死が憑キル夜
第四話 マソカガミ~影、後ろの正面は
ハロウィン祭の準備も本格的になり、仕事は早めに切りあげられた。
どのグループも出し物は当日まで秘密にしたい。ハロウィン祭での評価は、死神の成績にも直結するため、立場のある者ほど意欲的な傾向にある。
私たちのグループは毎晩、霧湖町の駅構内でこっそりと練習していた。万魔殿ではほかの死神に情報が漏えいしやすいのと、練習の後は皆で銭湯に寄りたいからね。
蛍光灯を点けては人間に見つかってしまうため、カボチャのランタンを持ち込み、死神にだけ見えるように明るさを調整してある。
劇の台本を握り締めながら、私はジュリエットの台詞をしどろもどろに読みあげた。
「あっ、あぁー、ロミオ。こうして、あなたに会えるなんてえー」
演技の下手さと恥ずかしさの相乗効果で、極端な棒読みになってしまう。せめてほかの役ならもう少し積極的になれたのに、よりによって恋する乙女の真似事はキツい。
しかもお相手のロミオはエイリークで。
「君に会ってしまうと、会わずに焦がれる想いを忘れそうだよ」
などと、歯の浮くような台詞を平然と囁くものだから、やりにくくてしょうがない。
端っこで眠っていられるクラトスが羨ましかった。
ロミオの役になりきっているエイリークが、したり顔で私の背中に腕をまわす。
「君の瞳に吸い込まれてしまえば、永遠に君と一緒にいられるだろうか?」
詩的なだけに難解な言いまわしも、甘い顔立ちと一途なまなざしがあれば、至高の口説き文句に聞こえた。私にそのつもりがなくても、顔は勝手に赤くなる。
「え、ええと……」
「カット! カ~ット!」
オルハが丸めた台本をばんばんと鳴らした。
私は内心、ほっとする。
「楓、また台詞が飛んでる! あと、もっとエイリークに身を寄せなさい。そんなやつ、ジャガイモとでも思えば簡単でしょう?」
「ひどいなあ、オルハは。オレはお芋というより、花でしょ?」
エイリークはしれっと答え、見せつけるように私の肩を抱き寄せた。
苛立つままに私は色男の足を踏む。
「調子に乗らないで」
「それくらいの痛みじゃ、ロミオの愛は冷めたりしないよ」
しかしエイリークは根性なしのくせに痩せ我慢して、離れようとしなかった。私の冷ややかな視線を、引き攣った笑顔でやり過ごす。
「いくらなんでも、くっつきすぎだよ! そこまで!」
見かねたヨシュアが、エイリークを強引に引き剥がしてくれた。温厚な彼にしては珍しく眉を吊りあげ、私たちの間に割り込む。
「過度のタッチは禁物だよ。当日は子どもだって見に来るんだからさ」
「はあ……オレなりにロミオ=モンタギューを演じただけなのに」
こんな変態に演じられては、ロミオの名が泣きそう。
「しょうがないわね。これを被ってなさい」
オルハはカボチャのランタンをひとつ手に取り、そこから鬼火を追い出した。空っぽになったそれを、エイリークに被せる。
「えっ、まじで?」
カボチャのエイリークがわざとらしく気取ったポーズを取る。
それから監督のオルハは、丸めた台本を私に向けた。
「これなら、こいつがどさくさに紛れてキスしてくることもないわ。どう?」
「う~ん……。いっそ、野菜の国のロミオとジュリエットにしない?」
私の消極的な姿勢もあって、練習は進まない。
「なんだったら、僕が練習でロミオに……」
「頑張りなさいよ、楓。可愛いドレス、着たいでしょ?」
ヨシュアの提案はお姉さんにシカトされた。クラトスが頭をもたげ、あくびを噛む。
ゴスロリ趣味のオルハは、劇の完成度にこだわっていた。ジュリエットには衣装を三着も考案しているほどで、台本にはお色直しも入ってる。
ハロウィン祭の劇でジュリエットに選ばれるなんて、とんだ災難だわ……。しかも女子メンバーは、私とエイリークが実は交際中、と勘違いしているらしい。
オルハの指導のもと、練習を再開する。
「月が出ているうちに、顔をもっとよく見せて欲しい。だが涙は見せないでくれ」
「ロミオ、どうして、あな、あなたはロミオなの……うぅ」
カボチャのロミオと何度か囁きあっただけで、私は音を上げた。
「ごめん。ちょっと休憩させて」
無責任な振る舞いに自覚はあったけど、私にだって我慢の限界がある。
だって、どうしても恥ずかしいんだもの!
何しろ皆の『楓とエイリークって付き合ってるよね』という興味本位の視線が居たたまれなかった。それを否定しようものなら『照れ隠し』と解釈されるリスクが高い。
肯定も否定もせずに黙ってやり過ごすしかなく、私にとっては正座や反省文より苛酷な仕置きだったりする。
「外の空気吸ってくるから」
「それじゃあ、ほかのシーンをやりましょ。楓、早く戻ってきなさいよ」
練習場を出るついでに、私はヨシュアの背中を叩いてやった。
「ヨシュアも頑張ってね、パリスの役」
苛立ちっ放しだった彼の顔に、明るい笑みが咲く。
「僕たちのシーンもあるからね、頑張ろう」
ああ、しまった。
私のほうは友達同士にありがちなスキンシップのつもりでも、ヨシュアはそれを過大解釈してしまう傾向にあるわけで。
無意識のうちに彼を味方につけようとしたみたいで、自分が嫌になる。
「……ごめん、ヨシュア」
「いいよ。ゆっくり休んできて。飲み物も持っていきなよ」
「あ、そういうことじゃなくって……じゃあ」
どこまでも好意的な彼を振りきることには、良心の呵責があった。とりわけヨシュアには、ほかの相手のようにおおらかにはできない部分がある。
私なりに彼の気持ちを尊重したいのかもしれない。
気分転換に外へ……と言いつつ、私は地下鉄の乗り場まで降りてきた。
死神の汽車が通りかかったら、ついでに乗せてもらって、一足先に万魔殿に帰ってしまおう。そんな私に皆が呆れ、ジュリエットの配役を替えてくれないものかしら。
などと浅はかなことを考えはしたけど、本当に逃げるつもりはなかった。それでも誰かが連れ出してくれたら、と狡い期待もしている。
とはいえ地下鉄で『その汽車』を見た時、私は練習に戻ることを決めた。
黒光りする車体が、黄金で贅沢に縁取られている。車両の側面には、目隠しされた女性がアメコミ調で描かれ、アウトローな雰囲気を醸し出していた。
デュレン閣下の通称『悪趣味号』だわ。
「よう、楓ェ」
見つからないうちに、と引き返す間もなく、デュレン閣下に見つかってしまう。
そこには飛鳥さんもいて、積み荷の名簿を確認しているようだった。
「こんばんは。飛鳥さん、デュレン閣下」
「楓か? 今日の仕事は終わっていたと思うが……」
デュレン閣下が挑発的な含み笑いを浮かべて。
「ヘヘヘ、殊勝だなァ、お前は」
「その様子だと、お前もハロウィン祭の準備で大変そうだな」
飛鳥さんは年下を見る優しい目ではにかむ。性格も主張も真逆だからこそ、かえって気が合うものなのか、ふたりは一緒にいることが多かった。
私は飛鳥さんの側から名簿を覗き込む。
「カウントダウンが迫ってるんですね、五人も」
「デュレンの持ち分でな。なんとか叩き出してやりたいところだ」
ハロウィン祭を前にして皆が浮かれつつあっても、飛鳥さんは仕事に真摯に取り組んでいた。一方でデュレン閣下は、単に処刑を楽しみにしている。
「楓ェ、お前も一匹殺してみるか? いつもエイリークに任せてんだろォ、どうせ」
「……機会があるなら、やりますよ」
デュレン閣下の狂気には、相槌を打っておいたほうがいい。このタイプは一度でも反感を買ってしまうと、尾を引くのは予想がついた。
「やめないか、デュレン」
飛鳥さんがデュレン閣下をじっと睨む。
「エイリークといえば、あいつも困ったものだ。一応、事件は解決できたが……」
デュレン閣下の享楽じみた殺戮を批難せずに済むよう、飛鳥さんは巧みに話題を逸らしてくれた。さすが、この危険人物と長く付き合っているだけのことはあるわ。
「エイリークが何か?」
「楓が来る以前は、ああでもなかったんだ。おとなしいくらいでな」
私が万魔殿にやってきたのは、三年ほど前。飛鳥さんはその七年前から死神業に従事しており、今年でちょうど十年になる。
「私は関係ないと思いますけど」
私の素っ気ない呟きを、デュレン閣下は鼻で笑った。
「ハッ、そいつはどうかなァ? お前は昔のエイリークのことなんざ知らねえだろ。例えば、あいつが人喰い鬼の末裔ってこととかなァ……ヘッヘッヘ」
初めて聞く事実に、私は内心ぎくりとする。
「人喰い鬼……ですか?」
「やっぱり知らねェんだな。あいつは人間を喰うイカれた一族だったのさ」
地獄には人間を捕食する魔物も存在した。けど、エイリークがそうだったなんて考えたこともない。背中を舐めあげられるような悪寒に襲われる。
別に私が食べられるわけでもないのに。
「やめろと言ってるんだ、デュレン」
飛鳥さんがやんわりとデュレン閣下を窘めた。デュレン閣下に小言を言えるこのひとは、やっぱり万魔殿一の実力者ね。
「楓も気にするな。今のはエイリークの先祖の話であって、エイリークは問題ない。まあそれは別として、確かに以前は、自分からバカ騒ぎを起こすタイプじゃなかったな」
デュレン閣下の意味深な一言が、私の不安げな表情を拾いあげる。
「この女を楽しませたいんだろうよ」
私はかぶりを振って、その疑惑をやり過ごした。
「だとしたら、いい迷惑です」
デュレン閣下の言いまわしに含みがあるのは毎度のことで、いちいち構っていても暖簾に腕押し。魔王の息子の言うことなんて、あてにしてはいけない。
「愛されてんだよォ、楓」
せっかく忘れかけていた疲れが、一気に戻ってきた。
「……エイリークの話はもうやめましょう。飛鳥さんたちは、準備のほうは?」
「いまは女子が張り切って衣装を作ってるところだ。男連中は仕事さ」
飛鳥さんがやれやれと肩を竦める。その顔はありありと疲労を浮かべてた。ハロウィン祭に関しては、どこぞのジュリエットよりも気苦労が多いみたい。
「昼間か夕飯時だったら、三人で蕎麦でも食いに行くんだがな……ふう」
飛鳥さんのボヤきに同調し、私は『ちぇっ』と悪態をつく。
「残念! 今すっごく食べたい気分なのに。ねえ、デュレン閣下?」
「そうだなァ。地球の反対側は、今は昼時なんだぜ。今から汽車を飛ばしても、向こうに着く頃にゃ、陽も暮れちまってるだろうがよォ」
「ここは真夜中なんだ。諦めろ」
飛鳥さんの提案が魅力的だったからこそ、私もデュレン閣下も駄々を捏ねた。料理が趣味というだけあって、こういう時のデュレン閣下は取っつきやすい。
知り合った当初はデュレン閣下に苦手意識もあった。髪を三色に分けている異様なスタイルからして、危ないタイプであることは間違いない。
「あぁ、蕎麦といやァ、面白ェネタがあってなあ。聞きたいか、楓ェ?」
しかし料理の話であれば、いつも面白い話をしてくれた。
家庭でもできるフラガラッハ王国風の味付けとか、西洋であるはずのカレードウルフ共和国で食べた寿司の感想とか。
「カップ焼きそばの美味い食べ方ってのが、あるんだよ」
ところが今回は意外にも身近すぎるネタだった。
飛鳥さんがくくっと笑いを堪える。
「そんなこともあったな」
「てめえの命を救ってくれた、ありがたい一品じゃねえか。ヘヘッ」
飛鳥さんの命を救ったって? カップ焼きそば、が?
きょとんとするしかない私に、デュレン閣下が打ち明ける。
「こいつがまだ人間だった頃の話でなァ。この駅に寄ったら、飛鳥がおれの汽車に乗ってきやがったんだよ。それに気づかずに、おれはいつもの調子で出発しちまってなあ」
「えっ、激ヤバじゃないですか!」
生きた人間を汽車に乗せるのは、タブー中のタブーだった。おそらく魔王アスモデウスの息子だったからこそ、咎められずに済んだんでしょうね。
「で……だ。おれとしちゃあ面倒は御免だったからな、処分するつもりだった。けどよ、こいつが大してビビらねぇんだよ。そんで拍子抜けしちまって……」
「地獄の汽車とやらに興味があって、興奮してたのさ」
デュレン閣下がにんまりと口角を曲げる。
「そこでおれは、条件を出してやった。前々から、カップやきそばの食い方がいまひとつわからなくてな。美味く食えるように調理できたら、地上に返してやるってよォ」
飛鳥さんがてのひらをひっくり返し、先にネタをバラした。
「前に楓と話したことがあっただろう? 人間には常識でも、地獄の住人にとってはそうじゃないのさ。デュレンはカップやきそばの正しい作り方を知らなかった」
「おいおい、言うんじゃねえよォ」
「ん? ネタバラしするタイミングだと思ったんだが」
かつてのデュレン閣下は、カップやきそばを作る時、お湯と一緒にソースも放り込んでしまっていたらしい。それではソースの味が薄くなり、本来の味が出ないわけで。
「殺しちまうのも帰しちまうのも、もったいねえ。だから死神になれっつってなァ。魔力にもたった一週間で順応しちまいやがった」
「その魔力に順応できなかったら、俺は死んでいたんだぞ?」
飛鳥さんとデュレン閣下が出会った経緯に、私はほうと感心する。
実際は『命のやり取り』だったはずなのに、まるで緊張感がなかった。それこそ冗談みたいなノリで、あっけらかんと暴露されてしまう。
でも私は、飛鳥さんの家族のことが気になった。ある日突然息子さんがいなくなって、ご両親はどう思ったのかしら……。
「飛鳥さん、いきなり死神になって大丈夫だったんですか?。ご家族は……」
「以前から自分の霊感には悩まされていてな。家族にも『よろしくやってるから心配しないでくれ』とは伝えてある」
魔力云々よりも、地獄の生活に順応できてしまった飛鳥さんの豪胆さに驚かされる。
「てめえを連れてきたってだけで、万魔殿は大騒ぎだったなァ」
「当然だ。霧湖町のほうも相当緊迫したんだぞ」
秋津飛鳥が忽然と姿を消した事件は、怪談のひとつに数えられているらしい。
「そういやァ同じ頃、ほかにも霧湖町で妙な事件があったっけなァ……」
口を開きつつ、デュレン閣下はやけにもったいぶった。
私たちに気を持たせる言いまわしは、デュレン閣下の場合、かえって警戒させるだけなのに。悪趣味で血生臭いだけの話の気がする。
「そんなに気になる事件だったのか?」
「謎が謎を呼ぶってやつ、あるだろォ? ヘッヘッヘ」
平行線の問答に私や飛鳥さんが飽き始めると、やっとデュレン閣下が口を開いた。
「ある家の娘が行方不明になったんだよ。跡形もなく消えやがった」
私は飛鳥さんと顔を見合わせ、溜息を重ねる。
散々引っ張っておいて、これ?
「なあ、デュレン。こう言っちゃなんだが、その手のネタは霧湖町に限らず、どこにでもあるぞ? お前にしては、当たり障りのない話じゃないか」
ところがデュレン閣下は自信満々にまくしたてる。
「まあ聞けよ。娘が消えたってことを、家族は憶えてねえんだなァ、こいつが。部屋に服やら残ってんのに、親も友人も誰ひとりとして、その娘のことを思い出せねえ」
ありきたりな内容に私も呆れてしまった。怪談としてもつまらない。
「その話、面白いんですか?」
「放っておけ、楓。ひとを茶化すのが上手いデュレンにも、調子の悪い時はあるさ」
飛鳥さんのフォローのほうが面白かった。
「そうかァ? 楓がつまんねえって言うなら、いいけどよォ……」
「ところでデュレン閣下と飛鳥さん、ハロウィン祭は何を?」
話の腰を折ってしまったけど、デュレン閣下はにやにやと含み笑いを噛むだけ。私のさり気ない質問に対して、飛鳥さんの口ぶりは歯切れが悪い。
「それは……その、なんだ。楓、出し物は秘密にしておくのが習わしじゃないか」
「せっかくの祭りなんだぜ? 当日の楽しみは多いほうがいいだろォ」
デュレン閣下が思わせぶりにはぐらかす。
「もとはといえば、デュレン、お前があんな連中を連れてきたせいで……」
「おれのせいか? そいつは悪かったなァ、ケッケッケ」
ハロウィン祭でまわる箇所がひとつ増えちゃったわ。
私は今のうちに白状しておく。
「こっちは劇をするんですよ。何の劇かは秘密……ですけど」
隠していても、どうせハロウィン祭の当日には知られることだし。
「ヒロインはエイリークかァ?」
なぜデュレン閣下のような奇才が私のグループにいなかったんだろう。
「……私です」
うなだれると、飛鳥さんが肩を叩いて元気づけてくれた。
「いい機会じゃないか、女性らしさを学ぶといい。スカートで喧嘩なんて真似、考えたくもなくなるようにな。あれはあれで色っぽかったが」
おかげで乙女の羞恥心が爆発する。
「そろそろ戻りますっ!」
私は恥ずかしさで顔を赤らめつつ、怒りで眉を吊りあげた。
これじゃあ飛鳥さんもエイリークと同類よ。スケベじゃないの!
「なんの話だァ?」
「……なんでもありません」
だけどデュレン閣下に八つ当たりするほど、自分を見失ってはいない。
☆
劇の練習が終わったら、霧湖町の銭湯で一服するのが恒例になりつつあった。
霧湖町にはまれに霊感の強いひとがいて、便宜を図ってくれることもある。公園の傍にあるこの銭湯は、深夜から朝方にかけて、死神にお風呂を開放してくれた。
商売になるのなら、蛇女や骸骨が湯船に浸かってもいいみたい。
私とオルハはお湯に肩まで浸かり、ふうと一息ついた。
「こういうお風呂、寮にも欲しいと思わない? 楓」
「同~感っ。はあ~、生き返るわ」
万魔殿の城下町にも銭湯らしい施設はある。しかし釜茹で同然の熱湯風呂だったり、サウナしかなかったりで、私たち(とりわけ女子)の需要に応えられるものじゃない。
オルハがお湯の水面近くで上腕を押し揉む。
「実家にはこれくらいのお風呂あるんだけど。大体、万魔殿が遠すぎるのよ」
頭の上では狼のお耳が水滴を弾いてた。あぁ……触りたくてたまらない。
「そういえば、楓だったかしら? 家がないのって」
「うん。目覚めたのも、まだほんの三年前よ」
オルハの私に対する関心は、この程度だ。
秋津楓は男女のつがいから生まれたタイプではなく、自然発生的に『生じた』存在であって。秋津という家名は飛鳥さんを真似ただけ、ということまで憶えてるかどうか。
そんなオルハが、私の裸体をまじまじと見詰めた。
「……前から違和感あったのよね、楓って。角もないし、尻尾もないし」
地獄には多種多様な種族がいる。同じ湯船では、肌が青い女性も寛いでいた。
ところが私には、地獄の住人ならではの目立った特徴がない。
「裸だと人間みたいだわ、あなた」
俄かに胸がざわついた。
「何言ってるのよ。そ、そんなわけないじゃない」
簡単に否定できるつもりが、声が不自然につっかえる。薄情な私は、飛鳥さんみたいに人間扱いされたらどうしよう、と無意識に構えてしまったのかもしれない。
オルハは何気なくお湯をかき分けた。
「ちょっと思っただけよ。で、エイリークとは最近、どうなの?」
「どうにもなってないってば。そういう関係じゃないもの」
私は溜息をついて、念入りにかぶりを振っておく。
私とエイリークは腐れ縁であって、それ以上でもそれ以下でもなかった。いずれ恋人同士になるかも、と予想くらいはしてるけど、のろけるには早すぎるでしょ。
「オルハはどうなのよ? 浮いた話のひとつやふたつ、あってもいいと思うけど」
「冗談言わないで。男なんて、どうだっていいの」
ゴスロリに関しては夢見がちにもかかわらず、オルハの恋愛願望はドライだった。むしろ男嫌いの域に達しており、露骨に舌を吐く。
「どうせあいつら、私たちの胸とか脚しか見てないのよ」
「……飛鳥さんもフトモモフェチだったわ」
Aカップのオルハも、限りなくAに近いBカップの私も、男子の性癖に幻滅した。
「あとで髪洗ってあげるわ、楓」
「うん。ありがと」
女同士の友情(と仲間意識)を育みながら、私は天井の湯気を見上げる。
塀の向こうの男子湯が騒がしくなった。
「おーい、クラトス! 洗うから、こっちにおいでー!」
ギャイン!
その塀にもたれてると、声がよく聞こえてくる。オルハに片づけを押しつけられた男子連中も、銭湯に来たみたいね。
「姉さーん、いるんでしょ? 石鹸貸してよー」
ヨシュアが向こうから姉のオルハを呼ぶ。
「あなたも来てたのー?」
「かかかっ、楓も来てたのか?」
代わりに私が大声で返事してやると、向こうで素っ頓狂な声が上がった。オルハが来てるんだから、私も一緒にいるって、予想できそうなものだけど……。
「や、やっぱりいいよ。こっちで借りるから!」
ヨシュアの赤面するさまがありありと目に浮かんだ。お姉さんの使用済みである石鹸を使うことが、恥ずかしくなったのかしら?
私は自分のシャンプーを、塀の向こうに投げ込んだ。
「これ、使っていいわよー」
ギャンッ!
ところが、よりによってクラトスの脳天にヒットしたらしい。さすがに塀を登ってはこないものの、けたたましい怒号が反響した。
ガウッ! ガウガウ!
「お、落ちる位置にいた、あなたの運が悪いんでしょ?」
我ながら、私の言い訳も酷い。
「そういえば……クラトスってメスよね、オルハ」
「は? あの子はオスよ。だからあっちのお風呂にいるんじゃない」
あいつ、紳士のくせに私のスカートを裂いてくれたのね。おかげで私が、どんだけ恥ずかしい思いをしたことか。
私は手当たり次第に洗面器を拾い集め、男湯のほうに投げ込んだ。
「男子の風上にも置けないわ、クラトス!」
「楓! どうせやるなら、こうよ!」
オルハとともに女子一同も参戦し、洗面器がポンポン飛ぶ。
「うわっ、やめろって、姉さん! 楓もストップ!」
ギャイン! ギャイン!
そして薄情な私は、クラトスあたりの魔法が来る前に、自分だけ風呂を出るのだ。
髪は洗い損ねてしまったけど、さっぱりした。風呂は魂の洗濯、なんていう言葉が名言に思えてくるほど、湯上がりの一時は心地よい。
夜の公園では鈴虫が鳴いていた。夜風も寒すぎず、火照った身体に適度に涼しい。
気分がいいうちにジュースのひとつでも、と思って自販機に歩み寄る。
「どれにする?」
後ろから誰かの手が伸びてきて、自販機に小銭を入れた。
振り向くと、そこにはエイリーク。
「驚かさないでよ。今夜はストーカー?」
私より頭ひとつ分も背が高くて、こっちが見上げる角度になるのは、ちょっと悔しい。
「さて、どうかなあ。……寝る前だし、コーヒーはやめたほうがいいよね」
エイリークは私にグレープジュースを、自分には緑茶を買った。
私は缶ジュースを両手で包むように受け取って、微笑む。
「人間みたいなこと言うのね、あなた。夜にコーヒーなんて関係ないでしょ」
地獄では陽が昇ることがないため、昼も夜もなかった。身体に魔力が適度に循環さえしていれば、睡眠も少しで済む。
「昔を思い出しちゃってさ……いや、なんでも」
「ふうん? ほら、座りましょ」
地上で夜中の三時ともなれば、公園に人気はない。私たちはベンチを独占し、月明かりで照らされる噴水を眺めながら、缶を開けた。
エイリークが出そうになっていた手を引っ込める。
「オレが開けてあげようと思ったのに」
「女扱いしないでってば」
残念そうに俯く彼氏を尻目に、私はグレープジュースで一服してやった。乾きつつあった喉に、よく冷えたジュースが流れ込む。
エイリークは緑茶に一口つけて、あとは手慰みに缶を持つだけだった。
「あなた、お茶が嫌いなの?」
「好きとか、そういうのはないよ。ゆっくり飲むって」
淡々とした物言いで、自分のことを他人のことのように話す。
出会った頃から、彼の感情が大きな抑揚を感じさせたことはなかった。快と不快くらいの大別はつくけど、喜怒哀楽は希薄な印象がある。
例えば『ジュースが好き』とか『お茶は嫌い』といった嗜好がない。
「……楓。もっとくっついていい?」
にもかかわらず、この私にはそれなりの執着を見せた。
「いいわよ、別に」
同じベンチでエイリークが詰め、その大きな存在感を私の肩に感じさせる。
近くにいたがるくせに、決して踏み込んではこない、不思議な距離感。
「オレが飛鳥さんに捕まってる間に、みんなでお風呂なんてね」
肩は触れても、私の手を握るところまでいかない。それでも指だけ絡ませて……欲求と遠慮が延々と行ったり来たりを繰り返す。
「前も同じことしてなかった? 反省文はどうしたの」
「楓が出さないんなら、オレだけ出しちゃうよ」
いつもの軽薄な裏切りは、エイリークという色男の本心を掴みにくくした。
とにかく『私に構って欲しい』ことだけはわかる。
「台詞はもう憶えたみたいね。私なんて、まだ半分は残ってるのに……」
「だから、それも反省文と一緒。オレができて楓はできてないと、悔しいでしょ」
優男ばりの微笑みが小憎らしい。
リーン、リーンと鈴虫の鳴き声が夜の静寂に溶け込んだ。それに囲まれた自分たちも、秋の風物詩のひとつになったものと思いあがってしまいそう。
「こう暗いと、わからないわね」
「何が?」
「カエデ。葉っぱのほう」
私の名前でもあるそれは、モミジと明確な区別はないらしい。葉が五つに分かれているのがモミジで、三つのものがカエデなのだと、飛鳥さんが教えてくれた。
葉が生命力とともに色を失ってしまった姿でもある。何とも死神らしい名前だわ。
「この名前をつけてくれたのって、誰だったのかしら」
私には親がいない。三年前に目覚めた時から、今の姿で、楓という名前もエイリークに教えられたに過ぎなかった。
エイリークが足元の落ち葉を踏みしめる。
「……綺麗な花が咲いてたのを、オレが摘んじゃったんだよ」
「何それ? 変なやつね」
噴水のしぶきは昼間ほどの勢いがなく思えた。その水音も鈴虫の鳴き声も、耳に優しく響くことで、かえって公園の静けさを際立たせてくれる。
こうやってエイリークとふたりでいるのは、嫌いじゃなかった。
「ねえ……エイリーク」
私が呼ぶと、それだけで彼が嬉しそうにはにかむ。
「どうしたの? 楓」
名前を呼び合うのが恋人同士みたいで気恥ずかしい。こういうムードを作っておいて、しれっとしていられるエイリークのことが、ますます憎たらしくなってきた。
「好きな色とか、柄とか。教えてくれない?」
「あんまり考えたことないよ。いつも大抵、黒のブレザーだしね」
「私服の時もあるじゃない。別に誤魔化すことでもないでしょ」
話し相手は思案顔で、噴水を見詰めてる。
「ほんとにないんだ、そういうの。自分には関心が持てないっていうやつ?」
「全然カッコよくないわよ、それ。一匹狼気取ってるクラトスのほうが、まだマシだわ」
適当に挙げたオスの名に、エイリークは敏感に反応した。
「……クラトスが好きなの?」
どこからどうして、そんな発想になるのよ?
「そんなわけないでしょ。私とクラトスじゃ、形が違いすぎるじゃないの」
私は顔を背け、あてつけみたいに黙々とジュースを飲む。
狼のクラトスはともかくとして。エイリークの嫉妬にはまるで真剣味がなく、彼の本心がまたわからなくなってしまって、もどかしい。
「いや、オレはいいんだけどね。楓が誰を好きになってもさ」
しかもエイリークは呆気なく言ってのけた。口角を上げ、淡泊な笑みを作る。
その瞳は寂しそうな色をたたえ、私の顔を大きく映しはしなかった。
「飛鳥さんでも、ヨシュアでも。怒ったりはするかもだけど、応援するよ。オレのことは気にしないで、楓のしたいようにして欲しい」
ついには目を逸らし、今夜は雲に隠れがちな月を探す。
常日頃から秋津楓の恋人を気取っているくせに、意気地のない告白だった。
エイリークの普段の言動が私への想いで溢れているのは、朴念仁の私でもわかる。そのはずが、踏み込む寸前で彼は必ず、はぐらかす。
今の関係を維持したいから……?
気持ちを伝えたら破綻するような関係でもないのに。
「じゃあ、あなたも私とは別の女性とくっつく、っていうのね」
「それはないよ。オレはきっと、楓の相手を羨ましいって思いながら、楓を見てる」
「……気持ち悪いんだけど」
私への過剰な執着と、私に対する過度の遠慮。その振れ幅は大きい。
「意味がわからないわ。あなたって」
私はジュースを飲み干し、空き缶をゴミ箱に放り込んだ。
もしエイリークから交際を申し込まれたら、受け入れるかもしれない。『私も好き』というほど情熱的にはなれないけど、『いいかな』くらいの態度ではいられると思う。
でも、決して妥協なんかじゃない。
「待ってあげてるんだから、ね」
エイリークに聞こえないように囁くのが、私なりの精一杯だった。
「なんか言った?」
「なーんにも。そろそろ戻りましょうか」
意気地がないのはどっちかしら。
エイリークも緑茶をぐいっと飲み干して、ゴミ箱を鳴らす。
「……ごめんね。オレはもう楓から奪ったりしないよ」
「あなたこそ、何か言った?」
腕くらい組んでやろうか。ふたりきりの時くらい、恋人のふりをしてあげてもいい。
「……うっ?」
ところが不意に頭に激痛が走った。
身体中が過熱し、ひっきりなしに心臓が暴れる。
「楓? 楓、大丈夫?」
「あ、頭がすごく痛くって……エイリーク、これ、やばいかも……!」
制御できない魔力が氷風を起こし、足元の砂を巻きあげた。よろける私を抱きとめようとしたエイリークの腕が、凍りついてしまう。
氷の魔力が素材の水を求め、噴水を勢いよく噴きあがらせた。
『こいつのせいでしょ! どうして殺さないの!』
耳鳴りがする。私の中で誰かが叫ぶ。
『死神なんかと関わったせいで!』
その声に呼応するかのように、全身がドクンと脈打った。
私の意志とは無関係に、両手がひとりでに動き、エイリークの喉元を捕らえる。その指は一本ごとに恐ろしい力を発揮して、めりめりと彼の首筋に食い込んでいった。
「あぐぅ、楓……!」
エイリークの顔が苦しそうに歪む。
「エイリーク? 逃げて! 早く逃げてったら!」
どうして自分の手がエイリークの首を絞めているのか、わからない。
そんな動揺とは裏腹に、私の両手は獲物をしっかり捕らえて放さなかった。おぞましい呪いの言葉が大挙して、頭の中に押し寄せる。
死ね! 死ね! 死ね! 死ね!
意識が朦朧としたのは、エイリークより私のほうが早かった。
★
ユウガタニナルト、コウエンデアイつとまちあわせ。おたがいやくそくをしたわけじゃないけど、いつからか、噴水の前で合流するのが恒例になっている。
公園は噴水のしぶきまで、鮮やかなオレンジ色に染まっていた。空でカラスの鳴き声が遠のいていく。
先に着いた私は、水飲み場の水で腕の傷を洗っていた。噛まれた痕が残ってる。
「これを使いなよ。咲耶」
やってきたそいつは、塗り薬を投げてよこした。
「人間に効くかは知らないけど」
こんな怪しい薬、とてもじゃないけど使う気になれない。まだワサビでも塗ってるほうが殺菌効果も高そう。
茜色の夕焼けから身を隠すように、彼は樹にもたれた。
「今日も絡まれたの? 不用意に出歩きすぎなんじゃない?」
免疫のない女子なら簡単に騙されそうな甘いフェイスが、小憎らしい笑みを浮かべる。その背丈は私より頭ひとつ分くらい高い。
「おかげさまで、ね。モテてしょうがないの」
このあたりは夕暮れから禍々しい気配が濃厚になった。それが地獄の住人のものだと知ったのは子どもの頃で、当時は恐怖のあまり、塞ぎ込んだのを憶えている。
こっちが見えるものだから、向こうも私に関心を持ち、時には敵意を向けられた。なまじ霊感が強いせいで、危険のほうから寄ってくる。
しかし魔物の一匹や二匹、どうとでもなった。家に結界を張ってからは、逃げるだけでよくなったので助かってる。
「あなたにもらったお守り、全部使っちゃったわ。またもらえない?」
「それじゃ、これ使って。ばっちり魔力込めといたから」
彼がカエデの束を、ババ抜きでもするみたいに広げた。これを窓に貼っておけば、並の魔物は私の部屋に入るどころか、家に近づくことさえできなくなる。
「連中から君を見えなくするだけの護符だからね。威力が高いわけじゃないよ」
「ばっちり魔力を込めて、それ?」
半年ほど前に知りあった彼は、死神のくせに、奇妙なほど私に友好的だった。当初は油断したところを襲われでもするのかと身構えていたが、まるで敵意がない。
ただし友好的すぎて、遠慮なしに私の肩を抱き寄せたがるほど。
「お礼にデートしてよ、咲耶。また人間の街で遊ぼう」
「お断りよ。こないだだって映画に連れてってあげたのに、横で寝ちゃうし」
「ごめん、ごめん。あれが『映画』だってのがわからなかったんだ」
外見は十代後半から二十歳近い男性だけど、中身は人間の常識から相当ずれていた。筆記用具を求めてラーメン屋に入ったり、本屋で靴を脱いだり。
「今日はいつもより元気がないね」
「そう? 昨日と同じよ」
彼は私の横顔をまじまじと見詰め、そっと腕の傷に触れてきた。小さな痛みに私が眉を顰めようと、放さない。薬を塗ってくれるわけでもないのに、もどかしそうに掴む。
「原因はこの傷じゃないね。もしかして、また?」
私は何も答えず、顔を背けた。
弱い自分を他人に見られるのは、嫌だもの。彼に泣きつくほど弱くもなく、いつだって中途半端な強さが、私を意固地にさせる。
私の周囲には馬鹿な魔物が集まってきて、悪さをしてくれた。
友人が巻き込まれたのは一度や二度じゃない。でも、普通の人間には化け物なんて影も形も見えないから。次第に私は孤立し、今では危険な人間扱いされてる。
虚言癖を持つ自称・霊感少女といったふうに。
でも私は、やられた分は必ずやり返す。今日も学校で陰険な女子のグループを追い詰めて、ひとりずつ締めあげてやったわ。
あぁ、清々した!
そう思っているつもりでも、胸の中は空っぽで虚しい。
「景気づけにジュース奢ってあげるよ」
彼は自販機にコインを入れ、私にグレープジュースを投げてよこした。以前は自販機に蹴りを入れていたのが、普通に小銭を使えるようになったことに驚く。
私が教えてあげたものね。
「女の子だったら、誰にだって優しいんでしょ、あなた」
「そんなに女の子に慣れてるふうに見える? 咲耶だけだよ」
私は彼と一緒にベンチに座り、夕暮れの空を眺めた。
彼の横顔が傍にあることに、ちょっぴり安心する。それが彼の気まぐれであっても、傷だらけの私は救われた。
「……ねえ。やっぱりまた一緒に映がにいかない? みたいしんさくがあるの」
おもいきってさそうと、あイツガウレシソウニホホエム。
★
公園にあった私の意識は、万魔殿の一室で目覚めた。枕元ではカボチャのランタンが、夕焼けに似た暖かい橙色を灯している。
「大丈夫かい、楓!」
私の顔を覗き込んだのはヨシュアとオルハだった。
いつの間にか私は医務室のベッドで、仰向けになっている。
「楓! わたしのこと、わかる? あなたのルームメイト、オルハよ」
「……何言ってるの、オルハ?」
彼女の名を呼ぶと、ふたりとも一様に安堵した。
私のベッドを囲むように、オルハとヨシュアの姉弟がいて、窓際にはクラトスも。
ところがクラトスは身体に包帯を巻いていた。見るからに、洗面器をぶつけられた程度の軽い怪我じゃない。
「どうしたの、クラトス? その怪我」
クゥーン……。
鳴き声は小さく、魔力も弱っているように感じる。
「恐竜とでも戦ったの?」
「そ、そんなところだよ。クラトスはしょっちゅう喧嘩するからね」
飼い主のヨシュアがあからさまに誤魔化した。
クラトスが喧嘩っ早いのは私も知ってる。だけど喧嘩で負傷したにしても、私の見舞いに来ている理由にはならないもの。
「身体がだるいとか、ない? まだ熱も引いてないみたいだし」
上半身を起こすと、くらっと眩暈がした。それをオルハが支えてくれる。
「楓。ゆっくりでいいわ」
「ごめん。ありがと」
どうやら魔力を制御できなくなって倒れたらしい。
さっきも、エイリークと一緒にいて……?
私は額を押さえ、記憶の末尾を探した。
公園のベンチでエイリークとひと休みしていたのは憶えてる。でも、その後が思い出せなかった。彼氏気取りのあいつなら、倒れた私を抱っこで運びそうなものなのに。
「ねえ、エイリークは私と一緒じゃなかった?」
「それは……」
オルハが口を噤んだ。あけすけに何でも言える彼女にしては、奥歯に物が挟まっているような調子で、妙に遠慮してる。
「しばらく故郷に戻るって言ってたわ。家族の結婚式ですって」
「そ、そうそう! 帰りはちょっと、いつになるかわからないってさ」
ヨシュアも不自然に視線を泳がせていた。
エイリークがいないことに、私は肩透かしを食ってしまう。
「初めて聞いたわ、そんな話」
我ながら彼のことをまるで知らなかった。人喰い鬼の末裔であることも、先日デュレン閣下に聞いただけ。それこそ結婚を祝うような家族がいるなんて、聞いたことがない。
なんだかエイリークと距離を感じてしまった。
「ハロウィン祭には戻ってくるのかしら。劇の練習だってあるのに」
「それより今は休みなさいってば」
さっきからベッドを降りようとしてるのに、まだ私はオルハに支えられてる。
頭がいやに熱っぽくて、上半身を起こしているだけで息が乱れた。風邪をひいたのと同じ倦怠感が四肢を重たくする。
「ちょっと楓、顔色が悪いわよ。大丈夫?」
「ご、ごめん……さすがにやばいかも」
「ほら、これでも飲んで。無理に起きあがらなくていいからさ」
疲労困憊の私に、ヨシュアが水を持ってきてくれた。ところがグラスに指が触れただけで、その水が一瞬にして凍ってしまう。
「……あれ?」
氷の魔力を制御できなかった。凍ったそれを、ヨシュアがじっと覗き込む。
「前から思ってたんだけどさ、やっぱり楓の魔力って、おかしいよ」
私の力は異常だった。まともな死神は、炎の術式を用いれば炎を、風の術式を用いれば風を操ることができる。でも私の場合は術式にかかわらず、必ず氷になってしまう。
これでは魔力を『制御できていない』のと変わらなかった。
オルハが不可解そうに眉根を寄せる。
「地獄は深いところほど、冷気の力が強くなるわね。氷結地獄っていうくらいだし……」
「下のほうはそうなんだっけ。第二地獄アンティノラとか、第三地獄トロメアとか」
下と言いつつ、ヨシュアは医務室の天井を見上げた。
万魔殿を含む死神の城下町は、逆さまになって、地表の裏側に張りついている。つまりこの第一地獄カイーナよりも深い第二地獄や第三地獄は、空の彼方にあった。
生身の人間が汽車に乗らずに地獄にやってくると、上下が反転せず、空へと『落ちて』しまうらしい。それは『地獄に堕ちる』という言葉の由来でもあった。
氷の魔力を警戒しつつ、オルハが私の汗ばんだ額を撫でる。
「あなたの力って、危ないのかもしれないわね」
ヨシュアは悔しさを滲ませた。
「そんな簡単なことに気付かなかったなんて……。僕は今まで、君の何を見てたんだ」
「わ、私だって自覚してなかったのよ。おかしいってこと」
心配されるだけでなく、異性として好かれている立場ではフォローが苦しい。
ヨシュアは好きな女性の深刻な問題を、ずっと知らずにいた。解釈によっては、私の好きな部分だけを見ていたことになる。それは決して彼のせいじゃないのに。
私はやっと自力で身体を起こし、オルハとヨシュアに笑いかけた。
「少し休めば平気よ。ごめんね、今夜は迷惑かけちゃって……」
嘘は苦手だから、見え見えの愛想になってしまう。ただ、私の魔力のことくらいで、皆まで深刻にならないで欲しかった。
そんな空気を替えるようにオルハが微笑む。
「様子を見ましょ。案外、大したことじゃないわよ」
「ありがと、オルハ」
クラトスはベッドの傍までやってきて、珍しく朗らかに吠えた。
ガウッ!
「ありがとう。心配してくれたんでしょ」
「それじゃあ、僕たちはこれで」
ヨシュアがクラトスを連れ、医務室を出ていく。
最後のオルハがカボチャのランタンを振り、鬼火を追い出した。
「今夜はここで寝ちゃったら? 今から寮まで行くのも、億劫でしょ」
「うん、そうする。今日はほんとにごめん。ちゃんと埋め合わせはするから」
「はいはい。期待してるわ」
ランタンの灯が消え、医務室は安らかな闇で満たされた。カーテン越しに、万魔殿の外で鬼火が漂っているのが、おぼろげに見える。
様子がおかしかったわね、ふたりとも。エイリークに何かあったのかしら……?
胸騒ぎを感じつつ、私は深刻に考えるのをやめ、おもむろに目を閉じた。
☆
医務室で楓を寝かせてから、オルハはプラットホームでヨシュアと合流した。
ヨシュアはまだ落ち込んでおり、その傍らでクラトスは汽車の蒸気を見上げている。
「姉さん、楓は?」
「ちゃんと寝てるはずよ」
ヨシュアの汽車は水浸しになっていた。氷漬けになっていたのを、蒸気の熱でようやく溶かし終わったところである。
冷徹なオルハでも、ルームメイトの楓に内緒で動くことに抵抗はあった。こうまでして誰かのために気をまわすなど、自分でも信じられない。
オルハたち姉弟は、楓本人よりも事態を深刻に受け止めていた。
「秋津飛鳥がいなくてよかったわ。現場に居合わせてたら、それこそ大騒ぎよ」
「あのひとも何かと、ハロウィン祭の準備があるんだろうね」
クラトスが前足の絆創膏をひと舐めする。
お風呂で一服している時は、まさか、このような事態になるとは想像もしなかった。
先にあがったらしい楓を捜し、オルハも銭湯をあとにして。その時だった。公園のほうで大きな水柱が噴きあがり、一帯に季節外れの白い雹を降らせたのである。
弟と合流し、急いで現場に駆けつけると、そこではエイリークが楓に首を絞められていた。楓の瞳が赤々と光っていたのを、オルハは寒気とともに思い出す。
あの時、楓は言った。
『死神なんて、ひとり残らず殺してやるわ!』
仲間内で鬼の死神を『鬼畜生』と侮辱したり、犬の死神を『野良犬』と罵倒することはある。しかし死神が、自分と同じ死神を『死神』呼ばわりすることはありえない。
余所から来た魔物か、もしくは、まったく別の可能性でもない限り。
「楓って……人間だったのかしら?」
オルハの推測を、ヨシュアも否定しなかった。現に秋津飛鳥という身近な例もある。
それにオルハ自身、思い当たる節があった。楓の容姿は人間の女そのものであり、どことなく地獄の住人とは異なる、違和感めいた雰囲気を有している。
人間のにおいがする、と言ってもいいかもしれない。
暴走状態の楓を抑えるため、身体を張ったのはクラトスだった。この忠義深い狼が、楓の妖刀・焔で業火を呼び出さなかったら、全員が氷漬けにされていただろう。
そして、その混乱に乗じてエイリークは姿を消してしまった。
ヨシュアが視線を落とす。
「エイリークは知ってたんじゃないかな、姉さん」
「……でしょうね」
逃亡したうえ、彼の飄々とした性格からしても、何かを隠している可能性が高い。
エイリークの暗躍を楓に気付かれるのも、もはや時間の問題だった。
「エイリークを捜せるかい? クラトス」
グルル……。
クラトスが申し訳なさそうに首を横に振る。
「姉さん、いっそ秋津さんに相談してみるのはどう? 秋津さんが楓に焔を持たせたのも、こういう事態を見越してのことだったんじゃないかって思うんだ」
「あのひとはともかくとして、デュレン=アスモデウス=カイーナに知られたら厄介だわ。最悪、楓の身に危険が及ぶかもしれないし……」
オルハは声を潜め、ヨシュアとクラトスに釘を刺した。
「とにかく、楓に気取られないようにしなさい。あの子には自覚がないもの」
楓は自分がもともと人間かもしれないこと、公園で暴走したことを憶えていない。下手に刺激しないように、表向きは周囲の面子で平楓を装うべきだった。
「問題はエイリークだね」
「見つからないなら、待てばいいのよ」
オルハが拳銃を取り出し、弾倉の薬莢を散らかす。
「このアーロンダイトの名に懸けて。お礼はさせてもらうわ」
かくして新たな弾丸が込められた。
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