妖精さんはメイワクリエイター

第2話

 朝から三人の男性に迫られたせいで、お昼ご飯どころじゃない。

「シャルちゃ~ん? ご飯、まだ~?」

「今日は適当に食べてて! あたしは忙しいのっ」

 あたしは部屋で柄にもなく腕組みまでして、宙づりの妖精さんを睨みつけた。飛んで逃げかねないから、リボンで縛ってある。

「悪かったってば、シャル。そろそろ降ろしてよぉー」

「……本っ当に、嘘ついたりしてない?」

「そりゃあもう! ゲーム界の女神様に誓って、嘘偽りは申しませんとも!」

 あたしのじとっとした視線と、チェルシーのわざとらしい涙目が、すれ違った。

「はあ……」

 溜息が深海よりも深くなる。

 事の原因は一週間ほど前、チェルシーがランディ、オリエガ、ミストの三人に惚れ薬を飲ませたこと。夕食にこっそり混ぜたらしいわ。

 そういえば、チェルシーの帰りの遅い日があったっけ。

 おかげでランディたちはあたしにぞっこんとなり、口説きにやってきた。

 妖精仕込みの惚れ薬はとても強力で、並大抵の方法では効果を打ち消せない。チェルシーの持ってる解毒薬だけが頼みだった。

 解毒って、思いっきり『毒』じゃないの……。

 ただし解毒薬はふたつだけ。ビンには飴玉が二個しか残ってない。

 つまり、惚れ薬の効果を消せるのは、ふたりまでってこと。

「妖精の国に帰って、解毒薬を取ってくるのって、そんなに掛かるの?」

「掛かるってより、もう一度この世界にドンピシャで来られる保証がないのよ。帰る分には問題ないんだけどねー」

 今すぐ帰って欲しくなった。けど、まだ何も解決できてない。

 チェルシーは懲りずに愉快半分な笑みを浮かべた。

「いいじゃん、シャル。この機会にじっくり三人を吟味してさあ。本命が決まったら、ほかのふたりには解毒薬を飲ませるってことで」

 恋の妖精を自称するくせに、血も涙もないやり方だわ。

 ひとまずチェルシーを解放してあげる。

「いーい? あなたは解毒薬をもう一個、なんとかすること。あと、絶対にこれ以上、話をややこしくしないで。特に後者よ、わかった? ……わかったわね?」

「はぁーい」

 気の抜けた返事をされ、また頭が痛くなってきた。

 とにかく問題はこうよ。

 ランディ、オリエガ、ミストの三人が、惚れ薬のせいで、あたしに惚れた。

肝心の解毒薬はふたつしかない。

解毒薬を誰に使って、誰を残すか。それを決めなくちゃならないの。

チェルシーほど割り切ることができれば、楽しいのかもしれなかった。けれども、特にランディとオリエガには、罪悪感ばかりが込みあげてくる。

 案の定、チェルシーは面白がってた。

「お金持ちで家柄もいいランディかあ、なんか切ない事情がありそうな、ちょいワルのオリエガかあ……うーん、王子様がもうちょっとマトモだったらなあ~」

「あなたにだけは言われたくないわよ、ミストも」

 できることなら、この妖精を懲らしめる方法こそ、ミストに相談したい。

 かくしてあたし、シャーロット=アヴリーヌの受難が始まった。

 

 

 グナンパレスの西区に広がる、歓楽街。

 そこに豪奢な門を構えるカジノで、あたしは一週間、見習いディーラーとして働くことになった。自宅でお夕飯を済ませてから、出勤するの。

 チェルシーも一緒に……あたしの恋を取材するって言い張って、聞こうともしない。

 ディーラーの制服は、フォーマルなブラウスにタイトスカートと決まっていた。この時期にストッキングは蒸れるものと思ってたけど、薄いおかげで快適ね。

 髪はチェルシーに仕立ててもらった。

「こんな感じで、どお?」

「うん。いいわね」

 ポニーテールと思いきや、上に盛って、大人びた雰囲気を演出してくれる。これなら童顔のあたしでも、少しはディーラーらしく振る舞えそうだった。

 仕事場となるカジノのホールでは、みんなが開店の準備に追われてる。

「お前はこっちだ、シャル。ついてこい」

 部下の手前、オリエガがあたしを口説くことはなかった。

 そのはずが、しれっと腰に手をまわされちゃう。

「ち、ちょっと? 近いったら」

「目を離したら、逃げ出しそうなんでな」

 普段のドライな彼には考えられない、念の入れよう。

 鋭いオリエガのことだから、おそらくあたしの『裏』に勘付いていた。

 実は彼にも内緒で、来週はランディと、再来週はミストと約束してるの。それぞれ一週間という期限を設けたのも、お母さんを放っておけないから、なんて理由をつけた。

 オリエガにとっては、尊敬する先生の奥さんだもの。ずるいかもしれないけど、お母さんを出せば、折れてくれるのは知ってた。

「仕事はさせたことがあるから、勝手はわかるな?」

「大丈夫よ。ブラックジャックのテーブルにつけばいいのね」

 あたしの持ち場はブラックジャック。同僚に挨拶しつつ、準備に入る。

「レートの低いテーブルだ、楽にすればいい。わからないことはシンシアに聞け」

 オリエガは指示だけすると、忙しそうに支配人室に戻っていった。

 カジノのホールは壁に顔が映るほど磨き込まれてる。暗いようで明るく、シックなようで煌びやか。ワインレッドの色合いには、お客さんを白熱させる効果があるらしいわ。

 女性ディーラーの妖艶な風貌には、女のあたしでもどきっとする。どこぞの王子様の趣味みたいに、胸の谷間を覗かせてるわけでもないのに、色気に満ちていた。

 同じ制服を着てたって、あたしはお子様なのに……。

「前にもやってたものね、シャーロット。問題ないでしょう?」

「あ、はい。できると思います」

「何かあったら、こっちでサポートもするから」

 先輩ディーラーのシンシアさんも綺麗だった。艶やかな口紅が目を引く。

 やがて八時となり、カジノの営業が始まった。近辺のレストランで食事を終えたらしいお客さんが、興味津々にやってくる。

「あら、可愛いディーラーさんですこと」

 身なりのいい老夫婦が、あたしのテーブルで席についた。

「ひと勝負、いいかしら?」

「どうぞ。それではカードをお配りしますね」

 あたしの持ち場はレートが低いから、『賭け事は苦手だけど、遊びたい』ひとには向いてる。それなりの回数が遊べるし、大勝がない分、大損もないもの。

「じゃあ、わしはもう一杯いくか」

 お客さんがいれば、お酒だって売れる。

 ほかのゲームも和気藹々と盛りあがっていた。中でもお客さんがたくさん集まってるのはルーレットね。赤と黒で色分けされたルーレット盤の上で、銀色の玉が跳ねる。

 カードゲームはブラックジャックのほかにポーカーも人気だった。ブラックジャックほど相手との駆け引きはいらないから、マイペースで楽しめるわ。

 ダーツは若いひとが多いかしら?

 あたしは念のため、お母さんが来ていないのを確認し、ほっと胸を撫でおろす。まあ、あたしの妹に見えちゃうくらいの若作りだから、入店できるわけもないか。

 使い古されたレコードプレーヤーは延々とジャズを奏でていた。ブラックジャックのお客さんが途切れると、寛いでしまいそうになる。

チェルシーなんて、テーブルの下であくびをしてた。

「ふあ~あ……カジノってさぁ、どうもミニゲームって感じなのよねぇ」

 妖精さんの言う『ゲーム』が、あたしにはやっぱり、わからない。

「静かにしててよ? そういう約束でしょ」

「こんなところに妖精がいるなんて、誰も思わないってば」

 二時間ほど働いて、あたしもあくびを噛んだ。時刻は十時過ぎ、いつもならお風呂を済ませて、そろそろ寝るとこなんだもの。

「――いい加減にしろ!」

 だけど不意に怒鳴り声がして、眠気は吹き飛んだ。

「お、落ち着いてください、お客様」

「これが落ち着いてられるか! こっちはイカサマされたんだぞっ!」

 お客さん同士のポーカー勝負でトラブルがあったみたい。ディーラーの仲裁も聞かず、年配の紳士が興奮気味にいきり立つ。

 対するのはおそらく隣国の貴族か、豪商ね。

「ぼくがイカサマ? 負けが込んだからって、失礼じゃないか」

「そうでもないと、あれだけ勝ち続けられるものか!」

 カジノのお客さんには、王国の貴族のほか、近隣諸国の旅行者も多い。しかも賭け事をするわけだから、トラブルも少なくなかった。

 一触即発の緊迫感が立ち込める。ほかのお客さんも手を止め、口を噤んだ。

「ふん。呼ばれたから来てみれば……」

 そこへ支配人のオリエガが、さして急ぐふうもなく現れる。

「俺の店では両成敗がルールだ。悪いが、どちらも出ていってもらおう」

 オリエガの淡々とした物言いは、火に油を注いだ。言いがかりをつけられていたほうのお客さんも、不愉快そうに顔色を変える。

「こいつが勝手に負けただけだろ? ぼくまで追い出すつもりかい」

「挑発行為も禁止なのでな」

 みんながはらはらと見守る中、喧嘩の当事者たちはオリエガへと詰め寄った。

「支配人なら話を聞け! こいつがおれを嵌めたんだぞ!」

「追い出すのは、この男だけでいいじゃな……」

 ところがふたりとも、何の前触れもなくひっくり返っちゃったの。ずどんと大きな音が鳴って、みんなも驚いた。

 オリエガが一瞬のうちに投げたんだわ。あたしにも見えなかったけど……。

「加減はしてやったぞ。少しは冷えたか?」

「う、うぅ……」

 頭が冷えたかって意味だとは思う。でもひっくり返された当事者たちは、すっかり肝を冷やしたみたい。起きあがると、すごすごと退散していった。

 テーブルの陰からチェルシーが様子を覗き込む。

「ふぅん。やるじゃない、あいつ」

「剣だと、もっとすごいのよ」

 自分のお兄さんを褒められたみたいで、嬉しかった。

 偉大なお父さんのもとには、弟子を志願するひともやってくる。でもお父さんが弟子にしたのは、喧嘩に明け暮れていたオリエガだけ。

彼がお父さんに弟子入りした経緯は、あたしも知らない。いつの間にかお父さんの傍にいて、掛け声もなしに、剣の稽古ばかりしていた。朝から晩まで。

「もうオリエガに決めて、攻略しちゃう? シャル」

「攻略? 何言ってるの」

 出たがるチェルシーを、あたしはテーブルの下へと押し戻す。

 オリエガは踵を返しつつ、こっちに寄ってきた。あたしがシャッフルしたデッキから、適当にカードを三枚取って、一枚ずつ捲っていく。

 現れたのは3と8とエース。偶然にもブラックジャックの『21』だった。

「そろそろ交替だろう? 俺と来い」

「え、ええ……」

 有無を言わせない威圧感が、あたしを緊張させる。

 なんだか怖いかも……。

 あたしはホールを出て、支配人室へと連れていかれた。寝転べるくらい大きなソファのもとでは、豹のリチャードが寝息を立てている。

 オリエガはソファにゆったりと腰掛け、あたしに『座れ』と手招きした。

 ところが座るつもりで近づくと、片腕で抱きかかえられてしまう。

「きゃっ? ちょっと、オリエガ?」

 あたしがお尻を乗せたのは、彼の膝の上。しかも腰には手をまわされちゃってる。おかげで密着するほど近くなり、緊張どころか動揺させられた。

「軽いな、シャルは」

「や、やめてったら。こんなの恥ずかしいじゃない」

「俺しか見てないんだ。安心して恥じらえ」

 オリエガは飄々とやにさがって、ミストばりに意地悪なことを囁く。

「……ふっ。色気も出てきたな」

 あたしは両手で念入りにタイトスカートを押さえた。だけど、その抵抗さえ楽しむかのように、彼のまなざしは熱くなる。

「どこ見てんのよ」

「さあな。それより休憩だ」

 オリエガはあたしを膝に座らせたまま、悠々と寛ぎ始めた。でもあたしのほうは、不意打ちのように背中を撫でたりされて、寛ぐどころじゃない。

「ど、どうしてあたしと一緒なわけ?」

「お互いを知るための一週間だと言ったのは、お前じゃないか。だが、ホールで仕事をさせていては、そんな時間もない。せめて休憩くらいはこうして、な」

 彼の手があたしのうなじに触れる。髪を盛ってるせいで、そこは無防備だった。

「安心しろ。何もしない」

「もうしてるじゃないの、ばか」

 恥ずかしさを伴った緊張感のせいで、胸が勝手に高鳴ってしまう。

 これじゃあ、カジノの支配人と愛人の構図だわ。

「オリエガ様、入荷の件でお話、が……?」

報告にやってきた従業員が、情事のさまに目を丸くする。

「今はこいつと休憩中だ。あとにしろ」

「しっ、失礼しました!」

 あたしはもう真っ赤になるしかなかった。カジノで噂になるに違いない。

 これも全部、チェルシーが飲ませた惚れ薬のせいよ。

「ねえ、オリエガ。こんなあたしの、どこを、その……好きになったっていうの?」

 シャーロット=アヴリーヌに大した魅力なんてない。自分のことだから、わかってる。現にカジノには、あたし以上の美人ディーラーがいくらでもいた。

 強力な惚れ薬でオリエガを無理やり惹きつけてるだけ。

「そう聞かれると、答えに困るな……」

 オリエガが眉を顰める。

「一目惚れでないことは、確かだ」

「それって、確信するようなことなの? 失礼ね」

 長い付き合いだけど、そんな気配は今まで欠片もなかった。あたしだって、オリエガのこと、頼れるお兄さんくらいにしか思ってなかったもの。

「先生の子どもとは勝負してやるつもりだったのさ。しかし女だったから、初めて会った時は拍子抜けしたな。つまらん、と」

「そのつまんないやつ、そろそろ解放してくれない?」

「聞けない相談だな。おとなしくしてろ」

 あたしの意固地な態度が、オリエガに壁を作る。だけど、オリエガはそれを壊してまでアプローチを続けようとはしなかった。彼の手が呆気なく離れていく。

「まだ固いぞ、シャル」

「しょうがないでしょ? こういうの慣れてないんだから……」

「慣れていたら大問題だ。まあいい、この一週間はゆっくり楽しむとしよう」

 オリエガはあたしを睨むと、不敵な笑みをたたえた。一週間で帰すつもりはないって、目が言ってるわ。これ、勝てるのかしら、あたし……?

 あたしが逃げきるか、オリエガが捕まえるか。

すでにゲームは始まっていた。

 

 

 カジノでは『支配人の愛人』が噂になってる。

 オリエガ=ブライアンという堅物には恋人なんていない、というのが従業員たちの認識だった。ところが新入りのうら若いディーラーと『ご休憩』してたんだもの。

 おかげで、下世話な噂がまことしやかに囁かれていた。

「誰だよ? マスターは××だって言ってたのは」

「そうでもないと、説明つかなかったでしょ? 何人の子が振られたと思ってんの?」

 特に女性陣はすぐに話を飛躍させたがる。

 当然、あたしはあちこちで探りを入れられた。オリエガの先生の娘ってだけじゃ、誰にも納得してもらえない。みんなして、その『続き』を聞きたがる。

 剣の修行に明け暮れたのは、あたしを守るため、だとか。

「でも、そんなに稽古したのに、マスターは騎士にはならなかったのね」

 女子更衣室は井戸端会議の場となっていた。

「叔父さんのカジノを継ぐほうが、よかったんでしょ」

「騎士なんて窮屈だって聞くしねー」

 姿見の後ろでは、チェルシーがメモを取ってる。

 こう囲まれていては、ヘアメイクをチェルシーにお願いできなかった。代わりにシンシアさんが櫛を取って、あたしの髪を手際よく梳いてくれる。

「よかったじゃない、シャル」

「いえ、あの……オリエガとはまだ、正式に交際してるわけじゃ……」

 あたしにとっては苦しい状況が続いた。

 まさか誰も、来週には別の男性のもとに行くとは思わないでしょ? シャーロット=アヴリーヌは近々、稀代の悪女として名を残す羽目になるかもしれない。

 着替えを済ませたディーラーから更衣室を出ていく。

「あたし、もうちょっと準備がありますから」

「先に行ってるわよー」

 シンシアさんは首を傾げつつ、持ち場に向かった。

 姿見の後ろからチェルシーがまわり込んできて、羽根を伸ばす。

「面白くなってきたじゃないの、シャル。これよ、これ! アタシが求めてたのは!」

「他人事だと思って……解毒薬をもう一個って話は、どうしたの?」

「まあまあ。固いことは言いっこなし」

 結局、彼女の思惑通りになってしまっているのが悔しい。

「惚れ薬でも何でもいーじゃん。楽しんじゃお?」

「まったくもう」

 身勝手な妖精さんを指で小突いてから、あたしも持ち場へと急いだ。

 ところが、エントランスのほうが騒がしい。カジノには不似合いな騎士の一団が、堂々と踏み込んできたの。不穏な空気が漂ってる。

 リーダー格の騎士は、さも正義の使者であるかのように語った。

「ザルバック子爵がよからぬ客に騙され、そのうえ店を追い出されたと、おっしゃった。この件について、そちらの責任者から話を伺いたいのだが……」

 対応に出たケビンさんが、眼鏡の合わせを指で押さえる。

「はて、何の話でしょう?」

 知らないはずがなかった。その飄々とした態度に、騎士らがいきり立つ。

「いけすかないやつらめ! 先月は西のマフィアが出入りした、などという情報もある。この機会に徹底的に改めてやってもいいんだぞ」

 それでもケビンさんは涼しい顔でいた。

「はっ、ご冗談を。マフィアなど呼ばずとも、当店は刺激に満ちておりますよ」

 黒服の用心棒も集まり、騎士らと正面から睨み合う。

「オリエガ様の手を煩わせるまでもありません。今夜はお引き取りを」

「チッ……いいだろう」

 騎士団は舌打ちを交ぜながら、渋々と引きあげていった。

 物々しい緊張感から解放され、あたしは息をつく。

「ねえねえ、シャル? どーいうこと?」

 隠れているはずのチェルシーが、あたしの肩に乗っかった。

「王国騎士団はカジノのこと……ううん、このあたりのこと、よく思ってないのよ。外国の勢力が入り込んでたりもするし」

 グナン王国の西方は、小国家や民族が多いため、情勢が荒れやすいの。過去にはグナン王国まで飛び火し、戦争への参加を余儀なくされたこともあったわ。

 むしろ魔王が健在だった頃のほうが、人間同士は平和だったかもしれない。

 グナンパレスの西区は、そういった組織の縄張りが集中している。表向きは娯楽の街であっても、その懐には闇を抱えていた。それだけに騎士団も神経質になってるのよ。

「なるほど、なるほど」

「ちゃんと隠れててよ? 見つかっても、庇ってあげないから」

「へ? やばっ」

 見つかりそうになったチェルシーが、さっと身を隠す。

 ケビンさんは妖精には気付かず、あたしの顔を見るや、げんなりとした。何しろオリエガの愛人なんて噂が流れてるくらいだもの。ちっとも快く思われてない。

「ぶつぶつ話してるのはあなたでしたか、シャーロット。早く持ち場についてください」

「すぐに行きますってば。それにしても、大変そうですね」

 ケビンさんの口角がにやりと曲がった。

「どうということはありません。彼らも警告以上のことはできませんしねぇ」

 この歓楽街で、多数の勢力が凌ぎを削る中、オリエガのカジノは『王国の一大勢力』として存在してる。王国にとっては必要不可欠な看板ってわけ。

 騎士団はカジノに目をつけ、虎視眈々と狙ってた。だけど、貴族の不始末のために事を荒立てるのはまずい、と判断したんでしょうね。

「大変ね、騎士団も。今回のはザルバックってひとの尻拭いじゃないの」

「同感です。オリエガ様が騎士団への勧誘を断ったわけですよ」

 ケビンさんは人差し指をメインホールへと向けた。

「ほら、いつまでさぼってるんですか。ここにいる以上、仕事はしてもらいます」

「あ、ごめんなさい。それじゃあ失礼します、ケビンさん」

 今度こそあたしは持ち場へと急ぐ。

 カジノは今日も平常運転で、目立ったトラブルもなかった。ちょっと飲みすぎたらしいご婦人を、医務室に案内したくらいね。あと一時間ほどで、今夜は店じまい。

 ……なんて油断をしてたら、とんでもないお客さんがやってきた。あたしは咄嗟にテーブルの下に隠れ、やり過ごす。

「ようこそおいでくださいました、ミスト王子!」

「もてなしはやめてくれ。気分転換に遊びたいだけなんだ」

 よりによってミストが現れたの。

軽装とはいえ貴族風のスタイルで、タイを締めてる。従業員のみんなとはそれなりに顔馴染みのようで、あっさり溶け込んでしまった。

 隠れてるあたしを、シンシアさんが不思議そうに覗き込む。

「どうしたのよ、シャル?」

「あの、その……あたし、あのひとが苦手なんです」

 嘘じゃなかった。ミスト=グナンナーとはなるべく顔を会わせたくない。

 しかし今はそれ以上に、惚れ薬の件があるんだもの。目を合わせたら最後、この場で何を暴露されるか、わかったものじゃない。

 ディーラーの制服って、こんなに寒かったかしら……?

 震えるほどの寒気がする。

「シンシアさん、お願いです。こっちに来たら誤魔化してください」

「そんなわけにいかないでしょ、相手は王子様なんだし。ミスト王子ぃ~!」

 先輩ディーラーに頼ったら、一秒で裏切られた。

 ミストの足音が近づいてくる。

「なんだ?」

「実は新しい子が入ったんですけど、王子に緊張しちゃいまして……」

 シンシアさんの指がテーブルの下を指した。お客さんのほうからは屈んでも見えない構造とはいえ、絶体絶命。

 チェルシーが眼鏡を持ってきてくれる。

「これで変装できるわよ、シャル!」

「ナイスよ、チェルシー!」

 眼鏡を掛けると、視界がぐにゃりと歪んだ。気持ち悪いけど、我慢するしかない。

 今夜のあたしはディーラーの恰好で、いつもとヘアスタイルも違ってる。さらに眼鏡を掛ければ、別人になりきれなくもなかった。

 あたしは立ちあがって、ご挨拶。

「は、初めまして、王子様? えぇと、チェルシーといいます」

「……何を言ってるんだ、お前は?」

 眼鏡のせいで、ミストの呆れ顔が捻じ曲がる。

 シンシアさんもきょとんとした。

「あなた、シャーロットでしょう? 勇者様の娘さんの」

 ほんの数秒で素性がばれる。あたしは観念し、おずおずと眼鏡を外した。

 ミストがにやにやと意地の悪い笑みを浮かべ、テーブルにつく。

「僕に内緒で、こんなところで油を売っていたのか。ナターシャは知ってるのかなぁ」

「し、知ってるわよ。何なら、お母さんにも聞いてみたら?」

彼と目を合わせないようにしながら、あたしはカードを切った。

いつオリエガが来るとも知れない場所で、ミスト王子と一対一は居たたまれない。彼にはさっさと負けて、帰ってもらうことにする。

ミストは少し前のめりになって、意味深なことを囁いた。

「何か後ろめたい理由があるんだろ? ここで働いてることを秘密にしてやってもいい。シャルの二週間後の予定もなあ」

 確信犯的な一言ごとに、はらはらさせられる。

 ミストにはこうして脅迫の材料にされるだけだから、まだいいのよ。もし過保護なランディに知られたら、夜遊びだなんだと大騒ぎになるのは、目に見えていた。

「お前が勝ったら、すぐに帰ってやるよ」

 ミストにしては引き際のよい台詞に、あたしは違和感を覚える。

「ほんとでしょうね?」

「ああ。ただし、お前が負けたらおしおきだ、クックック」

 ぞっと嫌な予感がした。魔王の手下みたいに笑う時のミストは、ろくでもない。

「そうだな……バニーガールの恰好でもしてもらおう」

「バババッ、バニーガールぅ?」

 あたしの悲鳴にも似た声が響き渡った。

 カジノの女性従業員は、テーブルを受け持ってなくても、体裁としてディーラーの制服を着用する。しかしイベントなどの際は、バニーガールの起用もあった。

 あれって、下着もつけずに胸の谷間を曝け出したり、フトモモを付け根から見せたりするのよ? 成熟した美女ならまだしも、あたしには……無理。

「どうだ? シャル」

「このヘンタイ……そんな勝負、受けないってば」

「だったら、明日も来てやる。明後日も、明々後日もだぞ」

 ゲームを拒否できる選択肢はなかった。シンシアさんたちは盛りあがっちゃって、対決が始まるのを今か今かと期待してる。

……こうなったら、勝つしかないわね。

「三回勝負で行きましょ。お仕事じゃないんだから、有利不利はなしよ」

「いいだろう。フフフ……」

 カジノではディーラーに若干不利なルールが適用されていた。でもミストとの勝負で、そんな余裕はかましてられない。少しでも勝率を上げておかないと。

 二枚ずつ配ったカードを確認すると、こっちには7と10で、合計は17だった。

 対して、ミストはにこやかに笑ってた。よほどいいカードなのかもしれない。さらに一枚足して、笑みを深くする。

「お前は引かなくていいのか? シャル」

一瞬、迷った。あたしの手札はブラックジャックには少し遠いから、攻めたい気持ちはある。ただし5以上のカードを引いてしまったら、バースト(敗北)が確定した。

でも、ミストの手札が18や19だったら……?

 そんな疑念を振り払いながら、あたしは17で勝負に出る。

 ところがミストのカードは2と5と8の合計で、16止まり。ポーカーフェイスであたしをけしかけたみたいね。

「ふふっ。あたしの勝ちよ、ミスト」

「まだまだゲームはこれからさ」

 次の勝負は20で寸止めしたミストの勝利となって、最終戦にもつれ込む。

「シャルうさぎの調教まで、あと一勝か。楽しみだ」

「うぐ……」

 この王子様は冗談でも本気にするタチだった。観客のみんなも乗り気になって、バニーガールの衣装まで用意しちゃってる。

 でもカードの内容を見て、あたしは『やった』と胸を躍らせた。表情に出てしまわないように、唇を一文字に引き結んで、不安そうな面持ちを維持する。

合計が11だから、11以上のカード(10としてカウントされる)、もしくはエースを引けばいいわけ。それに、ほかのカードを引いちゃっても、バーストにならない。

 実際に引き当てたのは、12のクイーン。

「くふふふっ」

 あたしの笑みが弾むのを見て、ミストは負けを悟ったみたい。19にまで迫った手札を明かし、素直に負けを認める。

「はあ……バニーガールは、シャルが自分から着てくれるのを待とう」

「しつこいわね。潔く諦めてってば」

 王子様の性癖を軽蔑しながら、あたしはカードを切りなおした。

 賭けに従って、ミストは早々に腰をあげる。

「まあいい、今夜は珍しいものが見れたしな。シャル。その制服も似合ってるぞ」

「え? あ……ありがと」

 急に褒めてくるものだから、びっくりしちゃった。

「しかしテーブルが邪魔で見えないんだ。穿いてるんだろ? ストッキング」

「お気をつけてお帰りください、ねっ!」

 あたしはテーブルの裏を軽く蹴って、ストッキングの脚を組み替える。

 何よ、もう。エッチなことばかり考えて……。

 ミストはほかの従業員と挨拶を交わしつつ、カジノを出ていった。

王子様が夜遊びだなんて……はあ。要領よくお休みを取って、お昼に街を歩いてることもあるはずなのに。でも公務が忙しくて、人並みに自由がないのも知ってる。息抜きになるなら多少のセクハラくらい、とあたしは容認しちゃってた。

「ちゃんと護衛は連れてきてるのかしら……あら?」

 ミストと入れ替わるように、誰かがふらふらとメインホールに入ってくる。

それは近眼なのにいつもの眼鏡がない、ケビンさん。

「どなたか、わたくしの眼鏡を知りませんか?」

 あたしの手元にそれはある。

「眼鏡なら、もっとほかにあったでしょ? チェルシー」

「ごめん、ごめん。掛けてそうなの、ケビンしか憶えてなくて」

 妖精さんの悪戯、なんて言い訳は通用しなかった。

 

 ディーラーのお仕事も、もうじき一週間になる。

 忙しいおかげで、あと……あたしが意図的に避けてたこともあって、オリエガとふたりになる場面はほとんどなかった。オリエガの傍には大抵ケビンさんもいるし。

 ただし休憩時間だけは別。あたしは彼の趣味に違いないディーラーのスタイルで、今夜もコーヒータイムに付き合わされていた。

 ホットコーヒーの香りを仰いで、オリエガはふうと息をつく。

「夏でも夜はそれなりに冷えるな」

 カジノの夜は長いから、休憩中にコーヒーを飲む従業員は多かった。そんな中でも、彼は好きでブラックを飲んでる。ミルクやお砂糖を入れるところは、見たことがない。

 あたしはブラックじゃ飲めないから、お砂糖を少し入れた。テーブルを挟んでオリエガと向かい合い、何事もなく休憩が終わるのを待つ。

「そろそろだったか、シャル」

 不意に尋ねられ、あたしはぽかんとした。

「なんのこと?」

「ディーラーの仕事は明日まで、だろう? お前が言い出したんじゃないか」

 彼の膝元では、リチャードが気持ちよさそうに眠ってる。その毛並みを撫でながら、オリエガはあたしの顔を、まるで睨みつけるように見詰めた。

「母親と一緒がいいなら、連れてきて構わんぞ。先生の奥方だ、知らない仲でもない」

 惚れ薬のせいで、もう結婚まで考えてる……?

 二十一歳のオリエガと十八歳のあたしなら、世間的にはごく普通のこと。グナン王国では、男性のほうが年上っていうカップルの割合が大きいもの。逆に女性のほうが上のパターンは少なかった。

 そんなオリエガの気の早さに、あたしは戸惑う。

「あの、絶対に嫌ってわけじゃないのよ? ……あまりに急な話で」

「お前の言い分もわかってるつもりだ。ここで今すぐ答えろ、とは言わん。だが、お前を目の届かない場所へ逃がして、平然としていられるほど、俺に余裕はない」

 オリエガはあたしに触れようとしたけど、はたと手を止めた。決めあぐねるようにそれを戻し、代わりに自分の前髪をかきあげながら、溜息をつく。

「どうもおかしい……お前のせいだぞ、シャル」

 あたしを見詰める瞳が切なくなった。

 あたしのために、あたしのせいで、思い煩ってくれてるんだわ。こうして顔を合わせるだけでも、彼にとっては、とても勇気がいることなのかもしれない。

「あ、あなた、あたしのことが……好き、なのよね?」

 自惚れじみた質問になってしまった。オリエガの言動はさらに真剣さを増す。

「その通りだ。はっきり言わないと信じられないか? シャル」

「うっ、ううん! もうわかったから」

 彼の熱いまなざしに耐えられなくて、あたしは照れつつ顔を背けた。ふと、壁にかけてある数本の剣に目が行く。

 騎士が使う剣なら、刃渡りが七十センチほどのロングソードが定番らしいわ。勇者のお父さんが言ってたんだから、間違いない。

だけどオリエガの剣は五十センチほどの、ショートソード。

「聞いてもいい? オリエガって、どうしてお父さんの弟子になったの?」

「ん? 話したことがなかったか……」

 オリエガはおもむろに立ちあがると、右端の剣を手に取った。

鞘から引き抜かれた刃が、ぎらりと鈍い光を放つ。

「俺が地方貴族の息子なのは知ってるだろう。しかし貴族といっても、成功してるのは叔父だけで、俺の家は落ちぶれたものだった。このカジノももとは叔父のものだしな」

「叔父さんはまだ現役でしょ? どうしてオリエガに継がせたのかしら」

「別の事業に力を入れたいから、お前が好きにしろ、とさ。まあ、その話はいい。俺は叔父に預けられる形で、このグナンパレスに来た」

 オリエガの口振りは他人のことを語るかのように淡々としていた。

 彼のブライアン家は屹然とした規律をモットーとして、地方領主を務めていたの。魔王がいた頃は、領地で広く支持された。

 防衛のために団結するには、力強いリーダーシップが必要だったから。

だけど勇者が魔王を倒し、平和になると、ブライアン家の状況は一変した。

規律に縛られたくないって支持者が、少しずつ離れていき、とうとう領主の権限まで剥奪されてしまった、なんて……。

何も知らなかったあたしは、口を噤む。

「だから、だ」

 オリエガの声が急に弾んだ。

「俺の家を追い詰めてくれた勇者ってやつを、この目で確かめたかったのさ。ところが勇者様は、城下町の不良相手には剣を抜こうともしない」

 機嫌がいい時は歯を見せる癖、自分では気付いてないのね。

 当時は十五歳だったオリエガじゃ、お父さんに敵うはずもなかった。

「剣を見せろと言ったら、『討伐任務があるからついてこい』と。それが始まりだ」

「初めて聞いたわ、それ。びっくりしたんでしょ?」

「ああ。途方もなかった」

 あたしにとってのオリエガとの出会いは、お父さんが連れてきた、くらいのもの。彼もあたしが女の子で拍子抜けしたっていうし、ロマンスには程遠かったはず。

 けど、惚れ薬のせいとはいえ、今の彼はあたしを求めてる。

「シャル、先生が俺たちのことを反対したら、お前は俺と先生のどっちにつく?」

 心の中では『お父さん』と即答だった。でもそれは、あたしがオリエガの気持ちを、惚れ薬の効果に過ぎないと知って、軽んじているからだわ。

「やっぱり……お父さんよ」

 あたしはかぶりを振って、冷めつつあるコーヒーに視線を落とした。

できるものならファザコンってことで誤魔化してしまいたい。異性の情熱と向き合えるほど、あたしには度胸も覚悟もないから。

「……追い詰めるつもりはなかったんだが、な」

 オリエガは剣を戻すと、あたしの向かいに座りなおした。トーンのさがった声には、やるせなさが感じられる。

「そういえば、先日はミスト王子とカードで勝負したそうじゃないか」

「え、ええ。あのひと、よく難癖つけて絡んでくるの」

 王子様の名に、あたしはぎくりとした。平静を装っても、声が裏返りそうになる。

ミストとオリエガなら、オリエガの味方をするに決まってたわ。でも今は、ミスト王子も例の惚れ薬でおかしくなってるから、下手に話題にしたくなかった。

ミストからも求婚されてるなんて知られたら、一大事だもの。

「俺ともゲームで決めるか、シャル」

「……え?」

 首を傾げるあたしの前で、オリエガはトランプを広げた。全部を裏返しにして、無造作に混ぜ始める。

「ババ抜きでどうだ? お前が勝ったら、明日は帰るといい」

 あたしは腰を浮かせ、席を立とうとした。

「ま、待って? そういう勝負はちょっと……」

 負けたら取り返しのつかないことを条件にされそうで、尻込みする。

「俺が勝ったら、お前はもう一週間ここで仕事だ。それならいいだろう?」

 意外にもオリエガの提案は、あたしに妥協の余地をくれた。

 プライドの高いオリエガのことだから、ゲームにさえ勝てば、きっと解放してくれる。負けたとしても、この状況が少し長引くだけ。

 来週はランディとの約束だけど……。

「……わかったわ」

「そうこなくてはな。配るぞ」

 ジョーカーを含めた五十三枚のカードが、ふたつの山に分かれた。あたしは手札を確認し、だぶっているカードを場に捨てる。ジョーカーはオリエガのほうみたいね。

 オリエガは手札を並べ替えたりせず、その裏面をあたしに見せつけた。

「シャルから引け」

「いいの? じゃあ……」

 ふたりで対戦するババ抜きだと、ターンごとに必ずペアが揃っちゃう。それがわかっていても、彼の手でペアが揃うたび、緊張感も増してきた。

カードが減るほど、ジョーカーに当たる可能性も高くなる。

 あたしはあと二枚で、彼は三枚。オリエガはこっちからダイヤの7を取り、あたしの手札にはスペードのエースだけが残された。

 これがあたしのラスト一枚。

 オリエガの手札はハートのエースとジョーカーってことになるわね。

「どっちにするんだ? シャル」

 オリエガが含みを込め、にやついた。あたしから見て右のカードは、少し上に出て、いかにも引きやすくなってる。もちろん、そっちがジョーカーとは限らない。

「う~ん……」

 右か、左か。あたしは唸りながら手を迷わせる。

 どちらに指が差し掛かっても、オリエガの表情は変わらなかった。さすがカジノの支配人だけあって、ポーカーフェイスが上手い。

「好きなほうを引くだけだぞ?」

「わ、わかってるってば。もうちょっとだけ考えさせて」

 右が怪しい気がすれば、同じだけ左も気になった。迷えば迷うほど、オリオガの術中に嵌まっちゃって、決断をくだせなくなる。

「……こっちよ!」

 それでも意を決して、あたしは向かって左のカードを選んだ。

 その正体はハートのエース。あたしのほうで最後のペアが成立する。

「ふむ、シャルの勝ちだな」

 勝つには勝った。けど、それにしてはオリエガの反応が素っ気ない。彼の手前、あたしは勝利を喜ぶこともできず、ハートのエースを見詰める。

 ここを去れば、彼の好意を遠ざけることになるもの。それはあたしにとって、楽になれる方法ではあるけど、罪悪感がつきまとった。

「……ごめんなさい」

「なぜ謝る? 俺に気をまわす必要はない」

 話はもう終わったとばかりに、オリエガがコーヒーを飲み干す。

 休憩時間も終わりつつあった。あたしはコーヒーを残したまま、席を立つ。

「とりあえず、お仕事に戻るわね」

「お前のテーブルは人気らしいからな、頼むぞ」

 彼の視線を感じながらも、目を合わせる勇気はなかった。

 

 シャーロットが退室してから、チェルシーは思いきってオリエガの目の前に降りた。

「ねえねえ、オリエガ。ちょっといい?」

「お前はいつぞやの人形か。……言ってみろ」

 摩訶不思議な闖入者にもかかわらず、オリエガはさして動じない。むしろ、一部始終を見られていたことまで、すでに勘付いているようだった。

 チェルシーが小さな人差し指をオリエガに向ける。

「あんた、わざと負けたでしょ? ジョーカーなんて持ってないじゃない」

 オリエガの手元に残っているカードは、ハートのエース。最初からジョーカーはなく、ハートのエースは二枚、仕込まれてあった。

 どっちを引いても、シャーロットの勝ちは決まっていたことになる。

「さっきのはイカサマしてでも勝って、シャーロットを手に入れるとこでしょ?」

「やけに事情に詳しい人形だな。確かに、俺が勝つことは難しくなかった」

 オリエガは懐から二枚のジョーカーを取り出し、ほくそ笑んだ。

 双子のジョーカーも嘲笑を浮かべる。

「だが……どうにも違和感があってな。シャルが欲しいなら、俺はとっくにそうしていたはずだ。それがなぜ、今になって急に欲しくなった?」

 オリエガの怜悧さにチェルシーはぞっとした。

「そ、そういうものよ、恋愛は」

「言うじゃないか、人形。まあ、俺も恋愛というやつはこれまで経験がない。一晩寝て目が覚めたら、誰かを好きになってるもの、なのかもしれんな……」

 物憂げに語りながら、オリエガがペットの頭を見せつけるように撫でまわす。

「お前も行け。こいつに追いかけられたくはないだろ?」

「あわわっ、バイバイ!」

 眠れる獣を起こされまいと、チェルシーは慌てて飛び去った。

 シャーロットの残したコーヒーカップに、オリエガの指がそっと触れる。

「妹くらいには思ってたんだが、な」

 兄を気取った呟きが、ぽつりと落ちた。

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