俺様な王子に愛想が尽きました。
第二話
翌日から私、サヤカ=クレメンテは王宮で生活することに。
メイドの仕事は『花嫁修業』と思って割り切り、自分なりに精を出していた。
今日も朝からメイド長の怒号が飛ぶ、飛ぶ。
「何枚焦がしたら気が済むのです、サヤカ=クレメンテ!」
「サヤカ=クレメンテ! 角は丸く掃く、と教えたでしょう!」
「仕事が遅れているあなたに休憩はありませんよ、サヤカ=クレメンテ!」
パンを焼いても、掃除をしても、休憩に入っても叱られっ放し。ペナルティとして仕事を追加され、午後十時に差し掛かっても、ひとりで食器洗いである。
さっきまでは、手伝ってくれるメイドもいたんだけど。
「もっと空気抜かないと。投げるみたいにしてさ」
「え~? 結構頑張った生地なんですよお」
私のことなど放って、キャッキャッと遊んでいる。
彼女たちの中心では、私もよく知る色男が、パイ生地の作り方を披露していた。ルックスだけの男、ゼル=シグナートだ。
「ここ大事なとこだからね。よぅく見てな……よっと!」
男子禁制のこの場所でぬけぬけと、パイ生地をお手玉みたいに投げている。
こういったナンパ行為は彼にとって日課だった。ついでに、私の邪魔にやってくるのもいつものこと。
アカデミーでも三日に一回の頻度で、窓から書斎に忍び込んでくる。
基本的に私は周囲がいくら騒がしくても、さして気にならない性分だが、ゼルとなっては苛立ちの度合いが違った。
この男はいっつもいっつも……!
ただでさえ炊事洗濯で苦戦し、ストレスが溜まっているのに。
「サヤカもこっち来いよ。お菓子作りのひとつくらい、知ってないとな」
「ゼル、あなたね……王宮お抱えの魔導士が、こんなトコで何やってんのよ」
威嚇のつもりで雑巾をぎりっと絞ってやっても、効果なし。
「おまえがしっかり仕事できてるか、ちょっと気になったんだって」
得意そうにゼルがパイ生地を、指でくるくるとまわす。
「魔導士ならポーションの調合でもしてなさい」
「ノリ悪いなあ。おっと、次はスライスしたリンゴを、こうして~」
「さすがゼル様、センスいいです!」
ひとり私だけうなだれて、重たい溜息をついた。
はあ……。ほかにもっと、まともな魔導士はいないの?
ゼル=シグナートは城でも指折りの白魔導士であり、女たらしであり、そして菓子職人でもあった。ちょっとしたパティシエの大会で入賞したことまである。
私としては不本意ながら、彼のお菓子は、下心で作ったとは思えないほど美味しい。
「ゼル様ぁ、今日はお茶をご一緒してもらえますよねっ」
「今日はばっちり。昨日はごめんなー、キャンセルしちゃってさ」
そのお菓子と、レシピと、彼そのものを目的にして、女の子が集まるのは当然のこと。端正な顔立ちと長身のスタイルは、どこに行っても女性にちやほやされる。
でも、いかに美男子を気取ったところで、所詮ゼルはゼルなのよ。
深刻な運動音痴で、足は遅いし、体力もない。
父親が騎士団に所属していることもあって、一時は騎士団に放り込まれていた。しかし厳しい指導に耐えられず、泣いて帰ってきた『弱虫事件』はごく一部で有名である。
幼い頃から彼のくだらない部分ばかり見てしまっているから、ゼル=シグナートという男性のどこがいいのか、私には理解できなかった。
「あぁ、サヤカ! 今夜迎えに行くからな」
「そんなことしたら引っ叩くわよ。じゃあね、ごゆっくり」
そんな容姿だけの男と知って、惹かれるわけがない。食器の片づけが終わったら、貴重な休憩時間のため、私室へと向かう。
その後をひとりのメイドが追ってきた。お世話になりっ放しのアンだわ。
「サヤカ! しばらく時間あるでしょ、私たちと一緒に遊ばない?」
新入りに構うのが楽しいらしくて、普段から何かと手伝ってくれている。そんな彼女からの誘いとなっては、おいそれと断るわけにもいかなかった。
ゼル以外のところで角を立てることもないものね。
「いいわよ。でも遊ぶって、何をするの?」
まさか女子力を要求される遊びでは、と少し後悔する。休み時間のメイドといったら、さっきのゼルたちのようにお菓子作りをしたり、編み物をしたり……。
「んー、サヤカは特に何もしなくていいわ。じっとしてて」
アンのほかにも何人かやってきて、私を部屋へと押し込んだ。そして私を鏡の前に座らせ、ぐるりと取り囲む。
「これ、これ! 触ってみたかったのよ、サヤカの髪。ほんとにサラサラ!」
アンたちは私の髪を取り、思うままにヘアアレンジを始めた。
遊びって、こういう……なるほど。
戸惑いつつ、私は鏡の中の自分をじっと見詰める。後ろでメイドが入れ替わるごとに、ヘアスタイルは次から次へと変貌を遂げていった。
ポニーテール、ツーサイドアップ、ミツアミ……ヤマトナデシコまで。
「いいなあ、この髪」
褒められて嬉しいような、恥ずかしいような。どっちつかずのこそばゆさが、頑固な私を動揺させる。
「ねえサヤカ、聞いてもいい?」
「な、なあに?」
メイドのアンは興味津々に探りを入れてきた。噂好きな女の子という印象の通り、質問されるであろうことに概ね予想はつく。
「サヤカって、もしかしてゼル様の恋人なの?」
「違う違う。本当に違うから」
吐き捨てるように私は否定の言葉を重ねた。
この手の勘違いをされるのは、残念なことに一度や二度じゃない。ゼルの取り巻きから同じ質問をされた経験はいくらでもある。
「あーいうタイプは好みじゃないの。全然。まったく。これっぽっちも」
「でも、付き合い長そうな感じしたわよ。打ち解けてるっていうか」
「女の子が相手なら、誰にでもそうよ。男にはすぐ泣かされて逃げ帰ってくるけどね」
質問の答えは、聞かれる前から決まっていた。
ただし厄介なことに、どう答えたところで、噂とやらには尾ひれがつく。
ゼルに興味がないと主張したところで、単なる照れ隠しと解釈されたり、ゼルに焦がれる女子から逆恨みを買ってしまったり。
「お願いだから、ゼルと私のことでどうこう噂するのはやめて。酷い目にも遭ってるの。待ち伏せされるとか、研究室をメチャメチャに荒らされるとか」
「……笑えないわね、それ」
事の深刻さを少しは理解してもらえたようだわ。
「でも婚姻もありうるんじゃないの? ゼル様のシグナート家は騎士の名門だし、クレメンテ家って、学者の筋では有名なんでしょう」
「そうならないことを切実に祈ってるわ」
それにしてもメイドたちの情報網には恐れ入る。この数日のうちに、競争率の高い貴族や騎士が誰であるのか、私まで憶えてしまった。
下働きのメイドたちはお城に務めながら、将来の旦那を捜してもいる。
貴族が相手ではどうしても身分差に阻まれるため、騎士のほうが需要は高い。けれどもロマンスと割り切って、愛人の座を狙う不届きなメイドもいた。
そこまで貪欲になれない私は、ゼルとの今後について漠然と考えるだけ。残念ながらクレメンテ家とシグナート家は懇意であり、将来的に縁談の可能性も高かった。
そうなったらそうなったで、腹を括るしかないわね……。
顔も知らない男性と婚約を推し進められることに比べれば、ゼルで済むことに妥協の余地は充分ある。おそらくゼルも意識くらいはしているはず。
私の髪は形容しがたい芸術品に生まれ変わっていた。
「朝からサヤカ、浮かないカオしてるから、ゼル様のことかなと思って」
悩みの原因にあっさりと思い当たって、私は溜息を漏らす。
「ゼルじゃないの。リオン様とちょっと……ね」
血を吸われたからとはいえ、さすがに喧嘩はまずかったわ。あの後、食器を回収するついでに謝って、ひとまず許してはもらえたけど。
今後は代わりにトマトを食べろ、なんて条件をつけられてしまった。
おかげで毎日、メイド長には内緒で王子の食事に手をつける羽目になってる。
「私だったら羨ましいけどなあ。リオン様って素敵じゃない」
アンは両手で押さえた頬を赤らめた。
「あのお方って、いつもお背中が見えてて、とても色っぽいでしょう? メイドとしてお仕えしているからには、私もいつか、お慰めして差しあげたいわ……ぽっ」
返す言葉が思い浮かばなくて、私は口元を引き攣らせる。
「そ、そう……頑張ってね」
同僚たちは皆、大胆で逞しい。
貞操観念をとやかく言うつもりはなかった。ほかの女性を見下せるほど、自分は上等な女じゃないもの。炊事も洗濯もできないし……。
メイド長が部屋に入ってきて、私の前衛的なヘアスタイルを一瞥した。
「失礼しますよ、サヤカ=クレメンテ。お団子の三段重ねですか」
「いえっ、これはその」
慌てて髪をほどく私に、新しい仕事を与えてくる。
「そろそろ本来の仕事に行きなさい。王子がお待ちです」
「えっと……あの件ですか?」
メイド長は問題の件を知っているのだろう。勿論、ほかに同僚もいる場所で、聖杯だの生き血だの口にするわけにはいかなかった。
「ええ、そうです。メイドは経験がないから仕方がないにしても、家庭教師のほうは期待していますよ、サヤカ=クレメンテ」
ところが、予想になかった期待をかけられてしまう。
「はい? かていきょうし?」
「教材はこちらにひと通り用意してあります。足りないものがあったら、言いなさい」
その手提げにはテキストがどっさり。
「あの、もしかして……リオン様に、私がお教えするんでしょうか?」
私の疑問にメイド長のほうが驚いて、首を傾げた。
「おかしなことを言いますね。あなたはそのために、この城に来たのでしょう?」
どうやらメイド長は王位継承の儀式や聖杯について、何も知らされていないらしい。
こちらから危うくボロを出すところだった。
つまり城の者には、サヤカ=クレメンテは王子の家庭教師としてやってきた、という建前で通っているのである。
だったら、家庭教師としてだけ呼べばいいじゃない!
メイドの実務に従事させられていることには、作為的なものを感じる。
きっとゼルだわ。面白がってんのよ、あいつ。
とはいえ、炊事や洗濯よりは家庭教師のほうが性に合っていた。子どもに教えたことならあるし、将来は教職に進むつもりだもの。
「そ、それでは行ってきます。アン、ごめんね、そういうわけだから」
「うん。サヤカ、またあとで聞かせて」
私は同僚のメイドらと別れ、リオン王子の私室に向かった。
近道を通っていこうとして迷ったのは、内緒だ。
☆
テキストでいっぱいの手提げを持って、王子の部屋へと急ぐ。道に迷ったせいで余計な時間が掛かってしまった。
リオン様に勉強……ね。気が重いわ。
その道中で、荘厳な礼拝堂の前を横切る。
礼拝堂ではちょうどミサが終わったところだった。顔までローブで隠したグラント教徒たちが解散しつつある。
大陸全土で信仰されているグラント教会の、オブシダン公国での活動拠点だ。オブシダン公国も一応はグラント教会を庇護する立場にある。
庇護といっても、その実態は監視。グラント教会の権力や思想が拡大しないよう、民への直接的な布教は制限され、活動はお城の中だけとされていた。多民族国家のオブシダン公国でも、厳しいところは厳しい。
悪魔だから神様が嫌い、ってだけかもね。
アカデミー生の私には縁のない礼拝堂を眺めていると、ひとりのシスターがおもむろに歩み寄ってきた。陰気なフードの中から、麗しい美貌が出てくる。
「サヤカさんではありませんか? うふふ、こんにちは」
物腰の柔らかい彼女は、シスターのフィリア=シルベストリ。アカデミーの卒業者でもあり、在学中は私も色々とお世話になった。
熱心な信者というより研究者で、私と共通する観点も多い。
「フィリアさん! お久しぶりです」
「サヤカさんこそ。メイド姿なんですもの、すぐにはわかりませんでしたわ。……あら、じっとしていてください。エプロンの紐が……」
「あ、ありがとうございます」
さり気ない気配りができるひとで、私のエプロンのずれを直してくれる。
「アカデミーはどうなさったの?」
「えっと……ちょっと事情がありまして」
返答に困り、口ごもってしまった。聖杯に生き血を注ぎにきました、とは言えない。
フィリアさんは声を潜め、耳元で囁いた。
「もしかして、家庭教師にサヤカさんが選ばれたのではなくて?」
「はい、そうなんです。これからリオン様の部屋に」
私は手提げにいっぱいのテキストを見せびらかす。ところがフィリアさんは自分の唇に人差し指を当て、人気のないほうへ私を誘った。
「というのは建前で……時期が時期だもの。本当は聖杯の件でしょう?」
私も周囲を警戒しつつ、小声で返す。
「ご存知なんですか?」
メイド長でも知らなかったことを、フィリアさんは知っていた。私の頭を撫で、我が身のことのように心配してくれる。
「まさかサヤカさんだなんて……あぁ、わたくしがお引き受けしておけば」
「ということはフィリアさんも?」
聖杯に生き血を捧げる処女として、選出されていたらしい。
「サヤカさんに迷惑を掛けることになってしまって。ごめんなさい」
祈るように私の手を取り、同情してくれる。
その気遣いだけでも嬉しかった。何しろお城に無理やり連れてこられて、あれやこれや強要されているのに、まだ誰からも謝罪の言葉ひとつなかったんだもの。
「私、断るつもりだったんですけど、アカデミーに休学届けまで出されちゃって」
「そんなことまで……強引にお決めになったのでしょうね」
王位継承の儀式で役に立てるなんて光栄ですよ、とは決して言ってこないのがフィリアさんだった。私の心労を読み取り、気休めであれ、共感だってしてくれる。
顔馴染みのシスターは聖書を開いて、迷える子羊を励ました。
「主はいつでもサヤカさんを見守っておられますよ。困ったことがあったら、いつでも相談に来てくださいね。大抵は礼拝堂にいますから」
「ありがとうございます! そんなふうに言ってくれるの、フィリアさんだけです」
「うふふ、あまり気負いすぎないでください。主のご加護を」
その手が胸元で十字を描く。
おかげで私の肩からすっと力が抜けた。神様なんて信じてないけれど、フィリアさんの優しさなら信じることができる。彼女にグラント教会へと勧誘されたら危ないかも。
フィリアさんが穏やかに微笑んだ。
「落ち着いたら一緒にお茶しましょう。ゼルも呼んで」
「ゼルはいらないですよ。それじゃ、失礼します」
私は一礼し、フィリアさんと別れる。
アカデミーの男子がフィリア=シルベストリに憧れる気持ちもわかった。分け隔てなく優しくて、聡明で、美貌でも知られていて。ゼルがもてはやされるのは納得いかないが、フィリアさんがもてはやされるのは大いに納得できる。
ゼルも呼んで、か。
そんなフィリアさんが、どういうわけかゼルのことは呼び捨て。
聖女の乱心とは考えたくない。
やがて王子の私室に到着した。ノックの前に深呼吸して、慎重に扉を開く。
「リオン様、失礼いたし……」
ところがノックするより先にドアが開いた。
部屋の主は気配に敏感で、また、扉も窓も魔法ひとつで開け閉めできる。扉の前で私が気を揉んでいたことも、お見通しなんでしょうね。
リオン王子は室内の花壇で花を弄っていた。ハサミを細かく入れ、マリーゴールドのアレンジメントに没頭している。
「朝っぱらからどうした? また皿でも忘れたか」
「お勉強をお教えするように言われてきました」
「……何だと? 城の連中には、おまえはメイドで通してるはずなんだが」
どうにも情報の行き違いがあるようだった。しかし私はメイド長から指示があり、教育の必要なテキストも用意されている。
「大体、俺様は学問なんぞに興味はない。俺様の趣味は見ての通りだ」
「素晴らしいですね。庭園みたい、と言いますか……」
王子の部屋は相変わらず、多種多様な花が満開だった。キンモクセイも露に濡れ、初秋の見応えを誇っている。
ふと、あの髪飾りのことを思い出した。
「リオン様、前にいただいた髪飾り、ご自分でお育てになったんですか?」
「花はな。……ちょうどいい、そっちの金具を取ってくれ」
デスクの上にはアレンジメントの道具がひと通り揃ってある。
「ヘアピンみたいなのがあるだろう。それを二本だ」
リオン様は振り返ることもせず、私から道具だけ受け取って作業を続けた。
彼の黒衣は背中が開いている。羽根を出せるようにしてあるんだわ。
「すごい。お上手ですね」
失礼と思いつつ、私は横から手作業を覗き込んだ。
リオン様がころっと機嫌をよくする。
「当然だろう! ふふっ、これのよさがわかるとは、見る目があるじゃないか」
乗せられやすいタイプらしい。
しかし実際のところ、素人目にも王子手製のフラワーアレンジメントは繊細かつ美麗な出来だった。色彩、茎の長さ、花びらのボリューム感、どれもバランスがいい。
部屋の花壇も、多種多少な品種を無差別に集めているのではなかった。豊富な色の数を調和的に見せつける、庭園としての体裁が整っている。
ただし香りだけは滅茶苦茶。
リオン様の指先では、一輪のマリーゴールドが花びらの角度を調整されていた。そのままでも見応えのあった花が、不思議と品格をまとう。
「リオン様は花がお好きなんですか? ……あれ、そういえば」
その手作業を見ていて、ふと思い出した。
初めて会った時、リオン様、女物の髪飾りを持ってたのよね。
「なんだ? 言いたいことがあるなら、はっきり言え」
「あ、いえ、大したことじゃないですし」
などなど、聞きたいことはあっても、王子相手に遠慮してしまった。初日に喧嘩してしまったことが、今でも私の後ろ髪を引いている。
リオン様は気にしてないみたいだけど……。
「そうだ、親父からおまえ宛に手紙を預かっている」
紐で括られた一通の手紙が、ふわふわと宙に浮いてやってきた。
「おまえでないと解けんようになっていてな。中を読め」
「えっと……こっ、国王陛下から?」
リオン様の父親といったら、オブシダン公国の国王ガリウス=オブシディアン。
そのような大物から手紙を寄越されたとなっては、緊張するのも当然で。しかもガリウス国王は政治学者の第一人者でもあり、論文をいくつも読んだことがあった。
「もしかして、お会いできたりするのかしら」
やっとリオンが振り向いて、眉を顰める。
「はあ? 俺様の親父にか?」
「素晴らしい方なんですよ! 十代の時に出版なさった本……もう三十年も前の本が、今でも議論の中心になってるくらいで。そうそう、私、陛下の『資源と外交戦略』を参考に論文を書いていたところだったんです」
ついテンションが上がってしまった。冷静なリオン様と目が合い、恥ずかしくなる。
「御託はいいから、さっさと読め」
「は、はい……」
赤面しつつ、私は手紙の封を解いた。丸まっていたそれを一気に開く。
その瞬間、紙面から眩い光が放たれた。
「きゃっ! な、なんなの?」
光はすぐに消えたものの、どことなく違和感がある。
「何か魔法が仕掛けられていたな。見たところ、大した魔法じゃない」
「そうかしら。リオン、どんな魔法かわからない?」
その違和感の正体は、喋ってみることで初めて認識できた。
リオンが作業を中断し、眉を上げて私を睨む。
「ほう、呼び捨てとはいい度胸だな」
「ち、違うの! そういうつもりじゃなくて、私……あれ? どうして?」
訂正しようにも、思った通りの敬語が出てこない。
「ほんとに違うのよ、リオン!」
「……なるほどな」
納得気味にリオンは肩を竦めた。
「俺様に対する遠慮やらが一時的に封印されたのだろう。親父め、いらんことを」
「封印って……ど、どうすればいいのよ。あっ、これは別に」
口を塞いだところで話し言葉は治らない。
「わかっている。俺様に敬語全般が話せなくなっているんだ、気にせんでいい。で? 手紙には何と書いてある?」
ひとまず私は手紙へと目を戻し、達筆な文面を読みあげた。
『サヤカ=クレメンテ嬢へ。
直接会って話したかったのだが、留守がちなため、このような形で失礼する。
秘密裏に進める必要があったとはいえ、そなたを巻き込んでしまったこと、まずは一言詫びておきたい。前報酬といっては何だが、王宮の書庫は好きに使ってくれたまえ。城の者にはすでに話を通してある。
それから折り入って、そなたに頼みがある。我が息子リオンに将来必要な知識を叩き込んではくれまいか。あんな馬鹿にモノを教えるなど、大変面倒なことではあろうが、今のあやつに公国の未来を任せることはできん。
残念だが、我が息子は阿呆なのだ。
そなたの働きに期待している。国王ガリウス=オブシディアン』
何ともぶっ飛んだ内容だわ。
「あの親父め! いつまでも俺様をガキ扱いしやがって!」
リオンは怒って手紙を取りあげ、びりびりと破いてしまった。
「そういうところが子どもなんでしょ? ……まっ、魔法のせいよ? 今のも」
相手が王子だと頭ではわかっているのに、驚くほど簡単に口が滑る。
手の掛かる王子様は歯軋りしていた。
「本気でそう思ったんだろう、おまえ。生娘の分際で」
「ちょっと、処女かどうかは関係ないじゃない」
「俺様はおまえより大人なんだぞ。煙草を吸うし、酒だって……ほんのちょっとだけなら飲める。つまり生娘のおまえが俺様を子ども扱いするのは、論理的におかしい」
頭が痛くなってくる。
嫌いなトマトをメイドに食べさせるのが、大人ですって? はあ……。
この城に来てから、もっとも重たい溜息が漏れた。これが本当に子どもならまだしも、オブシダン公国の将来を担う王位継承者と思うと、やるせない。
おそらくリオンやゼルは私をメイドとして城に置こうとした。しかし国王陛下が私を家庭教師として位置づけたことで、齟齬が生じている。
結果、メイドと家庭教師の二重生活に。
「あなた、勉強が嫌いなの?」
リオンはふんぞり返り、王族の教育について熱論した。
「王とは人を従えることさえできればよいのだ。戦いも、学問も、俺様の部下がすることであって、俺様がそれをできるようになる必要はない。わかるな?」
台詞だけ聞いていると名君のものだが、単に怠けたいだけのようにも聞こえる。
一国の王子としてどれくらいの知識を持っているのか、確かめておくべきね。私は散り散りになった手紙を片付けながら、リオンに一問一答を仕掛ける。
「じゃあ問題。去年オブシダン公国とエルマート王国で締結された協定の内容は?」
ところが、一問目から深刻な回答が返ってきた。
「きょうてい? そんなものあったか?」
「あ、あなた……王子でしょう?」
私がぎょっとしても、リオンは平然とかぶりを振るだけ。
オブシダン公国の領内には長らく鉱物資源がなかったが、数年前、エルマート王国との境界にある山脈で、大きな鉱脈が発見されたのだ。
その鉱山はオブシダン領にある。しかし地下ではエルマート領のほうにも鉱脈が伸びており、どちらが所有するかで一悶着あった。
そこでガリウス国王が折り合いをつけ、鉱山の共同開発に至ったのである。
勿論、その裏では政治的な駆け引きも無数にあったわけで。
「親父も馬鹿だな。半分にすればいいだけの話だろう」
「そうもいかないの。公国の権威とか、発言力って問題があるんだから」
いずれこの国の王となる男子が、つい去年の外交もまるで知らないなんて、情けない。
「我が国の主な輸出品は、上から順に?」
「あれだ、ケーキと牛肉だったか」
なるほど、このままでは王位継承などさせられない。
「……織物よ。絹とシルク、牧畜してるから毛皮も。あと、ケーキは輸出できません」
勉強不足の王子を一から教育するのだから、責任重大だわ。
魔法で王子相手に遠慮が利かなくなっているせいか、前ほど怖くもない。
「こっちの椅子、借りるわよ。早速始めましょ」
「待て、俺様は勉強するとは言っとらん」
「するの! 王位継承の儀式より先にするべきだわ」
子どもを躾けているような錯覚がした。
渋々リオンが向かいに座って、デスクの上を片付ける。
「面倒くさい女だ、まったく……こんな勉強が国を豊かにするとは思えんがな」
「国の繁栄に直結してること、自覚して。そうね、今日は歴史から」
残念ながら次世代の王は、オブシダン公国の歴史さえろくにご存知なかった。
☆
午後の四時にはメイドの仕事に戻って、夕食の準備に四苦八苦。嫌そうな顔をする王子様のもとにトマトサラダを運び、それから片付けに追われて。
自室のベッドに突っ伏すと、丸一日分の疲れが出てきて、しばらく起きあがることさえできなかった。
「はあ……つ、疲れたわ……」
一番疲れたのは、やっぱり家庭教師かしら。
リオンは歴史も地理もさっぱり。誰でも知っているような常識を、『何だそれは』の一言でことごとく切り捨ててしまう。
集中力もなく、途中で居眠りしたり、休憩の口実を挟んだり。
勉強に対する拒否反応は表情にも仕草にも表れていた。
……まずは、やる気を出してもらわないとね。
それでも国王陛下から直々の依頼なのだから、何とかしなければならない。
枕が変わったせいか、考え事のせいか、疲れていてもなかなか寝付けず、私は寝返りを打っていた。壁に含まれている黒曜石が鈍い光を放つため、深夜でも部屋は薄明るい。
対照的に窓の外は真っ暗で、月の方角にだけ、分厚い雲がうっすらと見えた。
廊下のほうで扉がぎいっと開く。
……誰か入ってきた?
反射的に私はベッドの上で身構えた。
その人影が低い姿勢で部屋を見渡し、私の名を呼ぶ。
「サヤカ、起きてるな? いくぞ」
「ゼル? あっああ、あ、あんたねえっ!」
近づいてきた変質者の横っ面に、強烈な平手打ちが決まった。
バッチーン、と実にいい音が鳴る。
「いってえ! 何すんだよ、そーいう意味で来たんじゃねえって」
侵入者はぶたれた右の頬を押さえ、涙を滲ませた。
「こんな時間に女の子の部屋に忍び込んできて、言い訳? 変態! スケベ!」
「しーっ! ほかのメイドが起きちまう。夜になったら迎えにいくって、言っただろ」
「夜這いにいく、の間違いでしょ。腐れ外道」
こちらはいつでも大声で叫ぶつもり。
ゼルは部屋いっぱいに距離を取り、どうどうと私に言い聞かせた。
「落ち着けって。おまえ、この城に何しにきたんだよ」
「何って……家庭教師?」
「そうじゃなくって、あれだよ、聖杯」
すっかり忘れていた。
メイドと家庭教師、それから血液提供の三重生活なんだっけ。無論、一番重要なのは王位継承にも関わる、最後の血液提供のはず。
「リオン王子と合流することになってる。……なんだ、寝間着なのか?」
「あなたたちは説明不足なのよ。すぐ着替えるから、外に出てて」
ゼルを部屋の外で待たせ、手早くメイド服に着替える。まだ数日しか着ていないのに、フリフリのヒラヒラに適応できているのは妙な気分だった。
ふと鏡で見た自分の髪が気になり、ポニーテールでひとつに結ぶ。
忍び足で部屋を出ると、ゼルが驚いた。
「珍しいな。髪、似合ってるぜ」
「……どーも」
昼間、同僚に髪を褒められたせいで、得意になっているのかもしれない。
「いいか? 誰かとすれ違ったらオレに擦り寄れ」
「……どうして?」
私はゼルとともに声のボリュームを抑えつつ、黒曜石で煌く廊下の端っこを進んだ。
ひんやりと静まり返った夜の空気が、少し肌寒い。
「見つかっても、逢瀬だと思われればいいんだよ。貴族や騎士が、気に入ったメイドを夜中にたらしこむってことは、普通にあるし」
「騎士団のこと信用できなくなりそう」
回廊を歩いても、この時間帯は壁の燭台が勝手に灯ることはないようだった。運よく誰にも見つかることなく、ゼルなんかに擦り寄らずに済む。
礼拝堂の裏にまわると、そこではリオンが煙草を燻らせていた。
「お待たせしました、リオン様」
「尾けられてはいないな?」
その雰囲気に威圧感があるのは、コウモリのサイズとはいえ羽根が生えているせいだろうか。背中から左右対称に骨格が伸びている。
リオンの手が礼拝堂の壁に触れると、隠し扉が開いた。
「俺様の後ろに着いてこい。道を間違えると、ここへは戻ってこれんぞ」
扉の向こうでは、細長い階段が地下深くへと続いている。王城よりも黒曜石の純度が高いのか、暗闇の中でも、そのルートはぼんやりと光を帯びていた。
「この通路って、トップシークレット……よね」
先にリオンから階段を降り始める。
「親父やジジイの代で探検隊を放り込んだこともあるからな、大抵の貴族は知ってるぞ。聖杯の在り処まで知ってるのは親父と俺様のふたりだけだが」
次に私、最後にゼルが続いた。
「……これって、もしかして地下迷宮じゃないかしら」
「オレも今そう思った。地下迷宮の真上に城が建てられたってことですか?」
「うむ、その通りだ。ずっと下のほうで魔界に繋がっているらしい」
世界各地にある暗黒の大穴、地下迷宮。そこには凶悪なモンスターが徘徊し、危険なトラップとともに、無謀な冒険者たちを待ち構えている。
領内に地下迷宮がある国は、厳重な封印を施すよう、国際法で定められていた。
公国にもあったんだわ……。
にもかかわらず、オブシダン公国は迷宮の真上に城を建て、しかも迷宮の存在を隠している。王家が悪魔の血筋であることに関連して、秘匿しているのだろう。
三人の足音が、不揃いな打楽器のように響く。
「リオンは下まで降りたことあるの?」
「おい、サヤカ! そんな口の聞き方……」
私が王子を呼び捨てにすると、後ろのゼルが慌てた。そりゃそうよね。
「構わん、こういう女なんだ」
リオンのフォローはまるでフォローになっていない。
「親父でも、降りたのは地下二十四階までだったというな」
「何階まであるの?」
「五十階だとか、百階だとか。俺様にもわからん」
最初のフロアに辿り着くまででも、五分間は階段を降りた。やっと平らになったが、見るからに道が入り組んでおり、複雑な構造を成している。
これだけ地下深くにあっても、薄暗いのではなく『薄明るい』のが奇妙だった。
小心者のゼルが不安そうに周囲を警戒する。
「な、なんかいかにも出そうな雰囲気だな。オレ、こーいうのはちょっと」
「あっらあ? 地下迷宮ってコトは、出るんじゃないの? コレとか」
面白半分に私は胸の高さでてのひらを垂らしてやった。
するとゼルが長身のくせに縮こまり、私の背中に隠れようとする。
「やめろよ! そういう話してたら出るって、いうだろ?」
「何が出るっていうのよ。ひっひっひ」
せっかくの機会よ、日頃のゼルへの恨みを晴らしておかないと。
「肝の据わった女だ、おまえは」
「ありがと」
「それに引き換え、後ろのそいつはつまらん男だな」
リオンの羽根が手招きするように動く。
前ほどの怖さがない分、少し興味が出てきた。
「リオン、その羽根ってどうなってるの? 生えてなかったりもするじゃない」
「普段は隠してるんだが、伸ばしておかないと窮屈でたまらん」
「そういうものかしら」
羽根などない私には、いまひとつピンと来ない。
立ち止まったリオンが振り向き、向こうで羽根を伸ばす。
「例えば、そうだな……両手を前に出してみろ」
言われた通りに両手を前に出すと、まとめてギュッと掴まれた。
「窮屈だろう」
「当然よ。動かせないもの」
「羽根を引っ込めてると、ちょうどそんな感じになる」
実は私の背中もたった今、窮屈だったりする。
さっきからゼルは私の後ろに掴まり、ガタガタと震えていた。
「こんなヤバイところ通るなんて、聞いてねえよ……モンスターとか出ないよな?」
「もっと下のほうに行くと、うようよいるぞ。親父も見たらしい、女の悪魔一匹に、騎士がふたりも生気を吸われてな」
「ひいいいいい~!」
不思議なもので、自分より怖がってくれる人間がいると、自分は怖くなくなる。昔からゼルがこの調子のおかげで、私は怪談の類に自信があった。
「この階は出てこないのね」
「浅い階層のモンスターは随分前に駆逐したしな」
「化け物の話はやめましょう! もっと、そう、楽しい話を!」
こいつが怖がるからこそ、楽しいのに。
「あなた、白魔導士なんだから、神聖魔法も使えるんでしょう? いい機会じゃない」
「冗談じゃねえよ。邪悪じゃないモンスターが出てきたら、どうするんだ」
「……邪悪じゃなかったら、襲ってはこないってば」
それこそ悪魔退治もできる白魔導士様が、まったく頼りにならない。
そうだわ。せっかくゼルが一緒なんだし。
鬼でもない私は、話題を変えてやることにした。
「じゃあ、議論しましょ。聖杯に乙女の血液を注ぎ込むことの、是非について」
「はあ? そのことならOKってことで、話はついたじゃねえか」
「そう言わずに。モンスターの話よりはいいでしょう?」
リオンにも聞こえるように、声のボリュームは遠慮しない。
「処女の生き血だなんて女性蔑視もいいとこだわ。古い慣習ってどうしてこう、マチズモに傾倒してるのかしら」
やっとゼルは背筋を伸ばし、親指で顎をなぞった。
「一概に男尊女卑とは言えねえって。女性に神秘性を認めてるわけだし……それに公国土着の神話だと、女神のほうが立場強えだろ?」
「あぁ、男性の神様が女神の実家に謝りに行ったりね。神話が昔の社会体系を反映してるとするなら、女性全般に優位性があったらしいことは読めるわ」
「グラント教会の信仰以前は、な」
「白魔導士が言えること? また反省文書かされても、知らないわよ」
などと、高尚な議論に興じていると、王子様は不愉快そうにむくれる。理由は単純よ、勉強不足のせいで仲間に加われないから。
そうとは知らないゼルが、リオンに意見を促した。
「リオン様はどうお考えなんですか? 皇太子として思うところもおありでしょう。大丈夫です、ここでの話は口外いたしません」
大成功だった。これを狙って、議論を振っかけてみたの。
怠惰で傲慢なリオンでも、ここで答えられないのはまずい、と思っているらしい。眉間を押さえて言い渋る。
「あー、うん。お……おまえと同じ意見かな?」
「それよりグラント教会といえば、聖書の現代語訳ですよ! 教会の古典派はしぶとく抵抗してますけど、オブシダン公国は出版を許可すると思うんです」
しかし火がついてしまったゼルの質問責めは失速しない。
「ここ数年はグラント教会にやや弾圧的ですけど、現代語訳のフォローで新鋭派を一気に取り込もうっていう、国王陛下の戦略なんじゃないですか?」
「だ、大体そんな感じだ。うん。……おまえ、なかなかやるじゃないか」
リオンは冷や汗をかいて、唇の端を引き攣らせた。
その視線が私に釘を刺す。
(謀ったな! あとで憶えていろ)
(少しは王子の自覚も出来たでしょう?)
お返しに私はアッカンベー。
乙女の神秘性やら、グラント教会について議論するうち、私たちは地下水脈へと差し掛かった。透明の水面が揺らめき、黒曜石の光の波をかき混ぜている。
「こんな地下に……綺麗ね」
「触るなよ? 猛毒だ」
しゃがんで触れようとしたところで、その一言に遮られた。
「う。も、もっとはやく教えなさいよ」
「毒については素人のようだな」
さっきの仕返しとばかりにリオンがにやつく。
なんだか私たち、低レベルな争いしちゃってるわね。
「こっちだ」
地下水脈を辿るように進むと、荘厳な祭壇に行き着いた。
祭壇の付近は黒曜石の純度が極めて高いのか、これまでの迷宮とは明るさが違う。すぐには目が慣れず、眩しいくらいだわ。
薄い台形を三段重ねにした祭壇の上には、古びた杯がひとつ。
「あれが……聖杯だ」
リオンは祭壇に上がり、聖杯の側面をそっと撫でた。
「おかしいと思わんか? これに満タンまで入れて、飲み干すんだぞ」
大人の頭がすっぽり入りそうな大きさで、その容積は3リットルにも達する。一気飲みするには無理があった。
「あなたのご先祖様は身体が大きかった、とか?」
「それはあるかもしれん。人間の血が混ざって、少しずつ今の姿になったか」
王子の骨だけとなった羽根がぴくっと動く。
ゼルは触媒やら巻物を取り出し、準備を始めた。
「儀式の際は数回に分けてお飲みになれるよう、段取りを調整しましょう。民の面前で飲む分はパフォーマンスですから、血である必要もありません」
「そのあたりは任せる」
リオンはゼルの言葉を遮り、ふと私の顔を一瞥する。
「……まあ、親父の時はそんな悠長なことは言ってられなかったのだろう」
それまでは冗談交じりだったリオンの表情が険しくなった。
「どういう意味?」
「なんでもない。始めるぞ、上がってこい」
命令はいつも以上に素っ気ない。
私も祭壇に上がって、件の聖杯を覗き込む。
その中は顔が映るほど綺麗に磨かれており、私と私の目が合った。柄にもなくポニーテールでいたことを思い出す。
「これが聖杯……。どんな金属で作られてるのかしら」
「あとにしろ。ゼル=シグナート、おまえもさっさと始めてしまえ」
白魔導士のゼルが私の右腕を慎重に掴んだ。脈を測るように指を押しあてる。
「聖杯の上まで手を伸ばして、楽にしてくれ」
「こう? ……真面目に仕事してるゼルって、なんか変よ」
「魔法に集中させてくれって」
手首に青色の、薬のようなものを薄めに塗られた。
魔法に不可欠な『触媒』ね。そのうえで『詠唱』という手順も必要となる。
「人間の魔法使いは面倒だな。ブツブツと」
人間離れしたリオンは腕を組み、ゼルの詠唱が終わるのを待っていた。
「リオンは使えないの? この魔法」
「使えないというより使ったことがない。加減を誤ったら、おまえの腕が千切れるぞ」
「え、遠慮させてもらうわ。そういうのはちょっと」
呪文の途中でゼルが溜息をつく。
「リオン様、お静かにお願いします。魔法に集中できません」
「もっと集中していろ。集中力が足らんから、そうなる」
詠唱は最初からやりなおし。
「――我に、かの者の鮮血を分け与え給え。オー・リオ・ヘプト・サーク……」
傷もないのに、手首から生温かい液が流れ始めた。
真っ赤な鮮血だ。
「だ……大丈夫なの? これ」
少量ずつとはいえ止まりそうになく、不安になってくる。
「大丈夫だ。オレの腕を信じてろって」
「だから余計に怖いんだってば」
それは中指の先から滴り、聖杯へと落ちた。
その瞬間、眩い光が私の視界を奇襲する。思わず目を閉じたが、強烈な光は瞼さえ通過し、私の脳裏をフラッシュさせた。
「な、なんなの? いきなり……!」
光の向こう側から手を引っ張られるような力を感じる。立っていられない。
「離れるぞ、サヤカ!」
咄嗟にゼルが身体を捕まえてくれたものの、光の中から腕を引き抜けなかった。
傍らで見ていたリオンが顔色を変え、腕組みを解く。
「まずい、引きずり込まれるぞ!」
「リ、リオン、助けて! どうなって――」
眩しすぎて、リオンやゼルの顔さえ見えない。
全身からかくんと力が抜ける。
だんだん意識も遠のいて、私は光の中へと落ちていった。
☆
我に返った時には、まったく別の場所にいた。
同じ地下迷宮の一室らしく、黒曜石の輝きが周囲を浮かびあがらせる。
「……あ、ここは……?」
しかし視界の端がぼやけており、鮮明な映像にならない。
地に足が着いていないような感覚の理由は、すぐにわかった。天井近くの高さで、身体が宙に浮いているの。重力も感じられず、姿勢を垂直に正せない。
「掴まっていろ」
空中でカナヅチ状態の私を、リオンが抱き寄せた。骨しかない悪魔の羽根を広げ、宙でもバランスを保っている。その羽根は腕より長くなっていた。
異性との密着に抵抗はあったものの、そうも言っていられない。嫌な予感がして、私のほうからもリオンの黒衣をしっかりと掴む。
「リオン? どうしちゃったの、私」
傍にゼルの姿はない。
「聖杯の記憶に精神を引きずり込まれたんだ。とにかく脱出が先決だろう」
「え、ええ。……ゼルは?」
「やつにはほかの仕事を任せてある。いくぞ、俺様から手を離すな」
片手で私を抱きかかえながら、リオンが頭を逆さにひっくり返る。すると私も迷宮の床ではなく『天井』に足を降ろすことができた。
聖杯の記憶……?
意識がはっきりしたまま夢でも見ているみたいだわ。
歩いて進むまでもなく、周囲の映像がスライドしつつ切り替わっていく。
床のほうでは、奇妙な一団が集まっていた。フードを被り、顔を見せようとしない。
「ねえ、見つかったりしないかしら」
「それはない。これは過去の出来事を見せられているに過ぎん」
やがて礼拝堂のような場所に移って、それきり映像は変わらなくなった。さっきと同じ聖杯が壇上に鎮座している。
しかし聖杯は、私が見たものとはまるで色が違った。不気味に黒ずんでいる。
それをフード姿の連中が崇めていた。
「何代か前の、王位継承の儀式のようだな」
「これが? なんだか……気味が悪いんだけど」
礼拝堂は後ろ暗い雰囲気に満ちていた。これからおこなう儀式は、決して人目に触れてはいけないのだろう。ひっそりと、闇に紛れるように進められていく。
聖杯の前へと、ひとりの少女が連れてこられた。連中と同じ信者風のスタイルだが、目隠しされており、足元もふらふらとおぼつかない。
いくつもの思念が私の頭にじかに響いた。
『早くオブシディアン家の王位を磐石なものにしなければ、我々の立場も危うい』
『この娘は敵対勢力の処女狩りに遭ってはおらんだろうな』
『国王陛下に勘付かれたら事だぞ。ええい、裏切り者の把握はまだか!』
権力者たちの陰謀。保身というエゴ。
そして殺意。縛りつけられた少女の周りで、六本の剣が一斉に光る。
まさか……!
「聖杯などとよく言ったものだ。呪いの杯とでも言われたほうが、しっくりくる」
リオンの淡々とした感想は、むしろ真に迫っていた。
「……呪いの杯……」
聖杯の濁った色が血糊であることにぞっとする。
オブシダン公国の三百年にも及ぶ平和の影で、王位継承の血生臭い儀式は秘密裏に、代ごとに執り行われていたらしい。謀や企ても無数にあっただろう。
生贄の少女がどうなるのか、もう見ていられなかった。おぞましい戦慄に駆られて、私はリオンの胸に顔を埋め、震えてしまう。
「見なくていい。安心しろ、おまえはこうはならんさ」
リオンは私をしっかりと抱き締めてくれた。腕の中は温かい。
恐る恐る視線を戻した時には、聖杯は真っ赤な液体で満たされていた。六本の剣が聖杯の上で交差し、切っ先へと鮮血を集め、滴らせる。
「ご、ごめんなさい。怖くて」
「聖杯が見せる幻などに惑われるな」
ぶっきらぼうな言葉は少しも慰めてくれなかった。その一方で抱き締める力は強く、私を安心させようとする、穏やかで優しい気持ちが伝わってくる。
「もうじき出口だ。見たくないなら目を閉じてろ」
「う、うん。わかったわ」
悪魔の腕に抱かれ、私は安堵してしまった。
☆
「サヤカ! しっかりしろ!」
「ん……んぅ、んむう?」
リオンとは別の男性に呼ばれて、身体に力が戻ってくる。
だけど思うように返事ができない。目を開くと、ゼルの顔が近くに見えた。
「~~~~~ッ!」
唇に未知の感触があって、驚愕のあまり目を見開く。
ゼルが、ゼルが私にキスをしてる?
「ぷはあっ! 気がついたか?」
「ちちち、ちょっと、なんでゼルが……」
おまけに私の服は乱され、胸が下着ごと丸見えになっていた。ゼルのほうも上半身を露わにして、私に密着している。
「どうなることかと思ったぜ、助かってよか、っへぶし!」
「きゃああああああッ!」
渾身の平手打ちが、変態の横っ面に炸裂した。
私は顔を赤らめ、半ば逆上しながら布地を胸元へとかき集める。
「なんてことするのよ! バカ! スケベ! 最低!」
「こ、これには事情が! 待て、落ち着け!」
「落ち着くわけないでしょう?」
ぎゃあぎゃあと騒いでいると、ゼルの後ろで起きあがる人影があった。
「戻ってこられたようだな。身体におかしなところはないか?」
さっきまで一緒に聖杯の過去を彷徨っていた、リオンだ。
ゼルの上着をリオンが拾って、私に投げつける。
「あ、ありがと、リオン。大丈夫みたい」
私は怒気を鎮め、ゼルの上着を羽織った。ゼルにも何か事情があったのだと、把握できるくらいには落ち着く。
だからといって許す気もないけど。
「……で? ゼル=シグナートさんは何をしていたのかしら」
「まずは怒りをお鎮めいただけませんか、サヤカ=クレメンテ様」
半裸のゼルが土下座のポーズで一生懸命、頭を下げる。
「責めてやるな。こいつは――」
聖杯に精神を引きずり込まれている間、私の身体は仮死状態にあったらしい。
そこでゼルは現実世界に残って、私の身体を温めつつ、マウス・トゥ・マウスで延命措置を続けてくれていたわけである。
今夜一晩で両方の頬をぶたれたゼルが、不機嫌そうにふてくされた。
「どんだけ心配したと思ってんだよ。思いきり殴りやがって」
「わ、悪かったわよ。ゼルもありがと」
私は唇をなぞり、こっそりキスの後味を確かめた。
ファーストキスだったのに、ゼルだなんて……。
ドライな私でも、キスに少しくらいは思うところもある。そのうえ裸を見られ、お世辞にも大きいとは言いがたい胸の感触まで、おそらく知られてしまった。
羞恥心から思考を切り離すためにも、状況を分析する。
「……私、死んじゃうところだったのね」
「そ、そうだぜ! リオン様、これは一体どういうことですか」
私からゼルに、ゼルからリオンへと質問が飛ぶ。
リオンは煙草を一本噛んで、人差し指でそれを弾いた。マッチもないのに火がつき、細長い煙を立ち昇らせる。
「聖杯の魔力をもろに受けたな。そっちの魔導士ならまだしも、サヤカには魔法に対する免疫がない。ふう……それでも、万全は期したつもりだったんだが」
「万全を期して死んじゃったら、たまんないわよ」
「やりようはいくらでもある。とにかく、今夜のところは引き返すとしよう」
背中を向けたのは『服を着ろ』という意味ね。
「ゼル、あんたもあっち向いてて」
「お、おう」
デリカシーのないゼルに警戒しつつ、さっさと着替えを済ませる。
仕上げにスカートを調えてから、私はゼルに上着を返した。運動音痴であるはずのゼルにもそれなりに筋肉がついていて、直視するのは恥ずかしい。
「もういいな。帰るぞ」
私たちは地下水脈に沿って、来た道を引き返すことに。
聖杯は祭壇の上で放ったらかし。
「血液って固まっちゃうじゃない。いいの?」
「聖杯の中なら、そうはならん。鮮度が保たれる」
処女の生き血を欲するあれは、本当に『聖なる杯』なのだろうか。そこに血生臭い歴史が隠れていることを、私はもう知っている。
地上へと向かう途中、先頭のリオンが一度足を止めた。
「このついでに確認しておくぞ。儀式の準備が始まっていることを知ってるのは、親父と俺様と、サヤカと、ゼル=シグナートだけだ」
指先の煙草が小さな炎に包まれ、跡形もなくなる。
「もしほかに知っている者がいたら、すぐに俺様に報せろ。いいな」
公国の権力者たちに悟られれば、企てがあるかもしれない。それが王家の味方であれ、敵であれ、争いの火種になることは明らかだった。
「国王陛下がいらっしゃらないのに、始めちゃっていいの?」
「全員揃って進めては、怪しまれる。親父が不在のうちに始めるのは予定通りだ」
長い階段を上がり、地上まで戻ってくる。
さっきは雲に覆われていた月が、夜空を従えるように輝いていた。深呼吸して、肺の中に溜まっていた陰鬱な空気を存分に発散してやる。
「部屋まで送ってやるよ、サヤカ」
「冗談言わないで。ひとりで戻れるから」
頑なに同行を断ると、ゼルはおどけて前髪をかきあげた。
「へいへい。それではリオン様、失礼いたします」
彼を見送り、声が届かなくなるのを待つ。
「どうした? おまえも戻れ」
「その前にちょっとだけ、王子様を苛めておこうと思って」
私は意地悪な笑みを浮かべ、リオンの胸元をつついた。
「少しはわかったでしょう? 今のままの勉強不足だと、まずいってこと」
「そ、その話か……」
ばつが悪そうにリオンが顔を顰め、目を逸らす。
政治的な話題で王子が持論のひとつも語れないようでは、格好が悪い。博学なゼルが議論を盛りあげてくれたおかげで、少しは王子の身にも染みたはず。
「みんなが公国のことを考えて、自分なりの意見を持ってるのよ。なのに、王子のあなたが意見どころか知識もなくて、どうするの」
「だから、それはだな……文官に任せておけばいいことで」
王子様の言い逃れは苦しい。
「甘えないのっ。明日からちゃんと勉強する、い・い・わ・ね?」
叱りつけるように言い聞かせると、リオンは観念したように折れた。
「はあ……わかった、勉強すればいいんだろう。ただし、わかりやすく教えろ」
「教える以上、私には責任があるもの。あなたを立派に教育してみせるわ」
これで勉強に対する姿勢が改善されればいいんだけど。
「ところでおまえ、リボンはどうした?」
「え? ……あれ?」
いつの間にかポニーテールが解けていた。倒れたりした拍子に外れたみたい。
地下迷宮のどこかに私のリボンが落ちている。
「探しに行くか? 今から」
「ごめん、いい。せっかく出てきたところなんだもの」
「……ふん、本当は怖いんじゃないのか?」
リオンのしたり顔が小憎らしかった。
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