蒼き海のストラトス
第5話
青暦2024年。
巨大隕石の墜落は免れたものの、盾となった月は甚大なダメージを負った。公転の軌道が大幅にずれたことで、引力も狂い、重力のバランスは崩壊する。
重力異常という、かつてない天変地異だった。
荒れる海によって削られた大陸が、宙に浮かび、太陽の恵みを独占する。空の民は空気の薄さにも容易く順応し、数々の空中都市を築きあげた。
一方、海は大いに荒れた。月の滅茶苦茶な引力が海を攪拌し続けていたのだ。陸地も少なくなったうえ、肥大化する空中都市に太陽の光さえ奪われた。
かくして海の民は決起する、空の民との戦いを。
海の騎士アスガルは、シグナートで空の大地まで昇り詰め、奮闘を繰り広げた。とはいえ海の民は、大半が空に届くことなく敗退。戦局は空の民の優勢となっていく。
空からの一方的な空襲に対抗するため、海の民は一定の高度に白雲を充満させるほかなかった。その結果、太陽は海からますます遠ざかってしまう。
だが、海の民には切り札があった。潮を撃ち放つ巨大な砲台『ノア』を建造したのである。ノアは主砲タイダリアで空の大陸に狙いを定め、荒れ狂う大海の力を解き放った。
その力が、わずかに残された海上の島も飲み込むことを、覚悟のうえで。
空の大陸は粉々になり、数百年の時を経て、現在の群島の形に安定する。空の民の子孫らは、やがて大戦を忘れ、新しい文明を謳歌し始めた。
しかし海にはもう誰もいない。
ノアで眠る、御船千歳という少女を除いて――。
「自分の娘を生体コアに? 本気かね、御船くん!」
「タイダリアを使えば、私たちもおしまいです。けれど……ノアの生体コアになれば、生き延びることができるでしょう」
「考えなおしたまえ! 十三歳の女の子がひとり生き残ったところで、どうなる?」
「考え抜いたうえでの結論です。千歳なら適性も問題ありませんから」
★
「マ、マ……?」
混濁する記憶の中を彷徨いつつ、チトセは目覚めた。目の前で白い髪が漂う。
チトセの入った水槽は、透き通るような海水で満たされていた。驚いた拍子に口を開けてしまったが、呼吸には何の支障もない。
……どうなったの、あたし?
普段着にしては豪奢なドレスも、チトセとともに水没している。
チトセの水槽を中心に、ノアのコントロールルームは窓を全開にしていた。うろたえるチトセの様子を、ひとりの老人が心配そうに見上げる。
「意識はあるようじゃの、チトセ」
「シモン先生……?」
コントロールルームにはシグナートの乗組員も数名、集まっていた。ジュリオとレオナルド、ロッティの姿は見当たらない。
「どうして先生がここに? レオナルド様……ジュリオ! ジュリオは?」
「まずは落ち着いとくれ。といっても、無理とは思うが……」
シモンが頭を垂れるように俯く。
「……すまぬ」
唐突な謝罪の一言に、チトセは動揺をぐっと堪えた。シモンの口振りに誠意と真実味を感じ、ひとまず耳を傾けようという気になる。
「先生、なにがあったんですか?」
「原因はわしにもあるんじゃ。わしが喜々として殿下にあのようなことを教え……いや、吹き込まねば、こんなことにはならんかった」
発端を知るシモンの口から語られたのは、懺悔だった。
「殿下の家庭教師を務めておった頃、わしは殿下に考古学に興味を持っていただけたのが嬉しくて、あれもこれもと教えてしまったんじゃよ。古の大戦とやらについても」
「ご存知だったんですね、空と海の戦いを」
「あくまで推測程度にな。殿下も最初は、純粋に探求心を膨らませておいでじゃった」
その言葉は重く、後悔に満ちている。
「じゃが……その探求心が、いつからか野望になっておった」
これはレオナルド王子の暴走だった。空の大陸に攻めあがったという勇猛な海の民の末裔が、アスガル王家らしい。王子の金色の瞳も、海の民のもの。
「ひょっとするとシグナートって……」
「うむ。かつて海の民が空を攻めるために使った、強襲艦だったようじゃ」
コントロールルームにいるほかのクルーにも、話は聞こえているはず。しかし誰ひとりとして、シモンの発言を制する者はいなかった。
ひとつの背徳にシモンが口ごもる。
「アスガル王家には……海の民の血統を維持するため、兄妹婚の慣例があっての。レオナルド殿下は姉のクローディア姫と結ばれることが決まっておった」
「そんなことが……」
急な縁談によってクローディア姫が隣国へと嫁いだことは、チトセも知っていた。その結果にレオナルドは納得していないのかもしれない。
あたしはクローディア様の代わりなの?
レオナルドを信用できなくなったせいか、彼の気持ちまで疑わしく思えた。
シモンが水槽に手をつき、チトセを見詰める。
「ナナリーに処方した薬があったじゃろう? 実はあれも、わしが調合を指示しとった。殿下がおぬしに恩を売るために……薬も、なかったわけではない」
「……そうだったんですか」
彼の告白に驚きこそすれ、怒りは沸いてこなかった。
すべてはノアのキーパーソンであるチトセを篭絡するための芝居。片棒を担がされたシモンの苦悩が、ひしひしと伝わってくる。
「殿下とて、おぬしに無茶はさせまい。少し我慢しておれば、解放してもらえるじゃろうて。わしからも働きかけてみるでな。だから……おとなしゅうしてくれ」
レオナルド王子にしても、根っからの悪人ではないのだろう。けれどもチトセの網膜には、身動きできないジュリオを蹴りあげる、凶暴な王子の姿が焼きついていた。
レオナルド様に逆らえば、あたしも……?
背筋にぞくっと悪寒が走る。
水槽の海水は人肌くらいの温度のようで、呼吸に違和感はあるものの、浮力は心地よいくらいだった。口を開けても、海水ならではの塩辛さは感じられない。
天井の四方へと伸びているチューブが、脈でも打つかのように鈍く光った。
「先生、あたしの身体、どうなってるんでしょうか」
「生体コアとやらになって、体組織が変化しておるのかもしれん。調子が悪くなったら、すぐわしに言うんじゃぞ」
生体コアのコンディションを管理するのが、シモンの役目らしい。
レオナルド側の人間とはいえ、彼に迷惑を掛けるわけにはいかなかった。チトセは無理な抵抗をやめ、しばらく様子を窺うことにする。
「上は今、どうなってるんですか?」
「そうじゃのぉ……」
ロッティはイーグル号で逃げたらしいが、薄情とは思わなかった。むしろ無事に逃げきってくれたことに安心する。
シグナートの格納庫にはジュリオのウインド号が残っているものの、当のジュリオは行方を眩ませていた。ハクカ熱の特効薬も所持しているはず。
ジュリオ、お願い……無事でいて。
自分に構わず逃げて欲しい。間違っても、助けには来ないで欲しかった。
チトセがレオナルドに従いさえすれば、最悪の事態は免れる。たとえ彼と結婚することになったとしても、ナナリーとジュリオを守るほうが大事だった。
ノアは現在、外装を捨て、主砲『タイダリア』を剥き出しにしている。
レオナルド様に使わせちゃだめだわ、絶対に。
かつて空の大陸を砕いたという悪夢の兵器は、レオナルドの制御下にあった。今一度これが放たれようものなら、空の世界はただでは済まない。
そのことを理解していない、浅はかな王子であるはずもなかった。
「……目が覚めたかい?」
しばらくして、レオナルドがコントロールルームに戻ってくる。シモンは恐れるように距離を取り、チトセとレオナルドの間は海水だけとなった。
「怖い思いをさせたね、レディー。すまなかった」
チトセは唇を噛んで、水槽越しに彼を睨む。
「あたしはなんでも言うこと聞きます。だから、ジュリオを許してください」
「もちろん。僕だってこれ以上、彼を追い詰めるつもりはない」
レオナルドは懐からハーモニカを取り出し、我が物のように眺めた。
「か……返してくださいっ!」
「あとで返すよ。まさか、こんなものがノアの起動キーだったなんてね。レディー、これはなんという名前の楽器なんだい?」
肌身離さず持っていたものを取りあげられ、不安でならない。しかしシモンの『おとなしゅうしてくれ』という忠告も思い出し、今は観念した。
「……ハーモニカです」
「うん、いい子だ。僕には正直でいるんだよ」
あくまでレオナルドの口振りは紳士的で、チトセを宥めるように囁く。同時にそれは、チトセを無理やりにでも従わせようとする、強引さを含んでいた。
ノアの制御には御船千歳とハーモニカの両方が必要らしい。
「僕では使えないようだね」
レオナルドが唇を添えても、ハーモニカはまともな音を鳴らさなかった。その吹奏楽器が『吹く』だけでなく『吸う』ものでもあることに、気づいていないのだろう。
「レオナルド様、あなたは一体……」
「ん? なんてことはない、ただの好奇心旺盛な男さ」
彼は興奮気味に両手を広げ、大海原を一望した。
「見たまえ、世界の本当の姿を! 空の下にこんなものがあったなんて、誰が想像した? 僕は今、歴史的瞬間に立ち会っているんだよ。……ハハハッ、ハハハハ!」
その傍らにアニエルのビジョンが浮かぶ。
『アウト=オ=エスティ、解除の準備が完了しました。マスター』
「アートオ……あぁ、白雲層のことか。いいぞ、やれ」
上空にある白雲が、俄かに強風で荒れ始めた。あちこちで穴が空き、薄暗い海原へと、太陽の光が差し込んでくる。
「皮肉なものだね。僕らのご先祖様は、あの輝きを求めながらも、白雲層を広げて守りに入るしかなかったんだ。だが……彼らの悲願は今、成就した」
やがて雲は晴れ、澄んだ青空が広がった。初夏の太陽が眩い輝きを放つ。
地平線では空と海が接していた。瑠璃色の海原が緩やかに波を打ち、黄金色の陽光をきらきらと揺らめかせる。
「海、が……」
チトセの双眸にも広大な海が映っていた。
アニエルがターンし、レオナルドにぺこりとお辞儀する。
『アウト=オ=エスティの解除を確認。ですがマスター、重力異常が解消されたわけではありませんので、くれぐれもご注意ください』
「これで、飛行艇で行き来できるようになったんじゃないのか?」
『重力異常を防衛に用いたものがアウト=オ=エスティです。……しかしシグナートであれば、通過は可能でしょう』
地平線の彼方では入道雲が流れていた。
青い空と、青い海。ありのままの世界が目の前に広がっている。
「海の民……そうか、この巨大な湖を『海』というんだな」
空にはまばらに島が浮かんでいた。近くにあるうちのひとつがフラン島に違いない。
ノアは海底から海面を突き抜け、その空へと主砲『タイダリア』を向けていた。
「タイダリアは使えるんだろう? アニエル」
『あと三十分の充填が必要です』
レオナルドとアニエルの平然としたやり取りに、チトセは真っ青になる。
「だ、だめよ! アニエル、今すぐタイダリアをさげて!」
あれが再び放たれれば、空の陸地はひとつと残らず、消滅してしまうだろう。フラン島もナナリーもろとも消える。
「レオナルド様っ! タイダリアだけはやめてください、お願いです!」
「さっきから、なにをそんなに怖がってるんだい? レディー」
だがレオナルドは、タイダリアが破滅をもたらすことを、理解していない様子だった。大きな水鉄砲、くらいにしか思っていないのかもしれない。
「この海はアスガル王国のものであると、証明しないといけないんだ。僕に力を貸してくれないか、レディー? 一緒に海を手に入れよう」
ノアの生体コアとして、チトセはレオナルドに破格の待遇を約束された。
彼の言葉に嘘はない。王子と結婚し、ゆくゆくは王妃になれる。
どうしよう……このままじゃ、空が……!
けれどもチトセにとって、レオナルドの誘いは無知ゆえに、愚かでしかなかった。海の力は大地を削り、容易に砕く。そうして多くの陸地が沈んだことを、彼は知らない。
「僕も君も同じ、海の民の血統だ。僕たちの子どもは選ばれし者となる」
自分の子どもさえ道具にしかねない発言に、ぞっとした。
このひとはきっと『親』にはなれない。ナナリーやアヴィン、チトセの実母にあって、彼にはないものを、チトセは知っている。
「……レオナルド様。あたし、プロポーズはお断りします」
「本気で言ってるのかい? 君にはこの世界を統べる権利がある、というのに?」
血統だの権利だの、ジュリオに言わせれば『くそくらえ』だった。チトセはらしくもなく憤慨し、水槽越しに怒号を張りあげる。
「ふざけないでっ!」
同時にノアが大きく揺れた。上空から獰猛な咆哮が聞こえてくる。
「で、殿下! シグナートです!」
「なんだと? バカな、制御キーは僕が持ってるんだぞ!」
コントロールルームの真正面に巨竜が降りてきた。胴を垂直に起こしながら、二枚の翼で嵐のような突風を巻き起こす。
窓を開いているせいで、強風はコントロールルームの中でも吹き荒れた。
乗組員やシモンはその場で蹲り、頭を低くする。
「殿下! 危険です、おさがりください!」
「ふん、僕を誰だと思ってる? この程度のことで……」
チトセの水槽の前でレオナルドは仁王立ちとなり、荒々しい突風に耐えた。実体のないアニエルは平然として、状況を分析する。
『シグナートからの信号を確認。映像を出します』
窓のあったところに、シグナートのメインブリッジの様子が映し出された。そこに正規の乗組員の姿はなく、操縦桿はロッティが握っている。
向こうにもこちらが見えているらしい。
『なんか映ってるわよ、ジュリオ!』
『こいつはノアの中か? ……見つけたぜ、チトセ! 無事か?』
指揮官の椅子はジュリオが踏み台にしていた。
ふたりに乗っ取られたシグナートが、ノアを睨んで、いななく。
レオナルドは忌々しそうに舌打ちした。
「ちっ! たったふたりで、僕のシグナートを奪っただと?」
王子然としたスタイルを保ってはいられないようで、綻びが生じ始める。
『わたしのお父さんが誰か、お忘れかしらぁ? 殿下』
ロッティの手には制御キーがあった。
『んふふっ、一応、持ってきといて正解だったわ。いざって時の保険としてね』
「なるほど……トッド=イクサーめ、予備を作っていたか」
彼女の父親はシグナートの開発に深く関わっている。おかげで、娘たちはシグナートを奪うという大それた作戦にも成功したのだろう。
ジュリオは声高らかに啖呵を切った。
『こいつがなけりゃ、あんたたちは空に帰れない。そうだろ? レオナルド! 返して欲しけりゃ、今すぐチトセをこっちに渡せ!』
『三分だけ待ってあげるわ!』
ロッティもジュリオと一緒になって、勝気にやにさがる。
ふたりとも……あたしのために!
嬉しかった。これほどの事態に巻き込んで、危険な目に遭わせているにもかかわらず、ジュリオやロッティの応援が頼もしくて、涙が滲む。
三分だけ待つと言いながら、シグナートはノアに怒涛の体当たりを食らわせた。
「ぐっ? あいつら、なんて無茶を……ここにはチトセがいるんだぞ!」
剥き出しのコントロールルームに亀裂が入る。
『おい、ロッティ! なにやってんだ?』
『揺さぶりってやつよ! あーもう、一気にやっちゃいましょ!』
一拍の間を置いて、同じところに突撃を重ねられた。コントロールルームの亀裂がさらに大きくなり、チトセの入った水槽まで、バキンと割れる。
「な、なんちゅうやつらじゃ……!」
シモンやレオナルドの部下たちは狼狽し、腰を抜かしてしまっていた。
『今のうちよ、ジュリオ!』
『無茶しやがって!』
チトセは水槽を脱し、びしょ濡れのドレスを引きずる。
「――けほっ、けほ! はあ、あたし……?」
咳き込んだ拍子に、体内の海水が出ていった。海のしょっぱさを強烈に感じる。
レオナルドは歯軋りするほど憤慨していた。普段の優しい王子様とはまるで別人のように、攻撃的な感情を荒らす。
「……こうなったら、タイダリアで落としてやる。おいで、レディー!」
その手がチトセの腕を強引に引っ張った。
「ま、待ってください! シグナートにはジュリオたちが……」
「帰る手段なら、ほかにもあるさ。迎えだって来る」
ジュリオに腕を引かれた時とは違う。チトセ自身が望んでいないからこそ、拒否反応じみた抵抗になってしまった。
「い、いやです! ジュリオ……助けて、ジュリオっ!」
レオナルドの手を振り払えないまま、チトセは必死にジュリオの名を叫ぶ。
そんなジュリオへの一途さが、誉れ高い王子の嫉妬心を逆撫でしたらしい。レオナルドはアニエルを呼びつけ、声を荒らげた。
「アニエル! シグナートを落とすぞ、今すぐタイダリアを使え!」
『……? ご命令の意味がわかりません。マ・グ・ツァートで応戦しますか?』
「なんでもいい、あいつらを止めろ!」
主砲タイダリアとは別の、小型の砲台が一斉に動き出した。シグナートに狙いを定め、次々と弾丸のような潮を放つ。
シグナートは全身に水弾を浴びせられ、のけぞった。
「ジュリ――」
「こっちに来るんだ、レディー!」
コントロールルームを出た先ではリフトが整列し、道を作っている。その終点には新たなエレベーターがあり、おそらくノアの炉心へと続いていた。
「あの制御室はもう使えそうにないか。まあいいさ、僕には君がいる」
レオナルドの身勝手さにぞっとする。このひとにとって、自分は道具でしかない。チトセは踏ん張ることでブレーキを掛け、彼の手を今度こそ振り解いた。
「もうやめてください、レオナルド様! 海は誰のものにもなりません!」
「な……なぜだ、レディー? どうして僕と来てくれない?」
聡明なはずのレオナルドの相貌に、戸惑いが浮かぶ。
「君がノアの生体コアだから、僕が選んだ、とでも思ってるのか? そうじゃない。ただ傍にいて欲しいんだ、君に!」
本当のこと、かもしれなかった。チトセと同じ金色の瞳を信じたくなる。
けれどもチトセの瞳は青い空を欲していた。ジュリオと一緒に大空を飛びたい。
「ごめんなさい……」
ジュリオを選ぶことは、レオナルドを拒絶することでもあった。チトセの気持ちがジュリオに向かっていることには、彼も勘づいている。
「わ、わからない……姉さんも、君も、僕ではだめだっていうのか……?」
同じくチトセも直感した。レオナルドの瞳はチトセを映しておきながら、本当はほかの女性を求めていることに。
「……あたしをお姉さんの代わりにしないで」
彼の表情が一瞬、驚愕の色に染まった。自覚もなかったらしい図星を突かれたのか、みるみる血相を変え、怒号を張りあげる。
「……アニエルッ! タイダリアはまだか? さっさとしろ!」
『充填率84パーセント。発動まであと9分32秒です』
ノアの全体で水車の回転がさらに速くなった。海水が主砲へと汲みあげられていく。
「待って、アニエ……きゃあっ?」
またノアが揺れた。とうとうシグナートが頭を突っ込んだらしい。
塔の内部を赤い飛行艇が猛然と降りてくる。
まさか……ジュリオなの?
滝のような海水を浴びながら、ウインド号はチトセに目掛け、急降下してきた。
「チトセーっ!」
操縦席のジュリオがゴーグルをあげ、チトセを呼ぶ。
「ジュ、ジュリオ……?」
愛しの彼を見つけ、無意識のうちにチトセは手を伸ばしていた。
あの舟から大空へと導いてくれた時のように、連れていって欲しい。二千年ぶりに目覚めてからは、いつだって目の前にジュリオの背中があった。
「あたしはここよ、ジュリオ!」
「待ってろ、今行く!」
ジュリオもこちらに手を伸ばすが、届かない。
そのせいで操縦が疎かになり、ウインド号の羽根が水車にぶつかった。根元から折れ、途端にバランスが狂ってしまう。
機首のプロペラも回転が途切れ、外れた。ウインド号が真っ逆さまに墜落する。
その瞬間が、チトセには走馬燈のように見えた。制御できずに青ざめるジュリオ、機首を真下に向けて落ちる赤い飛行艇。その時間が止まることなく動き出す。
「ジュリオーーーっ!」
たまらずチトセはレオナルドを押しのけ、悲鳴をあげた。
「前に出るんじゃない、レディー! あれは落ちる!」
「で、でも、ジュリオが……」
ウインド号が煙をあげ、ノアの中に消えていく。
目の前が真っ暗になった。がくりと膝をついたことも感覚できない。
そんな……嘘でしょ? だって、ジュリオが落ちるわけ……。
下のほうで大きな爆発音が響いた。レオナルドが不安定な揺れに耐えながら、忌々しそうに吐き捨てる。
「ぐっ? まさか、ノアの炉心に損傷でも?」
ジュリオの安否をないがしろにされたのに、怒る気力もなかった。
「怪我はないか? チトセ。……どうしたんだい、チトセ?」
「……ジュリ、オ……」
レオナルドの声も聞こえず、チトセは瞳を強張らせる。
「勝手に殺さないでくれよ」
ところが、その声に耳がぴくんと反応した。チトセを揺り起こそうとしていたレオナルドが、背後から不意打ちを食らって、よろめく。
「ぐはあっ?」
「わりぃな、王子様!」
チトセは抱きかかえられ、レオナルドから離された。
ジュリオが意地の悪い笑みを弾ませる。
「無事だったのね、ジュリオ!」
「ウインド号はお陀仏だけどな。もうお前を、こいつの好きにはさせねえよ」
身体じゅうで彼の温もりを感じた。心を抱き締められたみたいに、胸が高鳴る。
「き、君というやつは……」
「馬鹿野郎ッ! チトセが嫌がってんのに、押しつけてんじゃねえ!」
ふらつくレオナルドの横っ面に、ジュリオの拳が入った。男同士の立ち合いに、女のチトセでは口を挟めない。
「はあっ……君にわかるものか。アスガルの王子に生まれた、僕の気持ちが……」
「ああ、わからねえよ。てめえが底抜けの馬鹿ってこと以外な」
レオナルドはくずおれ、起き上がろうとしなかった。戦意を喪失したのか、背中が丸くなるほど俯いて、前髪の陰に表情を隠す。
「僕は……愛してもらえないのか」
自分を苦しめた張本人であっても、チトセには、彼を軽蔑する気になれなかった。
レオナルドとはもっと違った出会い方もできたはずなのに。彼のプライドをこれ以上は傷つけたくなくて、チトセは同情じみた慰めの言葉を飲み込む。
「帰ろうぜ、チトセ」
「……待って。タイダリアを止めなくちゃ」
水車は海水の汲みあげを続けていた。
アニエルのビジョンが浮遊し、チトセのまわりを旋回する。
『タイダリア、充填率93パーセント。発動まであと7分17秒です』
「今すぐ止めて! 生体コアだって離れてるのよ?」
『……状況を整理。レオナルド=アスガルをマスターから除名、これより御船千歳に指揮権を移行します。ご命令ください』
「話を聞きやがれ! タイダリアってのを止めろってんだ、もう壊しちまえ!」
チトセたちが声を荒らげても、アニエルは澄ましていた。
どことなく彼女にも『意図』があるのを感じる。
「あなた……なにがしたいの?」
『充填率96パーセント。発動まであと4分6秒です』
主砲の運転に関してだけは頑なになって、チトセの命令も聞こうとしない。
「さっきの制御室なら、ぶっ壊したぜ? それじゃだめなのかよ」
「アニエルを……この子を消さないと」
古い記憶の中で手段を見つけ、チトセは覚悟を決めた。
そうよ。ノアなんてなくなっちゃえば……。
「炉心のほうで、ノアを完全にコントロールできるの。急ぎましょ!」
「お、おう!」
レオナルドからハーモニカを回収して、ジュリオとともにエレベーターに乗り込む。
『タイダリア、間もなく充填が完了します』
アニエルは追ってくるものの、妨害はしてこなかった。ただ情報を伝えるのみ。
タイダリアの発射は刻一刻と迫っていた。早く止めなければ。しかし焦れば焦るほど、エレベーターの降下を遅く感じてしまって、もどかしい。
「ありがとう、ジュリオ」
「礼には早ぇよ。まだ終わってねえ、だろ?」
最後になるかもしれない言葉は、ジュリオに伝わらなかった。
ごめんなさい。あたしは……。
やがてエレベーターが海中のフロアまで辿り着く。
その中心には無数のパイプを束ねた、巨大な柱があった。水力を動力とするノアの心臓に当たり、ここから全体にエネルギーが行き渡っている。
柱の麓にある制御盤にチトセの手が触れると、パネルが青い光を帯びた。
「どうするんだ? チトセ」
「壊しちゃえって、あなたも言ったじゃない。これでノアを海に――」
嫌というほど記憶が鮮明になって、操作の方法を教えてくれる。
タイダリアの発射を止め、すべてを終わらせたら、チトセはノアを海に自沈させるつもりだった。ノアの鍵となる『御船千歳』とともに。
もう時間がないのよ、しっかり!
ジュリオとの別れを予感してしまうと、指が震える。それでもハーモニカを構え、誰のものにもならないキスに、息を吹き込む。
だが、先にタイダリアが充填を終え、砲撃の体勢に入ってしまった。
『目標E7、N2。カウントダウンを開始します。9、8、7、6、5……』
アニエルの秒読みが、チトセの絶望を真っ黒に染めあげる。
「E7のN2って、まさかフラン島……?」
『4、3、2、1……タイダリア、フルブースト』
とうとうその瞬間は訪れてしまった。
チトセもジュリオも顔を強張らせる。時間が止まって欲しい、と切に願う。
「タイ、ダリアは……?」
炉心のパイプが綺麗な音色を奏で始めた。
「……なんだ? こいつは、いつもチトセが吹いてた……」
意表を突かれたようにジュリオが瞬きを繰り返す。
その曲はチトセもよく知る『蒼き海』。
潮風がタイダリアを吹き抜けることで、懐かしい旋律が響き渡った。
輝きに満ちた、いのちの海よ
地平線に想いを馳せる、彼方は故郷か
忘れえぬ波の音、潮の風に託そう
陽が沈むまで、そして月が浮かぶまで
祈り捧げる、願いは届く
海を越えて、あの蒼穹へと
いつしかチトセは歌詞を口ずさんでいた。
「海を越えて、あの蒼穹へと……」
海のメロディはきっと地平線を越え、大空まで届いただろう。
アニエルが祈るように目を閉じる。
『亡くなったお母様たちに聴こえる保証はありませんが、タイダリア・ハーモニカは成功です。これにてミッションを終了します』
兵器であったはずのタイダリアの正体に、チトセは呆然としていた。
「ど……どうし、て?」
『二千年も眠っていたのですから、忘れるのも無理はないでしょう。眠りにつく前、あなたは私に最後の命令をくだしています。タイダリアで曲を奏でよ、と』
アニエルはそう告白するものの、チトセにその記憶はない。
タイダリアによる大破壊を目の当たりにして、少女は絶望したに違いなかった。たったひとり海に残され、二千年もの時を生きている。
その間、アニエルはタイダリアの改造を進めていた。
亡き母らに鎮魂歌を捧げたい、という少女の悲しい願いを叶えるために。
「二千年前のあたしが、そんなこと……」
驚いているはずなのに、不思議と心は落ち着きを保っていた。『蒼き海』のメロディを、あたかも母が歌ってくれた子守歌のように感じる。
チトセの肩を抱き寄せながら、ジュリオは無邪気にはにかんだ。
「母さんにも聴こえてるぜ。きっとな」
ふとナナリーの柔らかな笑みを思い出す。
ぽろぽろと涙が溢れてきた。張り詰めていた緊張の糸が、ぷつりと切れたらしい。
「ひぐぅ、お母さん……っ!」
泣き虫でいると、彼がぎゅっと抱き締めてくれた。
「俺の母さんはお前の母さん、だろ? チトセ」
「うん……ごめんなさい」
チトセを想って、追いかけてきてくれたジュリオ。助けにきてくれたジュリオ。それが恋愛感情であって欲しいと思いつつ、家族愛でもあったことが、純粋に嬉しい。
アニエルがノアの炉心を見上げた。
『御船千歳、演奏を続けられるのは、あと3281日です。それ以上の演奏には……ソレ以上ノ演奏ニハ、生体こあガ必要トナリマス。ドウシマスカ?』
言語をノアのものに戻し、ジュリオには内容を隠す。
これで最後になる――チトセはジュリオを見詰め、そっと目を閉じた。
今までの感謝と、愛する気持ちを込めて、キスを。
「チト、セ……?」
口づけを終えると、ジュリオが驚いたように瞳を瞬かせる。その鈍さが恨めしい。
「愛してるわ、ジュリオ。でも……あたしには、ここでやらなくちゃいけないことがあるの。……だから、お願い。あたしの代わりに、お母さんに薬を届けて」
タイダリアが兵器ではなくなったとはいえ、ノアは強大な力を有していた。これが空の世界に知れ渡れば、大きな争いも起こりかねない。
役目を終えたノアを海に沈めること。
そしてノアの鍵となる自分も、眠りにつく。
それが二千年前にただひとり生き残った、御船千歳の使命に思えた。
「あなたのことは忘れないわ」
チトセは必死に涙を堪え、嘘だらけの笑みを浮かべる。
ジュリオは『はあ』と溜息をついた。わしゃわしゃと前髪をかきあげ、呆れる。
「アホか、お前は」
「な、なによ。あなたにだって、わかるでしょ? ノアがどんなに危険か」
「だからって、こんなところにお前をひとり、置いていけるかよ」
その手がチトセの腕を引いた。
四年前、少女を大空へと連れ出した時のように。
「帰ろうぜ。俺たちの空に」
「……ま、待って! あたしは」
再び自由な空へ。愛するひとと一緒に。
『生体こあヲろすと。コレヨリたいだりあヲ除ク、スベテノ機能ヲ停止シマス』
アニエルのビジョンは消えた。
☆
調査隊の全員がシグナートで、空への帰還を果たす。
レオナルドは贖罪のつもりなのか、フラン島の方角に舵を取ってくれた。ウインド号を失ったため、チトセとジュリオはロッティのイーグル号で下船する。
後ろの席にはチトセとジュリオがふたりで座っているせいで、狭苦しかった。
「ちょっと、ジュリオ? 変なとこ触らないでったら」
「紛らわしい言い方すんなよ。背中だろーが」
「はいはい。定員オーバーなんだから、あんま動かないでね」
翡翠色のイーグル号が風を切る。
オレンジ色の太陽は『海』に沈みつつあり、絵の具みたいに海面に溶け込んでいた。白雲層は消え、ありのままの世界が広がっている。
操縦桿を握りながら、ロッティは夕焼けに見惚れた。
「すごく綺麗ね……海、だっけ?」
トパーズ色の海原が揺らめいて、きらきらと輝きを放つ。
東の空は群青色のグラデーションに染まり、一番星が煌いた。やがてフラン島の遠景が見えてきて、チトセは前のめりになる。
「帰ってきたのね。あたしたち」
「ああ。母さんも待ってる」
ジュリオは前のロッティに気づかれないよう、密かにチトセを抱き寄せた。四年間も家族でいた彼と恋人同士になり、新しい関係が始まったことが気恥ずかしい。
「まだノアに残りたいって思ってんのか?」
「……わからないわ」
そう答えながら、チトセは夕焼け色の海へと振り返った。
遠い過去の記憶の中に、母親らしい女性がいる。娘を生き残らせたい一心で、チトセをノアの生体コアに据え、二千年という時を『ひとりぼっち』にしてしまったママ。
それは娘にとって、残酷な仕打ちだったかもしれない。
しかしチトセは感謝もしていた。その母のおかげで、ジュリオと出会い、こうして空の世界へと『帰る』ことができるのだから。
ロッティがぼやく。
「イチャついてるとこ、悪いんだけどさあ」
チトセとジュリオはどきりとして、赤らむ顔を背けあった。
「イ、イチャついてなんかねえよ」
「そういうんじゃ……ない、と思うんだけど……」
ロッティには『ジュリオと進展があった』とは言っていない。にもかかわらず、大体の事情は雰囲気で把握されてしまっていた。
「割と前から、こうなる気はしてたわよ。それより、空の下に『海』ってのが出てきちゃったでしょ。どの島も今頃、すっごい騒ぎになってると思わない?」
果てのない海を見下ろし、チトセたちも頷く。
「また大航空時代が始まるかもな」
「でも重力異常は残ってるのよ? 飛行艇が落ちちゃう」
「だからって、じっとしてられるやつはいねえだろ」
重力異常があろうと、海を目指そうという冒険家は現れるに違いなかった。それだけの魅力が広大な海原には満ちている。
「心配ないって、チトセ。その時は殿下が指揮を執るでしょ」
「あいつが? まあいずれ、今よりすげえ飛行艇だって、できるだろうしな」
空と海の境界は新しい時代を迎えつつあった。
ぽつりとジュリオが呟く。
「父さんも見たのかな。この海を」
「……きっとね」
遠くの海から微かに鎮魂歌が聴こえた。
エピローグ
空の下半分に『海』が現れたことで、フラン島の港も連日のように賑わった。王国の調査団や民間の冒険家が、海に行くための準備に奔走している。
おかげでマクスエ一家の喫茶店も大忙し。最近は昼時を過ぎても、情報を求め、色んな客が足しげくやってくる。しかし誰ひとりとして、チトセたちが当事者とは知らない。
今日はシモンがナナリーの往診に来ていた。
「それじゃあ、わしは失礼するよ」
シリカの説得もあって、アスガル本島の王立病院に戻ることを決めたらしい。シリカのほうは島々を巡り、どこかで診療所を開くつもりだという。
「お母さんを大事にな」
「ありがとうございます、先生」
チトセはぺこりと頭をさげ、多忙な名医を見送った。
ところが同じ店番のジュリオは、カウンターで頬杖をつき、ふてくされている。
「はあ~。いつまで続くんだか、この生活……」
「まだ言ってるの? んもう」
彼はウインド号を失い、空を好きに飛ぶことができなくなってしまった。輸送業を再開するにしても、飛行艇を手に入れるための資金を貯めなければならない。
おかげでチトセはジュリオと一緒にいられた。
「お料理は上手だし、あたしに制服まで着せて、なにが不満なの?」
「ロッティが着せたんだろ、そいつは」
自由を信条とする彼には悪いが、もうしばらく、ふたりで喫茶店を続けていたい。
客足が途切れたところで、チトセは自分たちの分のコーヒーを淹れた。以前はひとりで寛いでいた時間帯に、最近は決まってジュリオもいる。
「退屈でたまんねえぜ、まったく」
「いいじゃない。たまには」
「女ってやつは、空の魅力がわかってねえな」
愚痴りがちなジュリオを宥めていると、ナナリーが様子を見にやってきた。右腕と右足には包帯を巻いているものの、普段の生活に支障はない。
「あなたこそ、女の子のことがわかってないわよ、ジュリオ」
ハクカ熱は無事に完治し、現在はリハビリが続いていた。シモン医師によれば、白化した部分が元に戻るまで、半年は掛かるという。
チトセはいそいそと駆け寄り、ナナリーに肩を貸そうとした。
「ひとりで階段を降りちゃだめよ、お母さん。あたしを呼んでって言ってるでしょ?」
「大丈夫よ、ふふっ。チトセったら心配性ね」
世話焼きな娘にもたれながら、ナナリーが嬉しそうに微笑む。チトセに甘えるのが、最近は楽しくて仕方ないらしい。
「今夜も一緒にお風呂に入りましょうね、チトセ」
「はいはい。お母さんの髪、洗ってあげる」
チトセもくすぐったいものを感じ、朗らかな笑みを綻ばせた。
聞いていられるか、といった顔でそっぽを向くジュリオに、ナナリーが問いかける。
「ジュリオもどう? 三人で一緒に」
「……アホか。俺、父さんの墓参りに行ってくっから」
ジュリオは面倒くさそうに溜息をつくと、ひとりで店を出ていった。
息子の素っ気なさにナナリーが呆れる。
「ごめんなさい、チトセ。あの子、ああ見えて照れ屋で……」
どうにもジュリオは表向きドライを気取りたいようだった。恋人同士になったことも、母親には一言報告しただけ。もちろんチトセとしては物足りない。
これじゃ、あたしばっかり好きみたいじゃないの。
ロッティの『王子様にしとけば?』という無責任な言葉を思い出してしまった。
レオナルドは王国調査団を指揮しつつ、隣国との外交に飛びまわっている。一時期は民間出身の婚約者という噂もあったが、それも下火になっていた。
ナナリーがレコードを古いものに替える。夫との思い出の一曲らしい。
「お店は私が見てるから、行ってきたら?」
「え? でも……」
「いいから。いってらっしゃい」
母の厚意に甘え、チトセはジュリオを追うことにした。
喫茶店の裏にまわって、フラン島の岸まで出ると、視界が一気に開ける。以前はこのあたりに着陸していたウインド号がないせいか、より広く感じた。
チトセの前にはセルリアンブルーの空が広がり、どこまでも澄み渡っている。
そして遥か地平線の下では、大海が陽光の波を湛えていた。耳を澄ませると、ノアの奏でる『蒼き海』がどことなく聴こえる。
空と海がよく見える岸の一角には、アヴィン=マクスエの墓があった。その墓前にジュリオが一輪の野菊を添える。
「……ジュリオ」
「なんだ、お前も来たのか」
アヴィンの墓に一礼してから、チトセはジュリオとともに青空を見上げた。
「飛びたくって、しょうがないんでしょ」
「当たり前だろ。……後ろにお前を乗せて、な」
ふたりきりの時だけ、彼の言動が甘くなる。
ジュリオはそっとチトセを抱き寄せて、穏やかに囁いた。
「帰ってきて、よかっただろ?」
「……うん」
チトセの傍にはジュリオがいて、ナナリーがいる。小さくとも幸せな家庭があった。
空で暮らすことは、海の民への裏切りになるのかもしれない。かつての大戦で、彼らは太陽を奪われ、わずかな陸地とともに海の藻屑となってしまった。記憶のすべてが明瞭ではないが、昔の自分はたったひとり生き残り、絶望したのだろう。
それでも『母』が願ったように、チトセは生きていた。
生きて、ジュリオと一緒に立っている。
「ひとつだけ、わかんねえままなんだよな。お前のことで……」
隣でジュリオが苦笑した。
「なにが?」
「誕生日。お前を見つけた日は、違うじゃねえか」
「天秤の月の6日よ」
「だからいつなんだよ、それ」
二千年の時を越えて、始まった恋。
空と海の出会いが新しい奇跡をもたらす。
蒼き海のストラトス ~FIN~
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