的でな。それに……堕天使もまた天使。こいつは創世記からの唯一にして、絶対の真理さ」

 ファンほど熱狂できない聡子は、置いてきぼりにされそうになりながら、RED・EYEのキャラクター設定を思い出した。

 霧崎タクトは天上界から降りてきた大天使、アークエンジェルで。

 周防志岐は人間界の若き王子。

 そして最後のひとりが、天使と戦う運命にある存在だ。

「神の統制なんざに自由はねえ! ハアッ、反逆したいヤツは俺に着いてきやがれ!」

RED・EYEの悪魔こと城ノ内透が、時間ぎりぎりでステージに滑り込む。

「透くぅーん! 私のためにRED・EYEのナンバーワンになってえ!」

「いや~! 悪魔に乗っ取られる前に聞かせて、タクト様の歌声を!」

 神と悪魔の対立という世界観があるらしいが、もう聡子には着いていけなかった。

す、すごい勢いだわ……。

 感動とは別の理由で腰が抜け、四つん這いで奥に引っ込む。

「いくぜえ! ミュージックどうした、おらおらおら!」

「みんなも数えて! スリー、ツー、ワン!」

「まとめて抱き締めてやるぜ、エンジェルちゃん!」

 今ほど『抱き締められたくない』などと思うことはなかった。

 

 サイン会はつつがなく終了し、スタッフ一同は人気の少ない裏口から撤収する。

「どうなることかと思ったけど、この調子で次も頼むよ! あぁ、タクトくんは電気街に用事だって? くれぐれも見つからないようにね」

 スタッフはイベントの成功に安堵し、RED・EYEの健闘を称えた。しかし透の遅刻を注意する者はひとりもいない。

 これ以上は付き合っていられなかった。聡子は手短に挨拶を済ませる。

「それじゃあ、私はこのへんで失礼します」

サイン会の疲労感に加え、五時起きの眠気が戻ってきて、立っているのもつらい。

早く帰って寝よう。疲れちゃったわ。

 ところが志岐に買い物のメモを押しつけられてしまう。

「さっちゃん、悪いんだけどさー、これ買ってきてくれない?」

「私がですか? えーっと、メタルブルーに……ジャーマングレー?」

「プラモの塗料。僕が行ったら大騒ぎになっちゃうし。実は前に行きつけの店でやらかしちゃってさ。そうそう、エナメルね!」

 毒を食らわば皿まで。

「……わかりました。買ってきます」

そんな諺を身につまされながら、聡子はメモを受け取った。

「あとさ、僕らのマネージャーするなら、秋葉原は知っておいたほうがいいし。タクト、さっちゃんも乗せてってあげてよ」

「しょうがないな」

 聡子の意思など無関係に話を進められ、秋葉原行きの車に乗せられる。

 目立ちにくい後ろの席で霧崎タクトは、帽子とサングラス、付け髭まで使って変装スタイルになった。地味な色合いのパーカーを重ねれば、大天使にはまず見えない。

「急いでくれ、ドライバー。とても大事な用なんだ」

「了解。……っと、マネージャーさん? シートベルト締めて」

「すみません! ええと」

 助手席の聡子がもたもたしていると、タクトの手がシートベルトを引っ張りあげる。彼が急ぐためであって厚意ではない、とはいえ予想になかったフォローだった。

「あ、ありがとうございます、タクト君」

「免許は持っていないのか?」

「まだ十七ですよ。今朝も透君に大学生に間違えられましたけど」

 この車だけスタッフ一行から離れていく。

「志岐と同い年か。免許がないとなると、足にはできんな」

 タクトの口から失礼な一言が飛び出したが、聞こえないふりをしてやった。

今日が最初で最後よ。やってらんないわ、こんな仕事。

 スターライト芸能プロダクションに戻ったら、叔父に直談判だ。ついでにバイトも辞めてオサラバするつもり。

 しばらく走って、電気街へと差し掛かる。

「ご苦労。帰りはタクシーを拾うから、もういい」

 車はタクトと聡子を降ろし、車道の向こうに消えていった。

 付け髭で変装済みのタクトが、ナナノナナのサイン会場へと小走りで急ぐ。

「待ってください! あの、志岐君に頼まれた買い物……」

「自分で探してくれ。オレは一秒すら惜しい」

 彼しか頼りにならない状況で、彼にあっさりと見捨てられてしまった。

「タ、タク……っと、ヒゲの人~!」

 大声でタクトと呼ぶわけにもいかず、三十秒もしないうちに見失う。

おかげで噂程度にしか知らない秋葉原の街で、ひとり右往左往する羽目に。

「お嬢様、メイド喫茶はいかがですかー?」

「お、おじょうさま? 今はそれどころじゃ……それより、塗料ってどこに売ってるか、知りませんか?」

「塗料? さあ、私にはちょっとわからないです」

 おまけに帰りの車もない。

 

 

「いかがですか、お嬢様~」

 女性なのにメイド喫茶の呼び込みに捕まったり。

「プラモデルの塗料? 当店では扱っておりませんよ」

塗料を探して別の店に迷い込んだり。

 絵の具のチューブみたいなものを想像していたが、プラモデル用の塗料は、ビン詰めの容器だった。慣れない買い物はひとりで探すものではないと痛感する。

 やっとのことで電車に乗り、RED・EYEのアパートに戻ってきた頃には、夕方の六時を過ぎていた。これから家に帰って夕飯の準備もあるのに。

 ところが志岐は品を確認するや、眉間にシワを寄せた。

「エナメルっていったのに、ラッカーじゃないか~。わかんなかった?」

「ご、ごめんなさい。店員さんが、エナメルはプラスチックを溶かすって言うから」

「だからラッカーを下地にするんだよ。はあ……まあいっか。使える色だし、僕が無理に頼んだんだし。ありがと、さっちゃん」

怒られこそしなかったが、お遣いは失敗だ。

知らないわよ、塗料の種類なんて。

無駄骨に終わり、聡子は両肩がさがるほどの溜息を漏らした。

 ボロアパートの前でタクシーが停まり、サングラスの男性を降ろす。サイン色紙を小脇に抱え、上機嫌に階段を上がってくるのはタクトだった。

「どうだ! ナナノナナ様の直筆だぞ、直筆!」

大好きな声優に会えてご満悦といった表情で、サインを自慢する。自分のサインには無関心なくせに、ナナノナナの色紙には頬擦りするほど。

サインには『タクト君へ』と宛て名まで添えられていた。

「あの、タクト君、ナナノナナさんにバレたりしてませんか?」

「心配はいらん。お互い、声優と一ファン、としたうえでの交流だ」

 ナナノナナの口が堅くて助かる。

「さーて、今夜はナナノナナ様のお声をじっくり拝聴するか。……と、腹が減ったな。志岐、何か食い物をくれ」

「持ってないよ。まあ透が帰りに買ってきてくれるかもだし。それまでのんびり……」

 帰るタイミングを見計らっていた聡子は、まさか、と額を押さえた。

「あなたたち。夕飯はいつもどうしてるんですか?」

 タクトと志岐の声がぴったりと重なる。

「適当だ」

「テキトー」

 彼らが自炊していないことは、聞くまでもない。

誰も体調管理とか監督……あー、そのマネージャーがいないのね。

 食事に関して比較的まともそうな透が不在がち、となれば、残るふたりの食生活は想像に難くなかった。

「透の部屋にカップラーメンがあったんじゃないか? アイツ、時々食ってるからな」

「ストップ! そんな食生活は認めません!」

 さすがに見過ごせず、聡子は右手で『待った』を掛ける。

「どうしてきちんと食べないんですか? あなたたち、明日も仕事でしょう。ハードな仕事なんですから、ちゃんと食べないと」

「でも外食はなー。一週間ガマンすりゃ、プラモ一個買えるしさ」

「アイドルがそんなことで……はあ、ライブで倒れたりしたら、どうするんですか。今日は私が適当に作ってあげますから」

 タクトたちの『適当』と聡子の『適当』では、次元が相当違うはずである。

 志岐は反省の色なしに笑い、拍手で手料理を歓迎した。

「まじで? サンキュー! 女の子の手料理なんかそうそう食えないよ。あとで透のヤツに自慢してやろーぜ、タクト」

 その一方でタクトは喜ぶ素振りを見せない。家宝レベルに大事なサイン色紙を抱えながら、注意点として人差し指を立てる。

「ひとつ言っておく。聡子、お前がいかにツンデレを装おうと、オレは三次元に興味はない。しかも眼鏡だぞ。絶対に騙されたりしないからな!」

 聞き慣れない言葉が聡子の頭を素通りした。

「……つんでれ?」

 瞬きを繰り返すだけの眼鏡系女子に、タクトが講釈を垂れ始める。

「そもそもだ。ツンデレというのは時間の経過によって変わる心境の変化のことで、性格の二面性のことじゃない。それが今は何だ?」

かぶりを振り、額に中指を添える仕草が、いちいち悩ましい。

「あれもツンデレ、これもツンデレ……」

 志岐が聡子と場所を入れ替えつつ、相槌を打った。

「作り手までツンデレを妥協点にしてしまって、何年になると思ってる!」

「うんうん、そうだねー。……長くなりそうだし、あとは僕が適当に聞いとくから、さっちゃんはお料理作ってて」

「は、はあ……。お願いします」

 タクトの持論にどんどん熱が入る。

「作家も受け手もツンデレ、ツンデレ、ツンデレ! ツインテールのツンデレはもういらんっ! オレはな、ロングで清楚な幼馴染みという、王道のヒロインが好きなんだ!」

「知ってるよ、それが今は真奈美ちゃんなんでしょ」

「あのタイプこそ原点じゃないか! なぜわからない!」

「じゃあみんなが言ってるほうのツンデレの、新しい呼び方を考えないとね」

 サイン色紙が大事なら、早く仕舞えばいいのに。

家の夕飯は遅くなりそうだわ。

 可愛い弟に電話してから、聡子は不出来な男どもに夕飯を振舞った。

 

 

 RED・EYEの不摂生を知ってしまってからというもの、放っておくわけにいかず、聡子はボロアパートに度々様子を見に行っていた。

 決して彼らのためではない。

彼らを応援し、崇拝しているファンがあまりに気の毒で。

辞めそびれちゃったわね。次のチャンスを待つしかないか……。

 叔父の泣きつきもあって、もうしばらくマネージャーを続けることになり、聡子はスタッフにも頼りにされる立場となってしまった。

 仕事の際はOLばりにスーツと眼鏡でびしっと決める。

「シャキっとしなさい、三人とも! もうすぐライブの時間でしょ!」

 勿論スーツの代金は叔父に全額負担させてやった。プロが集まる現場で、マネージャーだけいつまでも普段着ではいられない。

 そんなマネージャーに発破を掛けられても、RED・EYEのトリオは今日も楽屋でグータラとダラけていた。

電車で朝帰りした透は、さっきからあくびをしてばかり。

「ふあ~っ。聡子ちゃん、垢抜けてきたなあ。遠慮がなくなったっていうかさ」

「大きな声出さないでくれよぅ。ア、アタマにガンガン響く……」

 志岐はシンナー臭が充満する部屋で居眠りしてしまったせいで、朝から頭痛に苦悶している。これからライブなのに、透と志岐のコンディションは最悪である。

「ン……やべ、ウトウトしてた」

「アタマ痛いよ~」

 そしてリーダーのタクトは、完全にヘソを曲げてしまっていた。机の上で両手の指を編み合わせ、ずっと宙を睨んでいる。

「……………チッ。この国はオレが滅ぼす」

 報道番組で昨夜のアニメを潰されてしまったのだ。しかも次のアニメでもオープニングで速報が流れ、ナナノナナの歌声を邪魔されたとか。

「政治家の汚職なんぞ、夜中にアニメ見てる人間の知ったことか! くそ!」

 その気持ちはわからなくもない。むしろ、そこいらの政治家よりもよほど国民の意見を代弁しているだろう。おかげでタクトのモチベーションは最低だった。

「何が教育改革だ。つまらん教科書を押しつけるくらいなら、アニメをもっと見せろ。心に響く名作がどれだけたくさんあると……大体、オレは『子ども向け』という言葉が大嫌いなんだ。大人が自分に都合よく子どもを区別するな。そう思わないか、聡子!」

「そそっ、そうですね!」

「志岐がずっと好きだったロボットアニメも、カネにモノを言わせたド素人が『今の時代は子ども向けが売れる』と出しゃばったせいで、あのザマだ。ブツブツ」

 タクトらの不調が現場にぴりぴりと緊張を走らせる。

大丈夫かしら、今日のライブ……。

 

 やがて開演となり、ステージにRED・EYEのシルエットが並んだ。

真っ白にライトアップされた中央で、タクトが身体を悩殺的にくねらせる。

「エンジェルちゃん、悪いが今日のオレは少々ご立腹だ……」

 客を迎えるものとは思えない挨拶だが、ファンの興奮は一気にヒートアップした。

「いや~ん! タクト様、私を叱ってえぇ!」

「いらねえヤツは滅ぼす。神の裁きを見せてやるぜ! ジャッジメント!」

 イントロが流れ、客席のサイリウムが一斉に揺れ始める。

 だが、もっとも揺れているのは透と志岐の足元だった。大音量の直撃を受けた志岐がふらつき、かろうじて頭をもたげる。

「アタマいたい……も、もうダメだあ~」

 透のほうは会場の熱気でぽかぽかと温められ、猛烈な睡魔に襲われていた。

「やっべえ、まじで眠たく……なってきた……」

 ふたりともダンスどころではなく、タクトの前で頭をごっちん。

あっ! 何してるの!

ファンが見ているにもかかわらず、糸が切れた操り人形みたいに倒れてしまう。

 スタッフが声にならない声をあげる一方、ファンの歓声は悲鳴になった。

「い~~~や~~~! 透くん、起きてえ!」

「志岐く~ん! やだ、私を置いてったりしないで!」

 最悪のアクシデントが現実のものとなる。

 予測していながら止められなかった聡子は、膝をつくほど肩を落とした。スーツの中で嫌な汗が浮かんで、絡みつく。

これじゃライブは……。

そんな阿鼻叫喚のライブ会場で、誰よりも上から目線で宣言する大天使がいた。

「聖戦が始まる前に倒れちまうとは情けねえ。さっさと起きねえと、オレの神話が始まるぜ? ふっ、今日のエンジェルちゃんは運がいい……」

 前髪をかきあげる仕草の隙間から、不敵な笑みを覗かせる。

「オレが孤独な神になる瞬間を、その目で目撃できるんだからな!」

 改めてイントロが流れ、ボルテージを上げた。

 狼狽していたファンはタクトに導かれ、ライブの熱気を取り戻す。サイリウムの輝きが再び会場を埋め尽くし、救世主を称えた。

「やっぱりRED・EYEのリーダーはタクト様だわぁ!」

「私たちにはタクト様しかいないの! 哀れな私たちを救って!」

 彼の豪胆な機転によって、アクシデントはむしろコンサートを盛りあげる。

 裏方のスタッフは冷や汗ものだが、綱渡りじみたライブの成功を祈るしかなかった。

「一曲終わったらライト消して! すぐにふたりを回収!」

 聡子もはっと我に返り、声を上げる。

「人手がいります! ただちに増員、お願いします!」

「そっちのカメラはいい! 一旦止めろ!」

 ライブが終わるまで、とても生きた心地がしなかった。

 

 

 病院へと直行し、透と志岐は緊急入院することに。

夜通しで駆けまわる羽目になったマネージャーは、スーツ姿のまま。寝不足で赤い目を擦りつつ、病室でアイドルたちを叱りつける。

「体長管理もできなくて、何がプロですか! 大変なことになるところ……いいえ、もう大変なことになってるんですよ!」

 ぐっすり眠ったことで回復した透と志岐は、悪びれた様子もなかった。

「いや~、なんか気持ちよくって、意識持ってかれちゃってさ」

「ステージでっつーか、僕、倒れたのが初めてだよ。あはは……あいてっ!」

 聡子の拳骨がふたりの脳天にクリーンヒットする。

「笑い事じゃありません! あなたたちのせいで世間は大騒ぎです!」

 人気アイドルがライブで倒れたとなっては、もはや事態はスキャンダルだった。多方面に飛び火までして、収拾の目処が立たない。

 いわく、事務所がカネ欲しさに売れっ子アイドルを働かせすぎたとか。

 タクト以外は未成年のため、労働法に抵触しているのでは、とか。

 スターライト芸能プロダクションとRED・EYEの公式ブログは、一晩のうちに大炎上し、批判的なコメントが殺到した。芸能記者はあら捜しに目を光らせている。

 アニメの放送を台無しにされた腹いせとはいえ、タクトの機転がなかったら、それこそRED・EYE存亡の危機に瀕していたところである。

 志岐は涙目になり、頭の天辺を押さえていた。

「さっちゃん、少しは手加減してよ。そいや、タクトは?」

「アパートです。しばらく標的にされそうですから、隠れてもらわないと」

 タクトが見舞いに来ないのは、アニメ観賞で忙しいからだが、正直助かる。この状況で彼を露出させたら、火に油を注ぎかねない。

「とにかく今日は一日しっかり休んで、栄養補給してください」

「俺は大丈夫だし、散歩がてら……」

 布団を抜け出そうとする透の脳天に、追加で怒りの鉄拳がさく裂した。

「病室から一歩も出ない! ホンットーに怒りますよ?」

「もう怒ってるって! わかった、今日はおとなしくしてっから!」

 ベッドの上で透が悶絶するのを見て、志岐が顔を引き攣らせる。

「い、いたそ~」

 徹夜明けで苛々が募っている聡子も限界寸前だった。

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