お人形が見た夢

ACT.3   QUEEN OF DOLLS

 ホームステイ先で朝の挨拶を済ませたら、いつもより少し遅れたバスに乗る。

 大陸西方のリアファイル連合に留学してきて、半年が過ぎた。一日のうちに複数の四季がやってくるような季候には、まだ慣れない。

 私の通うハイスクールは、古めかしい西教系の女子高なの。これといったサークル活動に参加していない私は、今朝も遅刻しない程度にバスで向かう。

 窓に映ったその顔が自前であることが、時々信じられなくなった。金色のロングヘアが波打って、きらきらと艶やかな光を放つ。

両親はともに黒髪なのに、家系図の上のほうに西洋人がいて、それが私の容姿に表れているらしかった。これが黒髪だったら、留学もしていなかったに違いない。

 父は母の浮気を疑い、疲れてしまった母は仕事にだけ没頭するようになった。パパもママも来なかった参観日の後、この髪に自分から泥を被ったのを、今でも憶えている。

 小学校のクラスメートも、髪の色が異なる私から距離を取った。

 そんな私を不憫に思った伯母さんが、留学を薦めてくれて、現在に至る。おかげで外国語も達者になり、少ないなりに同い年の友達もできた。

 ……もう帰ることはないんだろうな。

 だけど心のどこかで、私はパパとママの家に帰りたかったのかもしれない。

 

「アンジュ。アンジュよ」

 いつの間にか、うたた寝しちゃってたみたい。

 地獄の夜空では雷がごろごろと鳴っていた。ここはネヲンパークの西にあって『雷雲地帯』と呼ばれる渓谷よ。あちこちに落雷の跡があって、草木はまるで生えていない。

乾いた岩盤は露出し、亀裂を走らせていた。

 全長が十メートル近いハヤブサが、電流をまといながら降下してくる。

それこそが雷の精霊テスタロッサ。

「我を働かせておいて、汝は居眠りとはな。見下げ果てたマスターだ」

「ごめんなさい。人形だって、眠くなっちゃうの」

 大仰な威容のハヤブサは、渓谷の合間に降りるべく、一時的に姿を変えた。目つきの鋭い美男子となり、それまでの翼に代わってマントを翻す。

認めたくはないけど、これが『私の好み』を忠実に再現した姿らしいわ……。深層心理では面食いってこと?

 テスタロッサは私にディーンの腕時計を、電池を充電したうえで返してくれた。

「これくらい、ジニアスでも簡単にできよう」

「弄って分解されちゃうんだってば。ありがとう、テスタロッサ」

「礼などいらぬ。汝は我の『マスター』なのだからな」

訳あって、私は彼(彼女かもしれない)に飼い主として認められている。

 地獄へと堕ちてきた私を助けてくれたのが、テスタロッサなの。ただし私の肉体を、地獄の深層へと落下していくからって捨てちゃったのも、こいつ。

 裸の魂となった私を抱きかかえたことで、契約とやらが成立した、というわ。

「ねえ、テスタロッサ。その『マスター』っていうの、やめてくれない?」

「そうはいかぬ。我は汝の魂に触れた」

 裸に触ったから責任は取る、という意味合いに近い……かしら。

 でもおかげで、私はテスタロッサから雷撃の魔法を教えてもらえた。私の魔力の一部は彼と繋がっており、やろうと思えば、彼を使役することだってできるらしい。

「私に従うっていうなら、ついてきてくれてもいいのに。はあ……」

「くだらん。幽霊退治なぞ、二度と付き合わぬ」

 このハヤブサ男が私の命令を聞くとは思えないけど。

 実はこれから恒例の悪霊退治だった。怖い時の盾役として、一度だけテスタロッサを連れていって、呆れられちゃったのよね。

 ひとりは怖いから、今日もディーンを連れていく。

……べ、別に、怖いふりして抱きつこうなんて、考えてないわよ。

 ディーンは女性不審のトラウマを、ほんの少し克服しただけ。人形の私に触れるようになったといっても、気軽にハイタッチできるほどじゃない。

 テスタロッサの見上げる雷雲は、その中でごろごろと雷を転がしていた。

「そろそろ第7サークルの魔法を教えてやるぞ、アンジュ。いつでも来るがいい」

「今のでもう充分だってば。ネヲンパークが消し飛んじゃうでしょ」

 落雷が避雷針に命中すると、そこからネヲンパークへと電力が供給されていく。酔狂な天才発明家の、唯一と言ってもいい功績だわ。

 そこにテスタロッサが追加で落雷を振りおろした。

「魔王殿を消し炭にしてもよいのだぞ」

 私はぎくりと顔を引き攣らせる。

「冗談……やめてよ」

「我は冗談など言わぬ。汝が魔王アスモデウスを討たんと欲するなら、我は剣となり、盾となり、汝とともに戦おう。我がマスター、アンジュよ」

 何もかも話してるわけじゃないのに、テスタロッサには私の意志が筒抜けになることがあった。むしろテスタロッサに明言されて、自分の危険な思惑に気づく。

少なからず私とディーンは魔王アスモデウスに反感を抱いていた。ディーンを拉致し、地獄での軟禁生活を強いているんだもの。

 テスタロッサがいれば、あるいは……などという浅はかな考えがよぎった。

「物騒なこと言わないで。大体、あなたも無事じゃ済まないでしょ」

 口では嘘ぶりながら、私は自分が人間離れしているのを感じる。

「魔王に後れを取るものか」

「わかった、わかった。この話はもうおしまいね」

 テスタロッサは再びハヤブサの姿となって、雷雲の中央へと羽ばたきあがった。

「忘れるな。我は汝の剣、テスタロッサなり」

 私だけを避けながら、青い稲妻がどしゃどしゃと降り注ぐ。

「……はあ。何言ってるのかしら」

 私は肩を竦め、不遜なペットの住処をあとにした。

 

 

 ネヲンパークはテーマパークだから、ジェットコースターや観覧車がある。

 それはわかるのよ、それは。遊園地なんて伯母さんに一回連れていってもらっただけの私でも、基本的な内訳は把握している。

 だけど、オバケ屋敷って必要?

 地上ならともかく、ここは地獄なのよ。オバケみたいな連中はいくらでもいる。

 私だって『動く人形』として、ホラーな存在である自覚はあった。要するに私が言いたいのは、ネヲンパークにオバケ屋敷はいらないでしょってこと。

 ところがネヲンパークには、あるの。壁面緑化のボロっちい洋館がっ。

 私の隣でディーンが、古びた豪邸を仰ぎ見た。

「前から思ってたんだよ。ここに来るの、いつだろって」

「……お待たせしちゃったわね」

 逆に私は俯いて、重たい溜息を落とす。

 昔はオバケ屋敷として賑わっていたらしいけど、今では誰も近づかない、謎めいた物件だった。正門の鉄格子は錆びつき、外壁も風化によって毀れている。

 洋館の周りには鬼火がゆらゆらと漂っていた。

いかにも何か出そう……じゃなくて、もう出てるし……。

できることなら昼間に片づけたいけど、地獄には夜の時間帯しかない。濃紺色の夜空では星々に代わって、魂の群れが、ありもしない星座ばかり描いてる。

「そうだわ。ディーン、これ」

 往生際の悪い私は、あとずさるついでに、時間稼ぎの言い訳を思いだした。

「テスタロッサに充電してもらったの。返しておくわね」

「サンキュ。時間がずれたりはしてないかな……」

 その時計の時刻が正確かどうか、確かめる術はない。それでも小さな腕時計は、私たちに、地上と同じ年月の流れを共有させてくれた。

 ディーンが腕時計を左腕に巻こうとする。

そのために袖を捲って、露出した腕が、いつもより逞しく思えた。ディーンって華奢に見えるようで、身体には筋肉の線がくっきりとついてる。

「私にやらせて、ディーン」

「……杏樹が?」

 戸惑うディーンに構わず、私は腕時計を取った。

「少しでも慣れておいたほうが、い、いいでしょ? じっとしてて」

 彼に触れる大義名分を口にしながら、その左手に時計を巻く。

私の作業が終わるまで、ディーンは微動だにしなかった。怖くて動けないのか、私に遠慮して動かないのか。私を女性と意識したうえでの、遠慮のほうであって欲しい。

「杏樹はさ……不便じゃない? 普通の時計がなくて」

「私はいいのよ。地上の時間は関係ないもの」

 ディーンは地獄でたったひとつの腕時計を私に見せつけ、はにかんだ。

「まあいっか。俺と一緒にいれば」

 深い意味があるはずもない一言で、私は簡単に真っ赤になってしまう。平静を装いたくておさげを梳く仕草が、我ながら、滑稽なくらいにわざとらしい。

「あれ、杏樹?」

「な、なんでもないってば。行きましょ」

 ディーンへの気持ちを自覚してからというもの、免疫が弱まっている気がした。ましてや今の浮ついた心境で、彼に『触れる』なんてこと、もうできるわけがない。

 これ以上は浮かれまいと、私はオバケ屋敷へと足を踏み入れる。

 両開きのドアを半分だけ開くと、薄明るいロビーに出た。客が入ることによって照明が点く仕組みらしく、橙色のランプがぼんやりと輝く。

 天井の角では蜘蛛の巣が広がっていた。掛かった蝶はとっくに死骸と化している。

 入ってきたドアが勢いよくバタンと閉まった。

「ひいっ!」

 反射的に私は背筋を伸ばし、竦みあがってしまう。

 毎度同伴する羽目になっているディーンが、肩を竦めた。

「悪霊を退治する時は割と勇敢なのに、どうして最初はこうなるわけ?」

「そ、それさえやっつけたら、終わりだからよ。いいからディーン、先に行って」

 今だけは馬鹿にされても、笑われてもいいわ。

「わかってるって、もう」

 怖いから、先にディーンに進んでもらう。

 その裾を端っこだけ掴んで、コソコソついていくのが、私のスタイルだった。女性恐怖症の彼でも、服の裾くらいなら妥協してくれる。もちろん、今の彼なら私が触れても大丈夫だろうけど、だからってベタベタ触っていいわけじゃない。

 L字の廊下はやけに長かった。窓は閉め切られ、ぼろきれのようなカーテンがかろうじて引っかかっている。なのに天井のランプは均等に光っているのが不気味ね。

 不意に誰かが、外から窓をばんばんと叩く。

「な、なんなのよ?」

 咄嗟に私はディーンの後ろに隠れ、耳を塞いだ。騒音はしばらく続き、私の胸にある時計を焦りと恐怖で加速させる。

 しばらくすると、テープが切れるみたいに音が止んだ。

「ビビりすぎだって、杏樹。大丈夫だ」

 そんな怪奇現象に遭遇しているにもかかわらず、ディーンはけろっとしてる。

「どうしてあなた、平気なの? 本物のオバケ屋敷なのよ、ここは」

「ユーレイってやつなら、いつも見てるじゃないか」

 確かにネヲンパークでは、そこらに死者の魂がいて、鏡に映るくらいのことは日常茶飯事よ。でも、それは悪意がないって知ってるから、私も平気でいられるだけ。

半分は人間であるせいか、私やディーンは死者の魂を刺激しやすい。ここにいる穢れた魂……すなわち悪霊は、敵意を研ぎ澄ませているに違いなかった。

いきなり出てこないでよ? ほんと……。

 緊迫感に耐えきれず、何でもいいから話したくなる。

「ね、ディーン。魔王のお仕事って……どう?」

 問いかけると、ディーンは唇をへの字に曲げた。とはいえ陰鬱な表情でもないわ。今の彼は魔王の跡を継ぐことを、前ほど頑なには拒絶していない。

 魔王となって自由を勝ち取るために。

 しかし今まで散々拒んできたものを、いきなり受け入れては、その真意をデュレンらに見抜かれる恐れがあった。表向きは妥協という形で、あくまで抵抗は続けてる。

「難しそう……かな。罪人の悪事なんかを審議してさ」

 手始めにディーンは北の魔王殿にて、魂の裁判とやらを傍聴する機会を増やした。情報収集も兼ねて、前よりは積極的に参加している。

「お爺さんはやっぱり出てこないのね」

「地獄に来た時、一回会っただけだよ。父さんたちの親父、な……」

 魔王アスモデウスは孫のディーンにさえ滅多に姿を見せず、魔王殿で息を潜めていた。罪深い魂を統括するべき魔王が出てこないせいで、悪霊の発生頻度も高まっている。

「エリザが言ってたわ。十年も前からこうだって」

地獄に持ち込まれる人形といい、原因はそれだけじゃないんでしょうけど……。

「へえ……でもさ、杏樹。なんでエリザには、オレたちと同じ時間の感覚でものが言えるんだ? こっちの時計は7までだろ」

「言われてみれば、そうね。じゃあ……誰に聞いたのかしら」

 何気ない言葉を交わしつつ、私たちは部屋をひとつずつまわった。ほかに誰もいないはずの洋館で、時折ピアノの音色が響いたり、子どもの泣き声が聞こえたりする。

 バスルームなんて、黒ずんだ血糊で汚れきっていた。

「う……っ」

 胃袋のない人形の身体でも、だんだん気分が悪くなってくる。

 怖気づいてばかりいる私の顔を、ディーンが心配そうに覗き込んだ。

「一旦出ようか? 後日出直してもいいしさ」

「こ、ここまで来たんだもの。今日中に片付けましょ」

 申し出は有難いけど、こんな気味の悪いところに二回も三回も入りたくない。さっさと終わらせて、早くシャワーを浴びたくてたまらなかった。

 さらに進むと、比較的新しい様相の回廊に出る。離れの別棟へと繋がる渡り廊下を、改築したものみたいね。

 両サイドにはフルプレートの鎧が、騎士の姿でずらりと飾られている。フルフェイスの兜を被り、ガントレットや具足も嵌めて、ほとんど『ひとの形』だった。

 ハルバードを持ったその腕が、ギギギ……と動きだす。

「まさかっ?」

「さがれ、杏樹! こいつらは人形だ!」

 鎧の兵士たちは兜の中を赤々と光らせながら、おもむろに武器を振りあげた。

 すかさず私はトランプを取りだし、カードに電流をまとわせる。しかし敵の奇襲に気を取られ、指の動きはぎこちない。

「え、ええっと……!」

 ディーンが力強く鞭を振るい、敵を二体まとめて弾き飛ばす。

「動く鎧……さしずめリビングアーマーってところか。杏樹、逃げるぞ」

「だめよ、ディーン! 誘い込まれちゃったんだわ!」

 私たちが後退を意識した時には、すでに扉が閉ざされていた。向こう側で閂の落ちる音がして、体当たり程度ではびくともしない。

 扉の破壊も考えたが、回廊を突っ切るほうが早そうだった。ディーンが鞭をしならせながら先行し、その合間から私もまばらにカードを投げつけ、進む。

「杏樹は前に出るなよ!」

 ディーンの鞭は『絞める』より『打ちつける』攻撃を得意とし、リビングアーマーの兜を難なく弾き飛ばした。しかし鎧の中はからっぽで、ダメージにならない。

 リビングアーマーは怨嗟の唸り声を上げた。肉体などないはずなのに、鎧の節々から赤い血液が流れ、饐えるような異臭を放つ。

「ディーン! 魔王になったら、オバケ屋敷なんか禁止にしてっ!」

「何言ってんの。禁止にするのはジェットコースターでしょ」

 怖くて前に出るに出られない私の左腕を、ディーンが掴んで引っ張った。その拍子にトランプがばらけ、せっかくの魔法も不発のまま霧散する。

 ディーンに……触られてる?

 カードを拾う余裕なんてなかった。女性に触れないはずのディーンに、こうして掴んでもらえたことに感激してしまって、恐怖を忘れる。

 こんなに強く引っ張られたら、腕が外れちゃうかもしれないのに。

 リビングアーマーは背が高いせいで、天井につっかえることもあった。動きも鈍く、おかげで私たちは連中をやり過ごしつつ、回廊の突破を果たす。

 突き当たりの扉を、ディーンが蹴破るように開いた。ふたりでくぐり抜けたら、すぐに閂を落とし、敵の追跡を遮断する。

「とんだオバケ屋敷だわ、まったく……」

 愚痴を零しつつ、私はタイトスカートが破れていないか確認した。この恰好じゃ大きな歩幅で走れないから、疲れも早い。ドレスとは一長一短なんだと再認識する。

 向こうでリビングアーマーが扉を破ろうとする気配はなかった。

 ディーンが前髪をかきあげ、ふうっと一息つく。

「あくまでオバケ屋敷ってことか」

 もとはホラーアトラクションの一環だったんでしょうね。退路を断たれ、敵に囲まれたようでも、逃げ道は用意されている。一方からでないと開けられない閂が、こんな洋館の廊下で鍵になってるわけ。

 別棟は子ども部屋のようだった。ひとりでに暖炉の火がつき、ランタンの群れと温かい色を混ぜあわせる。カーテンやテーブルクロスも幼児向けで愛らしい。

 中央のベビーベッドには、ビスクドールの残骸が転がっていた。片目は外れ、手足も傷んでる。なのに髪とドレスは綺麗な状態を維持していた。

「人形は禁止のはずなのに、どこで……?」

 さっきのようなパニックホラーなら、こっちも行動で恐怖を誤魔化せるからいい。こういう意味ありげな雰囲気だけで、黙って攻められるほうが、私は苦手。

 どうして人形の左目が外れているのか、傷めつけられているのか、にもかかわらずドレスを着せられているのか。恐ろしいと思うものを、自分でつい想像してしまうの。

「そんなに怖いならさ……杏樹、掴まってても……いいけど」

 ぎこちない調子で、ディーンが私に左の肘を差しだした。

 ……掴まれ、ってことかしら?

「いいの?」

「あ、杏樹なら大丈夫だし。これも練習……な」

 相手に触れることに言い訳が必要なのは、私ばかりだと思ってたのに。同じ理屈を逆に使われてしまったことが、私の心を弾ませる。

 こいつ、自覚してないわよね。自分が色男ってこと。

 部屋の照明がオレンジ系のせいで、ディーンの顔が赤くなっているかどうかは、わからなかった。睫毛の長い瞳は、私と目を合わせるのを躊躇してる。

 期待させないで欲しいわ。

「じゃあ、ちょっとだけ……いい?」

 私が上目遣いで覗き込むと、ディーンはさらに顔を背けながらも、無造作に肘を突きだしてきた。そこに私の手が掛かると、不自然なくらい背筋を伸びあがらせる。

「い、いいって言ってるだろ。あんたなら、いいんだ」

「クスクス……」

 ところがデートは、突然の含み笑いに妨げられた。

いつの間にか部屋にはひとりの女性がいて、ビスクドールを大切そうに抱きかかえている。織物みたいに波打つロングヘアは、透明感のある美しい黄金色だった。

鮮やかさを損なうことなく明度を抑えた、バイオレットのドレスが、やたらと多いフリルを揺らす。一輪の花のように可憐な姿は、視覚的にも芳しい。

 その顔つきを目の当たりにして、私は絶句した。

 だって……『私』がいるんだもの。

何度も鏡で見たことのある、朱鷺宮杏樹が。

「あら、ごめんなさい。しえる、お邪魔だったかしら」

 二年ほど前、地獄のさらなる深層へと堕ちた、私の肉体に間違いない。

 人間だった頃の私を知らないはずのディーンも、なぜか目を強張らせた。見えないモノでも見えているかのようにうろたえ、後ろのドアに背中をぶつける。

「な、なんであんたが……ここに?」

 ……え?

ディーン、私を知ってるの?

「ごきげんよう、未来の魔王様。……フフッ、挨拶がまだだったわね。しえるはねえ、シエル。シエル、シエル! シエルなの……クスクス、クスクスクス……!」

 彼女は『シエル』と名乗り、不気味な笑声を響き渡らせた。

 それが『朱鷺宮杏樹』ではないことから、私はひとつの回答に気づく。別の誰かが朱鷺宮杏樹の肉体に憑依しているのかもしれない。

 それが……シエル?

 シエルは不敵な笑みを浮かべ、私とディーンをじろじろと見定めた。

「知ってるわよ、男の子のほうが魔王様で、クスクス、お人形さんのほうがテスタロッサのマスター、でしょ? しえるはねえ、物知りなの!」

 舌足らずな口振りで、けらけらと囀る。

 ディーラーの制服で関節を隠しているにもかかわらず、彼女は私を一目で『お人形』と見抜いてしまった。ぞっとするような視線が、私の密やかな劣等感を逆撫でする。

 彼女の腕の中で、ビスクドールがかたかたと震えだした。

「そ、それは悪霊よ! 離れて!」

 私ははっとして、トランプのカードを引き抜く。

 しかしシエルは慌てず、動じず、ドールの頭をぐりぐりと撫でた。

「こら、じっとしてなさい? さもないとぉ、ママが……ウフフッ、マ、マ、が、あ」

 と思いきや、ぞうきんでも搾るかのように首を捻り、へし折ってしまう。

「アハハハハッ! この子、壊れちゃった! キャハハ、しえるとおんなじ!」

 悪魔じみた所業に、人形の私は青ざめた。同じように首をへし折られそうな気がして、ディーンの背中に少しでも隠れる。

 彼女は私の肉体を所有しているのみならず、凶暴な気配をまとっていた。

 一方でディーンは、壊された人形を気にも留めない。

「あんた、シエルっていうのか。オ、オレのことも知ってるんだよな? じゃあ、地上にいた時、あんたもオレに気づいてて……?」

 普段は口数も少ないはずが、前のめりになってまくし立てる。

「ほら、朝のバス! いつも一緒のバスだっただろ?」

 その一言をきっかけに、私は人間だった頃の生活を思いだした。留学先で、毎朝同じバスに乗って、ハイスクールに通っていたこと。

 あのバスに……ディーンも乗ってた?

 そんなの知らない。誰が一緒だったかなんて憶えてない。ディーンは私より一年先に地獄に来ているわけだから、私が顔も憶えないうちに、いなくなっていたのかしら?

「どうしてあんたまで地獄に来たんだ? そ、そうだ、オレが帰してやるよ」

 ディーンは無防備なまま歩み出て、両手を広げた。さっきまで私がしがみついていた、その腕で、私じゃない彼女を待つ。

「ウソばっかり。あなた、帰れないんでしょ? そっちの子は、精霊に乗せてってもらえばひとっ飛びなのに、ねえ? アハハハッ!」

「き、聞いたことないわ! そんなの」

 茶化すような話しぶりに乗せられ、動揺する私を、シエルが嘲笑った。

「ほんとのことよ? あなたは人間じゃないから、連れてってもらえないだけでぇ」

「いい加減なこと言わないで――」

「落ち着けよ、杏樹! さっきからどうしたんだ?」

 ところが私の昂ぶりを、ディーンが制したの。

「ち、ちょっと……あの子がお人形を壊すところ、ディーンも見たでしょ? 悪霊を絞めあげたのよ、普通じゃないわ」

「でも人間なんだぞ? ここに放っておくなんて、できないだろ」

 私とディーンの意見はすれ違っていて、会話にならない。

「あれは私のから……」

 と言いかけるも、この場でそれを証明する手立てはなかった。目の前の彼女は『シエル』なのだと、ディーンは鵜呑みにしている。

「……なんだって? 杏樹」

 口を噤むしかなく、重々しい沈黙が流れた。

 その沈黙をシエルの高笑いが破る。

「アーハハハハッ! アハハッ、ハハ……つまんなぁい、しえる、ひとりだけ仲間ハズレでつまんな~い! ……クスクス、そうなの、しえるは仲間ハズレなの……」

 笑ったら落ち込んで、また笑った。情緒不安定どころか、感情の起伏に脈絡がない。

 シエルの両手が、指先から何かを伸ばす。それは蜘蛛の糸のごとく、ベッドやシャンデリアにまとわりつきながら、限界まで突っ張った。

指に連動して『糸』が力を増し、頭上のシャンデリアを粉々に砕く。

「ほらほら! キャハハハハハ!」

「きゃあああっ?」

 同時に暖炉の火が勢いを増し、絨毯へと燃え広がった。

「じゃあね、ディーン、それからお人形さんも。また会いましょ」

 炎の向こうでシエルの姿がふっつりと消える。

 ディーンが炎に飛び込もうとするのを、私は腕を掴むことで引きとめた。

「ま、待ってくれ! オレはまだ、あんたに話が……」

「逃げなきゃ、ディーン! そっちの窓から!」

 私のほうから触ってしまっているのに、彼の関心は私に少しも向かない。炎がみるみる広がっていく中、あの子を呼ぶ。

「シエル! 返事をしてくれ! シエル!」

「クスクス……エリザによろしく伝えてちょうだいね? シエルのこと」

 炎の勢いが強くなってようやく、ディーンも前進を諦めてくれた。

「……ごめん、杏樹。一旦出よう。あんたまで焼けちまう」

「え、ええ」

私には顔を見せずに振り返って、脱出を急ぐ。

 私たちが飛びだしてすぐ、オバケ屋敷は炎に包まれた。

 悪魔の遊戯施設が簡単に燃えるはずがないわ。暖炉の火は普通の炎ではなく、シエルの魔法だった可能性が高い。そしてあの『糸』の鋭さは、おそらく日本刀に匹敵した。

 私の身体の中にも、似たような糸が張ってある。

 洋館が燃え尽きるまで、私とディーンは立ち竦んでいた。煙がもくもくと上がり、地獄の夜空に黒ずんだ雲を垂れ込めさせる。

 ……私の身体、大丈夫かしら……。

 今になって私は、またとないチャンスを棒に振ったんだと痛感した。自分の肉体を取り戻せるかもしれなかったのよ? でも、ディーンの言動にばかり意識が行って……。

 そうとは知らないディーンは、大きすぎる焚火をじっと眺めていた。陰りのある表情が炎で照らされ、ありありと憂いを露わにする。

「シエル……か」

 彼の口から初めて、私以外の女性の名を聞いた。胸の時計が軋んで、苦しい。

 赤い炎の中で、洋館が折り畳まれるように崩れていく。

 さっきのは私よ。私の身体なのよ?

 そう伝えたいだけなのに、私は一言も発することができなかった。

 人形のように。

 

 

 ネヲンパークのカジノへと戻って、私たちはエリザに今回の件を報告した。シエルという女性に出会ったこと、洋館が燃え尽きたこと。

 ただ、シエルの身体が私のものだったことは、正直に話せなかった。

エリザならまだしも、ディーンに真実を知られるのは怖いから。

「ふむ……シエル、か……」

 カジノの最上階にある執務室は閑散としていた。ここからネヲンパークのすべてを統括しているにしては、書類や名簿の類が見当たらない。代わりに砂時計や水時計がチェスの駒みたいに並べられてある。

「知ってるのね、あの子のこと。シエルも『エリザによろしく』って言ってたわ」

「そうか……。やつの両親とわしは、馴染みじゃったからのう」

 エリザは手慰みに、砂時計のひとつをひっくり返した。シエルのことを知ってるに違いない口振りだけど、もったいぶるだけで、明かそうとしない。

 ディーンがずかずかと歩み出て、机に両手をつく。

「あいつは人間なんだ。地獄に堕ちてきたんだよ、助けてやらないと」

 シエルの姿を目の当たりにしてからというもの、彼の焦りは募る一方だった。地上にいた頃の私、朱鷺宮杏樹を、面識はないにしても知っていたみたい。

「普通の人間ではあるまいて。そやつが普通なら、逆さまになっとるはずじゃ」

 人形のエリザは瞬きすることなく砂時計を見詰めた。その美貌が憂いを帯びるような溜息をついて、ぽつりと呟く。

「すまぬが、気安く話せることではのうてな……。ふたりとも、待ってはくれぬか」

 私は内心ほっとして、胸を撫でおろした。

本当はシエルの肉体について、エリザを問い詰めたい。シエルの素性には私の肉体も関わってくるはずで、それをエリザは知っている可能性が高いもの。

知ってて黙っていた可能性だって……あるかもしれないわ。

 でも、何が出てくるかわからない真相を、ディーンに聞かれたくなかった。まずは私の胸に留めたうえで、彼に話すかどうかを決めたい。

「……戻りましょ、ディーン。近いうちにエリザが教えてくれるわ」

「け、けど。オレはまだ……」

「またね、エリザ。次はお茶しましょ」

 渋っているディーンを尻目に、私は半ば強引に切りあげてしまった。私が踵を返せば、エリザとさほど親密ではないディーンも退室せざるを得ない。

 足場があるだけのエレベーターに乗ると、剥きだしの歯車が回転を始めた。

 私とディーンは黙りこくったまま。おいそれと踏み込めない、踏み込んで欲しくない領域があって、本当は聞きたいのに口ごもる。

「……杏樹、なんかずっと変だぞ。調子でも悪いのか?」

「えっ? あ、えぇと」

 ところが口を開いたディーンは、わだかまりを感じさせなかった。

 そっか……シエルについて私が隠し事してるって、気づいてないのね。ディーンは寡黙なタイプだから、私のほうが黙り込んじゃうと、自然と会話もなくなるだけ。

「シエルって子と、あなた、どういう関係だったのかなって……気になっちゃって」

「オレが一方的に知ってるだけ、だったと思う。三年前だから、オレが15で……向こうはハイスクールの生徒だから、年上で、接点なんてなかったし」

 ディーンは三年前、15歳の時に地獄へと連れてこられ、こっちで18歳になった。

一方で私は二年前、17歳の時に地獄に堕ちたわけで……その一年前だから、ディーンが見た朱鷺宮杏樹は16歳だったことになるわね。

「あんまり変わってなかったな、あいつ」

「身体は歳を取ってな……あ、あなたのほうが年上に見えたわ」

 口を滑らせそうになって、私は咄嗟にはぐらかす。

「向こうはオレのこと知ってるふうだったな。……それより杏樹、お前はいつでも精霊で帰れるって、本当なのか?」

 私を責める口調ではなかったけど、ぎくりとした。地上への帰還を憧憬している彼を、裏切ってしまったかのようで気まずい。

「そ、そんなの、私だって初めて聞いたのよ? テスタロッサに確かめてみるわ」

「頼むよ。もしかしたら、オレとシエルが帰る手段になるかもしれないし」

 いつもは沈みがちなディーンが、珍しくはにかんだ。

 決して私を道具扱いしてるんじゃない。むしろ私を信頼し、頼りにしてくれてる。けど彼にとって、私は一番優先される存在ではないことが、虚しかった。

 調子の悪いエレベーターが一時停止し、鎖を巻きなおす。

「ねえ。シエルのこと……好き、なの?」

 歯車が止まった。

 何てこと聞いてるのかしら、私?

 だけど聞かずにいられなくて、恐る恐るディーンの、嘘をつかない顔を見上げる。

「……どう、だろうな。そんなふうには考えたことなかったから」

 ディーンは物思いに耽る表情で、間奏の語りのように囁いた。

「でも、憧れてたよ、いつも。綺麗だなって」

 歯車がやかましく動きだす。

 間もなくエレベーターは一階に到着した。ディーンが降りてから、私は間を置き、意図的に距離を空けていく。

「じ……じゃあっ、早く克服しないとね。触れるようになっておかないと」

「別に触ってどうこうってつもりは……」

「何言ってるのよ。練習なら私がいるでしょ? 協力するわ」

 自分でも何を言っているのか、わからなかった。

 人形の私では、ディーンと結ばれるはずもない。いずれ彼がほかの女性と恋に落ちるのを、応援してあげなくちゃならないことくらい、覚悟していた。

 しかしその相手は『私の身体』だった。

 厚かましく応援することで、私はディーンに気に入られようとしてる?

 それとも、相手も自分には違いないから、期待してるの?

あの身体を取り戻して私が『シエル』になれば、ディーンと恋人同士になれるかもしれない。そこまで想像してしまえる、見境のない自分が恐ろしかった。

「それじゃオレ、魔王殿に行くよ。またな、杏樹」

「あ、うん。さよなら……」

 ディーンは私に手を振って、すたすたと行ってしまう。

ふと私は立ち止まり、人形の瞳で視線を落とした。子どもっぽいおさげが左右で揺れ、その銀色の質感は艶やかな光沢を放つ。

 人間だった頃の、憎らしい金髪を思いだした。

「ちゃんと好きな子がいたんじゃないの。ディーンのばか……」

 やっぱり男の子は、お人形さんには興味ないのね。

 

 ジェットコースターにでも乗って、気分を変えてやろうと思ったのが、運の尽き。

 ネヲンパークのジェットコースター乗り場では、まったく別の乗り物が停まっていた。黒光りする汽車で、目隠しされた半裸の女性が、でかでかとペイントされてる。

 通称『悪趣味号』。

デュレン=アスモデウス=カイーナが地獄と地上を行き来するための愛車であり、一年ほど前、私とディーンが奪おうとして失敗したこともあった。

 目ざといデュレンが、私の接近に勘づく。

「よぉ、アンジュ。ジェットコースターなら使えねえぞ」

 彼の傍では、ジニアスが見積もり書と睨めっこしていた。ふたりとも地べたに座って、味の濃そうな特大のピザを広げてる。

「あのさあ、閣下。こんな装甲いらないじゃん?」

「報酬はたんまりとやるっつってんだろ? 黙って手ぇ動かしな」

「へいへ~い。閣下はお得意様だし、面白そうだしね」

 この発明家は商売上手でもあって、敵を作らなかった。デュレンのように偏屈な上客とも、胡麻を摺ることなく適度な距離感でやっていける、器用な処世術を心得ている。

 見つかった以上、挨拶しないわけにもいかなかった。私は渋々と輪に加わって、タイトスカートのために正座する。

「アンジュも食べられたらいいのにね。閣下のパスタは最高だよ」

「おれの十八番だからな。クククッ、てめえも人間に戻ったら、食わせてやる」

「……どうも」

 気のない返事をしつつ、私の視線はピザの出来栄えに釘付けになっていた。

 粗暴な振る舞いとは裏腹に、デュレンという男は料理が得意だったりする。悪趣味号で地上をまわりながら、レシピを集めるのが趣味らしいわ。

 とりわけパスタに関しては造詣が深い。

「こいつのカスレも悪くねえがな。人間は料理ってのが、わかってやがる」

 デュレンに褒められても、素直に喜べなかった。人形であることに、さっきも諦観していたばかりのせいか、胸の中には溜息が溜まってる。

「……人間扱いしないでください」

 反論するついでに、私はジニアスの懐からマヨネーズを奪い取った。

「あっ? アンジュ?」

 ジニアスがそれを取り返そうとして、じたばたともがく。

「ピザにマヨネーズは必要ありませんっ。あなた、食事は見直したほうがいいわよ。どうせ発明三昧で、まともなもの食べてないんでしょ?」

「だから、それでカロリー摂ってんだって」

 デュレンはピザを齧りながら、ワインまで煽っていた。鬼火が星となっている地獄の夜空を見上げ、愉快そうににやつく。

「地上で月見酒ってのもいいがな、地獄も悪くねえ。罪人どもの魂を処刑した後の酒は、最高だぜェ。……てめえにはわからねえだろうがな、アンジュ」

「僕にもわかんないね。お酒の何がいいんだか」

 罪人の魂は更生することなく四十九日を過ぎると、処刑されるのがルールだった。魂が穢れきらないうちに、いっそ雑草のごとく刈り取ってしまうの。

 中にはデュレンのように、魂を律儀に更生させず、処刑だけ楽しむ輩もいた。それでも四十九日のうちに罪を自覚し、地上へと帰っていく魂のほうが、ずっと多い。

「積んでる分はどうすんの? 閣下」

「ここから歩かせりゃいい。ちょいとタイムロスには、なるがなあ」

 デュレンの補佐らしい骸骨が、悪趣味号の積み荷……もとい罪人の魂を外へと誘導していた。まだ生きているせいか、彼らの形ははっきりとしていて、だからこそ痛々しい。

 目隠しされ、猿ぐつわを嵌められて、両手は手錠で拘束されていた。服はボロ一枚しか許されず、裸足で歩くしかない。

「余所は罪人の女が逃げたってんで、大騒ぎだぜ」

「へえー、もぐもぐ……やっぱ地上の食材は美味しいなあ」

 デュレンもジニアスもピザを齧りながら、その陰惨な光景を平然と眺めていた。地獄の住人にとっては、取り立てて食欲を阻害する絵図でもない。

 このあと、罪人の魂たちは魔王殿で罪の内訳を暴かれる。残酷かつ辛辣な裁きは、しかし彼らの更生を促し、長期的には穢れた魂を減らす……という建前だった。

 こんなの好きになれない私に、デュレンが悪魔じみたことを囁く。

「脱落者の身体は地上で余っちまうんだよ。かっぱらってきてやってもいいぜ?」

「……いりませんってば」

 私は気のない態度を変えずに、顔を背ける。

 昨日までだったら、少しは揺らいだかもしれない。だけど、ひとのものを奪うなんて考えられないし、今の私には、自分が取り返すべき肉体があった。

「その誘いに乗ったら、今度は私が罪人の魂として、ここに来ちゃいますよ」

「あぁ、言われみりゃそうかもなあ……」

 私の上手い返しに、デュレンがなるほどと舌を巻く。

 ジニアスはひとりでピザを半分も平らげ、指についたソースを舐め取っていた。

「アンジュの身体かあ……ここって人形はだめなのに、ロボットはいいんだよね。どういう基準なんだろ?」

「エリザは『ロマンの差』とか言ってたわ。冗談でしょうけど」

 悪趣味号の煙突が蒸気を噴く。あれは動力機関であるとともに、死者の魂を慰めるための、お線香としての役割もあった。

 悪趣味号だけじゃない。地獄の汽車はほかにもある。そのひとつでも手に入れば、ディーンは地上へと帰還することができるはずだった。

 悪趣味号を眺めていると、デュレンが眉をくいっと上げる。

「欲しいのか? てめえにコレはいらねえって、言ったはずなんだがなあ……」

 以前にも言われたその言葉の意味が、今ならわかった。

「テスタロッサなら地上に行けるって、本当なんですか? 閣下」

「さあ……な。精霊ってやつらは、おれにもよくわからねえ。あいつらは人間にしか懐くこともねえしなァ。生まれが地上らしいから、行き来する手段はあんだろって話さ」

 とぼけるにしては具体的ね。デュレンは多くの嘘にわずかな真実を紛れ込ませるきらいがあって、私をからかっているのか、本当に知らないのか、判別が難しい。

「ところでアンジュ、最近、ディーンのやつが割と仕事に来るようになったんだ。てめえが焚きつけたんじゃねえのか?」

 デュレンの勘は鋭く、早くも私たちの思惑に疑いを掛けた。

 ディーンの目的は地上に帰ること。その手段として、魔王を継ごうとしているだけ。

「……知りませんよ。私もディーンのすべてを把握してるわけじゃないですし」

「そろそろ地獄にも慣れて、おかしな知恵をつけやがる頃だからなァ。……もちろん、いいんだぜ? おれは退屈なのが一番嫌いなんでなァ……クックック!」

 このひと、やっぱり私たちをよく見てるわ。監視してるんじゃなくて、ディーンの性格や傾向を知り尽くしているの。

 ディーンの傍には私がいて、今のところは私の激励が彼の原動力になっている。だから今回の『警告』も、ディーンではなく私のほうに釘を刺す。

「あいつが地獄で暮らすって決めりゃ、それでいい……。てめえにとっても悪い話じゃあねえだろ? アンジュ」

 ディーンを地獄に留めることは、人形の私が、彼の傍にずっと寄り添っていられる手段でもあった。狡猾にもデュレンは私の気持ちまで見抜いている。

 けれども、それも昨日までの話だわ。

ディーンの気持ちは、私じゃない私……シエルのほうを向き始めているから。

「ジニアスも聞いてるんですよ。やめてください」

「否定はしねえんだな。ケケケ」

 デュレンの耳障りな笑声が、私の嫌悪感を逆撫でした。

よりによって、このひとに気持ちを見透かされているだけでも嫌なのに。人形の分際でディーンに恋愛感情を抱いてることを、蔑まれているみたいに感じる。

黙々と聞いているだけだったジニアスが、やんわりと割り込んだ。

「まあまあ。アンジュ、君は閣下に気に入られてるんだよ。こういう方だからさ、イビり倒すのが趣味ってだけで」

「勝手なことほざいてんじゃねぇぞ、ジニアス」

 デュレンがジニアスのサイダーを取りあげ、飲み干してしまう。

「プハァ……まあ人間の女に甘いってのは、確かだな。おっと、てめえはお人形か」

「信じられませんってば、そんなこと」

 やがて罪人の魂たちもいなくなり、悪趣味号の煙突が蒸気を止めた。

きりのいいところで、私は一足先に席を立つ。

「それじゃ、行きます。テスタロッサに会わないと……あっ」

 デュレンに会う機会はなるべく減らしたいから、ついでに聞いておくことにした。

「あの、シエル……って女の子、心当たりないですか?」

「……なんだと?」

 俄かにデュレンの表情が曇った。

 ジニアスが異様に驚き、腰も上げずにあとずさる。

「シシシシッ、シエル? なな、なっ、なんで、その名前が出てくるワケ?」

「な、なんでって、さっきオバケ屋敷で会ったから……なんだけど」

 私はきょとんとして、ひとりだけ首を傾げた。

 デュレンがアイシャドウの瞳を細めて、声のトーンを落とす。

「おい、アンジュ。詳しく話せ。内容によっちゃ、跡継ぎどころの話じゃねえ……」

 脅すわけでもなく凄む顔つきに、私は息を飲んだ。

 ジニアスは青ざめ、首を横に振るばかり。

「ぼぼ、僕は無関係ってことで。そ……それじゃ、お先に!」

 慌てて立ちあがり、商売道具の工具箱さえ置き去りにして、逃げてしまう。

 シエルという名が、おそらく禁句なんだわ。地獄の住人は誰もが知っているけど、誰もが口を噤む、呪われたキーワード。

 そのフレーズは、地上では『天使』を意味し、綺麗な名前とされる。

「何者なんですか? あの子」

 胸の中で、時計の針がキリキリと軋んだ。

デュレンがいつになくスローモーションで口を開く。

「人形遣いシエル。おれと兄貴の親父をブッ壊しやがった……人間の女だ」

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