Eternal Dance ~泣き虫で内気なデュオ~
第1話 ちぐはぐなデュオ
バーチャル・コンテンツ・プロダクション、通称『VCプロ』。
バレエで舞台に立てない、意気地なしのわたしが放り込まれたのは、よりにもよって芸能事務所だった。つまり……わたしは駆け出しの『アイドル』ってことになる。
バレエは続けてもいいって話だったし、先生も賛成だったから、承諾しちゃった。
高校一年の夏、美園伊緒はアイドルを始めたの。
とはいえ、新人のわたしにお仕事があるはずもない。普段はバレエスクールに通って、その帰りにVCプロに寄ってく感じ。
社長の井上さんからは『ピアノのブランクを取り戻しておいて』とだけ指示されてる。だから近くの音響スタジオに行って、適当にピアノを鳴らすのが恒例だった。
もちろん、わたしにとっての本命はバレエ。今日も放課後はスクールに直行して、バレエ仲間と一緒に練習するの。
「おっはよ、伊緒! 昨夜のオジョキン、見た?」
「見たよ! 面白かったよね」
レッスンでは『ジャージの上下にスカートだけ巻く』っていう、妙ちくりんな恰好が、うちの教室では定番だった。
レオタードを着たほうが、ボディラインを正確に把握できるよ? 発表会が近くなると、ちゃんとレオタードで練習してる。
でも小学五、六年生くらいから、みんなジャージを着るようになって、工藤先生も特に何も言わなかった。わたしも『ジャージにスカート』が当たり前になってる。
あとはTシャツとスパッツの組み合わせが多いかな。
「ねえ、聞いた? 田辺さん、大きな四話の白鳥、演るんだって!」
「うそっ? でもほんと上手かったもんねえ」
このバレエ教室はさる劇団の直轄にあって、優秀な子は団員の候補生として、移籍することもあった。昔の仲間が大舞台に立つのは、わたしも嬉しい。
工藤先生がぱんぱんと両手を鳴らす。
「はいはい、おしゃべりはそこまで! レッスン、始めるわよ」
わたしたち練習生は一列になって、壁際のバーを掴んだ。
練習はいつもこのバーレッスンから。鏡で自分の動きを確認しつつ、バレエの基礎を徹底的に身体に馴染ませるの。
もうじき劇団候補生を選出するオーディションがあるから、古株のみんなは気合、入ってた。今やってるバーレッスンが一次選考だった例もあるから、油断はできない。
先生の指導にも熱が入る。
「無理に足を上げようとしない! 隣のひとと比較しないでいいから!」
バレエスクールは『褒めて伸ばす』スタイルだから、先生が声を荒らげる場面は珍しかった(お客さん相手にやってるわけだし)。
工藤先生が教えてるこの時間は、劇団員を志望してる子が多い、ってわけ。
「志島さんはすぐ腰が動いちゃうのが、悪い癖ね。美園さんをお手本にするといいわ」
わたし、練習では上手に踊れるみたいで、よくお手本扱いされる。
練習では、ね……。
「美園さん、ちょっと、ひとりでやってみてくれるかしら?」
「はい。わかりました」
先生の要望もあって、わたしはいつものようにバーレッスンを披露した。
脚は付け根から外に向けて、爪先を百八十度に開く。この状態で膝を曲げるのが、基本のプリエ。この時、上半身やお尻は動かさないようにする。
重心は真中を意識して……次は爪先を前後に交差させながら、プリエを実践。少しバレエに慣れてれば、誰でもできることだった。
先生が満足そうに頷く。
「とてもよろしいわ、美園さん。こういう基本がしっかりしていれば、全体のクオリティも違ってくるものなの。さあ、もう一回、通しでやりましょうか」
その後もレッスンはつつがなく進行し、ほどよく汗をかいたところで終了となった。友達は早速、携帯のメールをチェックしてる。
「伊緒~、今日もVCプロってとこ、寄ってくの?」
「うん。ごめんね、忙しくなっちゃって」
帰り支度をしていると、工藤先生がわたしに声を掛けてきた。
「美園さん、少しいいかしら?」
「は、はい……」
わたしだけレッスン場に残ることに。
こういうシチュエーションは今までにもあった。だから、今から工藤先生に言われることも、予想はついてる。
ほかのみんなが出ていったのを見計らってから、先生は口を開いた。
「あなた、オーディションに立候補しない?」
やっぱり。劇団候補生を選出する、今度のオーディションのこと。
大抵は劇団の偉いひとが、うちのスクールでやってるような発表会を見に来て、将来性のある子をスカウトするのが恒例だった。
ところが、わたし、まだろくに舞台の経験がないの。実績がひとつもないものだから、評価されることもなかった。
そんなわたしのように実績がなくても、オーディションで好成績を納めれば、正式に劇団の候補生になれる。
「やっぱりもったいないわよ。あなたは基本を大事にするから、ダンスも丁寧だし」
工藤先生は何度もわたしを推してくれた。
早い子だと、小学生の高学年のうちに候補生になってる。進学に合わせて、舞踏科のある専門学校に進んだり、特に優秀な子には留学なんて選択肢もあった。
高校生になってるわたしは、かなり出遅れちゃってる。
でも……わたしには、オーディションを受ける意志がなかった。劇団員になって大舞台で踊るなんて、無理だから。
「いいんです……バレエは趣味で」
舞台に立つのが怖いの。どうしても。
昔、群舞に加わった時もだめだった。足が竦んで、踊れなくなって……。
だから、わたしは『趣味』としてバレエを楽しめたら、それでよかった。現にそういうひとはたくさんいて、上手く折り合いをつけてる。
プロになんて、なれなくてもいい。
真剣に取り組んでる仲間には、こんなこと言えないけど。
工藤先生も無理強いはしてこなかった。
「……まあ、まだ時間はあるから、考えておいて。VCの井上さんによろしくね」
「はい。それじゃあ失礼します」
わたしはバレエスクールをあとにして、次のレッスン場へ。
VCプロは小さな事務所だから、音響スタジオは余所を借りてる。わたしはそこで、バレエの練習の骨休め程度に、ピアノをちょっとだけ弾いていた。
工藤先生の薦めもあって、VCプロの一員になってはみたけど……こんな感じでいいのかな? ピアノをまた弾くようになったくらいで、これといった変化はないもん。
「……あれ?」
今日もピアノを弾こうとしたら、鍵盤に見慣れない楽譜が置いてあった。
このビートのテンポは、メタル……ううん、ロックかも。わたしの前にこのスタジオを使ってた誰かが、忘れていっちゃったんだね。
書きかけの歌詞もあった。
眩しい街の中 ひとり佇む
ショーウインドウに 泣き顔が映った
なんだか寂しいメッセージだった。ロックにしては自暴自棄な気もする。
その楽譜を広げ、わたしはピアノと向かいあった。音の並びはそのままに、もっと歌詞に合いそうな、まったく別のメロディを探してみる。
うん……ロックじゃない。
わたしなら、もっと静かに心に沁みるような、バラードかな。
誰のものとも知れない曲が、わたしの手でバラードの調べとなる。即興なのに、自分でも驚くほど指が自然に動いて、鍵盤をかき鳴らした。
演奏を終え、ふうと一息。
楽譜から目を外して、ようやくわたしは『彼女』の存在に気付いた。
「……か、奏ちゃん?」
開いたドアの傍に立っていたのは、わたしと同じVCプロ所属の、朱鷺宮奏ちゃん。先週、一緒に観音玲美子のコンサートに行って、それきりになってる。
奏ちゃんは背負ってたギターを降ろした。真剣な表情でわたしに詰め寄ってくる。
「ねえ、それ。わたしの楽譜なんだけど」
「あ、ごめんなさい。もしかして、奏ちゃんの忘れもの……?」
歌詞まで読んじゃったのは、迂闊だったかも。
奏ちゃんのまっすぐな瞳が、怯えがちなわたしを映し込む。
「なんでバラードにしたの?」
「えぇと……なんとなく、そっちのほうが雰囲気に合うかな、って……」
怒らせちゃったんだ、きっと。わたしは急いで荷物をまとめ、逃げようとする。
でも奏ちゃんはわたしの腕を掴んで、逃がそうとしなかった。
「待ってってば! 怒ってるんじゃないから」
「ほ、ほんと……?」
わたしはおどおどするばかり。
子どもの頃から、自分のこういう弱腰な性格が、嫌いだった。必要以上にびくついて、誤解するか、されるかして。それが相手を怒らせたことだって、何度もあった。
だから、奏ちゃんみたいに我の強いタイプの女の子は、苦手。
けれども奏ちゃんは前のめりになるほどの勢いで、わたしに迫ってくる。
「あたしのロックを、バラードに……?」
わたしは苦し紛れに『ごめんなさい』を繰り返す。
「ご、ごめんなさい。大事な曲、勝手に変えたりしちゃって」
「謝らなくていいってば。その性格、なおしたほうがいいわよ。それより……」
初めて奏ちゃんが笑った。
「美園伊緒、よね。どう? あたしとバンド、組んでみない?」
「……え?」
何を言われたのかな、わたし?
わたしの頭には疑問符だけが浮かんでいた。
☆
小さい頃からギターにべったりだったわ。
お母さんが高校時代に使ってたっていう、古いギターが、あたしにとって最初の宝物となった。それはやがて壊れちゃったけど、お母さんが新しいのを買ってくれた。
ピアノを習ってる女の子なら、何人かいたっけ。でもギターを弾けるのは、このあたしくらいのもの。小学生のうちに、将来の夢はミュージシャンに決まった。
それに、あたし……朱鷺宮奏には恵まれた才能があったの。
5オクターブを超える、高音域の歌声が、そう。
みんなが『キーが高すぎて歌えない』曲も、あたしには簡単だった。ギターのテクニックと、この歌声のおかげで、わたしは芸能学校への推薦入学も果たしてる。
ロック好きな連中とバンドを結成して、いよいよこれから、プロへの道を駆けあがってやるつもりだったわ。
なのに……なのに、あたしはたった一度のインフルエンザで喉を痛めてしまったの。
自慢の歌声は二度と出ることがなかった。無理に出そうとしても、裏声になったり、咳き込むだけ。医者の見立てでは、元の声は取り戻せないだろう、って。
朱鷺宮奏の音楽は、呆気ない幕切れに終わった。
芸能学校には今も通ってるけど、バンド仲間にはずっと連絡してない。自分ではもう歌えもしない曲を書いて、書きなぐって、ギターにぶつけるだけ。
ギターにもそろそろ愛想を尽かされちゃうかも、ね。
だからアイドル歌手なんて大嫌いよ。愛だの恋だの、思ってもいないことを、女の子の声で歌ってるだけじゃない。
観音玲美子の歌なんて、あたしには、あてつけでしかなかった。
でも、彼女たちは楽譜の通りに歌えてる。わたしにはできないことを、やってる。
それが羨ましくて、悔しくて、臨界点を超えちゃったのは先週のこと。観音玲美子のコンサートの帰り、あたしはこの低い声で大泣きしてしまった。
一緒に行った、美園伊緒って子には、悪いことしちゃったわね……。
まあ同じVCプロで、同い年なんだし、また会う機会もあるでしょ。その時にちゃんと謝って、ついでに、あのことは忘れてもらおう。
……恥ずかしすぎるもの。
そんなことを考えながら、あたしは今日も芸能学校に通ってた。
朱鷺宮奏といったらね、以前は音楽科で、大型新人って噂されてたのよ。けど、それも昔の話。すでに声の件はみんなに知られてて、あたしを見る目は痛々しい。
(朱鷺宮さん、まだここにいるんだ?)
(推薦入学で入れたから、学校も困ってるらしいよ)
そんな声が聞こえてきそうね。先生もあたしには興味がなくなったみたいで、今さら事務所の移籍について、聞かれてしまった。
「朱鷺宮、マーベラスを辞めて余所に移ったって、本当か?」
「報告しませんでしたか? 先月」
「いや、まあ……相談くらいはして欲しかったんだが」
マーベラス芸能プロダクションは業界でも最大手。芸能学校への進学とともに、あたしはマーベラスプロにも入って、コンクールに備えてた。
芸能事務所と連携すれば、オーディションを紹介してもらえたりするわけ。さすがに即デビューってことはありえないけど、有利なのは間違いない。
でも、それも声のせいで、お払い箱になったわ。
「いいんです、メジャーは。正直、マーベラスには色々口出しされてましたし」
あたしは声以外の理由をつけ、はぐらかす。
これで騙せるはずもないけど、先生も詮索はしてこなかった。
「焦るなよ、朱鷺宮。お前はこれからなんだ」
「……はい」
気休めなんて言わないで欲しい。そう思いながら、あたしは、つまらないだけの授業に向かった。教室に入っても、みんなはあたしに気付かないふり。
案の定、今日も隣の玄武リカは欠席ね。いつの間にか、あたしも玄武も座席を最後尾に追いやられてしまっていた。
こんな真似を黙認してる先生に、何を相談しろって?
授業中、あたしは頬杖つきながら、アホの玄武リカにメールする。
『あんたも学校、来なさいよ。どれだけ居づらいと思ってんの』
『もう辞めるつもりだし、よくない? それより友達ができてさあー』
どこの誰とつるんでんだか。
天才子役として一世を風靡した玄武リカも、今じゃすっかり見る影もなかった。
あたしとリカはほとんど同じタイミングで、マーベラス芸能プロダクションから、バーチャル・コンテンツ・プロダクション(VCプロ)に移籍してる。
そこの社長が、何を思ったのか、あたしに声を掛けてきてね。あたしもマーベラスプロを出る理由が欲しかったから、受けることにしたの。
『奏も暇っしょ? ゲーセン来ない?』
『こっちは忙しいの』
終業のチャイムを待つだけの時間が過ぎ、やっと放課後になる。
あたしはギターを背負って、練習用のスタジオへと直行した。新作の楽譜を広げ、楽器のチューニングから始める。
せっかくあるピアノも使いたかった。けど、あたしにパートナーはいない。
バンド仲間からの電話やメールも、着信拒否でシャットアウトしていた。ここで新曲を書いてることも、知らないんでしょうね。
もしかしたら、とっくに新しいボーカルを見つけてるかも。
こうやってスタジオを使えるのも、VCプロのおかげ。ただし、ひとりで使える時間は短く、一時間が限度だった。
ふたりや三人のグループなら、もう少し融通してもらえるんだけどね。
「はあ……」
案の定、今日も作曲は進まなかった。作詞のほうも行き詰まってる。思うままに詩を書いたら、あたしにとって生々しいものになってしまって……。
眩しい街の中 ひとり佇む
ショーウインドウに 泣き顔が映った
これをロックでガンガン弾けるほど、あたしの神経は図太くない。
そのうえ、今のあたしには高すぎる音程を修正するうち、曲は当初の構想を離れ、陳腐なものになってしまった。
こんな調子じゃ、だめだわ……。
そうとわかっていても、どうにもできない。自慢の美声を失ってからというもの、あたしにとっての音楽は、おそらく『苦痛』になっていた。
こんな思いをしてまで、どうして音楽を続けてるの? あたしは。
玄武リカのように諦めてしまうほうが、賢明かもしれない。
結局、その日はほとんど進展もないまま、終了の時間となった。あたしは愛用のギターを背負って、スタジオを出る。
ところが駅で鞄を開けて、気付いたのよ。楽譜を忘れてるってことに。
自分の曲を忘れるなんて、昔のあたしじゃ考えられない失敗だわ。万が一盗まれでもしたら、死活問題になる。
実際、芸能学校ではそんな事件も起こってた。オーディションでまったく同じ曲が出てきた、なんて珍事も聞いたことあるもの。
大急ぎでスタジオに戻ると、ピアノの音色が聞こえてきた。
次の利用者が入ってるんだわ。
「……あれ? この曲……」
その旋律にどことなく聴き覚えがあって、あたしは半ば反射的に足を止める。
それはあたしのと、まったく同じ曲のようで、まったく違ってた。
あたしが作ったのはロックよ。鼓動のビートを引き出す、音の奔流。でも聴こえてくるのは、夜の波が引くような、澄んだ音色のバラードだった。
ピアノのせい?
それだけじゃない。この奏者はあたしの曲を、バラードに改変……違うわ、バラードでこそ弾くべきだって『解釈』してる。
一体、誰が? あたしのロックをバラードに?
不安と、ほんの少しの興味を胸に抱きながら、あたしはスタジオを覗き込む。
ピアノを弾いていたのは、先週の『あの子』だった。一緒に観音玲美子のコンサートを見に行った、美園伊緒。
鍵盤を鳴らす手つきは、踊るかのように躍動的で。
ピアノの調べは音色豊かに、あたしの密かな気持ちを代弁していた。このバラードに滲んでいるのは、あたしの孤独感……かもしれない。
「なんでバラードにしたの?」
曲が終わるや、あたしは前のめりになって、伊緒を問い詰めてしまってた。
「えぇと……なんとなく、そっちのほうが雰囲気に合うかな、って……」
脅かしちゃったみたいで悪いけど、あたしだって止まれない。
あたしのロックにないものを、この子は持ってた。それはきっと、あたしの独りよがりな音楽を変えてくれる。
そう確信できるほど、あたしは彼女の演奏に魅了されてた。
だったら、次の言葉は決まってる。
「どう? あたしとバンド、組んでみない?」
あたし、初めて伊緒の目を見た。
☆
美園伊緒と組みたいって要望は、意外にもすんなりと通った。VCプロの井上社長が二つ返事で了承してくれたの。
ただし……ひとつ、おかしな条件をつけられてしまった。
『あなたも伊緒と一緒にバレエを習いなさい。費用は事務所で持つから』
ロック一辺倒のあたしに、例えば『ジャズも勉強しろ』って言うのなら、わかるわ。でも、バレエを始めろって、どういうこと……?
とりあえず、本日は初めてバレエスクールへ。こういう習い事って経験ないから(ギターもお母さんに教わったし)、あたし、きょろきょろしてばかりだった。
今日の伊緒は機嫌がいいみたい。
「更衣室はこっちだよ」
「ほんとにスパッツでよかったの?」
初日ということもあって、早めに来たせいか、まだほかの練習生は見当たらなかった。伊緒が更衣室のロッカーを開けると、パンダのマスコットが落ちてくる。
「あ。持って帰るの、また忘れちゃった……」
「パンダ、好きなの?」
「小さい頃、モノクロパンダちゃんってやってたでしょ。あれの影響かなあ」
「えーと……あたし、昔は九州にいたからさ、ちょっとわかんないわ」
伊緒がよくしゃべってくれるおかげで、間も持った。
初めて会った時はさ、ほら……向こうがびくびくしちゃってて、会話も弾まなかったのよね。多分、あたしの目つきが悪いせいもある。
「あたし、バレエってちっとも経験ないのよ。大丈夫なわけ?」
「大人になってから始めるひともいるから、心配しないで」
……まあ、運動不足の解消にはなるか。
伊緒がもたもたとジャージに着替え、無地のスカートを腰に巻く。真冬に制服だけじゃ寒いからって、スカートの下にジャージを穿くのを思いだした。
あたしもやったことあるもの、それ。
「そのスカートは?」
「バレエの舞台衣装って、スカートがついてるから。練習でもなるべく、こんなふうにつけるようにしてるの。ほんとは練習もレオタードが一番なんだけどね」
「ふーん」
関心がないわけでもないのに、気の抜けた返事になってしまった。
あたし、まだ、バレエを始めるって実感できてない。今日はスカートを持ってきてないから、Tシャツとスパッツだけでレッスンに出ることにした。
練習場は大きな正方形で、壁際に手すりがついてる。そっちの壁は鏡張りになってて、あたしや伊緒の全身が映った。
鏡張りのスタジオって、何度か使ったことあったっけ。
「工藤先生! 朱鷺宮奏ちゃん、連れてきましたよー」
「あら、ようこそ! 朱鷺宮さん……でいいわね。挨拶が遅れて、ごめんなさい」
練習場にいた長身の女性は、この教室のコーチらしい。にこやかに微笑んで、ド素人のあたしを迎えてくれる。
「仲間が増えて、嬉しいわ。最初のうちは大変かもしれないけど、楽しんでいってね」
「は、はあ……」
あたし、ちょっと拍子抜けしてしまった。『高校生にもなって、今さら?』ってふうに、敬遠でもされるんじゃないかと思ってたから。
工藤さんの営業スマイルが、ふと苦笑いに変わった。
「最近はバレエ人口も少なくなっちゃってね。朱鷺宮さんみたいに、高校生で始めてくれるひとがいると、こっちも嬉しいの」
ああ、そういうことか。伊緒が上機嫌だったのも頷ける。
バレエって、四歳や五歳のうちから始めないと遅い、ってのが通説でしょ。十代になってから始めるのとは、天と地の開きがある。そのへんは音楽も同じね。
だから単純にひとが少ないのよ。十代で辞める子はいても、入ってくる子はいない。
工藤さんはあたしに右手を差し出してきた。
「美園さんが友達を連れてきたのも、初めてよ。頑張りましょうね!」
「あ、はい。よろしくお願いします」
こういうハキハキした先生って、久しぶりかも。裏表がないっていうか。
芸能学校の教師ってさ、教える子と教えない子を分けてんのよね。教えないって決めた子には、淡泊な態度だし、怒ったりすることもなかった。
生徒もそれを感じ取っちゃうから、ギスギスすることもしばしば。
あたしは色々教えてもらえたほうだけど……喉を痛めてからは、交流も希薄になった。
工藤さんがふむと頷く。
「それにしても、あなた、いい声してるわね」
「……は?」
あたし、瞬きも忘れて、目を点にした。
この、男の子みたいな低い声が……いい声……?
「美園さん、ストレッチ、入念にやってあげて。任せたわよ」
「はーいっ!」
伊緒にしては朗らかな返事があがる。
あたしは戸惑いつつ、練習場の隅でストレッチを始めた。当然、運動不足のこの身体がぐにゃりと曲がるはずもなく、あたしの悲鳴が木霊する。
「むっ無理無理! 曲がんないってば!」
「わ、すごく硬い……で、でも続けてれば、柔らかくなるから。ね?」
「ね? じゃな……ぎゃああああ~っ!」
練習以前よね。
あたしは今日、バレエスクールで身体の硬さを痛感した。
生徒が集まったところで、まずは『バーレッスン』ってのが始まる。
壁際の手すりに掴まって、バレエの基礎を徹底的に反復するみたい。初心者のあたしには、すぐ後ろに伊緒が付き添ってくれた。
「これがプリエの基本だよ」
同じことをあたしがやったら、ただのカニ股になるんだけど?
「ぬっ、ぬぬぬ……」
爪先を百八十度に開くことは、かろうじてできた。でも、伊緒みたいに美しいラインにはならない。そこを工藤先生が一目で指摘する。
「もっと付け根から脚を外に向けるのよ。足首だけで形を作ろうとしないで」
「え、えぇと」
見様見真似でやってるつもりでも、鏡には無様なあたしが映ってた。前屈みになって、カニ股を決め……爪先で石並べやったら、こういう姿勢になりそう。
けど、嘲笑されるようなことはなかった。
「最初はみんな、そんなものよ、朱鷺宮さん。頑張って」
「私も中一で始めた時は、それくらい硬かったから。大丈夫!」
……そうよね。最初から上手にできるわけがない。
あたしも、命懸けてるロックじゃないから……かしら? 自分は下手くそなんだって素直に自覚して、練習に集中できた。
ひと段落したところで、工藤さんがぱんっと手を鳴らす。
「朱鷺宮さんもいることだし……美園さん、ソロで踊ってみましょうか。『ジゼル』の第一幕、見せてあげてちょうだい」
「はーい!」
伊緒がレッスン場の中央に立ち、曲を待つ。
イントロに合わせて、指先がぴくりと動いた。滑らかな足取りでダンスが始まる。伊緒の爪先は流麗な弧を描き、腰の高さで緩やかに静止した。
ステップが軽快に弾んで、華奢な身体を宙へと浮きあがらせる。
滞空時間が長いってだけじゃなかった。着地と跳躍が柔らかくって、トランポリンの上を歩いてるみたいなの。力んでいるようには見えない。
伊緒が跳んでるっていうより、風が伊緒を運んでた。屋内のレッスン場で、伊緒だけが風を感じ、髪を波打たせてる。
笑顔は無邪気で、瞳は爛々と輝いていた。待ちに待った恋人がやってきて、大喜びで出迎えにいくようなイメージだわ。彼女の足跡に花が見えそうなほど。
やがて伊緒は羽根を休め、ダンスを会釈で終えた。みんなが口々に褒め称える。
「さすが伊緒ね! やっぱ綺麗だったー」
「ジゼル、上手すぎ! 衣装着て踊るとこも見たいわ」
素人のあたしだって、圧倒されたわ。ジャージでスカートなんていう珍妙な恰好で、こんなにも表現豊かに踊るんだもの。
工藤さんも伊緒のダンスを褒めちぎった。
「素晴らしかったわ、美園さん! ジゼルの恋心も、しっかりと表現できてたし」
「はあ、はあ……ありがとうございます」
ダンスを終えた伊緒は、息を切らせてる。優雅なようで運動量は凄まじい。
ジゼルの……恋?
そっか、今のって『恋する乙女』の役だったのね。
井上社長にバレエを勧められた理由が、少しわかった気がした。あたしのロックにはないものを持ってるのが、伊緒のバレエ。
やってみよう、あたしも。
今からじゃプロにはなれないでしょうけど、きっとバレエには、あたしの音楽を変えてくれるヒントがある。社長の思惑通りってのは、気に入らないけどね。
こうして初日のレッスンは終わり、あたしは更衣室で着替えてた。
伊緒は工藤さんに呼び出されて、まだ戻ってきてない。ほかのバレエ仲間にあたしだけ囲まれ、あれこれ質問される羽目になる。
「芸能学校の音楽科? じゃあ、楽器もやってるんだ?」
「子どもの頃からギターをね」
「私もなんか楽器やってれば、よかったー。伊緒もピアノ、上手だし」
美園伊緒の話題になって、聞かずにいられなかった。
「伊緒って、どうなの?」
観音玲美子のコンサートに同行するだけ、だったはずが、今はこうして一緒にバレエ教室に通ってる。それはあたしが『伊緒に興味を持った』から。
練習生たちがけろっと答えてくれる。
「うちの教室で一番上手いんじゃない? 悲恋ものだと、ぎくしゃくしちゃうけど」
「劇団Tって知ってる? あそこの直轄なの、うちは。でね、伊緒の同期で上手い子は、もうみんな劇団に移ってったんだけど……」
「伊緒だけ、まだ残ってるんだよね。先生も『このスクールで終わらせるのはもったいない』って、よく言ってんの」
あたし、着替えの途中で腕組みした。
「どうして劇団に行ったりしないわけ? 上手いんでしょ?」
みんなが一様に苦笑を浮かべる。
「あの子、極端なあがり症でさあ……それに、ほら、男のひとも苦手だし」
「パドドゥができないのよ、伊緒は」
また専門用語が出てきて、ちんぷんかんぷんだった。
「ごめん、パドドーって?」
「パドドゥ、ね。男のひととペアで踊ることよ。腰とか触られて、持ちあげられたりするからさあ……」
「そもそも度胸が、ね。オーディションも全然受けようとしないし」
美園伊緒というバレリーナの事情が、少しずつ見えてくる。
四歳の頃からバレエを始め、おそらく将来も有望視されてるんだわ。素人のあたしだって、さっきの伊緒のダンスには圧倒されちゃったもの。
ところが伊緒は舞台にあがろうとしない。
すぐに謝り倒す、あの性格だから……相当、気が弱いんでしょうね。
着替えを済ませた頃になって、ようやく伊緒が戻ってきた。
「あ、奏ちゃん。先生が呼んでるよ」
「あたしを?」
入れ替わるようにあたしは更衣室を出ようとする。けど、伊緒に後ろから裾を掴まれ、動けなくなってしまった。
伊緒がいつもの弱気な表情で、ぼそぼそと呟く。
「……ごめんね。なんだか、奏ちゃんを巻き込んじゃったみたいで……」
これは誤解されてるわ。あたしは深呼吸を挟んで、はっきりと伊緒に念を押す。
「あたし、バレエが嫌とか、思ってないから」
こういうタイプの友達は初めてだから、気を遣うわね。
「さっきまで嬉しそうにしてたじゃない、あんた。それにさ、あたしもこれからあんたのこと、振りまわすつもりだし。お相子ってことで」
「う、うん……」
伊緒は恥ずかしそうに頷くと、パンダのいるロッカーを開いた。
あたしの言い方が悪かったのかしら? 伊緒と打ち解けるには、時間が掛かりそう。
「じゃ、ちょっと行ってくるわ」
あたしはギターを持って、工藤さんのもとを訪れた。
工藤さんは今日の成果をまとめてるみたい。書類にあたしの名前も見えた。
「お話ってなんですか? 先生」
「帰るところ、悪いわね。実はちょっと……お願いがあって」
ド素人のあたしに? 工藤先生の意図に、なんとなく想像がつく。
「……もしかして、伊緒のことですか?」
「その通りよ。話が早くて助かるわ」
工藤さんは溜息をつくと、真剣な面持ちであたしを見据えた。
「実はね、もうじき劇団が候補生を選ぶオーディションがあって……美園さんを出場させたいのよ。だけどあの子、とことん内気だから、立候補してくれなくってね」
あたしも音楽関係のオーディションに応募とかしてるから、イメージは沸いた。
工藤さんによれば、実績を買われてスカウトされるってパターンのほうが、バレエでは多いみたい。でも伊緒には舞台経験がない、つまり実績らしい実績がないから。
「今からどっかの舞台に出て、スカウトされるって線はないんですか?」
「難しいわね。そういうのは中学生あたりまでの話だもの」
しかも伊緒は高校生。プロになるには、オーディションで勝ちあがるほかなかった。
工藤さんは伊緒の才能を惜しんでる。
「実力は申し分ないのよ? でも舞台に立たないことには、評価もされないわ。あの子なら劇団でも充分やっていけるのに……はあ」
なるほど、とあたしは相槌を打った。
「オーディションに出るよう、伊緒に上手いこと言えばいいんですね? あたしが」
「……ええ。あなたは美園さんが連れてきた、初めての子だし、聞いてくれるかもしれないと思って。ごめんなさいね、いきなりこんな話で」
体よく使われてる、とまでは思わない。工藤さんなりに、伊緒のことが心配らしいことは、ひしひしと伝わってきた。
あたしは決してお人好しじゃない。自分は自分、他人は他人だって思ってる。
失敗するのは、そいつの才能や努力が足りなかったから。歌声に自信満々だった頃は、それくらい、競争相手のことを突き放せたっけ。
でも……今はあたしの才能も、消えちゃったから。
それにね、ロックのような『音楽』じゃないから、素直に応援できた。
「いいですよ。でも、期待はしないでください」
「ありがとう! 頼りにしてるわ」
工藤さんが笑みを弾ませる。
あたしとしても、伊緒の舞台を見てみたい欲求はあった。
「どんな手を使っても、伊緒をオーディションに出してやりますよ。ところで……そのオーディションって、何をやるんですか?」
「ふふっ、さっきの『ジゼル』よ。そうね、資料室のを貸してあげる」
その後は工藤さんから少しアドバイスをもらって、解散。あたしは伊緒と合流して、VCプロに寄っていくことに。
「どうだった? 奏ちゃん。バレエの練習」
「ん~、つまんないってことはなかったわ。割といい感じ」
バレエも思ったよりは続けられそう。
しかしこの時のあたしは油断してた。侮ってたのよ、翌日からの筋肉痛を……。
☆
VCプロで知りあった、朱鷺宮奏ちゃんが、バレエスクールに通うことになった。バレエ教室に友達を連れていくのは初めてだったから、嬉しくて。
奏ちゃん、身体はまだまだ硬いけど、ミュージシャンだけあってリズム感はさすがのものだった。
新人さんってね、前後のひとを真似して、ワンテンポ遅れちゃったりするの。
でも奏ちゃんは、ちゃんと自分の耳で曲を聞いて、合わせようとしてた。まだ一週間ほどだけど、工藤先生も『教え甲斐がある』って褒めてるくらい。
ただ……予想の通り、奏ちゃん、全身の筋肉痛でガタガタになってた。音響スタジオのほうに現れた今日の奏ちゃんも、げっそりとしてる。
「お、おはよ……」
「おはよう。大丈夫?」
身体ができあがるまでは、我慢してもらうしかなかった。
わたしにできることは、奏ちゃんが怪我しないように、しっかり見守ること。
「無理な時は休んでね。急に痛くなったりもするから」
「参ったわ、ほんと。こういうスポーツって経験ないから、加減がわからなくて……」
それでも、ちゃんと自己管理できてるほうだよ。
新人さんには、たまに大怪我するひともいて。バレエとそれきりになっちゃうのは、わたしとしても悲しい。
「柔軟も慌てないでね。奏ちゃん、そこそこ曲がってるほうだもん」
「気休めでしょ、それ。……まあ、自分のペースでやってくつもりだから」
奏ちゃんなりに楽しんでくれてるのかな? バレエ。
奏ちゃんにはバレエを続けて欲しいのはもちろん、見て欲しい公演もいっぱいある。
わたしのお勧めは『コッペリア』。でも王道の『白鳥の湖』も捨てがたいかな。『くるみ割り人形』とか『眠れる森の美女』も見どころがたくさん!
あとは……『ジゼル』も。
今度の候補生選出オーディション、題材は『ジゼル』に決まった。第一幕と第二幕のヒロインを順番に踊って、審査してもらうの。
第一幕は……自信あった。
だけど第二幕のジゼルは、どう踊ればいいのか、わからない。
「……ちょっと、伊緒? 聞いてる?」
「あ、ごめんなさい」
「いいってば。あんた、ゲームは興味なさそうだしね」
今日のミーティングは、コンペに応募するBGMについて。『カルテットサーガ2』っていうゲームがね、BGMやCV(キャラクターボイス)を追加で発注してるの。
メイン曲の収録後、ゲーム中のお店ごとにBGMを替えたくなったらしくって、今回のコンペが決まった。これはVCプロに所属してるからこそ、まわってきたチャンス。
「メインのBGMは聴いてきた?」
「うん。大体は感じも掴めたと思う……」
コンペで提出するのは、『教会』と『錬金屋』で使うBGMなの。
だけどわたしも奏ちゃんも、あんまりゲームをしない。一応、奏ちゃんが書いてきてくれた楽譜も、淡泊な出来栄えだった。
「ゲームって、あたし、音ゲーってのをやったくらいでさあ。伊緒は?」
「えぇと……パンダを育てるゲームなら、やってたよ?」
「どんだけパンダが好きなの、あんた」
お互いゲームミュージックのイロハがわかってない。あたしもピアノでなおしてみたものの、自信満々の曲には程遠かった。
「そもそもレンキンって、どういうの? 奏ちゃん」
「あれでしょ、錬金術ってやつ。ほら……ナントカと賢者って映画、あったじゃない」
「魔法使いのお仲間みたいな感じ、かなあ」
「そ、そうそう! 金を錬成するから、錬金術っていうのよ、多分」
これ、芸能活動って言えるのかなあ……?
大勢の前で歌ったり踊ったりするわけじゃないことには、助かるけど。落選が確実の楽譜を作ってるだけじゃ、手応えも実感もなかった。
奏ちゃんのほうは真剣な顔つきで、楽譜に何回も目を通す。
「もっとこう、イントロで掴みを強くすれば……だめね。そういうんじゃなくて……」
だけど行き詰まるうち、不満も漏らし始めた。
「やっぱりメイン曲の雰囲気を踏襲しなくちゃいけないのが、ネックよね。そいつの曲を代わりに作ってる感じ? こんなの『作曲』じゃないわ」
このゲームには正式に契約した作曲家がいて、監修にもついてる。それなら、そのひとが追加分のBGMも作曲すればいいのにって、最初は思った。
しかし契約したのは『十五曲』までで、それ以上はスケジュールを優先してもらえなかったり、断られたりするんだって。途中でゲームの仕様が変わって、必要になったから追加で欲しい……なんて後出しの要求は、社外のクリエイターには通用しないそうなの。
今回のような展開になったのは、ゲームメーカーの当初の企画に穴があった、ってことみたい。あとはクライアントとすり合わせができてなかった、とか。
奏ちゃんはへそを曲げ、楽譜を裏返してしまった。
「こういうの、採用されてもさぁ、勝手に楽譜を弄られたりすんのよ?」
「そこまで無茶苦茶しないとは思うけど……」
「甘いってば、伊緒。立場が上ってだけのド素人がしゃしゃり出てきて、あれこれ口出ししてくるものなんだから。はあ……つまんないの」
つまんないっていう投げやりな言葉が、わたしの耳に残る。
「……ねえ、奏ちゃん。面白くないのがわかってるなら、どうして引き受けたの?」
わたしのバレエの練習と違って、奏ちゃんの曲作りには苛立ちが滲んでた。なんだか使命感に突き動かされてるようで、余裕がない……っていうのかな。
奏ちゃんがしれっと言ってのける。
「そんなの決まってるじゃない。プロになるためよ」
「……プロに?」
わたしはきょとんとして、首を傾げた。
そんなわたしの真正面に、奏ちゃんが人差し指を向けてくる。
「そう。誰も聴かないんなら、歌ってても意味ないでしょ? 歌うからにはさ、大舞台に立って、みんなに聴いてもらわないと。あんたのバレエだってそうじゃない」
わたしの臆病な心に隠れた、密かな欲求を、奏ちゃんの言葉は鋭く射抜いた。
「ひとりで踊って、『上手にできた』ってだけで、満足?」
誰に見せるわけでもない、自己満足のバレエ。
でも、たまに教室のみんなに披露するくらいで、わたしは充分だった。『趣味』ならそうでしょ? オーディションで友達と競争するなんてこと、わたしにはできない。
……プロを目指す子が多いのは、わかってるよ?
わたしと同じバレエスクールからも、プロのバレリーナになるため、同世代の友達が何人も劇団に移ってる。けど、わたしは……。
「練習してるだけでも、楽しいよ?」
わたしは視線を脇に逃がしつつ、声を絞り出した。誰かの意見に反対をぶつけるなんてこと、滅多にしないから、ちょっと怖い。
「奏ちゃんがバレエを始めたのだって、プロになるためじゃないでしょ?」
「そりゃあね。最初は社長の命令だったし……でもさ、伊緒の場合は、目の前にチャンスが転がってるじゃないの」
多分、工藤先生に頼まれてるんだと思った。
バレエスクールのみんなもわたしに『今年こそは』って、オーディションを勧めてくる。プロを目指すなら、高校一年生の今がラストチャンスだった。
「できないよ、わたし」
受けなかったら……後悔、するのかな?
奏ちゃんは肘をついて、やれやれと嘆息した。
「消極的ね……あなた、自分のバレエを見て欲しいって、思わないわけ?」
「そういうのは、ちょっと……」
オーディションを受けたくないわたしにとっては、苦しい流れになってくる。
物心のついた頃から、お母さんの言う通りバレエを続けた。バレエスクールで発表会をやるってなったら、役に立候補もさせられた。
でも役に選ばれなかったのは、怖くて、本気になれなかったから。
友達が『春の精が演りたい!』って舞いあがってるところに、挑戦状を叩きつけることなんて、できなかったもん。
「ええと、だからね?」
そんなふうに考えてはいても、上手く説明できそうになかった。
対する奏ちゃんは、舞台の魅力を早口でまくしたてる。
「観音玲美子のステージ、興奮したでしょ?」
「……う、うん」
「あたしはバレエの公演って、まだ見たことないけど、本番でなきゃ絶対にできない最高の舞台ってのが、あるんじゃない?」
奏ちゃんの言うこと、正論だった。わたしも正しいって思う。
それでもオーディションには出たくないから、頷くわけにはいかなかった。
「舞台に立つだけが全部じゃ……友達と一緒に練習するとか、応援に行くのも……」
「あーもうっ。じれったいわね」
奏ちゃんが急に席を立つ。
「決めたわ! あんたに足りてないのは度胸よ、伊緒。こうなったら、本番のステージってやつ、あたしが一度体験させてあげるから」
その表情は勝気なほどの自信に満ちていた。おどおどして、俯いてばかりのわたしとは対照的。ちゃんと顔に光が当たってる。
「次の日曜、駅前の公園でね。キーボードは持ってる?」
「え、えぇと……持ってない」
「じゃあ、今からスタジオに借りに行きましょ」
気弱なわたしは奏ちゃんの言うがままにするしかなかった。
☆
とにかく度胸よ、度胸!
あたしのパートナー、美園伊緒には度胸ってやつが足りてないの。だから『練習してるだけで楽しい』とか、後ろ向きな言葉で自分を納得させようとする。
工藤先生も『もったいない』っていうわけよ。
そりゃあたし、バレエに関しては素人だけどさ? 伊緒のダンスが上手だって、素直にそう思えた。バレエスクールのみんなも褒めちぎってたもの。
あれだけのバレエを持ってるのに、誰にも見せないなんて……ねえ?
だから今日は、あの子に『本番』ってシチュエーションを経験させてやるの。ふふっ、公園のストリートライブでね。
待ち合わせ場所の改札前には、先に伊緒が来てた。不安そうにキーボードのバッグを両手で抱えてる。普通に肩に掛ければいいのに……。
「お待たせ、伊緒」
「奏ちゃん? えと、こんにちは」
伊緒って、あたしに対して、まだまだ他人行儀なところが多かった。つい相手の顔色を窺っちゃう性格なのよね。気が弱いっていうか、繊細っていうか。
あたしはギターを肩に掛けなおした。
「楽器はこうやって持つのよ。ほら、やってみて」
「で、でも、落としちゃいそうだし……?」
「落ちない、落ちない。背筋伸ばして、もっと胸張る!」
バレエやってたら、姿勢もよくなりそうなものなのに。伊緒は戸惑いながら、ようやくミュージシャンらしいスタイルでキーボードを担いだ。
「なんか……見られてるよ? わたしたち」
周囲の視線はあたしも感じてる。ふたりとも大きな楽器を持ってんだから、目立って当然だった。中身はギターとキーボードだって、わかるひとにはわかってる。
「行くわよ。着いてきて」
「あ、待って!」
あたしは伊緒を連れ、駅前の公園に向かった。半円状の階段を降り、噴水のあたりで荷物を降ろす。九月下旬の朝十時、爽やかな陽だまりが気持ちよかった。
ちょっと前まで蒸し暑かったのが、嘘みたいね。
伊緒もあたしを真似て、とりあえずキーボードを降ろす。
「ど、どうするの? 奏ちゃん」
「決まってるじゃない」
この広場は、駆け出しのミュージシャンが演奏を披露する、絶好のスポットだった。平日だと、下校時間や帰宅ラッシュに合わせて、色んな曲が流れてるわ。
もちろん、同じことを考えるひとばかりだから、ここでの演奏は許可制になってた。駅のほうに申請して、時間を取り、実演させてもらうの。
今日のこの時間はひとりで演るつもりで、前から取ってた。
バンド組んでた頃は、アンプなんかも持ってきて、演ってたっけ……。さすがに車でもないと、大きな機材は運び込めない。
「ほら、伊緒も準備して。あんま時間ないんだからさ」
「まさか、奏ちゃん……」
今になって、やっと伊緒が気づいた。ここでストリートライブをするってことに。
「む、無理だよ! こんなところで演奏なんてっ!」
始まってもいないうちから青ざめ、しがみつくようにキーボードを抱き締める。足も見るからに竦んでた。
伊緒の反応は予想してた通りね。
「後ろで弾いてるだけでいいってば、あんたは。メインはあたしのギターなんだし」
無理強いにならないよう、あたしは穏やかに言って聞かせた。
ストリートライブは初心者のこの子に、あたしと同じテンションは期待してない。少し体験してくれたら、それで今日は充分だもの。
「帰ろうよぉ、奏ちゃん……」
「何のつもりで来たのよ、あなた」
「スタジオで練習とか、音合わせでもするのかなって」
とにかく本番に立たせて、場慣れさせないと。
「それなら、ここで音合わせしましょ」
あたしは伊緒に発破を掛けながら、先にキーボードの準備を済ませてあげた。アンプがないから音は小さくなっちゃうけど、朝のうちはひとも少ないから、大丈夫よね。
「ほんとに無理……」
「伴奏だけでいいから。できるところだけで」
あたしも自前のギターを構えた。爪先でカウントに入る。
「さあ、張りきっていくわよ!」
今は声を出せないから、ギターのみ。
それでも得意のビートを弾きまくって、ギャラリーを集める。我ながらエキセントリックな演奏には、自意識過剰なだけじゃない、確かな手応えがあった。
「ねえねえ! あの子、結構上手いんじゃない?」
「女の子のギタリストだってよ。かっけー」
ひとりでに指が動く。
あたしが演奏してるんじゃない。あたかも曲に演奏させられるかのように、あたしはギターの一部と化した。今さら楽譜を見なくても、音符の列が頭に流れ込んでくる。
やっぱりあたし、音楽が好きなんだ。
自慢の声が枯れたからって、やめられない。
「なあ……この子、ひとり? 後ろのキーボードは誰が弾くんだ?」
……あれ?
ところが、いつまで経っても、キーボードの演奏が合わさってこなかった。あたしはギターを鳴らしつつ振り向き、そこに『あの子』の姿がないことに、唖然とする。
「ちょっと? どこ行ったのよ、伊緒!」
ギャラリーも不思議そうにあたりを見渡した。
「さっきの子がそうじゃないの? ほら、白ワンピの……」
「そ、その子だわ! どこ?」
「あっちのほうに走っていったよ。すごい勢いで」
逃げたらしい。あたしの携帯にはメールが入っていた。
『ごめんなさい!!!!!』
演奏どころじゃなくなって、あたしは痛くなってきた頭を押さえる。
そりゃあ強引だった自覚はあるわよ? けど、あたしなりに伊緒の性格を鑑みて、譲歩もしたつもり。なのに問答無用で逃げられるなんて。
「はあ……」
あの子の意気地のなさは筋金入りね。工藤先生の苦労も、よくわかった。
捜しに行こうにも、楽器を置き去りにはできない。両方の肩にギターとキーボードを担いで、踏ん張りながら帰る羽目に。
VCプロが結依って子を救援によこしてくれたのは、助かった。
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