死が憑キル夜

第六話 タマキハル~命、連なりて世

 通っているような通っていないような中学を卒業し、私は地元の高校に進学した。

でも、やることは今までと変わらない。授業をフケて、行事をサボって。

 どこに行っても、私の評価は問題児か不良のどちらかだった。仲のよい友達はひとりもおらず、いつも孤立してる。それを一匹狼と気取る気概がなければ、寂しいと思う人並みのセンチメンタリズムも持ちあわせていなかった。

 私の周囲からひとが遠ざかっていくのは、妙な力のせい。

 この私、鳴海咲耶には、子どもの頃からおかしな能力があった。ほかの誰にも見えないモノが、はっきりと見えてしまうの。

 それは地獄からやってきた連中のことで、いつからか私は『死神』と呼んでいた。全員が死神ではないらしいけど、私にとってはどれも同じ、私を害する歪な存在。

私が彼らをそう呼んだのか、彼らがそう名乗ったのかは憶えていない。

 見えるということは、相手から目をつけられる、ということでもあった。たびたび私は死神に狙われ、恐怖と危険に晒されている。

 家族、友達……近しいひとを巻き添えにしながら。

 咲耶ちゃんと一緒に遊んでいたら事故に遭った、とか。鳴海さんと隣の席になると高熱が出る、とか。噂には尾ひれもついて、私に近づこうとする者はいなくなった。

 お友達とお人形遊びをしたこともない。

 そんな私に初めてヌイグルミをプレゼントしてくれたのが、エイリークだった。死神のくせに私と遊びたがり、待ち伏せまでして頻繁に会いにくる。

「……あれ、気に入らない?」

 その日も彼は公園の樹から唐突に降ってきた。

秋も深まり、紅葉が色づく十月の下旬。夕暮れ時になると、こいつが私の傍で、東向きの影を細長く伸ばす。

 彼に手渡されたヌイグルミを、私は逆さまにひっくり返した。鳴海咲耶に似せて作られており、ご丁寧にパンツまで再現されている。

「あなたって、変態なの?」

「それ、もう一回言ってよ。ちょっと気持ちいい」

「……死ね」

 エイリークの顔にあっけらかんとした笑みが浮かぶ。二十歳くらいの顔立ちにしては、まなざしがあどけない。

「まあ、そんなに悪くないわ。一応もらっておいてあげる」

「俺の愛の深さ、わかってくれた?」

 先週、エイリークは私に『人間のデートがしてみたい』と言った。

私は彼が諦めることを期待して、『だったらプレゼントで機嫌を取って』と注文した。

 その結果が珍妙な私似のヌイグルミだなんて、チョイスがおかしいにもほどがある。好意を押しつけることばかり躍起で、私の気持ちを考慮しない。

「これでプレゼントはバッチリだよね。じゃあ、映画ってやつに行こう」

「はあ……まったくもう」

 面倒臭いのだけど、大きな少年の相手をしているみたいに思えて、なかなか無下にできなかった。そのうち飽きてくれるだろうと思いつつ、もう半年が過ぎている。

「暇なの? あなた」

「うん。だから咲耶に会いにきてる」

 暇だから女性を訪ねている……いや、それは違うでしょうよ。

 女性を訪ねるために時間を作るのが、紳士のあり方なのに。

「また石とか投げられたりしてない? 言ってくれたら、俺がそいつ殺してあげるよ」

「物騒なこと言わないで。これだから死神は……」

 私は溜息をつき、自販機で適当にジュースを買おうとした。すると、最近になってようやく自販機の使い方を覚えたエイリークが、先に小銭を放り込む。

「お好きなものをどうぞ。死神の呪いつき」

「……ありがと」

ほんと、調子が狂うわ。

 死神といったら、襲ってくるやつばかりだったのに。エイリークは死神でありながら、私を殺戮の対象とせず、友好的に接してくれた。

 何か裏があるに決まってると思って、当初は警戒もしたけど、その気配は一向になし。だんだん警戒するのも馬鹿馬鹿しくなって、私も肩の力を抜くことにしてる。

 私はグレープジュースで、エイリークは渋めの緑茶。

 普通の人間には彼の姿が見えない。自販機の傍で、私がひとりで黄昏ているように見えるはず。だからエイリークとの会話は、傍目には私の独り言だった。

「あなたたちって、寿命が長いんでしょ?」

 本当はそこに『エイリーク』という人物なんて、いないのかもしれない。

「人間よりはね。羨ましい?」

「別に。私がお婆ちゃんになっても、あなたは若いままなんだろうなって……」

 人間と死神では時間の流れ方も異なる。それは彼もわかっているようで、私たちの交流には、すれ違うことのできる余地があった。

 手を繋ぐこともない。

 男と女であっても、そうはならない。

「俺はずっと咲耶と遊んでたいな」

「人間はそうはいかないの。仕事もしなくちゃだし」

「お金が欲しいんなら、オレの呪いでどうだってできるけど? 人間ってのはどうしてそう、つまらないことを無理にしたがるんだろうね」

 エイリークはその背中で西日を遮りつつ、私の顔を覗き込んだ。

「なんならさ、オレと一緒に地獄においでよ。汽車に乗って、すぐだし」

 そんな誘いに乗るほど、私は人間を辞めたつもりはない。

「死神に案内されるなんて冗談じゃないわ」

 だけどちょっぴり魅力的にも思った。

しがらみの多い人間の日々に、私は疲れ始めている。

死神に狙われやすいせいで、腫れもの扱いされ、石を投げられることもあった。学校で嫌がらせを受けるのも、一度や二度じゃない。

両親でさえ私を腫れもの扱いした。死神の話は『妄言をやめろ』と取り合わず、何かにつけては『現実を見ろ』『目を覚ませ』と一方的に説教してくる。

そんな生活と別れて、死神の一員になってしまうのも悪くはない。

でも、こんな胡散臭い優男に地獄へと口説き落とされるのは、癪だから。

「楽しいよ? 地獄は」

「その割にあなた、こっちに来てばかりじゃない。そっちって、よっぽど暇なんじゃないの? 第一、人間の私が行っても、死神総出で襲われるのがオチよ」

 私の頑なな態度に、エイリークは肩を竦めた。

「あーあ。名案だと思ったんだけどなあ」

 空き缶が放物線を描いて、オレンジ色の空へと飛ぶ。

 

 

 目覚めると、飛鳥さんの顔があった。どことなく懐かしい。

「気がついたか、楓。立てるか?」

「はい。ええと……私?」

 記憶が戻ってきた反動で、思考が落ちてたみたいね。けれどもまだ、エイリークに関わる出来事をすべて思い出すことはできない。

「ここは……?」

 万魔殿の屋上にいたはずが、私と飛鳥さんは山中の鳥居を前にしていた。夕焼け空のもと、赤い鳥居が等間隔で縦に並び、竹藪の奥まで続いている。

 その鳥居をくぐるように古い線路が延びていた。レールの枕木は傷んでおり、砂利の量にも偏りがある。

「すまない、逃げるのが遅れた。……俺たちは第二地獄に堕ちたんだ」

 飛鳥さんが線路の先を遠目に仰いだ。薄い霧がたなびいて、鳥居の山道はよく見えるのに、それ以外は数メートルも離れるとぼやけてしまう。

 万魔殿のある第一地獄カイーナの下に、第二地獄アンティノラがあることは知っていた。しかし実際に来たのは初めてで、ここが本当にアンティノラである保証はない。

 地獄は逆さまになっているため、次の階層は空の上にある。第一地獄の空の穴から、第二地獄へと迷い込む、その方向自体は合っているようだけど……。

 山の下のほうから、ひとりの死神が飛んでくる。デュレン閣下だわ。

「こんなところにいやがったか。探したぜ? 飛鳥、楓ェ」

 さすが魔王の息子だけあって、第二地獄アンティノラにも平然とやってきた。黒い羽根ではばたき、私たちの頭上を一周する。

 飛鳥さんが立ちあがり、デュレン閣下を手招きした。

「デュレン、これは一体?」

「由々しき事態というやつだ。最高だぜェ? 今夜はパーティーだ」

 降りてきたデュレン閣下が、万魔殿のビジョンを浮かべる。

 第一地獄カイーナのほうも夕焼け色に染まっていた。万魔殿には巨大な影が接近しつつあり、死神たちは対応に追われている。

 飛鳥さんが眉を顰めた。

「こいつはまさか……大罪の魔王じゃないのか?」

「おれも初めて見たぜ。七つの大罪『強欲』のマモン、ただし第一地獄カイーナの化け物じゃねえ。第二地獄アンティノラ級のマモン、いわばマモン=アンティノラさ」

 マモン=アンティノラは万魔殿さえ押し潰せそうな巨躯を有している。それこそ宇宙戦艦が攻めてくる、SF映画みたいな光景だった。

「死神は総力を結集してるトコだ。おれもあとでなァ。ヘッヘッヘ!」

「嬉しそうだな、デュレン」

「血が騒いでしょうがねえんだよォ」

 ビジョンの中では、ちょうどオルハが指揮を執っている。

『戦える者は全員、出撃よ! なんとしてでも万魔殿で食い止めなさい!』

 叫ぶような号令からも緊迫感は伝わってきた。私はさっと青ざめ、声を震わせる。

「このままだと、どうなるんですか……?」

「万魔殿が潰されるだけじゃねえ。霧湖町のほうまで穴が空いて、最悪、地上にも地獄が広がっちまうかもなァ」

 ビジョンが切り替わって、霧湖町の様子を映した。地上も深夜帯のはずなのに、空は茜色に染まり、ひとびとが怯えている。

 飛鳥さんが焦りを露わにして、声を荒らげた。

「まずいぞ。これでは霧湖町のみんなまで地獄に堕ちてしまう!」

 霧湖町には飛鳥さんの家族だっている。元人間である飛鳥さんにとって、マモン=アンティノラの出現は到底見過ごせる事態ではなかった。

 デュレン閣下が冷酷に微笑む。

「そうさ、地獄に堕ちるんだよ。てめえらも経験したようになァ……」

 ぎくりとした。デュレン閣下には私の素性がばれてる。

「エイリークの、てめえを手に入れたいっていう情念を、てめえの魔力が逆に取り込んで爆発しちまったのさ。なあ、鳴海咲耶ァ?」

 出てきた名前を、私は呟くように繰り返した。

「なるみさくや、って?」

「てめえの名前だろうが。んー?」

 デュレン閣下がくくっと笑い、私の不安げな表情を覗き込む。

「おれが飛鳥を誘い込んだドサクサに紛れて、やつはなァ、人間の女を連れ込みやがったんだよ。それから七年もかけて魔力を順応させ、三年前にやっと出してきやがった」

 エイリークではない第三者の口から語られたことで、真実味が増した。

「それがお前だったのさ、楓ェ」

「……そうだったんですか」

 挑発的なデュレン閣下の物言いに、不思議と怒りは湧いてこない。今の私が欲しているのは真実であって、それを話してくれただけに過ぎないもの。

「ま、待て! 楓が人間だっただと?」

 飛鳥さんは目を見張って、私の顔を見詰めなおした。

「バカな……だが、十年前なら辻褄も合う。二年の鳴海に似ているとは思ってたんだ」

「……秋津、先輩……?」

 無意識のうちに、私の口が飛鳥さんの名に敬称をつける。

 同じ高校でひとつ年上の、秋津飛鳥だ。文化祭の準備をサボって帰ろうとする私を、文化祭実行委員に引っ張り込もうとした上級生の名前を、今になって思い出す。

 デュレン閣下は重苦しい雰囲気にも頓着せず、まくしたてた。

「そもそも、だ。エイリークのやつが『人間を死神にする』のがどうこう言ってやがったモンだから、おれも飛鳥で試してみたんだよ」

「……初めて聞いたぞ」

 むしろ遠慮のない暴露のおかげで、私は自分が十年前まで人間だったこと、犯人がエイリークであることを認識できる。

 飛鳥さんが怪訝な表情で口元を押さえた。

「屋上でちらっと見たが、楓がもうひとりいたぞ。あれはなんだ?」

「あれも楓……いや、鳴海咲耶といったほうが正しいなァ。エイリークへの憎しみやら何やらがイニシアチブ奪って、こっちの楓を追いだしたんだろ」

 あれだけの憎悪が自分の中にあったことに、怖気がする。咲耶を名乗った私のそれは、エイリークを苦しめ、苛むことだけを渇望していた。

 あんなにエイリークを憎んでたなんて……。

 でも私には、その理由となる記憶がない。エイリークに七年も弄ばれた、という咲耶の言葉にも心当たりがなかった。

「あの、デュレン閣下。私、全部は思い出せないんです。エイリークは一体何をやって、私をあそこまで怒らせたんですか?」

「そこまでは知らねェ。ただまあ、てめえがエイリークに対して持ってんのは、憎悪だけじゃなかったってことだ。だからてめえは咲耶から追い出されやがった」

 憎しみではない、エイリークへの強い気持ち。

まさかと思っていると、飛鳥さんがしれっと付け足す。

「お前はエイリークを好いているからな」

「そ、そんなこと……」

 これも第三者に言われてしまっては有耶無耶にできず、認めざるを得なかった。そんな場合じゃないつもりでも、顔が赤くなる。

 魔王の息子は愉悦の笑みを浮かべつつ、黒い羽根を広げた。

「そろそろ戻らねぇとなァ。万魔殿のほうのデカブツはおれたちで潰す。てめえらはマモン=アンティノラの核をやれ」

「鳴海咲耶の憤怒……いや、エイリークの『強欲』が引き起こした事態というわけか」

「てめえらがエイリークを取り戻せば、こっちもラクになる。たぶんなァ」

 デュレン閣下が一振りの刀を飛鳥さんに投げてよこす。

「ほらよ、忘れモンだぜ」

 舞台の袖に置いてきた私の妖刀・焔だった。

飛鳥さんが自分の妖刀・火具土とまとめて腰に差す。

「助かる。もともと楓に氷の力を制御させたくて持たせていたんだが……ここから先は俺が持っていたほうがいいだろう」

 咲耶の氷の力は、エイリークが得意とする水の力に対して、圧倒的な優位に立っていた。エイリークを殺すため、彼女が氷の力を選んだのかもしれない。

 だけど飛鳥さんの炎の力なら、氷の力に対抗できるはず。焔火具土もある。

 さらにデュレン閣下は私にホイッスルを投げつけた。

「ただの人間に使えるモンといったら、これくらいしかねェ。まあ、何かの足しにはなるだろうよ。ヘヘヘ……」

 しゃれこうべのストラップがついたそれは、よらかぬ玩具の気がする。

「あ、ありがとうございます。デュレン閣下」

戸惑いつつ、私はホイッスルを首にさげた。華やかなドレスには似合わない、悪趣味なそれを、生地の裏側に放り込む。

「じゃあな。せいぜい生き残るこった」

「お前も気をつけてくれ。万魔殿を頼むぞ、デュレン」

 デュレン閣下は茜色の空を滑空し、やがて小さくなっていった。

 私は立ちあがり、鳥居の向こうをまっすぐに見据える。

「行きましょう、飛鳥さん。エイリークを助けたいんです。力を貸してください」

「俺にとっても他人事じゃないさ。行くぞ」

 私たちは決意を込め、頷きあった。普段は困らせてばかりいる飛鳥さんの背中が、今はとても頼もしい。

 最初の鳥居をくぐると、山道は前だけでなく後ろにも伸びた。空間が歪んでいるのか、すでに百メートルは進んだ位置から始まる。足元は線路のせいで歩きにくい。

「第二地獄アンティノラ、か……」

「なんだか寂しい場所ですね」

 ここは『人間以外』の者に殺された人間の魂が堕ちてくるらしいわ。四十九日を迎えて死神に殺された、哀れな罪人たちの魂も来ているかもしれない。

 ふと、少女の影が私たちを追い越していった。しばらくすると、同じ影がまた後ろからやってきて、さっきと同じように私たちを追い越す。

「……胎内巡りか」

「なんですか、それ?」

 飛鳥さんが声を潜めつつ、鳥居の陰を見遣った。

「魂がこの道を赤子の産道に見立てて、どこかに生まれ出ようとしてるんだ」

 どこからか恨みがましい声も聞こえてくる。

 帰りたい。家族に会いたい。ひとりで死にたくない――。

 鳥居の後ろには人影があって、私たちを見張っていた。攻撃してくる気配はないが、何かを伝えようと、必死で口を開いてる。

 嫌だ。行きたくない。みんなのところに帰りたい――。

 地獄の娯楽に巻き込まれた、人間たちの成れの果てだろう。大人の人影は少なく、ほとんどが子どもの背丈であることが、私の胸を痛く締めつける。

「……俺はまだ、運がよかったのかもしれん」

 実際に地獄へと連れてこられてしまった飛鳥さんが、独りごちるように打ち明けた。

「あのデュレンに捕まっていながら、小話ひとつで助かったんだ」

「飛鳥さんはデュレン閣下のこと、恨んだりしてませんか?」

 エイリークによって連れてこられた私は、まだ気持ちの整理がついていない。だから、同じ境遇にあるひとの意見が聞きたかった。

「お前は……鳴海のほうは、エイリークを恨んでるわけだからな。気になるか。しかし俺に限って言えば、デュレンをどうこう思ったことはない」

 飛鳥さんが乾いた砂利を拾って、握り締める。

「それより罪人の魂を地上に帰してやることのほうが、ずっと大事だった。こんな寂しい場所に堕ちるやつなど、いないほうがいいだろう?」

 やっぱり飛鳥さんはすごいわ。

 同じ元人間なのに、私よりもずっと真摯に死神であることを受け入れている。こんなに強いひとをからかって、得意になっていた死神の自分が、情けなくなった。

「お前は戻りたいと思うか? 人間の世界に」

「わかりません。家族のこともほとんど思い出せなくて……」

 飛鳥さんとはぐれたら私は、きっと、ここで迷える魂のひとつになってしまう。

「安心しろ。俺がついてる」

 飛鳥さんが私の肩を抱き寄せた。頼り甲斐のある顔が気丈にはにかむ。

「自分と同じ人間がいると思えばいいさ」

「じゃあ、私のお兄ちゃんですね」

 その強さと温かさに甘えることを許され、気持ちが楽になった。

 飛鳥さんを好きになる可能性もあったかもしれない。心の強さを優しさとして、誰かを抱き締める、そんな包容力がこのひとにはある。

「ねえ、飛鳥さん。どうして高校で、私に声を掛けてきたんですか?」

「お前も俺と同じで『見えている』ようだったから、かな。仲間が欲しかったのさ」

「……それだけ?」

 ちょっとがっかりした。下級生の女の子に気があって、声を掛けずにいられなかった、というほどの好意ではなかったみたい。

「エイリークがいないことには、フェアじゃないしな」

「……え?」

 きょとんと小首を傾げる私を、飛鳥さんがくしゃっと撫でる。

「なんでもない」

 周囲の霊魂たちが無言のまま、山道の先を指さした。曲がりくねっていた線路が一直線に伸び、すべての鳥居を一望できる。

 急いで。まだ間にあうよ。僕らみたいにならないで――。

 子どもたちに感謝しながら、私は飛鳥さんとともにエイリークのもとを目指した。

 

 人間だった私を地獄へと引きずり込んだのは、エイリーク。

 私を手に入れたいがために、と咲耶は言った。

 でも私はまだ、エイリークの口から、エイリークの言葉で何ひとつ聞いていない。

 私のことが好きなら、そう言って欲しい。

 後ろめたい呪いで私を騙して、私を手に入れたつもりにならないで。

 だからあなたは、あと一歩が踏み出せなかったんでしょう?

 私の顔を見るたび、罪悪感に苛まれてしまうから。

 

 最後の鳥居を抜けると、古びた神社に辿り着いた。手水場は荒れ、大木の注連縄は千切そうになっている。本殿には鈴もなく、柱は折れ、縁側はあちこちで板が捲れていた。

 霧湖町が夏祭りを催す神社に似ているような……だけど毎年お祭りで賑わっている場所が、こんなに寂れてるはずがない。

 一面は霧で覆われ、神社のほかは何も見えなかった。線路はここで終点ね。

妖しい赤色に染まった空で、鬼火たちが細長い尾を引く。

 うらぶれた神社は、時間の流れから置き去りにされているかのようだった。風の音さえない、沈黙めいた静寂を、私たちの足音が踏み荒らす。

「待て、楓。やつがいるぞ」

 飛鳥さんが左腕を横に伸ばし、私を制した。

 敵意に違いない気配がする。どこかにもうひとりの私、咲耶がいる。

「来たわね……楓!」

 頭上から女の声が降ってきた。

 咲耶が茜色の空に君臨し、狂った氷龍を呼ぶ。

「アンティノラ級の魔王さえ操る私に、ただの人間が勝てると思ってるのかしら?」

 私と同じ顔なのに、私の知らない表情だった。青白い氷の魔力で髪を波打たせながら、瞳を狂気で赤々と光らせる。その右手には氷の魔剣・影雪月花が輝いていた。

「……啼け、影雪月花!」

「さがってるんだ、楓。今のお前では戦えん!」

 それに対抗して、飛鳥さんが焔と火具土を同時に抜き放つ。

「猛れ、焔火具土!」

 炎の魔力が燃え盛る龍となって、咆哮を轟かせた。飛鳥さんの意志に呼応し、紅蓮の炎を角の先から尻尾の先まで、すべてに巻きつける。

オレンジ色の空で、二匹の龍が睨みあった。

 ただの人間に過ぎない私では、加勢できない。せめて飛鳥さんの後ろにさがり、邪魔にならない位置を心がける。

 それでも相手は『私』なのだから、誰かに任せっ放しではいられなかった。

「エイリークを返して! 私は復讐なんて望んでないの!」

 ドレスの裾を掴んで息み、声が震えるのを無理やりにでも絞り出す。

 セーラー服の咲耶は少し眉をあげ、真っ赤な舞台衣装のままでいる私を見下ろした。

「あなたはこの男への憎悪を、記憶ごと失ってるんだったわね……」

 宙に浮かぶ彼女の傍らに、カエデの葉の磔台が降りてくる。

 エイリークはそこに磔にされていた。胴と首は錆びた鎖で拘束され、てのひらには大きな釘まで打ち込まれており、痛々しい。

「エイリークっ!」

 私が声を張りあげて呼ぶと、かろうじてエイリークの前髪が揺れた。

「か、楓……なんで、来ちゃったの……?」

「しっかりしろ、エイリーク!」

 飛鳥さんは炎龍を操りながら、攻撃のタイミングを窺っている。

 罪人はうわごとのように小さな言葉を落とした。

「いいんだよ。咲耶……いや、楓に殺されるなら、嬉しいくらいなんだからさ」

「でしょうね。あなたはずっと私に、自分にだけ執着して欲しいと思ってた……。お望み通り、私はたっぷりと年月をかけて、あなたをいたぶってあげるわ」

 いたぶると言いながら、咲耶はエイリークの青ざめた顔をいやらしく撫でさする。私と同じ顔で、同じ身体なのに、私の手じゃないみたいに。

エイリークには触れて欲しくない、知らない女の手となって。

「お前の目的はエイリークを殺すことか」

「そう怖い顔をしないで、秋津先輩。私の目的はエイリークだけ……。それさえ叶えば、マモン=アンティノラだって引きあげさせるつもりよ」

 エイリークにとって目の前の咲耶は、きっと彼自身の罪悪感そのもの。

記憶を奪い、ずっと都合のいいように騙していた女の子で。私が人間の記憶を取り戻しそうになったから、また奪って、やりなおそうとした。

 そのことを私に責められたら、繊細なエイリークでは耐えられない。 

「ヤツを止めるしかない。楓、伏せていろ!」

 飛鳥さんが右の刀とともに赤い龍を振りあげた。炎をまとったそれが、獰猛な雄叫びをあげ、咲耶へと狙いをつける。

「あなたが来たことは計算外だったわ。秋津飛鳥!」

 咲耶も凶暴な氷龍を振りかざした。

二匹の龍が巨体をうねらせながら、神社の上空で激突する。

 赤い稲妻と青い稲妻が、夕空の亀裂となった。それをかいくぐって迫ってきた咲耶の氷龍に、飛鳥さんの炎龍が真っ向からぶつかる。

 人間の私はご神木の陰に隠れつつ、必死にエイリークを呼んだ。

「エイリーク、ぼーっとしてないで! さっさとこっちに来なさいったら!」

 ひたすら、闇雲に、無我夢中で叫ぶ。

「誰のために飛鳥さんが戦ってると思ってんのよ! バカ!」

「うるさいのよっ、私!」

 頭上の咲耶も激昂し、神社に氷柱の弾丸をばらまく。

「楓っ!」

 すかさず飛鳥さんが防壁を張り、それを防いでくれた。私の手を引いて、一度地面まで降りてきた炎龍の頭部に飛び乗る。

「下にいては危険だ。楓、突っ込むぞ!」

「つ、突っ込むって……」

「これは鳴海咲耶を倒す戦いじゃない。お前がエイリークを取り戻す戦いなんだ!」

 飛鳥さんの激励が、私の意志を奮い立たせた。

 マモン=アンティノラの核になっているのは、エイリークの真っ黒な罪の意識だ。彼を罪悪感から解放するために私ができるのは、きっと、許してあげること。

「鳴海咲耶は俺に任せておけ。お前はエイリークを!」

「はい! お願いします、飛鳥さん!」

 猛る炎龍に包まれながら、私は飛鳥さんと一緒に念じた。

 エイリークを取り戻したい。そのためにも、届け。

「エイリークのところまで連れていって! お願いっ! 届いてぇええええッ!」

飛鳥さんの二刀流が炎龍の牙となり、自身の業火さえ食い荒らす。

 それを飲み込もうとした氷龍の口を、逆に炎龍が喰い破った。細長い氷龍の胴体が、頭から尻尾まで真っ二つに裂けていく。

「なっ? 私の氷龍を破るなんて……秋津飛鳥、お前は?」

「舐めてもらっては困る。こうでなくては万魔殿の監督は務まらんさ!」

 大きいだけの金属を、名匠に鍛え抜かれた刀が切り裂くかのようだった。一点突破の威力で、飛鳥さんの炎龍が打ち勝つ。

 咲耶はエイリークを連れ、さらに空の上へと逃げようとした。

「待ちなさい! 私が消滅したら、その子も記憶の一部を永遠に失うのよ!」

 飛鳥さんがちらっと、私の真剣な横顔を窺う。

「エイリークを憎むための記憶なんていらないわ。飛鳥さん、焔を貸してください」

「わかった。その決断、俺も半分は背負ってやろう。……いくぞ!」

 私は再び焔を握り締め、飛鳥さんの火具土とその刃を交差させた。炎龍が氷龍の残骸を突き抜け、咲耶の背中にみるみる肉薄する。

 私たちの炎龍はついに彼女を捕らえ、その牙に紅蓮の業火をまとった。

「ど、どうして人間なんかに……!」

「そうよ、私は人間。ただの人間、秋津楓なんだから!」

 炎が私の憎悪を焼き尽くす。

 

 人間だった私を夜の世界へと引きずり込んだのは、あなた。

私を手に入れたいがために、と私は自惚れた。

 でも私はまだ、あなたの口から、あなたの言葉で何ひとつ聞いていない。

 私のことが好きなら、そう囁いて欲しい。

 つまらない嘘で私を騙して、私を手に入れたつもりにならないで。

 だからあなたは、手を繋ぐ力が弱かったんでしょう?

私の顔を見るたび、愛しくなるくせに。

 

 上空ですれ違いざま、私はエイリークを抱き締めるように捕まえる。

「――エイリークっ!」

 それから、炎龍に神社まで降ろしてもらった。

磔台だったカエデの葉は灰になり、拘束具の鎖が外れる。両のてのひらに打たれていた釘も抜け、ようやく彼は解放された。

 飛鳥さんが息を乱しながら、手水場のほうへと歩いていく。

「さすがに力を使い過ぎた……少し水を飲んでくる」

 気を遣ってくれたのかも。

「寝たふりは通用しないわよ、エイリーク」

「……ばれてた?」

 エイリークは調子よく舌を出し、私を茶化した。この嘘つきめ……。

 そんな彼のために、私は貴重な膝枕を提供してやる。

「助けてあげたのよ。感謝の言葉は?」

 しかしエイリークは悪ふざけこそすれ、、少しも安堵の色を見せなかった。

 目の前に『私』がいる以上、彼にとっては助かったことにならない。私の顔も、私の声も、エイリークの罪悪感を逆撫でしてしまう。

 きっとエイリークは、人間の恋愛がわかっていなかった。

 私がちゃんと教えてあげてれば、こうはならなかった。

「人間だった時のこと、ちょっと思い出したの。あなた、よく待ち伏せしてたでしょ」

「そうだね。君に会いたくて、別れた後もそこで、次の日になるまで待ってた」

 エイリークの顔に自嘲めいた笑みが浮かぶ。

 男性が女性を口説くには、プレゼントが効果的。そう教えたら、こいつは怪しげなヌイグルミなんぞを持ってきたっけ。

 デートをしたがるから映画館に連れていったら、映画が終わるまで寝ていた。明かりが消えたから寝るんだと思ったって……それはないでしょ。

 でも一番大事なことを教えていない。

「ねえ、エイリーク」

 胸を高鳴らせながら、私は囁いた。

「あなたが好きよ」

 エイリークが目を見開き、私の顔を凝視する。

「……ちょっと。恥ずかしいんだから、そんなに見ないで」

「今なんて言ったの? 楓」

 彼のまなざしは戸惑いを秘めていた。気持ちを言葉にすることの意味を、まだ理解できないでいる。月並みなラブストーリーのあり方さえ知らない。

 好きなひとを手に入れたいのなら、そのひとに応えてもらわないといけないのに。

「連れてってあげた映画、ちゃんと観てなかったから、わからないの」

「やっぱりわかんないよ。楓の言ってること」

記憶を奪ってまで、傍に置いておくことができても、一方通行だったはずよ。

 もっと私に期待して。

 私からも好きになってもらえることを、欲して。

 私の気持ちをあなたにあげるから。

「エイリーク……」

 私は目を閉じ、おおむろにエイリークと唇を重ねた。

 彼の唇がわずかに開き、吐息をくぐもらせる。

「んっ、か、楓……?」

「じっとしてよ。できないじゃない」

 ほんの少し目を開けると、エイリークの綺麗な瞳が間近にあった。長い睫毛が私に当たりそうになる。それでも構わず、私は彼に唇を押しつけた。

 キスが深まる。

 唇の合わせ目から、私とエイリークの区別もつかない吐息が溢れた。高揚感で息を熱くしているのはエイリークであって欲しいけど、私のほうかもしれない。

 胸の鼓動が速くなり、キスを急かす。

「んふぅ……ン、はあっ!」

 息継ぎもなしに続け、やがて私から唇を離した。

 キスしてしまったことの恥ずかしさも、胸のときめきを過熱させる。今ならエイリーク相手に、あらゆる行為で想いを昂ぶらせる自信があった。

 エイリークが自分の唇をなぞり、それから私の唇も同じように、慎重になぞる。

「どうしてオレ、最初にこうしなかったのかな」

 やっとわかってくれたみたい。

 私を手に入れたいのなら、私にその気持ちを伝えてくれればよかったの。

 仰向けのまま、エイリークが私をぎゅっと抱き締める。

「好きだよ、楓」

 いつもの涼しげな表情で。瞳に少しだけ涙を浮かべながら。

「ごめん……。オレは楓から何もかも奪ったんだ。それで満足できると思ってた。でも、そうはならなかった。お前を手に入れたはずなのに……」

その涙は私を騙し、私から人間の日々を奪った罪悪感に違いなかった。

「今みたいには満たされなかったでしょ?」

 私はもう一度短いキスをして、彼を許してあげた。

エイリークの罪を許せるのは、私だけ。

「私がいいって言ってるんだから、もうひとりで悩まないで。どうしても苦しくてたまらないって時は、私が聞いてあげる」

 涙で濡れつつある顔を見られたくないのか、エイリークが私を胸元で抱き締める。

「ありがとう。ごめん」

 感謝も陳謝も声が震えきっていた。

 ちっぽけな私たちの遥か上で、夕焼け色の空が澄み渡っている。いつもこれくらいの時間に、こいつと待ち合わせしてたんだったわね。

 ところが、その空が壁紙みたいに剥がれ始めた。山の全体が揺れだす。

「まずいぞ、ふたりとも! ここはそう長くは持たん!」

 飛鳥さんが血相を変え、戻ってきた。

「も、もう咲耶がいないから?」

「やばいね、これ。ここにいたらオレたち、第二地獄デビューだよ」

 第一地獄の近くまで突出していたこの一帯が、元の次元に戻りつつあるらしい。

空と同様に地面にも亀裂が走り、分解を始めた。大木がめきめきと倒れ、神社の一角を押し潰してしまう。

「早く逃げなきゃ……でっ、でも、どこへ?」

 人間の私にはどうすることもできず、慌てるしかなかった。

 すでに力を使い果たしている飛鳥さんは、膝をつく。

「エイリーク、お前は動けそうか?」

「ごめん、飛鳥さん。オレも魔力は根こそぎ奪われちゃってて」

 エイリークも立っていられずに腰を降ろし、澄まし顔を引き攣らせた。

 打つ手のないまま、だんだん足場がなくなっていく。ついに鳥居も崩れた。かろうじて残っているのは、古びた線路だけ。

 まだ飛鳥さんやエイリークは死神だから、余裕があるのかもしれない。だけど単なる人間に過ぎない私は、パニックに陥り、両手で頭を抱えた。

「ここまで来て、こんなのってないでしょ!」

 第二地獄に閉じ込められるというのは、早い話が『死んじゃう』ってこと。

「なんとかしてよ、エイリーク!」

「そ、そりゃあ助けてあげたいけど……」

 薄情なエイリークの襟ぐりを掴んだ拍子に、私の首元で何かが跳ねる。デュレン閣下がくれた、髑髏のホイッスルだ。

 飛鳥さんはそれを取り、最後の賭けを提案した。

「デュレンを信じて、こいつを使ってみるか? 助かるかもしれんぞ」

 私とエイリークはアイコンタクトを交わしつつ、デュレン閣下の顔を思い出す。

「……あのデュレンさんだよ?」

 エイリークの一言が、デュレン閣下のすべてを端的かつ正確に表していた。

 魔王の息子はひとを煙に巻くのが得意で、何を考えているのか、よくわからない。他人を罠に嵌め、笑い転げてるイメージさえある。

 それでも私たちには方法がなかった。

「これで死んだら、デュレン閣下を呪い殺してやるわ」

 覚悟を決めて、私はホイッスルを握り締める。

「その時はオレ、手伝っちゃうよ」

「俺も一緒にやろう」

 デュレン閣下の甲高い笑い声が聞こえたような。

 最後の足場が崩れる直前、いちかばちか、私はホイッスルを吹いた。

 

 

 美女のイラストがペインティングされた汽車が、夜空の線路を駆け抜けていく。

 私たちが脱出してすぐ、神社は崩壊してしまった。

「……間一髪だったわね」

夕焼け色は剥がれ落ち、空には群青色のグラデーションが戻りつつある。

髑髏のホイッスルはデュレン閣下の汽車、通称『悪趣味号』を召喚してくれた。これに乗って、命からがら第二地獄からの生還を果たした、というわけ。

 飛鳥さんもエイリークも、車内でぐったりとしていた。

「あいつに借りができてしまったな……」

「自力で帰れたってことにしない? オレ、やだよ。あのひとにでかい顔されるの」

 最初からデュレン閣下は結末を予想していたのかも。マモン=アンティノラのほうもオルハたちが食い止めてくれたはず。

そして飛鳥さんがいたからこそ、エイリークを助け出すことができた。

みんなのおかげ、ね。

 悪趣味号の車窓から、私は最後になるかもしれない鬼火の星空を眺める。やがて汽車は第一地獄カイーナの地表まで降り、車体も水平になった。

 ハロウィン祭の途中だった城下町は、カボチャのランタンで賑わっている。

 上空のマモン=アンティノラは万魔殿から離れ、消滅しつつあった。

「霧湖町は大丈夫かしら?」

「おそらく。何なら、このまま地上に出るか?」

 飛鳥さんが立ちあがって、窓際の私を両腕で閉じ込める。

「劇の続きを見たい気もするが……」

 まだ私はジュリエットの恰好だった。残念ながら、飛鳥さんもエイリークも死神のブレザーで、ここには肝心のロミオ様がいない。……お兄ちゃんはいるけど。

 エイリークが慌てて、私たちの間に割り込もうとする。

「ちょっと、ちょっと! オレの楓に近すぎるでしょ、飛鳥さん!」

 私と飛鳥さんは一緒になって微笑んだ。

「これくらい兄妹のスキンシップじゃないか。なあ、楓?」

「そうよね、お兄ちゃん」

 エイリークも私の彼氏を気取るなら、余裕ってやつを見せてもらわないとね。

 やがて汽車が速度を落とし、万魔殿のプラットホームに差し掛かる。

あれだけの騒動があったにもかかわらず、心身ともにタフな死神たちは平然とハロウィン祭を再開していた。マモン=アンティノラの襲撃さえ、余興のひとつでしかない。

ホームではオルハとヨシュアが手を振り、クラトスが元気に吠えている。

「……帰ってきたわね、私たち」

 これからエイリークのことを話して、私のことも話さないと。

 ところが、停まるはずの汽車ががくんと揺れた。うるさい蒸気をピーピー噴きまくる。

私も、エイリークも、飛鳥さんも、悪趣味号のあからさまな異常に青ざめた。

「ちちっ、ちょっと! なんでっ?」

「第二地獄を行き来した負荷ってことかな? あーあ……」

「あーあ、じゃない! まずい、爆発するぞ!」

 こんなのってないわよ、デュレン閣下!

 ノスタルジックな汽車の旅は一転して、四十九秒のカウントダウンが始まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夕方が近づくにつれ、鮮やかだった昼の青空が橙色に溶けていく。

 年も明けて、霧湖町も雪がちらつく季節になった。私はマフラーを深めに巻いて、白い息をくぐもらせる。

 今日は昔通っていた高校に行って、諸々の手続きを済ませてきた。十年前から勤務している先生は私の顔に驚いたけど、別人の『秋津楓』ということで一応納得したみたい。

 私は今、飛鳥さんのご家族のお世話になっていた。

冬は寒さに少し震えながら家に帰るのが、とても懐かしい。

 私は人間の秋津楓としてここにいる。落ち着いたら、鳴海の家族も捜すつもり。

咲耶から切り離されたことで人間に戻ってしまった以上、万魔殿に残るわけにはいかなかった。でも携帯電話のアドレスには、ちゃっかりオルハも登録してある。

飛鳥さんのほかに、デュレン閣下も便宜を図ってくれたおかげで、私は人間として人生をやりなおすことができた。

 公園の木々は葉を落とし、無言で寒空を見上げている。

 自販機の傍には、エイリークがじっと佇んでいた。

「……ただいま」

「おかえりなさい。やっと来たのね」

 空は茜色に染まってる。約束したわけじゃない、待ち合わせの時間。けどエイリークがいつ来るかわからなかったから、こっちは毎日通う羽目になっていた。

 今日みたいに寒い日は、ホットの缶コーヒーで温まろうかな。私は先にベンチに座り、コーヒーならではの香りと、苦みのある味わいを堪能する。

「ねえ、楓。おかえりなさいって……それだけ? 抱き締めるとかないの?」

 エイリークは不満そうに、缶を開けずに両手で握っていた。白い息を吐きながら、私と同じベンチへと遠慮がちに腰を降ろす。

「オルハに言われてるのよ。別れたほうがいいって」

「ひどいなあ、あいつ」

 人間を地獄へ連れ込むという大罪を犯したため、エイリークは死神でありながら、地獄の汽車で四十九日の罰を受けた。だけど、それで心の決着がついたわけではないらしく、まだ私に引け目を感じてる。

 だから四十九日を過ぎても、私のもとにすぐには来てくれなかった。聞いてはいけないことかもしれなくて、少し怖い。

「……どうだったの? 罰を受けるのって」

「何も変わらないよ。四十九日が過ぎましたってだけでさ」

 エイリークの告白は淡々としている。

 それでも彼の瞳は、前よりも活力に満ちていた。私を見詰める時の、あの凍りつくような寂しさが、今は温かい優しさに変わっている。そんな気がする。

「これから楓が幸せになれるよう、応援するよ。それがオレにできる、精一杯の償いなんじゃないかって……。これ、間違ってるかな?」

「少し違うわね。応援するんじゃなくて、あなたが私を幸せにするんでしょ」

 まだまだエイリークには教えてあげないといけないことが、たくさんあった。まずは恋人同士のプレゼントからね。

 私は毎日持ち歩く羽目になっていた手袋を、エイリークに手渡す。

「はい。ちゃんと手編みのやつだから」

 エイリークは瞳をきらきらと輝かせて、プレゼントを受け取ってくれた。

「まじで? ありがとう、楓。オレ、すげえ嬉しい!」

 いそいそと手袋を嵌め、編んだ本人である私に見せびらかす。

「ふわふわしてるよ。あったかい」

「気に入ってもらえた?」

 私としても、彼氏に『私の男』である証明を持たせることができて、気分がいい。

 こいつ、顔だけはいいからなあ……顔だけは。

 そんな彼がふと寂しそうに私を見詰めた。手袋のてのひらで、私の顔を挟む。

「ずっと一緒にはいられないんだよね、オレと楓は」

「……そうね」

 私も声のトーンを落とした。

 私には人間の人生があって、これから順調に歳を重ねていく。

 だけどエイリークは私と同じ時の流れにいなかった。彼の寿命は人間よりも長い。一緒にいても、いずれ私だけお婆ちゃんになってしまう。

 私だって、自分が先に死んでしまうことに不安はあった。オルハが反対するのも、人間と死神の恋が難しいと知っているからだわ。

 私たち、どうなるのかしら……?

 もしかしたらエイリークがまた私をさらって、死神にするのかもしれない。

 でも――。

「時々さ、夢を見るんだよ。オレ」

「どんな夢?」

 アイツが嬉しそうに私を抱き締め、囁いた。

 

「オレが人間になって、楓と夫婦になる夢」

 もうちょっとだけ死神と恋を続けるのも、悪くないわね。

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