百番目の寵姫

第三話 湖上のカプリッチオ

 霧の城に来て、早三日が過ぎた。

 最初は戸惑ったドレスにも少しは慣れ、紅茶を味わうくらいの余裕が出てくる。レティシアはテラスに出て、エリオットの小話に耳を傾けていた。

「そこでお爺さんが言ったのさ。おい、胡椒はどこにあるんだって」

 彼の言葉は筋が通っている時もあれば、支離滅裂な時もある。こちらが情報を聞き出そうとしても、軽快な言いまわしではぐらかされた。

「胡椒がないから砂を入れちまったのサ! アハーハー!」

「こら、チャリオット! 先にオチを言うんじゃないよ」

 ただ、退屈はしない。エリオットは道化として、レティシアを飽きさせない工夫や趣向を凝らすことに熱心だった。猫のお面、もとい相棒のチャリオットも憎めない。

「あなたはお喋りが上手ね。寵姫に言い寄られたりしないの?」

「まさか。僕は男でも女でもないって、言ったでしょ」

 テーブルには彼の分のお茶もあるのに、エリオットは席につかず、大袈裟なジェスチャーも交えて喜劇を語っていた。

シンシアはレティシアの隣で、静かに紅茶を仰いでいる。時折、レティシアに合わせて微笑んだりもするが、おそらくエリオットの小話など聞いていない。

「うふふ……」

 城にいる女性は皆がこの調子だった。

 百人目の寵姫であるレティシアは、いうなれば彼女らにとって恋のライバル。なのに対抗心を燃やすどころか、仲間が増えた、と新参者を歓迎する。

 寵姫たちに招かれ、お茶会に出席することもあった。しかし同じ話題を延々と繰り返されるだけで、気が滅入ってしまうほど気味が悪い。

 飼っていた犬の話が終わったら、また飼っていた犬の話が始まり、ほかの寵姫はそれを初めて聞くかのように盛りあがる。レティシアにはまったく意味がわからなかった。

 だから道化との茶会を優先している。

「ここ数日で、随分と『らしく』なりやがったなァ、レテ公」

「ありがと。あなたは相変わらず、うるさいお面ね」

 会話にならない寵姫たちと作り笑いで過ごすくらいなら、チャリオットの暴言でも聞いているほうがましだ。まだ人間らしい親しみを感じられる。

 人間と……人喰い鬼のノスフェラトゥ、ね……。

 この三日間でわかったことは多い。

 ベオルヴ=オーレリアンドはノスフェラトゥの正統な王族であり、四百年もの間、この城で王の座に君臨していた。

 彼は人間との関わりを断つため、山中の湖上に城を建て、魔力で一帯に濃霧を漂わせている。城に近づく人間はその霧に巻かれ、入り口に戻される、というわけだった。

 人が無事に帰ってくるのであれば、それ以上の詮索はされにくい。

またベオルヴは騒動を嫌うため、近辺を脅かすような異分子は、寵姫らに処理させてきた。サーシャ村へと逃げ込もうとした犯罪者が変死を遂げる理由である。

そしてノスフェラトゥは『人喰い鬼』と呼ばれているが、実際に人間を食らうのは下級のノスフェラトゥだけ。上級のノスフェラトゥ、例えば寵姫クラスになると、本能的な人喰いの衝動を理性で抑えることができる。

レティシアを襲ったのはノスフェラトゥの下級種だった。寵姫によって狩られた犠牲者が、まれにノスフェラトゥの『出来損ない』として、短時間だが蘇ることがあるらしい。不運にもレティシアはそれと遭遇してしまったのだ。

あの瞬間を思い出すだけで、背筋にぞくっと悪寒が走る。

道化の小話が一段落したところで、レティシアは探りを入れてみた。

「ねえ、エリオット。あたしのほかに人間はいないの? 寵姫って九十九人、全員がノスフェラトゥなのかしら?」

「そうさ、レディー。この城で人間なのは、キミひとりだけ」

 答えても差し支えないことであれば、エリオットは軽快な調子で教えてくれる。

 ノスフェラトゥは時間の感覚が曖昧で、何年何月、という概念そのものがなかった。ベオルヴが王位に就いて四百年というほどの永劫では、月日を数えることにあまり意味がないのかもしれない。

 エリオットは冷めた紅茶を掲げ、謳うように囁いた。

「我が王が人間に血を分け与えて寵姫に迎えるなど、初めてのことさ」

 レティシアの心臓がどくんと脈打つ。

「あたしに血を……」

 ベオルヴはいわゆる輸血によって、死に瀕していたレティシアを蘇らせた。ノスフェラトゥの王の鮮血だけが持つ魔力が、レティシアの身体を変異させたという。

 自分が変わったように思えるのは、豪奢なドレスのせいであって、レティシア本人にこれといった自覚はない。手でグーやパーを作ってみても、何も感じなかった。

 あたしの中に、本当にベオルヴの血が流れてるの?

 シンシアがティーポットを手に取り、おかわりを薦めてくる。

「どうぞ、レティシア様」

「あ、ありがとう」

 彼女のほうは丁寧な言葉遣いにもかかわらず、レティシアの物言いはぞんざいだった。ブレーキを掛けているつもりなのだが、言葉が勝手に軽くなる。

 一向に『ですます』が出てこない。

「……ちゃんとお話できないの。どうして?」

「お話ならできてますわよ? おかしなレティシア様」

 シンシアは気を悪くせず、柔和に微笑んだ。冷めていたはずの紅茶が再び湯気を立ち昇らせ、芳醇な香りを放つ。

 彼女を含め、城に住む女性は全員がベオルヴの寵姫。王の後ろめたい欲望を満たすためだけに、ノスフェラトゥの中でも一流の淑女が集められていた。

 そして百人目の寵姫がレティシア=ハーウェル。

 人間でありながら寵姫に選ばれ、城に部屋まで与えられている。しかしベオルヴが命の恩人とはいえ、さすがに愛人の役目を押しつけられるのは御免だった。

「あなたは寵姫なんて立場でいいの?」

 シンシアが首を傾げる。

「……どういう意味でしょうか」

「だから、一夫多妻とかそういう……女性なら思うところがあるじゃない」

「女性ならと仰いますと、レティシア様は何か不都合でも?」

 やはり彼女には質問の意図が伝わらず、手応えがない。

 チャリオットが口を挟んできた。

「人間の王は寵姫を集めたりしないのかイ?」

「それは……よく知らないわ。あたしは平民だもの」

 レティシアはエリオット本人ではなく、つい猫のお面に向かって答えてしまう。

 母が好きな小説に、王位継承を題材にしたものがあった。それによれば、後継者が増えすぎると国が分裂したり、偽の後継者が名乗りを上げ、内乱になったりする。

かといって後継者が少なすぎても、急逝などの事態に対応できない。

 大陸全土は今『火薬樽』と言われるほど情勢が不安定になっており、小説の話も冗談にならなかった。

 王の愛人が百人もいるなど、人間の社会では考えられない。

 そんな寵姫の中でも、シンシアは純白のドレスが抜群に似合った。ユリの花をまとい、さながらウェディングドレスのような清らかさがある。

「お顔の色が優れませんわ。レティシア様、お休みになられては?」

 寵姫にはそれぞれ持ち前の色があるらしい。

 その一方で、エリオットの道化服は色の数が多かった。芸術家を気取ったふうに原色で衣装を塗り分けており、見ているだけで目がちかちかする。

「眠りなよ、レディー。明日もあるさ」

「ええ。身体もまだ本調子じゃないみたいだし……」

 ティータイムもそこそこに、レティシアは席を立った。菓子のシフォンケーキが余っているものの、コルセットが苦しくて、これ以上は入りそうにない。

「エリオット、ごめん。残りは食べちゃって」

 ところがエリオットは勘違いして。

「気にすることないでしょ。レディーはスレンダーなんだから」

「贅沢憶えちまうと、やっぱ腹周りに来るよなァ! まあウエストが膨らめば、ちったあそのデカパイとバランス取れるんじゃねえノ? ヒャーハハハッ!」

 チャリオットはレティシアの神経を逆撫でする。

「憶えてなさいよ、エリオット」

「いや、言ったのはチャリオットだって!」

 道化の言うことは信用ならなかった。

 

 

 毎朝のようにシンシアが部屋にやってきて、ドレスの着付けを手伝ってくれる。モーブの髪は毛先まで丁寧に櫛を通された。

 シンシア以外の寵姫も、どういうわけか新参者のレティシアには友好的で、ドレスや貴金属が贈られてくるほど。

寵姫たちは仲間意識こそあれ、互いをライバル視することがない。

 一週間が過ぎる頃には、ドレスにも慣れ、生活にリズムがついた。部屋にはレティシアの希望通り、アンティークの時計が置いてある。

「人間は不思議ですね。このようなもので時間を数えるなんて」

「時計がないと困らない?」

「不便に思ったことはございません」

 城の倉庫に古時計が転がっていたのは、運がよかった。城の住人がまれに人間の世界から持ち帰ってくるようで、いつぞやの調査隊のものらしい武具もある。

 だがシンシアを始めとする城の住人が、時計の使い方を知らないのはおかしい。

 時計なら、もっと大きいものが……。

 城の上層にはおそらく時計塔があった。それらしい影が上に向かって伸びており、空まで鐘の音を轟かせているはず。

 レティシアの着付けを終えて、シンシアが柔らかく微笑む。

「お顔の色もよくなりましたね」

「あなたのおかげよ」

 食事は朝と夕方の二回だが、お腹が空く時もあれば、まったく空かない時もあった。身体は日に日に調子がよくなってきており、初日のような倦怠感はない。

「ありがとう、シンシア。あたし、ちょっと出るわね」

「またお城の探検でございますか? でしたら、エリオット様もお連れください」

「いいってば。ちょっと出るだけだもの」

 着替えと食事を済ませてから、レティシアは部屋をあとにした。城の外壁に面した回廊に出て、重たい雲のように霧が垂れ込めている、湖を眺める。

 黒水晶で作られた城はこの霧に包まれ、日中でも日差しが入りにくい。

 濃霧の向こうには微かにサーシャ村の陰影が見えた。見えるということは、さほど遠くはないということ。湖の水面は今日も穏やかである。

ボートの一隻でもあれば、素人のレティシアでも向こう岸に辿り着けるだろう。

どこかにあるはずよ。どこなの?

レティシアは城の探検にかこつけて、脱出手段を探していた。最初のうちはエリオットにつきまとわれたものの、迷子の付き添いに飽きてしまったらしい。おかげで、ひとりで城内を歩きまわることができる。

しかし探せど探せど、舟は一向に見つからない。

城の構造も複雑で、湖に出るルートが見当たらなかった。ベオルヴや寵姫たちは現に行き来しているのだから、何らかの移動手段はあるはずなのだが。

いっそベオルヴに直談判しようにも、彼とはあれから顔を会わせていない。

唇を強奪された時から。

……あんな簡単に奪われちゃうなんて。

タリサほどではないにせよ、レティシアにも願望くらいあった。大人の話し合いに過ぎない縁談ではなく、自分の意志で相手を決めたい。

ましてや寵姫など、いくら豪華なドレスを与えられても願い下げだった。

早くサーシャ村に帰って、両親を安心させなくては。その気持ちが焦燥感となり、冷静でいたいレティシアを駆り立てる。

みんな心配してるわ、絶対。

 ハーブ屋の娘が行方不明になったことで、村も大騒ぎだろう。

 ナイトガベラの採取場所にレティシアの血痕が残っていたら、行方不明どころか殺人事件として、外部から兵が派遣されてくる可能性もある。

 とにかく一度家に戻って、父と母に無事を伝えなくてはならない。事情を説明できないにしても、一言『大丈夫』と言えたら充分だ。

「手紙だけでも許してもらえたら……」

 そのためにも、レティシアは城から出る方法を探す。

城は上下に階層がある分、総面積はかなり広い。一週間も歩きまわったおかげで、ハイヒールにもすっかり慣れた。

 鍵が掛かっているところを除けば、城の下層はほとんど踏破している。

城内は依然としてバラの香りが強く、常に嗅覚を刺激された。寝室など、香水の瓶を開けたままにしているかのように充満し、夢の中でもバラが咲くほど。

 お父さんの調合室のほうがましかも。

 なるべく人気のない道を選んで、霧の城を探索する。

 ゴーン、ゴーンと鐘の音が響き、時間の経過を報せた。概ね二時間に一回の頻度で鳴るようだが、未だに間隔が掴めない。鳴るたびに部屋の時計と少しずつずれていく。

「……あら? こんなところにも階段が……」

 遠まわりのつもりで一階を経由していると、下への階段を見つけた。この城は島に建てられているわけではないため、地下というより水中に続いているのだろうか。

 一昨日も昨日もここを通ったが、階段などなかったはず。首を傾げながら、レティシアは下の階を覗き込むように屈んだ。

脳裏でひとつの推論が閃く。

 ひょっとして、ボートは下にあるんじゃない?

 外に出るため、城の外周をなぞることばかり考えていた。しかし抜け道は足の下にあるのかもしれない。その閃きに自信を持ち、レティシアは階段を降りていく。

 途中から螺旋階段となり、道がうねった。スズランの照明が輝き、クリスタルの黒い壁面にきらきらと星のような光を散らす。

 下に行くほど壁の透明感が増し、さながら合わせ鏡となってレティシアを映した。方向感覚は滅茶苦茶になり、順調に降りているのかも怪しい。

 やがて終点へと辿り着き、円形の広間に出る。

 深さでいったら水中のせいか、四方は黒水晶の壁に囲われ、窓がひとつもなかった。空気は冷え込んでおり、レティシアの吐く息まで白い。

 中央には棺があった。蓋はない。

 そこでは青いバラに包まれながら、ひとりの少女が眠っていた。

銀色の髪がベオルヴのものに酷似しており、強烈な既視感がある。顔立ちはレティシアより幼い印象で、その瞳は静かに閉ざされていた。

見たこともないドレスを着ており、それは漆黒に染めあげられている。一枚の大きな布を身体に巻いて、ウエストを帯で結ぶ構造だ。ピンク色の花びら模様が清楚で、黒地とのささやかなコントラストも奥ゆかしい。

「……誰なの?」

 恐る恐る話しかけてみたが、反応はなかった。

「まったく……もう城を歩きまわるようになったか、レティシア」

 レティシアのほうが背後から声を掛けられ、ぎくりとする。

 いつの間にか城主のベオルヴが広間の入口に佇んでいた。レティシアは慌てて棺から離れ、うろたえる。

 その目の前で鉄格子が落ちた。

「……ちょっと、まさか!」

 ひとつしかない入口を塞がれ、閉じ込められてしまう。

 鉄格子を掴んで引っ張ってみたものの、手が痺れるだけだった。

「ど、どうして閉じ込めるのよ!」

「ここは城だぞ? これくらいの仕掛けはある。無闇に歩きまわるからだ」

 冷たい鉄格子の向こうで、ベオルヴがにんまりと微笑む。 

 初めて会った時と同じ漆黒の装いが、王の貫録を見せつけた。花のように色鮮やかな寵姫の中でこそ、彼の黒色は映えるだろう。

 その腕がマントを翻すと、三つも四つもあるブレスレットがじゃらんと鳴った。豪奢には違いないが、見るからに機能性は皆無で、重そうだ。

「ベオルヴ、あなた、いつから見てたの?」

「俺には容易いことだ」

 鉄格子越しに、ベオルヴが冷ややかな視線でレティシアを見据える。

「城内のすべてが見えているぞ。やろうと思えば、お前の寝顔だって観賞できる」

「やめてよ。……王様のくせに趣味が悪いのね」

 エリオットの監視がないから動きやすかったのに、城主直々に出張ってこられては、降参するしかなかった。

こちらとしてもベオルヴを探していたとはいえ、この状況では分が悪い。

「さて、尋問の時間だ。レティシア、どうしてこんなところにいる?」

 ベオルヴは上から目線かつ問答無用でなじってきた。言いつけを破った子どもみたいにレティシアを扱っているのが、その目でわかる。

「あなたが好きにしろって言ったんじゃない」

 レティシアはわざとらしく顔を背け、頬を膨らませた。

「入って欲しくないんなら、鍵を掛けておくとか、あるでしょ?」

「うむ。お前の言うことはもっともだ」

 レティシアをこんな目に遭わせている張本人が、しれっと言ってのける。

「で……レティシア、どうする?」

 やけに含みのある一言を投げかけられた。こわごわと振り返ると、ベオルヴの確信犯めいた笑みと目が合ってしまう。

「どうする、って?」

「出して欲しいんだろう。俺にお願いしないか」

 頭に血が昇った。レティシアは鉄格子を握り締め、意地悪な王様を睨み返す。

「もとはといえば、あなたのせいでしょ!」

「俺は命の恩人だぞ。あのまま死んでいたほうがよかったか?」

 恩着せがましい言いまわしが、さらにレティシアを挑発した。余裕たっぷりの上から目線で、囚人同然の少女を見下す。

 このひと……あたしが閉じ込められてるのをいいことに!

 しかし残念ながら城主は彼であって、レティシア=ハーウェルは客人に過ぎない。鉄格子を開く権限を持っているのは目の前の、命の恩人でもあるベオルヴ。

 かといって、レティシアにも譲れないプライドはあった。いつまでも城に軟禁して、実家に帰してくれる素振りもない誘拐犯に、頭など下げたくない。

「出しなさいよ」

「それはお願いじゃないな。命令だ」

「出せって言ってるの!」

レティシアの全力でできることは、鉄格子をギシギシと鳴らすこと。それでも抵抗の意志を示すには効果的で、プライドは保たれた。

 ベオルヴが幻滅したように嘆息する。

「お前、あまり育ちのよい娘ではないな。口も悪い」

「おあいにくさま。あたしは筋金入りの、田舎生まれの田舎育ちよ」

 悪態をついてやると、彼の右手が鉄格子をくぐって伸びてきた。親が子どもにするように頭を叩く、と見せつけ、レティシアの前髪を梳きほぐす。

「なら躾が必要だ。城主の俺を心から敬う気持ちを持たんことには、な」

 一瞬でも怯えてしまったのが悔しい。

 相手のペースに乗せられまいと、レティシアは苛立ちを堪えた。

 あなたを敬うなんて、誰が!

 言いたいことの半分を胸中に留めつつ、城主に嘆願する。

「ねえ、ちょっとだけ家に帰してくれればいいのよ。ちゃんと戻ってくるから」

「いいや。今逃がしてしまえば、お前は戻ってこない」

 ベオルヴはレティシアの不安げな表情を見詰め、ククッと笑みを噛み殺した。前髪を弄っていた指先が、顎をなぞるように持ちあげる。

「お前には寵姫としての自覚が足りていない。寵姫らしく奉仕でもしてもらおうか」

 レティシアはたじろぎ、息を飲んだ。

「な……何をしろっていうの?」

「簡単なことだ」

 彼の右手が一旦後退し、指ごとにある指輪を外す。

 寵姫に手入れさせているのか、爪は入念に磨き込まれ、光沢さえ放った。

 男性の手はゴツゴツしているイメージだが、ベオルヴのものは、節くれ立っていて細やかな線をしている。爪の輝きがそう感じさせるのだろうか。

「俺の指を舐めろ。犬みたいにな」

 横暴な命令に、レティシアは顔を強張らせた。

「なっ……!」

 男性の趣味や嗜好など、レティシアには想像もつかない。ただ、女性を犬と同様に扱おうとしている彼の、歪みきった優越感は伝わってくる。

「そんなのイヤに決まってるでしょ? あたしは寵姫になった憶えはないもの」

 レティシアは顔を背け、ベオルヴの視線を拒絶しようとした。しかし顎を掴まれ、正面向くのを強制されてしまう。

「実際にやってみればわかる。寵姫としての立場と、俺への服従心がな。……それとも、ずっとここに閉じ込められていたいのか?」

 鉄格子が開かないことには逃げられなかった。それを開く権限を持っているのは、目の前の卑怯な王様のほかにいない。

 あとずさるレティシアを、ベオルヴが向こうから無理やり抱き寄せる。冷たい鉄格子に身体がぶつかり、ドレスのスカートが形を崩した。

「何するのよ? は、放してったら!」

「素直に従うなら、出してやらんこともない。この罠のことではないぞ。城からだ」

 降って沸いたような誘いに、レティシアはぎくりと硬直する。

舐めたからといってベオルヴが約束を守るとも思えない。それでも、指を舐めさえすれば、などという浅はかな考えが脳裏をよぎった。

 そうよ……従ったフリして、逃げちゃえばいいんだわ。

これまで恋愛とまったく縁のなかった自分が、作り話の悪女のように男を手玉に取ったり、騙せるはずもないだろう。

 それでも監禁状態から脱するべく、レティシアはぐっと固唾を飲んだ。

 い、今だけのことじゃない。今だけ……。

 拒絶を続ける自尊心に鞭を打ちながら、おもむろに口を開く。

「わかったわ。やればいいんでしょう?」

「いいや、わかってないな。そこは『舐めさせてください』と言うべきだ」

 普段から寵姫相手に遊んでいるから、こんな発想が出てくるのかもしれない。

 屈辱に震えながら、レティシアは言葉を噛み砕いた。

「な……舐めさ、せて……ください」

「ふふ、よかろう」

 ベオルブの顔に歪んだ優越感が浮かぶ。

 倒錯した行為に自覚があるからこそ、レティシアは緊張しつつ、彼の右手におずおずと唇を近づけた。意識してしまうほど、意に反して舌は感覚を研ぎ澄ませる。

ベオルヴの親指と人差し指の間に、レティシアの舌先がそっと触れた。舌を動かすことで息遣いが乱れ、頬が赤い熱を持つ。

 なんてこと……させるのよっ!

 上目遣いで睨んでも、ベオルヴの表情は涼しげだった。新米寵姫の奉仕じみたキスを、満足そうに眺め、微笑む。

「も、もう充分、れしょ? いつまで、ンッ」

 ぎこちない舌遣いで人差し指だけ舐めていると、不意に手が動いた。

「始まったばかりだぞ? 指は五本あるんだからな」

レティシアの唇をこじ開け、中指で舌を絡め取ろうとする。

「あむぅ! く、くるひぃ、っへば」

 口の中で指が放射状に広がり、レティシアの呼吸を妨げた。苦悶の色を孕んだ吐息が溢れ、唇の周りに熱気をばらまく。

「ご主人様に奉仕できるんだ。寵姫なら、もっと喜んでするものだぞ」

 頭を後ろにさげることで、侵入はいくらか浅くなった。五本のうち一本に吸い付くと、ベオルヴもそれ以上は無理に侵入してこない。

 どうしてこんなこと? あたしは家に帰りたいだけなのに……。

 碧い瞳に悔し涙を滲ませながら、レティシアは指を啜った。服従したわけではない、と気丈に睨みあげてやっても、ベオルヴは意に介さない。

「従順な女も愛らしいが、反抗的な女もそそる……お前が何をしたところで、俺にとっては享楽になりそうだ。なあ、レティシア」

 緋色の瞳が酷笑を浮かべ、百人目の寵姫を悠々と見下ろす。

「あなたのために、ひてるんじゃ……ないわ、よ」

 反抗のつもりでも、舐めるという行為は『相手に甘える』ものでしかないことを思い知らされた。これを手段と割り切ってベオルヴを騙せるほど、狡い女性にもなれない。

 早く終わりにして欲しいと願いつつ、舌を巻きつける。

 口内は見えなくとも、爪の位置で指の向きは大体読めた。爪には花香油が塗られているらしく、その芳醇さが軽い酔いをもたらす。

 やっと指が抜け、呼吸を取り戻すことができた。

「気分はどうだ? レティシア。もう一回させてやってもいいぞ」

「はあっ、はあ……次は噛むわよ」

 思った以上に体力を消耗し、レティシアはその場でくずおれる。心臓が暴れるせいで、呼吸とともに肩まで上下するほどだった。

「ちゃんとしたんだから、出してくれるんでしょうね? 王様なら約束は守って」

「ふ、いいだろう。女を騙して弄んだとなっては、俺の面子に関わる」

 ベオルヴが右手をレースのハンカチで拭ってから、指を弾き鳴らす。すると鉄格子はひとりでに天井へと消えていった。

 百人もの寵姫を従える城主には、悪びれた様子もない。日常的にほかの寵姫らにも同じことをしているのだろう。

 嫌がるのって、もしかしてあたしだけ?

 シンシアだったら、どんな気持ちで奉仕するのかしら……。

 美しい寵姫は皆が城主を『ベオルヴ様』と呼び、慕っていた。戯れとわかっていても誠心誠意、女の心を尽くすのかもしれない。

「少しは城に慣れたか、レティシア」

「……おかげさまで」

 ベオルヴに手を差し出されたが、レティシアは自力で立ちあがった。

 いくら命の恩人でも、悪ふざけが過ぎる。この男性のことは好きになれそうにない。

『どうかしらね。わからないわよ、男も女も』

 広間を出ようとしたところで、妙な気配に後ろを取られた。

 振り返ってみても誰もいない。棺の中で、銀髪の少女が静かに眠っているだけ。

「どうした? ここは寒いぞ」

 彼女が誰なのか聞こうとした時には、すでにベオルヴは階段を登り始めていた。レティシアにも優先順位があって、少女のことはひとまず頭の隅に置いておく。

「でもちょうどよかったわ。あなたを探してたのよ」

「ほう? 何の用かな」

「ボートを貸して。あるんでしょ?」

 彼を追って階段を進みながら、レティシアは淡々とした調子で頼んだ。本心では彼に願い事などしたくないため、後ろにいてもそっぽを向いてしまう。

 ベオルヴも振り向かず、お互い視線を交えない。

「サーシャ村か。その後はどこへ逃げる?」

「そこがあたしの村なんだから、逃げるにしたってそこまでよ。大丈夫、あなたのことは誰にも喋らないわ」

 霧の城について喋ったところで、村の皆が信じてくれるとは思わなかったし、巻き込みたくもなかった。両親に無事を伝え、安心させることができたら、それでいい。

やがて一階のフロアまで戻ってくる。

「ちゃんと戻ってくるってば。ベオルヴ、どうしてだめなわけ?」

 返答がないせいで焦りが生じ、嘆願は問い詰める勢いになりつつあった。

「いいだろう。ついてこい」

 ベオルヴがマントを翻し、すたすたと歩き出す。

 曲がりなりにも王様のくせに、女性に歩調を合わせるといった紳士的な振る舞いを知らないらしい。レティシアはスカートの半ばを持ち上げつつ、ハイヒールで追いかけた。

 中庭の庭園へと出て、青いバラのアーチをくぐっていく。

「遅いぞ」

 途中でベオルヴが振り返り、遅れがちなレティシアを急かした。

「あなたが早すぎるのよ。こっちはヒールなんだから」

「……面倒くさいやつめ」

 ほかの寵姫なら、喜んで彼の隣まで駆け寄っていくのかもしれない。

 この城にはノスフェラトゥの王が住んでいて、九十九人もの寵姫が控えている。しかしそれでも満足せず、彼は百人目としてレティシアを拉致した。

 その百人目が軽蔑を込める。

「節操なしの王様って、どうかと思うわ」

「なんだ、いきなり」

「寵姫のことよ。百人も集めて……」

 ファーストキスを奪われた恨みも、今になってふつふつと湧きあがってきた。

 レティシアにとっては初めてのキスでも、ベオルヴにとっては百回目のこと。数え間違いがあっても不思議ではない数字に、腹が立つ。

「人間の常識は忘れろ。お前も今や我が城の一員なんだ」

「そんなわけにはいかないの。あたしは人間だもの」

 庭園では色とりどりの花が咲き乱れ、巧みに蝶の群れを誘っていた。

 濃霧のせいで日差しが入りにくくても、花は綺麗に咲いている。蔓は伸び放題になっているように見えて、花と緑の調和が取れていた。

 花壇は黒水晶の煉瓦で作られ、足元も同じ材質で舗装されている。あちこちで無数の光が溶け込みながら反射し、レティシアを幻想的な光錯で包んだ。

「ここだけは素敵ね。とっても」

 ベオルヴが傲慢な笑みを浮かべる。

「我が寵姫たちの教養が見て取れるだろう? お前もここで好きな花を育てるといい」

 ハーブ屋の娘として、園芸には興味があった。この城で暮らすつもりはないにしても、これほど広い庭園を好きに使えるのは魅力である。

 寵姫はひとりもおらず、蝶だけがひらひらと舞っていた。普段はいくつかのグループが花を眺めたり、お茶会を催していたりするのだが、まるで気配がない。

 みんな、どこにいるのかしら?

 とりわけ目を惹くのが青いバラだった。ベオルヴがそれを手に取り、香りを仰ぐ。

「城の魔力に煽られると、免疫の弱いバラはこの色に染まる。下級種のノスフェラトゥが青くなるのと原理は同じだ」

 青色のおぞましい意味を知らされ、興醒めしてしまった。

 レティシアは不安に駆られ、ベオルヴの血が流れている我が身をかき抱く。

「……あたしもあんなふうになったりするの?」

 ノスフェラトゥに狩られた人間の成れの果てが、湖の畔で自分を襲った、あの『出来損ない』だった。あれと同じ化け物にはなりたくない。

 ベオルヴが顔を見せずに囁く。

「それはない。レティシア、お前は違う」

 何が違うの、と聞きたかったが、それより進行方向に気を取られた。

入り組んだ庭園の脇で階段を降り、桟橋へと辿り着く。

あれ? どこから?

庭園なら昨日レティシアも調べまわった。しかし特別隠されているわけでもない、この階段を発見することはなかった。

「どこを見ている? お望み通りの舟だぞ」

 そこは城の一階より半フロアほど低くなっており、桟橋が湖に面している。穏やかな水面にはボートがいくつも浮かび、頑丈なロープで繋がれていた。

うちひとつをベオルヴが解き、レティシアに明け渡す。

「好きに使え」

 思っていたより呆気なく帰る手段を獲得できた。しかし散々焦らされたせいで、安堵するより不可解に思えてしまう。

レティシアは警戒しつつ、桟橋からそっと湖の水面を見下ろした。

「……あなた、悪いこと考えてない?」

「疑り深いやつだな。これでどこにでも行け、と言ってる」

光の波が揺らめく水面には、城の陰影が逆さまに映っている。下に島などはなく、この城は湖に浮かんでいるようだった。

 ボートに乗ると、思った以上に揺れて心許ない。

 ちゃんと岸まで行けるのかしら?

 この湖にはそれなりに資源があるものの、サーシャ村で舟が使用されることは滅多になかった。変死体が出たり毒の花が生えたりするような場所では、よほどの冒険家でもない限り、ボートを浮かべようなどと思わない。

 そもそも山中の村には、まともに泳げる者が少ない。

 レティシアも舟に乗るのは初めてで、揺れの大きさに不安になった。しかし小憎らしいベオルヴに『怖い』とは言えず、せめて腰を落としてバランスを取る。

「オールの使い方はわかるか?」

「大丈夫よ、たぶん」

 左右のオールは重さこそあれ、水面に差し込んでいれば、細い腕でもそれなりに動かすことはできた。レティシアはオールを手に取り、慎重に漕ぎ出す。

「逆だぞ」

「え? きゃあっ」

 前に進むつもりが、舟はいきなり後退してしまった。ほかのボートとぶつかり、ぐらぐらと揺れる。

 ベオルヴは桟橋の端で屈み、意地悪そうににやついた。

「行きたい方向に背中を向けろ。何なら手本を見せてやろうか?」

「け、結構よ。ちょっとやったら慣れると思うから」

 強がってみたものの、原理がいまひとつわからない。落ちたらどうしよう、という不安にも駆られ、後ろを振り向いては手を止める。

 こんなに難しい乗り物だったなんて。

 まっすぐサーシャ村の方角を目指したくても、舵先が最適な針路に定まらなかった。磁力の狂ったコンパスみたいに、ボートは同じ場所でぐるぐると旋回する。

「何を遊んでいるんだ? レティシア」

 ベオルヴは余裕綽々に寝転び、頬杖までついていた。あくびのついでに銀色の髪をかきあげ、レティシアの四苦八苦するさまを見下ろす。

「楽しそうじゃないか」

「遊んでるんじゃないし、楽しくもないのっ」

 レティシアはむっとして、オールを握る両手に力を込めた。

 やっと思った通りの方向にボートが進む。

「できたわ! なぁんだ、簡単」

 右と左、同じリズムでしっかりと『かき混ぜる』のがコツらしい。オールで深めに水面をかき分け、波紋を連ねていく。

 水門は開け放たれており、スムーズに通過できた。

「あとで返しに来るわね、ベオルヴ」

「ふ、その気もないくせに」

 次第に桟橋が遠くなり、ベオルヴの姿も小さくなる。

 沈みはしないかと思うと怖いが、今日は波も穏やかで、雨が降る気配もない。しかし霧は濃く、しばらく進むと四方八方を塞がれる。

 舟の後ろに城が見えなくなると、方角の見当がつかなくなった。

 心細さを孕んだ動揺を誤魔化すように、レティシアは一心にオールを動かす。

 早まっちゃったかしら……。

濃霧のせいで景色が変わらず、進んでいる手応えがない。

レティシアは背中越しに進行方向を確認し、サーシャ村の影を探した。

 悔しいのを我慢してでも、ベオルヴに連れていってもらったほうがよかったかもしれない。そんな後悔がよぎった自分を、唇を噛んで戒める。

 あんなことさせられて、誰がっ!

 口の中には花香油の味がまだ残っている気がした。ベオルヴの酷薄な笑みを思い浮かべると、オールを握った手に力が漲る。

その手も疲れてきた頃、やっと霧を抜けた。

「……あれ?」

 水門の中央をスムーズに抜け、桟橋へと流されるように戻ってくる。

「もう返しにきたのか」

桟橋で寝転がったままのベオルヴと目が合った。

 霧の城から出発したはずなのに。レティシアは呆然として、口をぱくぱくさせる。

「ど、どうして?」

 ベオルヴが不敵にやにさがった。

「この魔力の霧は簡単には突破できん。残念だったな」

 からかわれ、レティシアの顔が真っ赤になる。

「わかってて乗せたんでしょ! 意地悪!」

「騙されたお前が悪い」

 この王様は陰険で陰湿だ。

異議を申し立てるべく、レティシアは勢いよく立ちあがる。

「ちょっとくらい家に帰してくれたっていいじゃな――」

 その拍子にボートがぐらついた。舟の転覆そのものは避けられたものの、レティシアの小柄な身体はバランスを失ってしまう。

 しかもハイヒールでは、踏ん張るにも踏ん張れない。

「や、やだ、きゃあああっ!」

 レティシアはボートの端で足をもつれさせ、ドレスごと湖へと落下した。

 ゴボゴボと水の音が耳に入り込んでくる。

 死んじゃう……!

 顔の周りでロングヘアが広がった。手と足のどれを最初に動かせばいいのかわからず、もがく。ただ、口を開けてはいけないことだけ直感する。

 レティシアが自分でするより先に、誰かが代わりに口を押さえてくれた。

『喋るな。じっとしていろ』

 水中にもかかわらず、ベオルヴが後ろからレティシアを抱き締める。

『聞こえているな? よし……いい子だ』

 彼の声は頭の中でじかに響いた。

 口を塞がれても苦しさはない。冷たくて怖い水中なのに、気持ちが落ち着いた。

 助けてくれたんだわ、このひとが。

 溺れるのを見て、咄嗟に飛び込んでくれたに違いない。

 今は彼に任せて、レティシアは動くことをやめた。男性の腕に抱かれ、おとなしくしてしまっている自分が妙に素直で、恥ずかしい。

 ところが、湖の底にあったモノを目の当たりにして、羞恥心など吹き飛ぶ。

 ……何なの、あれ?

 溺れそうになっているのも忘れ、レティシアは瞳を強張らせた。

 そう深くない湖の底には、無数の人骨が山のごとく積み重なっていたのだ。目玉のないしゃれこうべたちが一斉にレティシアを見上げる。

 何も言わない死者の視線。

「んぅ! んぐうっ!」

 恐怖は俄かに強迫観念となり、逃走本能を駆り立てた。

『おい、動くな!』

 暴れるレティシアを、ベオルヴが桟橋の上まで引っ張りあげる。

 びしょ濡れのドレスを引きずって、レティシアは少しでも湖から遠ざかろうとした。四つん這いで桟橋を抜け、ハイヒールの片方を落とす。

「はあっ、はあ……何よ? あれ」

 そのハイヒールを拾ったベオルヴもずぶ濡れだ。

「泳げないなら先に言え。まったく……肝を冷やしたぞ」

「そ、そうじゃなくて」

 彼はレティシアが『見てしまった』ことにまだ気付いていないらしい。

「骨……ひとの骨が、たくさん」

 肩を震わせながら呟くと、ベオルヴが険しい表情で眉を上げる。

「そうか、あれに驚いたか……人間の娘よ」

 彼は片膝をつき、レティシアの濡れた髪をそっと撫でた。壊れ物を扱うみたいな手つきで、奉仕を強要した時の横暴さはない。

 それでもレティシアの身体は恐怖で凍りついていた。前髪から瞳に水が流れても、ろくに瞬きさえできない。

人喰い鬼たちの住む城の下に、白骨の山があったのだ。肉だけかじって捨てた、と考えると、恐ろしいほど納得がいく。それこそ『骨付き肉』の感覚で。

 今までも村の傍で、ああやって?

 身体を牙で引き裂かれるイメージが、レティシアに真っ黒な戦慄をもたらす。

 ベオルヴはレティシアの冷えた裸足に触れ、ハイヒールをあてがった。

「早とちりするな。あれは俺たちが殺したのではない」

 彼の紅い瞳がじっとレティシアを見詰める。

「何百年と生きる俺の一族は、墓守なんだ。永きに渡って、供養されることのない哀れな亡骸を集め、魂を慰めている……人間というやつは、おかしな殺し合いをするからな」

「……殺し合い?」

「戦争をしているじゃないか」

 平穏なサーシャ村には縁のないことだった。

 国家や民族という枠組みが摩擦を起こし、時には衝突に至る。今は大陸全土が不安定な状態にあり、いつ戦争が勃発してもおかしくはない。

「ここは地獄の入口でもあるのさ。行き場のない魂が集まってくる。地獄から見れば、この城はそう、蓋の一部といったところか」

 ベオルヴは淡々と語ると、水を滴らせながら立ちあがった。銀色の髪質や端正な顔立ちは、城の地下で見た、あの少女にどことなく似ている。

 家族だったりするのかしら……?

 レティシアは口を開いたものの、出てきたのはくしゃみだった。

「っくしゅん!」

 ずぶ濡れになったせいで、寒気も引かない。

 ベオルヴが溜息交じりに肩を竦める。

「見ているんだろう、エリオット。さっさと来い」

「僭越至極にございます、我が王」

 紫色の煙がぼんっと噴き出て、どこからともなくエリオットが現れた。大きな羽根帽子のつばを人差し指で上げ、レティシアにウインクする。

「シンシア嬢にはお風呂の準備を伝えておいたよ、レディー」

「あ、ありがとう……」

 猫のお面、もといチャリオットも健在だ。

「ったくよォ、泳ぐんなら水着になれよナ。いいカラダしてんだからサ」

 腹話術による不埒な冗談に、ベオルヴが眉を顰めた。王の冷ややかな視線はチャリオットではなくエリオットを責める。

「そいつを黙らせておけ。この女は俺だけの寵姫だ」

「し、失礼いたしました。……怒られたじゃないか、チャリオット」

 それでもお面に話しかけるエリオットが愉快で、レティシアは笑みを綻ばせた。

 ベオルヴがびしょ濡れのマントを脱ぎ、襟元のクラバットを緩める。

「やれやれ。すっかり冷えてしまったな」

 その視線がレティシアに絡みついて、あからさまに胸元へと滑り込んだ。

「背中を流してくれるか?」

「だ、誰がっ!」

レティシアは真っ赤になり、声を張りあげる。

 なんなの? このひと!

 冗談とはいえ、こうも平然と人を恋人扱いできる神経が信じられない。むしろ冗談だからこそタチが悪い。ベオルヴの相貌は眉目秀麗として、女性を騙すには有利だった。

 いいようにからかわれているのが悔しいうえに、恥ずかしい。

 エリオットがレティシアにバスタオルをかける。

「レディーには刺激が強すぎたかな?」

 彼まで自分を見下す調子で、いらっときた。

 しかしバスタオルをくぐって頭を出すと、上半身が肌蹴た、色っぽいベオルヴの滴る姿を目の当たりにしてしまって。

「きゃあああっ? どどっ、どうして脱いでるのよ、あなた!」

レティシアは赤面し、バスタオルを手前に突き出す。

「俺に風邪を引けというのか? 酷い女だ」

 濡れているせいか、銀色の髪が艶やかな光沢を放った。前髪をかきあげつつ、ベオルヴが緋色の瞳に妖しい光をたたえる。

「……やはり抵抗力があるようだな。よし、今夜はお前のお披露目といこう」

「お披露目って……?」

「まだお前を知らん寵姫も多い。城にいる者を集めて、紹介しておかんとな。俺の顔に泥を塗ることがないよう、最高のドレスに着替えておけよ、レティシア」

 不敵な笑みを残し、ノスフェラトゥの王は陽炎のように消えてしまった。

 エリオットが笑い、チャリオットは溜息を漏らす。

「これは忙しくなりそうだ! 僕も出し物の準備をしないと」

「ったくよォ……面倒くせえナ」

「夜会なんて道化にとっちゃ、最高の見せ場じゃないか。レディーも楽しみにしてなよ。麗しの寵姫が一同に会する光景は、まさにお花畑さ」

 レティシアの脳裏に、湖の底で見た髑髏の山がフラッシュバックした。

ご馳走は人間、なんてこと……まさかね。

濡れた身体がぞっと冷える。 

 いつしか水門は霧に覆われ、見えなくなっていた。

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