百番目の寵姫
第二話 上弦のセレナーデ
混濁していた意識が少しずつ鮮明になっていく。
手が動く。足にも感覚がある。
「……そうだわ。あたし」
レティシアはベッドの天蓋をぼんやりと見詰めていた。
寝台の周りにはバラが咲き乱れている。天蓋を支える柱にも巻きつくくらい伸びきっており、豪華なのか悪趣味なのか、判断が難しい。
頭の中で止まりかかっていた思考の歯車が、油を差されたようにまわりだす。
レティシアは上半身を起こしつつ、バラのうねりに捕らわれていた素足を、慎重に抜き取った。どうにか肌を棘で傷つけずに済む。
寝台の縁は青いバラで囲われ、ベッドの長方形を視認することができた。
亡くなった人の棺桶を花で満たす習わしを、ふと連想する。
あたし……あの死体に襲われて?
レティシアはまだはっきりしない記憶を辿り、出来事を順番に思い出した。家の手伝いでハーブを採りに行ったこと、湖の畔で動く死体に遭遇したこと。
そして胸を貫かれ、殺されたはずだった。
記憶は血のにおいまで生々しく、夢だったとは思えない。それに単なる夢なら、こんなフラワーアレンジメントの中央ではなく、質素な自分の部屋で目覚めるはず。
胸元をさすってみても傷はない。
ビスチェは滑らかで肌触りがよく、レティシアが普段身につけているものとは生地の質が違いすぎた。そもそもドレスを前提としたビスチェなど必要ない。
変わっているのは服だけではなかった。母譲りのモーブの髪がやたらと伸び、寝台から溢れてしまっている。自分の髪でありながら、どこまで長さがあるのかわからない。
誰かがあたしを見つけて、運んでくれたのかしら?
だったら、ここはどこ?
サーシャ村ではないことは確かだった。
豪邸の一室で客人を迎えられる富豪など、村にはひとりもいない。
部屋にいるのはレティシアだけで、誰かが事情を話してくれることもなかった。ベッドの傍にはドレスが何着も掛けられ、レティシアの手が伸びるのを待っている。
とにかく部屋を出て、ここがどこなのか確認したい。
助けてもらったのなら、お礼を言わなくちゃ。
レティシアはベッドを降り、落ち着いた色合いであるセルリアンブルーのドレスを手に取った。ほかのドレスよりは色彩が控えめというだけで、村娘には派手すぎる。
勿論、着付けの仕方などわからない。
とりあえず頭から被ってみると、ドレスは形が崩れてしまった。引っ張っても押さえても、童話の挿絵で見るようなお姫様の形になってくれない。
だがビスチェ一枚でうろつくわけにもいかなかった。肌着の類を探し、腰にコルセットを巻きつける。下には瓢箪みたいな形のズボンを穿く。
そのうえでさっきのドレスを被りなおせば、少しは『らしい』形になった。
生地が多い割に空気をじかに感じるのは、慣れていないせいだろうか。単にドレスの着付けが下手なだけかもしれない。
「勝手に出てっても大丈夫……よね? ここにいても、何にもないし」
靴だけは見つからなかったため、裸足で部屋をあとにする。
扉に鍵は掛けられていなかった。長すぎる髪を、やむをえず引きずりながら、適当に方向を決めて歩いていく。
ここは到底『豪邸』というレベルの建築物ではなかった。
もはや『城』だ。
馬車でも進めそうなくらい道が広く、回廊には柱が延々と並んでいる。
壁の石材は真っ黒でありながらも、ガラスのように透明感のある材質で、レティシアの姿がいくつも映った。
頭上ではスズランの形をしたランプが、ぼうっと白い光を放つ。その照明はレティシアが通りかかった時だけ点き、通り過ぎると、ひとりでに消えた。
「……どうなってるの?」
階段やフロア間のアーチは青いバラで装飾されている。
この城の持ち主はバラを好むらしく、特に青色のものは意匠として取り込まれていた。その色にレティシアは違和感を覚え、一輪だけ摘む。
「これは……?」
バラは人気が高く、さまざまな品種が開発されているものの、『青色』のバラは未だに成功例がなかった。着色はできても、極端に短命であるなど、必ず失敗を伴う。
そのはずが、目の前のバラは天然のブルーに染まっていた。
裸足では城の床が冷たい。
「あの~、誰か? いないんですか?」
重たい髪を引きずりながら、レティシアはよろよろと回廊を進んだ。
どうにも身体の調子が悪い。ナイトガベラの毒に冒されている可能性もある。
なんだか気持ち悪くなってきちゃったかも……。
吐くほどではないにせよ、嘔吐感が胃に残っているようで、平衡感覚も怪しい。
それでもバルコニーまで出ると、中庭の庭園を一望できた。空には夕焼け色の雲が垂れ込めており、オレンジ色が一時的に支配力を増している。
庭園では数人の女性が集まり、何やら談笑している様子だった。皆が煌びやかなドレスを着ていて、上流階級の優雅な雰囲気を醸し出す。
声を掛けても大丈夫かしら?
でも、どこから降りればいいの?
建物の構造は複雑で、回廊と階段がいくつも絡み合っていた。まさかバルコニーから下の庭園に飛び降りるわけにもいかず、右往左往する。
大きな鐘の音が鳴り響いた。
ゴーン、ゴーン……。
城内の空気が一斉に震え、レティシアは思わず足を止める。
上のほうで鳴っているようだ。しかし全身にぶつかるほどの音量にもかかわらず、むしろ静寂を際立たせる、落ち着いた音色だった。
鐘の音が城内で反響しつつ、薄れていく。
どこかに時計があるの?
ふと余所見しがちになり、曲がり角で誰かとぶつかってしまった。
「ご、ごめんなさい」
レティシアは咄嗟に頭をさげてから、おもむろに顔をあげる。
頭ひとつ分も背が高い相手は、冷めた表情でレティシアを見下ろした。切れ長の瞳は緋色の光をたたえ、髪は銀色の光沢を放つ。
漆黒のスーツはあちこちに宝石や貴金属をぶらさげていた。普通の男子であれば、飾り過ぎて悪趣味にもなっているところだが、彼ほど外見に風格があると違和感もない。
むしろ宝石の輝きを、その品格で従えてしまっている。
彼は威風堂々とした立ち姿で、真正面からレティシアを圧倒した。
「目が覚めたか」
この声にレティシアはどこか聞き覚えがあった。しかし相手の威圧感に気後れしてしまい、裸足が半歩ほど後ろにさがる。
「あ……あたし?」
「お前以外に誰がいる」
毎日聞いている声ではない。なのに、妙に懐かしく響いた。
「名は何というのだ? 女」
緊張しつつ、レティシアはうわごとのように呟く。
「……えぇと、レティシア=ハーウェル……」
「レティシアか。優しい名だな」
彼が片方だけ眉を上げた。
男性に対しては不適切な表現かもしれないが、端整で美しい顔立ちだ。前髪をかきあげる仕草ひとつにしても気品に溢れ、指のしなり方はハーブを奏でるかのようである。
「俺はベオルヴ=オーレリアンド。ベオルヴと呼ぶといい」
「ベオルヴ……さん?」
「敬称は必要ない。その様子だと、何もわかっていないようだな」
ベオルヴはレティシアの頬をそっと撫で、唇に親指を優しく押しつけた。
彼の紅い瞳に、驚く少女の顔がひとつずつ映り込む。
「ようこそ、我が城へ」
我が城。その言葉はレティシアに漠然と居場所を教えてくれた。
「まさか……ここは、霧の城?」
「お前たち人間はそう呼んでいたな」
サーシャ村の住人にとって、城と呼べるものはひとつしかない。湖の上に浮かぶ大きな影。いつしか『霧の城』と呼ばれるようになった、あのおぼろげな存在。
本当に霧の城に? どうして?
疑問に疑問を連ねるレティシアの髪を、ベオルヴが眺めるついでに梳きおろす。
「ひどい恰好じゃないか。ドレスも崩れてるぞ」
ぼさぼさの髪とぐちゃぐちゃのドレスでは、ぐうの音も出ない。
「髪はなんだか伸びてて……服はその、こういうのに慣れてないから」
「こんな恰好をされては俺の沽券に関わる。ついてこい」
聞きたいことは山ほどあったが、ひとまずレティシアは彼の言葉に従った。
しばらく歩いた先には部屋があり、貴婦人たちが談笑している。彼女らはベオルヴに気付くや、横一列に並び、しとやかに会釈した。
「ごきげんよう、ベオルヴ様」
「挨拶はいい。この女をまともな身なりにしてやれ」
ベオルヴは面倒くさそうに会話を避け、レティシアを部屋に放り込む。
ぽいっと、モノみたいに。
「ち、ちょっと、ベオルヴさん?」
「何度も言わせるな。『さん』はいらん」
レティシアはひとり取り残され、貴婦人たちに囲まれた。
「この方が百人目の……。うふふっ、動かないでくださいませ」
「まずは髪を揃えましょう。でもボリュームは残しておきたいですわ」
ベオルヴには緊張気味だった彼女らが、レティシアを玩具のように弄くりだす。
「待って、あたし、何が何だか……ひゃああっ?」
ドレスを捲りあげられ、コルセットから締めなおしとなった。数人掛かりでウエストを強烈に締めつけられたうえで、ビスチェのラインを調えられる。
「どっどこ触ってるの!」
「こうしないと入らないでしょう?」
ぶかぶかのオムツみたいなドロワーズは、ドレスのスカートに膨らみを持たせるためにあるらしい。
伸び放題だった髪は適度な長さに切り揃えられた。均等に櫛が通っていく。
「靴はどうされたのです?」
「そ、それは……部屋に見当たらなくて……」
貴婦人のひとりが鏡に手を触れると、鏡面が水面のように揺らめいた。
そこに手が平然と潜り込んで、一組の青い靴を取り出す。
「ドレスに合わせて、この色でよろしいかしら?」
「……えっ?」
唐突な手品にレティシアを目を瞬かせた。
それが単なる手品ではないことに勘付く。城のスケールといい、常識では考えられない力が働いている気がする。
このお城、普通じゃないわ。
そう思いながら、レティシアはおとなしく彼女らの指示を待った。
サイズがぴったりのハイヒールに足を片方ずつ、ゆっくりと差し込む。
「お美しいですわ。さあどうぞ、いってらっしゃいませ」
正装らしくなったところで、新米のレディーは外へと見送られた。右も左もわからずに見渡すと、柱のひとつにベオルヴがもたれている。
「……なんとかならんのか? レティシア。その珍妙な歩き方は」
「そ、そんなこといわれてもっ」
レティシアは生まれたての小鹿のごとく下肢を震わせていた。腰は引け、せっかくのドレス姿が滑稽になってしまっている。
理由はひとつ、ハイヒールだ。
タリサに『お見合いするならハイヒールにも慣れておかないとね』などと言っていた自分が恥ずかしい。この履物の不安定さを初めて思い知らされた。
爪先立ちで歩けばよい、というものでもない。ひとりでは歩くに歩けず、ついベオルヴの袖に掴まってしまう。
「これ倒れるっ、ほんと倒れちゃうから!」
「とんだお姫様がいたものだな」
おぼつかないヒールの角が、彼の足を踏んづけた。
ベオルヴが眉を顰め、呆れるようにレティシアを見下ろす。
「落ち着け」
「ご、ごめんなさい」
彼の腕が背中にまわってくれたおかげで、派手に転ぶような事態は避けられた。しかし初対面の男性にもたれっ放しで歩けるはずもない。自力で歩行を試みる。
「もう少し低いほうがいいか?」
ベオルヴの人差し指がくるんと円を描いた。
重心がさっきよりも安定し、足が地につく感覚がする。
「急に歩きやすく……どうやったの?」
「ヒールの高さを調節してやった」
さっき淑女が鏡から靴を取り出したのと同じ、魔法の仕業だった。
そんな魔法の力を目の当たりにして、レティシアは驚きこそすれ、もう疑いはしない。ここは霧の城なのだから、何が起こっても不思議ではなかった。
「これくらいなら、うん。大丈夫、ちゃんと歩け……きゃあああっ?」
ところが不意にハイヒールが高くなったせいで、前のめりに転んでしまう。
ベオルヴは愉快そうに笑みを噛んだ。
「とっとと歩け」
魔法でヒールを伸び縮みさせて、レティシアをからかったらしい。
このひと、最悪!
レティシアは握り拳を作りつつ、怒りを堪える。
しかし恩人かもしれない相手に、声高に怒りをぶつけるつもりはなかった。
湖の畔で殺されそうになったのが本当なら、レティシアを死の淵から救ってくれたのは、この男性だ。まだお礼の一言も伝えていない。
とはいえ、素直に感謝できる相手でもなさそうだった。命を助けたことの見返りでも要求されるのでは、と勘繰ってしまう。
なんだってこんなことに……早く家に帰りたいのに。
あれから何日くらい経ったのだろうか。髪が伸びきるほど時間が経過しているはずで、サーシャ村は騒ぎになっているに違いない。
きっと両親は娘を心配している。一刻も早く帰らなければならなかった。
そのためには現状を知ることが先決だ。ベオルヴの人となりはいまひとつ信用できないが、レティシアには情報が不足している。
「ここって本当に霧の城、なんでしょう? サーシャ村の北にある」
「自慢の城だ。あとで案内人をつけてやるから、好きに歩きまわるといい」
ベオルヴはマントを翻し、すたすたと歩き始めた。
レティシアも慣れないハイヒールで彼を追いかけ、奇妙な古城を上へと登っていく。
「歩き方やらはシンシアに聞け。女のことは、俺ではわからん」
「シンシアさんって? ねえ、ちょっと待ってってば」
こっちは階段で悪戦苦闘しているのに、ベオルヴにはレディーに歩調を合わせる素振りもない。そのくせ紳士然として気品に溢れているのが、どうも気に入らない。
城は壁も床も、ガラスに似た黒い石材で造られていた。
「クリスタルが珍しいか?」
「……これ全部、黒水晶でできてるの?」
磨き抜かれた壁面には、レティシアの驚く表情が鮮明に映っている。
クリスタルは建物の石材ではなく、れっきとした宝石のはず。クォーツとも呼ばれ、アクセサリや調度品の装飾として使われることが多い。
割れやすい宝石が大型建造物の石材に不適切なのは、素人でもわかる。にもかかわらず黒水晶の城は荘厳な巨躯を誇っていた。
夕日が沈むと、スズランみたいなランプが一斉に火を灯す。
区画の境目では、絢爛なシャンデリアがゲートとなっていた。黒水晶の壁面でシャンデリアの光が乱反射し、その不意打ちで目が眩む。
慣れない靴で歩きながら、レティシアは右を向いたり、左を見上げたり、スカート越しに足元を確認したり。
「きょろきょろせずについて来い。迷っても知らんぞ」
「あっ、待って!」
一方でベオルヴの足取りは、城主のものだけあって迷いがない。
やがて客間らしい広間に辿り着き、ベオルヴが椅子に腰を降ろした。脚を組む仕草に行儀の悪さはなく、かえって品位を高めている。
城主だからこそ多少の無作法は許容される、という余裕の雰囲気も感じられた。
「さて……」
花で包まれたように可憐な令嬢たちが、どこからともなくやってきて、紅茶の支度を始める。使用人にしては服装が壮麗で、先ほどの貴婦人らと遜色がない。
立ち竦んでいるレティシアにも椅子が用意された。
「あ、ありがとう」
レティシアとベオルヴの間で、ささやかなティーパーティーの席が設けられる。女性らはとうとう一言も話さず、一礼だけして退室していった。
レティシアの頭でさまざまな疑問が渦巻く。
ここは本当に霧の城なの?
ベオルヴのほかに男性はいないの?
紅茶に手をつけずに逡巡するレティシアを、ベオルヴの双眸が見据える。
「どうした? 茶は嫌いか」
緋色の瞳は、あの化け物──ノスフェラトゥを連想させた。
「嫌いなんてこと……その、マナーとかわからなくって」
「いずれ憶える。香りを楽しむコツもな」
とはいえレティシアが遭遇した化け物と、ベオルヴでは、何もかも違いすぎる。ベオルヴは紅茶を飲むというより、言葉通りに香りを仰いでいた。
「えっと、じゃあ、いただきます」
レティシアも見よう見まねでやってみるものの、要領が掴めない。実家がハーブ屋を経営しているため、茶葉の知識はあるつもりだったが、まさしく知識だけだった。
「……美味しいわ。すごく」
それでも香りの良さと味の旨みに、月並みな感想が口をついて出る。この紅茶を淹れた人が『とっておきの茶葉を選んでくれた』のだと想像がついた。
今まで舌が乾ききっていたかのように、紅茶の味がじんわりと染みる。
「ふふ。さすがだな」
「え? そんなこと……あたしは別に」
戸惑いつつ、レティシアはかぶりを振った。自分は田舎の娘であって、茶の飲み方など満足に知らない。豪奢なセルリアンブルーのドレスにも気後れしてしまっている。
しかし彼が言おうとしたのは、教養のことではないようだった。
「これだけ俺の傍にいても、自我を保っていられるとは。俺の血が充分に馴染んだか」
ベオルヴの、血……?
何のことかと首を傾げ、あの瞬間をふと思い出す。
胸から溢れ出た、真っ赤な鮮血。自分を刺し殺した化け物の笑い声。
レティシアは真っ青になり、胸元を押さえた。傷はない。しかし夢にしては記憶が鮮明すぎて、心臓の動いている音まで怖い。
そうよ……あたし、どうして生きてるの?
惨劇の経験は、今までの日常からレティシアを切り離した。
「あなたが助けてくれたの?」
「助けたといえば助けた、が……助けたわけでもない」
引っ掛かる言いまわしで、ベオルヴははっきりと明言しない。紅茶で潤った唇を薬指でつうっとなぞり、意味深にはにかむ。
「人間の女、教えてやろう。我々はノスフェラトゥという眷属だ。お前たちが悪魔とか鬼と呼ぶ存在に近い。そうだな、人喰い鬼、あたりがしっくりくるか」
「ノスフェラトゥ……?」
ティーカップを持ち上げるつもりだった指が震えた。
それは『口にしてはいけない』とされている、忌まわしい名前。
ノスフェラトゥとは死者を操り、生者の血肉を貪る、人喰い鬼の名である。
湖の周辺で見つかる変死体が、決まって食い散らかされていたのは、ノスフェラトゥの仕業だったからだろう。
ベオルヴの指がレティシアの首筋を指す。
「お前には俺の血を分け与えてやった。ノスフェラトゥの王の血だ」
「……あたしに血を?」
レティシアは自分のてのひらを広げて、まじまじと見詰めた。この身体に流れている血が彼のものであるなどと、教えられても実感がない。
「レティシア=ハーウェル、お前は死の淵から蘇ったのだ。このベオルヴ=オーレリアンドの百人目の寵姫になるためにな」
どくんと心臓が強く跳ねた。
蠢いたというほうが正しいかもしれない。
「あたしが生き返った……? ちょうき、って?」
「平たく言えば愛人だな」
初対面の男性にいきなり『お前は俺の愛人だ』と言われても。
しかも寵姫──王の愛人に選ばれたなんて。
半ば放心するレティシアに、ノスフェラトゥの王はしれっと言ってのけた。
「じきに相手をしてやる。それまで城で好きにしろ」
「ち、ちょっと待ってったら!」
レティシアは立ちあがり、テーブルをばんっと叩く。せっかくの紅茶が零れてしまったが、それどころではない。
「助けてもらったことは感謝するわ。でもそんな、ノスフェラトゥとか、寵姫とか、突然言われたって……そうだわ、あたし、お仕事の途中だったの」
混乱している頭が両親の優先順位を上げた。調合で忙しい父の背中と、『気をつけるんだよ』と見送ってくれた心配性の母のこと。
娘が猛毒を摘みに行って戻らないとなったら、村中が騒ぎになる。
人の好い村人たちは湖の周辺をくまなく捜索するかもしれない。そこでレティシアのように誰かがノスフェラトゥに襲われない、とも限らなかった。
「今すぐ家に帰して。お願い!」
レティシアは藁にもすがる思いで、城主に嘆願する。
早くサーシャ村に帰って、ひとまず無事であることだけでも報せなければ。
「ちゃんと戻ってくるわ。お礼だってするから……」
知り合ったばかりの男性に愛人扱いされるつもりはない。けれども彼に頼るしか、今のレティシアに選択肢はなかった。
「……まだ自分では力を使いこなせんか」
ベオルヴがゆらりと立ちあがり、テーブルをまわってレティシアに詰め寄ってくる。
威圧感は周囲の空気まで従えているかのようで、一瞬、息ができなかった。レティシアがあとずさろうとしても、力ずくで腰を抱き寄せられてしまう。
「何をするのっ?」
「王が寵姫にすることなど、ひとつしかない」
淫靡な微笑みがレティシアの唇を塞いだ。
紅茶味の唇で、強引に。
「んむぅ? ンッ」
抱擁も強くなり、キスが深まる。
たまらずのけぞっても、抱き締められていては逃げられなかった。必死で彼の頭や肩を叩いても、強奪じみたキスは終わらない。
「初々しいな。我が寵姫よ」
「ちょうき、なんて……んふあぁ」
呼吸をダイレクトに乱され、反抗の言葉は喘ぎになってしまった。自分のものとは思えない色っぽい声がエコーを伴い、耳の内側で響く。
ベオルヴの熱い吐息はレティシアの唇を満たし、頬まで溢れた。
無理やり奪われているのに、身体に力が入らない。彼を押しのけようとしていたはずの手が、勝手にベオルヴの首にしがみつく。
「べおるぶ、さま? ンッ」
レティシアは屈辱よりも、奇妙な高揚感に駆られていた。抗う気持ちはあっても、その意志が指先まで届いてくれない。
「ベオルヴ様、か。抵抗力は完全ではないようだな」
レティシアの碧い瞳が、俄かに紅く光った。ベオルヴという名は暗示めいて聞こえ、頭の中が熱で蕩けそうになる。
仕上げにベオルヴはレティシアの頬を舐め、耳朶を優しく食んだ。
「感度がいいじゃないか。これからが楽しみだ、レティシア」
囁きが熱とともに耳へと触れる。
「これか、ら……?」
かろうじてレティシアは自我を繋ぎとめ、彼を睨みつけようとした。瞳の色もグリーンに戻り、意志を漲らせる。
けれども相手に目を合わせるのが恥ずかしくて、顔を直視できない。
いきなりキス、だなんて……。
合意なしに唇を奪われ、言いたいことはあるのに。
「お前の主が誰か、じっくりとわからせてやる」
ようやくベオルヴは抱擁を解き、レティシアを解放した。
その右手がパチンと指を鳴らすと、また女性たちがやってくる。
さっきのキス、見られてたの?
しかし彼女らは情事に関心を示すことなく、支配者の命令にだけ従った。
「レティシアの世話は、シンシア、引き続きお前に任せるぞ」
「かしこまりました。我が王」
ベオルヴは窓のカーテンを抜け、姿を消す。威圧的な気配も忽然と消えてしまった。
風でカーテンが開いても、向こうにはもう誰もいない。
シンシアという名の令嬢がレティシアの手を取り、案内を始める。
「こちらですわ、レティシア様」
「は、はい」
頷くしかなかった。レティシアにはこの場所の右も左もわからない。しかも城には上と下まであるのだから、案内は欲しい。
頭の中ではベオルヴの言葉が反響していた。
『お前には俺の血を分け与えてやった。ノスフェラトゥの王の血だ』
化け物に殺されかけた以上、ノスフェラトゥの存在は信じられる。しかしレティシアを襲ったのは正真正銘の『化け物』であって、そこがベオルヴと根本的に違った。
確かにベオルヴは魔法を操るし、風格というべき威圧感をまとっている。それは『魔法使いの王』ではあるかもしれないが、決して『化け物』ではなかった。
「どうかなさいましたか? レティシア様」
「なんでもないわ」
城にいる彼女らもノスフェラトゥなのだろうか。
シンシアは階段を先に降りつつ、客人の歩調に合わせてくれた。穏やかな物腰で、レティシアがよろけると手を取ってくれる。
「ハイヒールは不慣れでいらっしゃいますのね」
「あんまり履いたことが……田舎者だから、あたし」
握った手は少し冷たい。ただ、それだけだ。
彼女も化け物ではありえない。魔法が使えるといっても、それ以外は血の通った人間とさほど変わりないように思えた。
ベオルヴやシンシアが人を喰らう光景など、想像できない。
そうよね。考えすぎよ。
やっと頭が冴えてきて、レティシアは冷静になった。
しばらく歩いて、最初の部屋まで戻ってくる。出る時は気付かなかったが、ドアのプレートには『100』と刻まれてあった。
百、という数字が引っ掛かる。
『レティシア=ハーウェル、お前は死の淵から蘇ったのだ。このベオルヴ=オーレリアンドの百人目の寵姫になるためにな』
部屋を前にしてレティシアは立ち竦み、あっと声を上げた。
「百番の部屋って、あたしが、あの男の百人目の寵姫ってことっ?」
レティシアの大声にシンシアが驚き、振り返る。
丁寧なお辞儀とともに自己紹介が始まった。
「仰る通りですわ。そうそう、申し遅れました。わたくし、七十七人目の寵姫でございます、シンシア、と申しますの」
「ななじゅうななぁ?」
人間とかノスフェラトゥとか、村とか城とか、全部が頭から抜け落ちる。
レティシアが今の今まで使用人と思っていた女性たちは、全員ベオルヴの愛人だった。道理で身なりがいいわけで。自分たちのほかに、まだ九十八人もいる。
庭園で談笑していた女性も、ドレスの着付けを手伝ってくれた女性も、全員が愛人。
なんてことなの……。
城主の貞操感に呆れ果て、レティシアは両手で頭を抱えた。しかも愛人のひとりに自分も数えられているのだから、鳥肌が立つ。
『感度がいいじゃないか。これからが楽しみだ、レティシア』
ベオルヴの言葉は新しい愛人に向けられたもの。彼の言う『これから』とは『キスの続き』である可能性に、表情筋が引き攣ってしまった。
この城にいてはいけない。
早く逃げなきゃ!
「シンシア、あたし、家に帰りたいの」
部屋に入るや、レティシアはシンシアに詰め寄った。けれどもシンシアは深刻に受け止めてくれず、窓を開け、暢気に室内の空気を入れ替える。
「どちらにお帰りになると仰るのですか? ここがレティシア様のお部屋ですわ」
「そうじゃなくて、お父さんとお母さんのところよ。湖の近くのサーシャ村に」
レティシアは窓から半身を乗り出し、見える限りの景色を一望した。しかし陽は暮れ、湖の水面には霧も充満しているため、ほとんど何も見えない。
月の位置で、せめて方角だけでも把握する。
窓は南向きであり、湖越しにサーシャ村のほうに向いていた。
夜間になっては外出など難しい。城にボートがあったとしても、素人が夜の湖を渡るのは危険極まりない行為だった。
「月も綺麗ですし、今宵はレティシア様の歓迎会をさせてくださいませんか?」
「でもあたし、今はそんな気分じゃ……」
何気ない会話の中で、レティシアは違和感とすれ違う。
……月が綺麗?
はっとして、もう一度窓から月を見上げる。霧の向こうに浮かぶ今夜の月は、レモンの形に似ていた。湖の水面にも、月のものらしい丸い光がおぼろげに漂っている。
ナイトガベラは『新月』の日にしか採取できないのに、今夜は上弦の月。
新月が上弦になるまで、およそ十日は掛かる。そこから一周となると、さらに三十日以上の時間が経過する。
何日……ううん、何ヶ月くらい眠ってたの?
長くなった髪も時の流れを物語っていた。襲われてから一日や二日ではない。自分は相当の日数を、この寝室で過ごしたのだろう。
「シンシア、今は何月何日なの?」
「はい? ……人間の暦のことを仰ってるのでしょうか。あ、そうでしたわ!」
言葉の途中で、シンシアがぱんっと両手を鳴らす。
「レティシア様は人間でいらしたのですわね。僭越至極にございます」
価値観が違いすぎるせいで、会話にならない。レティシアは正面からシンシアの両肩を掴み、はきはきと語気を強めた。
「ごめんなさい。あたしはベオルヴの寵姫になんてなるつもりないの。明日にはここを出るわ。悪いけど、シンシア、あたしに協力してくれないかしら」
真剣な表情で訴えても、彼女はきょとんとするばかり。レティシア逃亡の手引きをするわけにはいかない立場にしても、こちらの意図をまるで汲んでくれなかった。
「……どうしてお城を出たいんですの?」
「あ、愛人扱いなんて嫌だからよ」
「ベオルヴ様は素晴らしいお方ですよ。レティシア様のことも大切にしてくださります。レティシア様はまだ動揺なさっているだけですわ」
これでは埒が明かない。レティシアが何を言ったところで、この七十七人目の寵姫は、ベオルヴこそ正しいと考えてしまうのだろう。
「お困りかな? レディー」
不意にそんな声が聞こえた。開けっ放しの窓から、紫色の煙が飛び込んでくる。
「きゃっ?」
その煙が晴れた時には、窓辺に奇抜な人影が佇んでいた。最初からそこにいたかのように寛ぎ、青いバラを観賞している。
「……あ、あなたは?」
「これは失礼。驚かせてしまったね」
派手なピエロの風貌で、大きな羽根帽子を被っていた。手足の裾がくたびれてしまっているが、それも道化を装ってのものかもしれない。
「僕はエリオット。ベオルヴ様に、キミの案内役を仰せつかったのさ」
戸惑うレティシアの隣で、シンシアがくすっと笑った。
「まあ、エリオット様ったら。女性の部屋にノックもなさらないで」
「いやいや。僕には性別なんて関係ないからね」
エリオットが両手をひっくり返して、わざとらしくとぼける。
見たところ男性には違いないが、人を煙に巻くのが道化なのだから、信用する気になれなかった。レティシアの警戒心も今は過敏になっている。
エリオットは長身を折り曲げるように会釈した。
「そちらのシンシア嬢はレディーのお世話役さ。お城の案内役はこの僕が務めるよ。さあレディー、何なりとご命令を……ベオルヴ様を裏切るような真似はできないけどね」
考えていることを見抜かれ、釘を刺される。
深呼吸をしてから、レティシアは淡々と挨拶を済ませた。
「……レティシア=ハーウェルよ。エリオットだったわね、よろしく」
「はい、よろしく」
人を食ったようなウインクが、不安を増長させる。
初対面にもかかわらず、エリオットはレティシアの本意を正確に見抜いていた。レティシアが城から脱出するには、案内役の助力が必要になる。だからこそ『城主に逆らうことはしない』とあらかじめ念を押したのだろう。
「残念だったなァ、オマエ」
剽軽な声がした。
エリオットの腰にぶらさがっている猫のお面が、けたけたと笑いだす。
「逃げたくてたまんねェってツラしてるゼ。ベオルヴ様も、とんだじゃじゃ馬を連れてきちまったもんダ。それとも、たまにはこういうのもイイのかナ?」
「静かにしてなよ、チャリオット。レディーが驚いてるだろ」
道化の腹話術らしい。エリオットは巧みに声色を使い分け、一人二役を演じた。
「あー、わかったゼ。こいつ、胸がでっけーかラ」
「こらこら! レディーに対して、何を言いだすんだよ」
実際にそんなことを言っているのはエリオットのはずだが、腹話術が愉快で、怒る気になれなかった。エリオットがお面の口を塞ぎながら、苦笑いで取り繕う。
「これからはお喋りの相手にだってなるよ。キミのことも聞かせて欲しいね」
「いいわよ。あなたのことも話してくれるなら」
ひとまず逃走の算段は別にして、レティシアは握手を求めた。早く帰りたい焦りはあるものの、下手に敵を作るより、友好的に接してチャンスを待つ。
「レティシア様。身の周りのことでしたら、ご用件はわたくしにお申しつけください」
「僕が着替えを手伝ってあげてもいいんだけどなあ。……あははっ、ウソウソ」
シンシア、エリオットとともに、霧の城での軟禁生活が始まった。
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