蒼き海のストラトス
透き通るような青。
果てしない空。
どこからともなく吹く穏やかな風が、少女の頬をくすぐる。
この小さな浮遊島は、かつては『帆船』だったらしい。しかしメインマストは折れ、あちこちに穴も空いていた。船体を覆うように、草花の蔓が無造作に伸びている。
長い年月を経て枯れ果てた、一隻の舟。
だが、デッキでは色鮮やかな花が咲き、蝶が舞っていた。丸みのついた揺り籠の中で、彼女はひとり静かに眠っている。
眠れる少女の顔つきは温もりに満ちていた。
彼女が寝息を立てるだけの時間が、どれくらい続いたのだろうか。
好奇心旺盛な少年は自前の飛行艇を駆り、その帆船を訪れた。島にしては妙な形だと思ったが、そもそも彼はボート程度しか『水に浮かぶ乗り物』を知らない。
「へへっ、宝物とかあったりして」
花壇の中央に揺り籠を見つけ、興味津々に覗き込む。
「女の子だ……」
風の音に紛れて、少女の寝息が少しだけ聞こえた。少年の手が頬に触れると、ぴくっ、と生き物の反応が返ってくる。
「寝てるの? 起きなよ」
無邪気な呼びかけに応じ、少女の瞼が動いた。
「ん……」
おもむろに目を開き、金色の瞳に、果てのない蒼穹を映し込む。
青くて広いものを、彼女はひとつだけ知っていた。
「……ウミ?」
少年は首を傾げつつ、少女の小顔をまじまじと見詰める。
「ウミ? それが君の名前?」
今度は少女のほうが首を傾げ、額を押さえた。その手からハーモニカが落ちる。
「ワ……ワカン、ナイ」
「え? キミ、なに言ってんのさ?」
お互いの言葉が通じない。
けれども幼い少年には、『言語に相違がある』ことが理解できなかった。
「アナタ、ダレ?」
「えぇと……困ったなあ、全然わかんないや」
不意にぐうっとお腹の音が鳴る。少女は顔を赤らめ、お腹を隠すように押さえた。
恥ずかしい、という感情が男の子にも伝わってくる。
「なんだ、お腹が減ってるのか」
少年は笑うと、当然のように彼女の手を引いた。
「僕の家においでよ」
「ウェルイ、ミス、ナ? サッキカラ、ナンテ言ッテルノ?」
「いいから、いいから。さあ、行こう!」
行く先で眩い青空が広がる。
「ウミ……」
小型の飛行艇はふたりを乗せ、轟音とともに飛び立った。
主をなくした舟を置き去りにして。
蒼き海のストラトス
第1話
この空には無数の島が浮かんでいた。遥か昔はひとつの大陸だったものが、ばらばらになってしまったという。小さな島が雲で包まれることも珍しくない。
ひとびとが暮らす島には必ず港があった。『飛行艇』という乗り物が、それぞれの港を拠点とし、島を自在に行き来する。
都会島から遠く離れた田舎島のフラン島でも、港は賑わっていた。フラン島は都会島と採掘島の中継点にあり、輸送機が頻繁に補給や休憩に訪れる。
昼時には小さな喫茶店ほど混雑した。厨房は女将のナナリーが切り盛りしつつ、看板娘が注文を受けたり、料理を運んだりする。
「オムレツ、お持ちしましたー!」
「チトセちゃん! こっち、注文いいかな?」
「あ、はーい!」
正午から一時間ほどは忙しい。それでもチトセは笑顔を絶やさず、てきぱきとホールの作業をこなした。この時間帯は客に男性が多いせいか、エプロン姿の受けもよい。
「チトセちゃんって、何歳だっけ」
「十七ですよ。……多分」
「都会島には興味ないのかい? チトセちゃんなら、なんだってできるよ」
聞き飽きそうなお世辞にチトセは苦笑を浮かべた。馴染みの客らはチトセに、田舎の喫茶店で働かせておくにはもったいない、という。
「でもあたし、お店のお手伝いがありますから……」
「そういうことよ。私の娘にちょっかい出さないでちょうだい」
ナナリーがエプロンで手を拭いながら、ホールへと出てきた。お昼のオーダーが一段落したようで、チトセも肩の力を抜く。
ナナリー=マクスエは早くに夫をなくした未亡人だった。しかし柔和な性格と、器量のよさもあって、再婚を前提にした交際を申し込まれることもあるらしい。
そんな『母親』をチトセは自慢に思っている。
「やれやれ。ナナリーさんに怒られちゃ、しょうがない」
「なにしろ『ミス・フラン』だもんなぁ」
「何年前の話をしてるの……ほら、早く食べないと、飛行艇が出ちゃうわ」
おしゃべりな客もやがて食事を終え、『ごちそうさま』と店を出ていった。チトセはナナリーと一緒に片づけに取り掛かる。
飛行艇の離陸音が立て続けに聴こえた。足元に微弱な振動も伝わってくる。今日は快晴のため、離着陸を雲に遮られることもないのだろう。
「買い物に行ってくるから。チトセ、お店をお願いね」
「うん。任せてっ」
午後は夕方に店を閉めるまで、チトセがひとりで店番を受け持っていた。とはいえ島の女性らが井戸端会議に訪れるくらいで、昼時のような目まぐるしさはない。
レコードをカントリー調の曲に替え、コーヒーで一服する。
「ふう……」
午後はひとりで、まったりと過ごすのが好きだった。
他人が苦手だから、というわけではない。看板娘の仕事も楽しいと思っている。しかし集団の中にいては、得体の知れない孤独を急に感じることがあった。
『チトセちゃんって、何歳だっけ』
『十七ですよ。……多分』
チトセには自分の年齢がわからない。記憶の大半を喪失しており、思い出せたのは『チトセ』という風変わりな名前だけ。当初はナナリーたちと言葉すら通じなかった。
フラン島の近くにある『舟』で、いつからか眠っていたらしい。そこをナナリーの息子に発見され、フラン島へとやってきたのが四年前のこと。
光沢のある白髪も、琥珀色の瞳も、フラン島の住人のものではなかった。
どうして寂れた帆船で眠っていたのか。
なぜ言葉が通じなかったのか。
「本当はどこの誰なのかしら……あたし」
そんな答えのない思案に耽るのが、今では暇潰しのひとつになっている。コーヒーの香りを仰ぎながら、チトセは唯一の私物らしい、瑠璃色のハーモニカを眺めていた。
店のドアが開いて、鐘を鳴らす。
「ただいまー。チトセ、母さんは?」
「おかえりなさい。お母さんなら、お買い物に行ったところよ」
チトセは腰をあげ、エプロンを結びなおした。
帰ってきたのはナナリーの実子、ジュリオ。自前の飛行艇で輸送業を営んでおり、平日はお昼に少し遅れて、一度店に帰ってくる。
チトセとは兄弟の関係に当たるものの、どちらが兄も姉もない。
「オムレツでいい? すぐ温めるわ」
「サンキュ。あぁ、茶くらい自分でやっから」
ジュリオはチトセが挽いたコーヒー豆を使って、カフェオレを仕上げた。喫茶店の息子だけあって、コーヒーメーカーの扱いには手慣れている。
「手は洗ったの? ジュリオ」
「わかってるって」
ポケットからは汚れた軍手が食み出していた。作業着のジャケットは洗濯を繰り返したせいで、色が褪せつつある。
赤に黒を溶かしたような色合いの髪は、ナナリーと同じ。目鼻立ちも母親に似て、端正な作りだった。背丈はチトセよりも頭半分ほど高い。
チトセはオムレツを運ぶと、ジュリオの向かい側に座って、頬杖をついた。
「最近なんだか慌ただしいじゃない。お仕事、忙しいの?」
「そうでもねえよ、仕事のほうは。それより来週の準備が大変でさ」
アスガル王国の本島では今、飛行艇の大会『スカイレース』が催されている。ジュリオは予選を突破し、来週の決勝レースへと順調に駒を進めていた。
男の子が一度は憧れる職業、飛行士。ジュリオはその駆け出しとして、個人で輸送業を始め、少しずつ実績を積んでいる。ただし免許はまだ仮のものであるため、王国の本島や都会島の上を飛行することは許されなかった。
正式な免許を取得するには、相応の実力が要求される。
このまま輸送業を続けていても、いずれ取得はできた。しかし公式のレースで結果を出せば、すぐにでも免許を獲得できる。そこでジュリオは自前の飛行艇を改造し、来たるレース本戦に備えていた。
「優勝できそう? 今度の大会」
ジュリオが自信満々に笑みを弾ませる。
「いい勝負はできると思うぜ。ここらじゃ、俺のが一番速ぇし」
ジュリオの飛行艇は都会島を横断できないため、まわり道を余儀なくされる。そのためスピード重視の調整が入っており、レースにはもってこいのマシンだった。
きっとジュリオは、じきに一人前の飛行士になる。
「免許取ったら、一番にお前を乗せてやるよ」
嬉しい誘いにもかかわらず、しかしチトセは溜息をついた。
「もう何度も乗ってるじゃない。それに……飛行艇はやっぱり、怖いし……」
「治ってねえのか? 高所恐怖症」
高い場所で『怖い』と感じるのは、チトセくらいのもの。
どの島の誰であれ、幼い頃から高所には慣れていた。何しろ島が空に浮いていて、常に落下の危険がつきまとうのだから、恐怖心を制御できるようにもなる。
ところがチトセにはその恐怖が自制できなかった。例の舟で目覚める以前は、飛行艇に乗ったこともなかったのだろう。
「俺のウインド号なら大丈夫だって」
「それはわかってるけど……怖いものは怖いんだってば」
そんなチトセの躊躇いが、ジュリオには思うように伝わらない。
ジュリオは残りのオムレツを口に放り込むと、せかせかと席を立った。
「おっと、のんびりしてられねえ。もうじきシグナートが近くを通るってさ」
「シグナートって、レオナルド様の?」
「ああ。そこまで見に行こうぜ」
ついでにチトセの手を掴み、強引に連れ出そうとする。
「待って? お店が……」
「んなの、準備中の札でもかけてりゃいいだろ」
「それもそうね」
昼時でもない限り、急に喫茶店が閉まったからといって、怒るような常連は思い当たらなかった。実際、店主のナナリーも都合で閉めることがある。
悪いと思いつつ、チトセは『営業中』の札を『準備中』に裏返した。勘のよいナナリーなら帰ってきても、ジュリオがチトセを連れ出したものと察してくれるはず。
「お待たせ。いきましょ、ジュリオ」
「おう! シグナートが行っちまわねえうちにな」
彼と一緒に港のほうまで急ぐことに。
青い空では初夏の太陽がさんさんと輝いていた。灯台を遮るほどの雲はないものの、シグナートのためか、港の飛行艇は離陸を見合わせている。
エプロン姿のチトセを見詰め、ジュリオは何気なしに呟いた。
「丈夫になったよな、チトセも」
「そうかしら?」
「ここに来た頃はほら、すぐに息切らせてたじゃねえか」
四年前に比べて、確かに体力がついてきている。
以前は少し走っただけでも、苦しくなったり、熱が出ることもあった。とにかく呼吸がつらかったのを憶えている。
「あなたと遊んでるうちに、鍛えられたのよ」
「そいつは頼もしいな」
しばらく走って、チトセとジュリオは岸に出た。岸とは『島の端』のことで、地面と空の境界線に当たる。恐る恐る覗き込むと、島の側面が切り立った崖のように見えた。
ずっと下のほうは一面が白い雲で覆われている。それは『白雲層』と呼ばれ、常に一定の高度で層を成していた。中は乱気流で荒れており、飛行艇では進めない。
やっぱり怖いわ……。
心臓が俄かに冷たくなった気がして、足が竦んだ。あと一歩前に出れば、島から落ちてしまうだろう。チトセはあとずさって我が身をかき抱く。
「ジュリオは怖くないの? 落ちたら、大変なことになるのよ?」
「考えたこともねえな。落ちねえんだし」
一度この岸でジュリオに驚かされ、大喧嘩になったことがあった。その件もあって、ジュリオがチトセをいたずらに怖がらせるような真似はしない。
顔に薄い雲が掛かって、チトセの視界を遮る。
「島が浮いてるなんて、不思議だわ」
「たまに言うよな、お前。島ってやつは浮いてるもんだろ」
雲が晴れるのを待ってから、もう一度、チトセは注意しつつ崖下を覗き込んだ。
白雲層が広がっているせいで、景色を空と二分するはずの、もうひとつの青色を確認できない。それこそが『海』だという知識が、チトセの記憶に残っていた。
島は空に浮かぶのではなく、海に浮かぶもの。それも実際は浮いているのではなく、海底が隆起し、海面に現れたもの。
「あの雲が邪魔なのよ。なんとかならない?」
「まだ拘ってんのか? ウミ、ってやつがあるって」
しかし誰も信じてくれず、ジュリオさえ海の存在には懐疑的だった。望遠鏡を用いたところで、白雲層のさらに下を目視することは叶わない。
「まっ、お前が言うから、なんかあるんだろーけどよ……あの舟ってやつも結局、わかんねえことだらけのまんまだしな」
ジュリオは関心がなさそうに欠伸を噛んだ。
岸から少し離れたところには赤い飛行艇、ウインド号が停まっている。
それは四年前に完成し、以降はマイナーチェンジを繰り返してきた。前後の全長はおよそ6メートルで、主翼の幅も同等にある。
機首と両翼にはプロペラがついていた。バーニアは後方に二門、備えている。
操縦席は車体から剥き出しで、補助席は後ろにあった。普段はジュリオしか乗らないため、補助席には荷が積まれる。一応、チトセ用の席らしい。
「俺が見つけなかったら、今もお前、寝てたかもな」
「そうね……」
四年前、ジュリオはこの飛行艇の初フライトで偶然、小さな『舟』を発見した。チトセは丸っこい揺り籠に入って、ハーモニカを手に眠っていた、という。
幸いナナリーが快く保護してくれたおかげで、大事にはならなかった。ナナリーやジュリオと一緒に生活するうち、言葉を憶え、それなりに常識も身についている。
また行ってみようかしら、あの舟……。
フラン島から少し南にくだった先に、空に浮かぶ舟があった。しかし訪れたところで、何かがわかるわけでもない。最近はジュリオに連れていってもらうこともなくなった。
このまま自分の素性を知らずに生きても、いいのかもしれない。
「お客さんがね、都会島に行ったらどうだ、って。向こうは学校もあるでしょ」
「行きたいんなら、ひとっ飛びで運んでやるぜ? マリアン島やシズ島のあたりなら、こっからでも通えるだろ」
「もちろん、その時はお願いするわ。でも、まだ決めたわけじゃないから」
今の自分には居場所があった。母親代わりのナナリーがいて、ジュリオもいる。喫茶店の看板娘として、島の皆とも仲良くなった。
昔の記憶に拘っていたら、今あるものを失ってしまいそうで怖い。
「そろそろだぜ……あっちだ!」
ジュリオの指差す方向から、巨大な影が近づいてきた。
蜥蜴に翼が生えたような姿は、ドラゴンのもの。伝説上の存在であり、目の前を飛んでいるのは、それを模した大型の飛行艇だった。
その巨体がフラン島の上空に差し掛かると、日差しが届かなくなる。
「……でっけえなあ」
ほぼ垂直に見上げながら、ジュリオは羨ましそうに呟いた。
チトセも凄いとは思うものの、男の子ほど感動は沸いてこない。
「ああいうのは作らないの?」
「無茶言うなよ。全長が二百メートルもあんだぜ? あれ」
巨竜は十数秒のうちに頭上を通り過ぎていった。あとから突風が返ってくる。
あれこそが、近辺の空を治めるアスガル王国の大型飛行艇、シグナート。レオナルド王子が機長を務め、国政のため、大空を縦横無尽に飛びまわっている。その雄姿から『アスガルの天空竜』とも呼ばれた。
しかしチトセには、ジュリオの『ウインド号』のほうが親近感が強い。
「あなたの飛行艇だって負けてないわ」
「へへっ、大会でそいつを証明してやるさ。頼んだぜ、ウインド!」
景気づけにジュリオはウインド号の機首を叩いた。
「来週はチトセも一緒に乗ろうぜ、こいつに」
「……あたしも?」
突然の誘いにチトセは目を丸くする。
スピード勝負のスカイレースにおいて、余計な荷物は乗せるはずもなかった。チトセの体重は四十数キロとはいえ、小型艇には負担となり、重心の位置もずれかねない。
「あたしが乗ったって、なにもできないわよ。どうして?」
ジュリオが鼻の下を擦った。
「応援に来たって、スタートとゴールしか見れないんじゃ、つまんねえだろ?」
確かにそうね、とチトセも相槌を打つ。
優に百キロは飛ぶレースの一部始終を、脇から観戦することはできなかった。先月の予選も応援に行ったものの、ウインド号らしい赤い機体を探しただけで終わっている。
だったらウインド号に同乗してしまえばよい。
「ちょっと怖いけど、楽しそうね」
「だろ? トップってやつを体験させてやるからさ」
ジュリオの無邪気な笑みが、俄かにチトセを惹きつけた。成人に近づきつつあるようでも、四年前から変わらない、少年の面影がある。
可愛いのよね、ジュリオって。
チトセを小さな舟から広大な青空へと開放してくれた、あの男の子の。
ジュリオは腕枕で寝転ぶと、昼過ぎの空をぼんやりと眺めた。雲間から太陽が覗くと、あたりが急に眩しくなって、目が眩む。
「……なあ、聴かせてくれよ。お前のハーモニカ」
「うん。いいわよ」
チトセは瑠璃色のハーモニカを手に取り、唇を添えた。
眠れるチトセとともにあって、この空の世界にはないそれが、緩やかな旋律を奏でる。曲もチトセだけが知っているもので、タイトルは『蒼き海』。
ジュリオは目を閉じ、音色に聴き入った。
「……不思議な曲だよな」
チトセにとっては懐かしいメロディが、静かに響き渡る。
演奏を終えると、草花が拍手をするかのようにざわめいた。青空から風が吹く。
「優勝してくれるんでしょ? ジュリオ」
「わかりきったこと聞くなって」
来週のレースが楽しみになってきた。
☆
アスガル王国の領内には鉱山島が多く、シグナートを有するように、飛行艇の開発力においては他国を上まわっていた。おかげで国民が自前の飛行艇を建造したり、所持したりすることのハードルも低い。
スカイレースの会場は、アスガル王国の本島にある、大きな港。
チトセはナナリーとともに、当日の朝から輸送艇に乗って、正午前には到着した。ジュリオはウインド号で昨日のうちに来ているはず。
「チトセ、ゴーグルは持ったの? 忘れ物はない?」
「えっと……うん、大丈夫」
チトセは白い髪をポニーテールにして、額にゴーグルを当てた。今日はホットパンツのスタイルで、動きやすさを重視している。
ナナリーは不安そうに空を見上げた。
「心配だわ。何も起こらなければ、いいんだけど……」
彼女の夫はアスガル王国の騎士だったが、遠方で飛行艇の事故に巻き込まれ、亡くなったらしい。それだけに、息子の趣味には抵抗もあるに違いなかった。
実際、飛行艇が島に墜落するような惨事も起こっている。今回のスカイレースは、そういった飛行艇のイメージアップも兼ねていた。
休日ということもあって、会場は大勢の観客で賑わっている。露店のホットドッグで昼食を済ませてから、チトセはジュリオのもとへと急いだ。
「行ってくるわね、お母さん」
「ええ。あの子に応援してるって、伝えておいて」
先ほど露店でチトセの姉に間違われたナナリーは、笑みが緩い。
お母さん、ナンパされたりしないかしら……。
選手らは停泊場のあたりに集まっており、そこにジュリオの姿もあった。
「ジュリオ! お待たせ」
「時間ぎりぎりでお出ましかよ? 来ねえのかと思ってたぜ」
「ごめんなさい。お昼ご飯で手間取っちゃって」
ほとんどの選手がジュリオと同世代の男子で、二人組もいる。女子の参加は珍しいらしく、ちくちくと視線を感じた。
とはいえ、チトセのほかにも女性はいる。
彼女はチトセを見つけると近づいてきて、ゴーグルを上げた。
「チトセじゃない! あなたもレースに参加するのね」
「ロッティ! 久しぶり」
飛行士見習いのロッティ。父親はシグナートの開発にも関わったほどの技師で、その影響もあって、飛行艇に乗るようになったとか。ジュリオと似たような仕事をしており、彼女が頻繁にフラン島を訪れるうち、仲良くなった。
ジュリオが面倒くさそうに眉を顰める。
「お前も勝ちあがってたのかよ……。空で絡んでくるんじゃねえぞ?」
「それはこっちの台詞。まあ今日はチトセも乗るみたいだし、無茶はしないわ」
このふたり、仕事そっちのけで競争することもあるらしい。
「わたしが優勝したら、ご馳走してあげるわ」
「準優勝だろ、お前の限界は」
挑発しつつ、ジュリオもロッティの腕前は認めていた。
しかしふたりで首位独占は難しいかもしれない。今日の本戦には、予選を勝ち進んできた猛者ばかりが集まっている。
両手に花のジュリオを見て、何人かの選手は苛立っている様子だった。
「あいつ、女連れかよ」
「それよりさ、あの子……変な色の髪だよなあ」
訝しむような目で見られ、ぎくりとする。チトセはジュリオではなく、ロッティの陰に隠れ、彼らの無遠慮な視線をやり過ごした。
色素が薄くて白くなった髪は、集団の中では嫌でも目立つ。
「気にすんじゃねえよ、チトセ」
ロッティの後ろから出てこられないチトセを、ジュリオが宥めた。
「そーよぉ。ああいうのは、言わせておけばいいの」
「……うん。ごめんなさい、ふたりとも」
チトセは肩の力を抜いて、無理のない笑みを浮かべた。
いい加減、忘れなくちゃね。
自分の素性など、今さら何の意味も成さないはず。家族だっているのだから。
「ジュリオ、お母さんが『応援してる』って」
「また男に言い寄られたりしてねえだろーな、母さんのやつ……」
ジュリオと同じことを心配していたのが愉快で、少し噴き出してしまった。
「ナナリーさんって綺麗だもんねえ」
「でしょ? 油断も隙もないのよ、ほんと」
やがて開会の時間となり、中央の高台でアスガル国旗がはためく。
巨竜シグナートが悠々と上空を横切った。腹部の両脇から小型艇が放たれ、色つきの煙幕で放物線の虹を描く。
拡声器を通し、主催者の宣言が高らかに響き渡った。
『これより第二十三回、アスガル王国スカイレースを開催するッ!』
鳥の群れみたいな拍手が巻き起こる。
ペガサスの国旗とともに高台に現れたのは、アスガル王国の第一王位継承者、レオナルド王子そのひとだった。凛然とした出で立ちで、ブロンドのおさげを靡かせる。
麗しい王子の見目姿に、ロッティはうっとりとしていた。
「はあ~。さすが王子様だわ……」
「面食いよね、ロッティって」
「相手は王子様なのよ、しょうがないでしょ?」
茶々を入れつつ、チトセもレオナルドの煌びやかさに感心する。
群衆は押し黙り、王子の言葉を一言も聞き逃すまいと、耳を傾けていた。
『選手の諸君にはライバルを尊敬したうえで、正々堂々と戦って欲しい。今年も誉れ高い名勝負が繰り広げられることを、大いに期待してるよ』
ジュリオがつまらなさそうに口を尖らせる。
「あんなの、ただのボンボンだろ?」
「ちょっと? 誰かに聞かれたらどうするの」
チトセは慌てて周囲を見まわしながら、ジュリオに釘を刺した。フラン島のような田舎ならまだしも、王城もあるアスガル王国の本土で、王族を侮辱するのはまずい。
「お前はどっちの味方なんだよ、チトセ」
「なにと張りあってるの、あなた」
チトセらの頭上で、レースについての説明が始まった。
『ルールは単純にして明快だ。ここより飛行艇で出発し、特定のポイントで鈴を回収したら、戻って来ればいい』
拡声器を別にしても、王子の力強い声はよく通る。
大体のルールはチトセたちも予想していた。仮免許の選手らが城下町の上空を飛びまわれるはずもないので、遠方の島との往復が、レースの大筋となる。
『今回の折り返しポイントはフラン島である!』
チトセとジュリオは顔を見合わせ、『やった!』と投合した。
中間ポイントは当日まで伏せられるのが恒例であり、発表されてみないとわからない。二年連続して同じ場所という例もあったため、こればかりは予想がつかなかった。
フラン島がこの本島から西にあることは、一切説明されない。田舎島の名前が出てきたことで、ほかの選手らは慌てて地図を広げている。
一端の飛行士なら知っていて当然の知識、というわけだ。
仮に方角は知っていても、フラン島に至るまで、都会島の上空は迂回しなければならない。風向きなどの知識も必要だろう。
「チャンスね、ジュリオ」
「ああ。フラン島からここまで、昨日も飛んだばかりだしな」
チトセたちには俄然有利な展開になってきた。
フラン島には通い慣れているロッティも、勝気に微笑む。
「楽はさせてあげないわよ、あんたたち」
「望むところだぜ! 白黒ハッキリつけてやるさ」
ジュリオは負けじとガッツポーズを決めた。
『それでは選手諸君! アスガルの空を存分に駆け、大いに競いあいたまえ!』
レオナルド王子の開会宣言が終わると、選手らが一様にざわつく。
「今年は火山島は通らないのか。耐熱装備はいらなかったな」
「てっきり南か東だと思ってたのに……フラン島っつったら、西だっけ?」
情報交換の時間は許されず、間もなく飛行艇への搭乗が指示された。チトセもジュリオとともにゴーグルを嵌め、赤いカラーリングのウインド号へと乗り込む。
「あとでね、ロッティ!」
「ほかのやつに抜かれないでよ?」
前方の操縦席には当然ジュリオが座り、チトセは後ろ。
「サポートは頼むぜ、チトセ」
「一緒に乗るんだもの、少しは役に立ってみせるわ」
二人乗りには加速や重心でデメリットがあるものの、メリットもあった。操縦者に代わってライバルの動向を注視したり、中間ポイントで鈴を取りに行くことができる。
エンジンが掛かるや、ウインド号が振動し始めた。
「しっかり掴まってろよ」
「うん! 安全運転でお願いね」
ゴーグル越しに青空の彼方を見詰め、カウントダウンを待つ。
ウインド号のような小型艇では、搭乗者の上半身が剥き出しだった。ベルトで身体を固定しているとはいえ、空中で放り出されないとも限らない。
けれども不思議と恐怖はなかった。普段の高所恐怖症もなりを潜め、むしろ、わくわくしてしまっている。
「絶対に勝ちましょ、ジュリオ!」
「当たり前だろ。見てな、最高の気分を味わわせてやるから」
いよいよカウントダウンが始まった。その声の主は、どうやら王子ではない。
『3、2、1……スタート!』
合図とともに飛行艇が一斉に動き出した。スタートラインを越えたものからバーニアを噴かせ、機首を上に向けていく。
そういった地上での動作が、ウインド号はぎこちない。
目の前で次々と飛行艇に発進され、チトセは焦りを感じずにいられなかった。
「ジュリオ? 急がないと」
「慌てんなって。空で抜きゃいいだけじゃねえか」
しかしジュリオは落ち着き、操縦桿をしっかりと握り締めている。
のろのろと地面を進んでいたウインド号が、ようやく浮きあがった。二門のバーニアが同時に点火し、機体を空へと放つ。
「きゃあっ!」
大きく揺れ、チトセは咄嗟に手すりを掴んだ。
「振り落とされんなよ、いくぜ!」
ウインド号が急上昇し、さらに上空の薄い雲を突き破る。
機首と両翼のプロペラが回転を速めつつ、機体を水平に安定させた。都会島の迂回距離が最小で済む舵取りで、ウインド号は燕のように青空を駆け抜けていく。
チトセは姿勢を低くして、向こう風に耐えた。
「すごいスピードね! ジュリオ、こんなに速かったの?」
「え? なんだって?」
風の音ばかりが大きくなって、会話にならない。
チトセたちのウインド号は高度を高めに取ることで、ほかの飛行艇を回避する必要がなくなった。持ち前の加速でぐんぐん前に出て、眼下の選手らを続けざまに追い越す。
アスガル本島を西に出ると、視界はセルリアンブルーの大空だけになった。太陽はほぼ真上にあり、強光に目が眩むこともない。
白い雲があちこちで綿のように浮かんでいる。
下のほうは白雲層が延々と広がっていた。チトセには、その向こうにも別の世界がある気がしてならない。
海が青いのは、空の色を映してるから?
そんな疑問を胸に秘めながら、チトセはウインド号の前方を見据えた。
「どうだ、チトセ? 俺たちが一番だぜ!」
「すごいわ! ぶっちぎりよ!」
フラン島までのコースは熟知しており、ウインド号の加速も充分。よほどのミスがない限り、優勝も見えてきた。ところがウインド号とは別の機影が近づいてくる。
「……ジュリオ、来たわ! ロッティの飛行艇よ!」
厚い雲の中から、ロッティのイーグル号が奇襲を仕掛けてきた。直線の加速ではウインド号を上まわり、後ろから来たのに、もう並走できてしまう。
「あいつ! 出だしは俺のよりトロいくせに」
「あっちも、こっちと同じ作戦なんだわ」
スタート時はもたつくことで、混雑を避ける。そのあとで加速を掛け、一気に追い抜くことを、おそらくロッティも考えていた。
ロッティのイーグル号がウインド号を抜き去っていく。
「どうするの? ジュリオ」
「心配すんなって。あいつの飛行艇は、直線でしか速度が出ねえからな」
焦るチトセの一方で、ジュリオは余裕を浮かべた。
フラン島までは都会島をみっつほど迂回するため、飛行艇にはスピードのほかに小回りのよさも要求される。おかげでイーグル号は方向転換のたびに足を取られ、ウインド号が補足できる距離に留まっていた。
ところが、脇から真っ黒な飛行艇が現れ、トップ争いに割り込んでくる。
「ジュリオ、右のほう! 黒いのが来てるわ!」
「いつの間に近づいてきやがったんだ? 捕まってろよ、チトセ!」
ジュリオは操縦桿を握り締め、反動が来るほどに加速を掛けた。ウインド号の急加速に驚いたのか、黒い飛行艇が距離を空ける。
……あんな飛行艇、会場にあったかしら?
レースに出場する機体で、あのような黒塗りは珍しかった。大抵は目立つため、もしくは応援者が識別できるように、派手なカラーリングを施す。現にウインド号はバーミリオン、イーグル号もライトグリーンで塗装されていた。
みっつめの都会島を過ぎて、ようやく前方にフラン島が見えてくる。ロッティのイーグル号を追いながら、ジュリオのウインド号も雲間を突っ切った。
暫定二位で港のデッキへと滑り込む。
「チトセ、急いでくれ!」
「うんっ!」
すかさずチトセはウインド号を降り、鈴を取りに走った。
島の皆が手を振りながら、声援を送ってくれる。
「頑張れよ、ジュリオ! チトセ!」
今日になるまで、皆もここが中間ポイントになるとは知らなかったはず。鉱山会社の名前が入った横断幕は、物干し竿を材料にして、今しがた作ったものに違いなかった。
アスガル国旗のついた鈴を回収しつつ、先行していたロッティを追い抜く。
「もう来たのっ? 距離は稼いだと思ってたのに……」
「今度はお先に行かせてもらうわよ、ロッティ!」
ジュリオのウインド号はすでにデッキを走り始めていた。チトセが駆け足で追いかけ、手を伸ばすのを、ジュリオが引っ張りあげる。
「取ってきたわ、戻りましょ!」
「サンキュ! お前がいてくれて助かったぜ」
一方でロッティのイーグル号は、やっとバーニアに火が入ったところだった。この隙にジュリオのウインド号が離陸し、あっという間にフラン島を飛び出す。
「よし、今のうちに……」
「ま、まだよっ、ジュリオ!」
すぐ後ろを、イーグル号ではなく、さっきの黒い飛行艇が猛然と迫ってきた。ジュリオの独走とはいかず、横に並ばれてしまう。
「まずいな。こっちも飛ばさねえと!」
何かを察したらしいジュリオが、ウインド号のエンジンを全開にする。
背中から押さえつけられるような加重を感じ、チトセはゴーグルの中で片目を伏せた。
「ジュリオ! スピードの出し過ぎじゃない?」
「問題ねえよ。ラストスパートだ!」
帰りは北寄りのコースを取って、ほかの飛行艇との衝突を避ける。
だが黒い飛行艇は少しも離せなかった。いつでもウインド号を差せる位置をキープし、虎視眈々と隙を狙っている。
「こっちだってスピード出してるのに、どうして?」
「民間の技術じゃねえ……っと、あいつも来やがったか」
そのさらに後方から、ロッティのイーグル号も追いあげてきた。ウインド号、イーグル号、そして黒い飛行艇とで、トップを熾烈に争う。
加速の強いイーグル号に直進はさせまいと、ウインド号と黒い飛行艇は交差しつつ、先頭を競った。抜きつ抜かれつのデッドヒートを繰り広げながら、ゴールを目指す。
空の向こうにアスガル本島が見えてきた。
「あとちょっとだってのに……ちっ、こいつら」
思わぬ苦戦にジュリオが舌打ちする。
港への着陸を見越し、三機とも緩やかなカーブに入った。ところが黒い飛行艇のコース取りだけ、やたらと外に膨らむ。
「……え? ジュリオ、チャンスだわ!」
「よし、任せとけ!」
ウインド号は安定した軌道で高度を下げ、ゴールラインへと翼を降ろした。
続いて黒い飛行艇が、さらにイーグル号もゴールインする。
『一着、ジュリオ=マクスエのウインド号!』
盛大な拍手が起こった。
ジュリオがガッツポーズを振りあげる。
「やったぜ! 見たかよ、チトセ!」
「ええ! すごい、本当に優勝しちゃったんだわ!」
ゴーグルを外すことも忘れ、チトセも舞いあがってしまった。ウインド号を降りたら、ジュリオと一緒に手を振って、四方八方の歓声に応える。
ロッティは笑みを噛みつつ、少し悔しそうだった。
「ちぇっ。悪くはなかったんだけどなぁ」
「お前のイーグル号も速かったよ。さすがはトッドさんの娘ってとこか」
「勝ったやつに褒められてもねえ」
ジュリオが一位で、ロッティは三位なのだから、お祝いは決まったようなもの。
そこにもうひとり、二位のパイロットが近づいてきた。ゴーグルを取った素顔を見て、チトセたちは『あっ』と驚きの声をはもらせる。
「レ、レオナルド王子?」
先ほど開会を宣言していた、あの聡明なレオナルドだった。
観衆も二位が王子であることに気づき、さらなる拍手が起こる。今年で二十歳になる王子の実力を見せつける、デモンストレーションの一環だったらしい。
速かったわけだわ、あの飛行艇……。
おそらく王子のマシンには王国の技術の粋が結集していた。それと互角に競いあったのだから、おかげでウインド号やイーグル号の性能も充分に証明されただろう。
レオナルドは穏やかに微笑むと、ジュリオに握手を求めてきた。
「ジュリオくん、だったかな? 素晴らしいフライトだった」
「あ、あぁ……」
困惑しつつ、ジュリオは素直に握手を交わす。
王子に手を差し出され、ロッティはがちがちに緊張した。
「三位の君もいい腕だ。しかし、まさか女性だったとは……名前は?」
「ロ、ロッティ=イクサーです!」
「イクサー技師の娘か。道理で……ふむ」
それからレオナルドは、チトセにも握手を求めてくる。
「で……君がジュリオくんのサポーターなんだね」
「はい。チトセ=マクスエと申します」
王子のまなざしは、チトセの特異な髪の色をまじまじと眺めていた。
「チトセ? 聞き慣れない響きだね。……いや、気を悪くしたなら、すまない」
「あ、いえ……」
その瞳はチトセと同じ金色に染まっている。
「ふたりともマクスエということは、兄妹なのかな? 君たちは」
「えぇと、そうです」
三位と四位以降の開きは大きく、しばらくは機影も見えなかった。やがて後続の飛行艇が現れ、次々とゴールラインに達する。
「免許は取れそうね、ジュリオ」
「ん? ああ、そうか……すっかり忘れてたぜ」
かくしてレースの結果は決まった。
一位はジュリオで、二位はレオナルド、三位はロッティで表彰台に立つことに。
『上位三名の健闘を称え、ここにトロフィーを授与する!』
ジュリオは照れながらも、満面の笑みで優勝トロフィーを受け取った。レオナルドが二位のトロフィーを高々と掲げると、さらに歓声が沸く。
「ジュリオ、おめでとう!」
「言っただろ? 優勝してやるってな」
トロフィーを脇に抱え、ジュリオは得意げに親指を立てた。
☆
翌週になって、アスガル王国のお城から招待状が届いた。王国主催のスカイレースで好成績をおさめた褒美も兼ねて、パーティーに来てもらいたい、とのこと。
招待状には、ジュリオの相棒を務めたチトセの名もあった。パーティー用のドレスは城のほうで貸してくれるらしい。当日は陽が沈まないうちに、チトセとジュリオはウインド号でアスガル本島へと向かうことにした。
「チトセ、昨日はロッティと都会島に行ってたんだろ?」
「買い物に付き合ってたの。ロッティが、パーティーに着ていくドレスが欲しいって」
「あいつはああ見えて、小金持ちだからなあ……」
ジュリオが座席の足元に荷物を積み込む。
「さあ行こうぜ」
「うん」
ふたりを乗せて、ウインド号は悠々たる大空へと駆けあがった。
アスガル本島に向かううちに陽が傾いて、視界がオレンジ色に染まっていく。遥か下にある白雲層は、より色味が強い茜色で満たされていた。
この夕焼けは海まで届いているのだろうか。
「あんなに雲があったら、下はもう真っ暗かもしれないわね」
「ん? なんだ、ウミの話か?」
ジュリオに説明しようにも、まず『海』を教えるのが難しかった。
「島の外が塩水で満たされてる、っつってもなあ……雨が降ったら、薄くなんのか?」
「そんな量じゃないんだってば。海は広くって、すごく深いんだもの」
チトセの漠然とした説明に、ジュリオは首を傾げる。
空に島が浮かんでいることのほうが、チトセには不思議に感じられるのに。
「まっ、そのうち確かめに行ってやるよ。ウインド号をもっと改造してな。ひょっとすると、お前のことがなにか、わかるかもしんねえし」
「……あたしのこと?」
操縦桿を操りながら、ジュリオは意気込むように語った。
「お前が誰なのか知りたいんだよ、俺は」
それは小さな舟で人知れず眠っていた、少女のこと。
けれどもチトセは、もう過去に拘るのはやめようと思っている。
「どうだっていいわよ、あたしは。ちゃんとお母さんだっているんだし」
「本当の親ってわけじゃないだろ?」
「そう……だけど」
ほかに母親がいたら、マクスエ親子との関係は解消されてしまうかもしれなかった。ナナリーやジュリオとは一緒に暮らせなくなる。
だったら、自分の素性など知らないままでいたかった。
……海のこと話すの、やめたほうがいいみたい。
白雲層の下に海とやらが広がっていようと、なかろうと、自分たちには関係ない。そう割りきって、チトセはゴーグル越しに、オレンジ色の夕焼け空を仰ぎ見た。
お城に着いたところでロッティと合流し、男女別に案内される。
更衣室にはセルリアンブルーの豪奢なドレスが用意されていた。靴を始め、手袋やタイツなども一通り揃っている。
「こちらがレオナルド殿下からの贈り物でございます」
「え? あの、借りるってお話じゃ……」
ドレス一式を唐突に与えられ、気後れしてしまった。
遠慮しようにも、それはそれで王子の厚意を無下にしかねない。しかし怖気づくチトセの一方で、ロッティはてきぱきと手持ちのドレスに着替えていた。チトセにだけドレスが与えられたことは、聞こえなかったらしい。
「チトセも早くしないと。パーティーに遅れるわよ」
「う、うん」
メイドが着付けを手伝ってくれる。
コルセットをややきつめに締めるのは、身体をドレスのラインに合わせるため。
ロイヤルドレスは背中が大きく開いていた。脇腹に生地を密着させてから、背面の紐をメイドに結んでもらう。
スカートの中には分厚いドロワーズがあり、動きにくい。
「ヘアスタイルはアップになさったほうが華やかになりますよ」
「あ、いえ……ストレートに降ろしてください」
白い髪には丁寧に櫛が通され、仕上げにコサージュを添えられた。
足元でガラスの靴が輝く。
……これも、あたしのために?
まさかと思いつつ爪先を差し込むと、踵までぴったりと入った。もちろん、レオナルド王子に足のサイズを話したことなど、あるはずもない。
顔には適度に化粧をされ、唇にも艶のある紅を塗られた。耳にはイヤリングを、胸元にも同じ翡翠のネックレスを架けられる。
ドレスアップを終え、チトセは姿見の前でターンしてみた。
「いかがですか?」
「え、えーと……いいと思います」
鏡に映っているセルリアンブルーの淑女が、自分とは別人に思えてならない。
ロッティも着付けを済ませ、エメラルドグリーンのドレスを入念にチェックしていた。イーグル号のカラーリングでもあったように、緑色が好きらしい。
「準備できた? チトセ」
「多分……」
ロッティの変身ぶりにチトセは見惚れてしまった。飛行士稼業のため、普段の彼女はラフなパンツルックでいることが多い。ところが今はお城のパーティーに参上しても違和感のない、優美な艶姿を誇っていた。
「あなたはこういうの、慣れてるの? ロッティ」
「お父さんの付き添いで何度か、ね。でもお父さん、夜会とか苦手だし」
ロッティの父親は王宮御用達の技師で、それなりの地位にある。おかげで娘のロッティは、格式高いパーティーにおける礼儀作法を熟知していた。
「挨拶くらいはできないとね。こうやってスカートを持ちあげるのよ、チトセ」
「こう……かしら?」
初心者のチトセのため、お辞儀の指導もしてくれる。
「スカートの中で足を折るの。こんなふうに」
「わかったわ。こうでしょ」
チトセの動きはまだまだぎこちない。
やがて夜会の時間となり、チトセたちはメイドの案内で、露天の回廊を進んだ。
すでに陽は暮れ、空は群青色に染まっている。そこでは無数の星々が瞬き、初夏の星座をゆっくりと行進させつつあった。三日月が静かに黄金色の光を放つ。
「綺麗だわ……」
「ちゃんと前見て歩かないと、危ないわよ」
中庭を抜けた先の迎賓館には、雅やかな風貌の貴族らが集まっていた。あちこちで似たような社交辞令が交わされている。
「ご、ご招待に与りました、チトセ=マクスエです」
「伺っております、チトセ様。ようこそいらっしゃいました」
招待状に判を押してもらってから、チトセはパーティー会場をぐるりと見まわした。
ホールはシャンデリアの眩い輝きで隅々まで満たされている。円卓状のテーブルは等間隔に並んでおり、その上にはお酒のボトルと、透明のグラスが揃いつつあった。
会場の一角では楽隊が上品なジャズを奏でている。
どうしよう……緊張してきちゃったかも。
期待と、それ以上の不安とがない交ぜになって、チトセの胸を高鳴らせた。場慣れしているロッティが傍にいるとはいえ、落ち着くほど冷静にはなれない。
「よう。チトセ、ロッティ」
「ジュリオ!」
先に会場入りしていたらしいジュリオが歩み寄ってきた。貴族然とした正装のスタイルで、普段は頓着のない髪も小奇麗に整えられている。
「窮屈でなんねえな、こいつは」
ジュリオは少し苦しそうに、ネクタイの結び目に指を引っ掛けた。
「あたしもよ。コルセットがきつくって」
「どっちもどっちなんだな。でも似合ってるぜ」
褒められて、チトセは頬を赤らめる。
「へ、変なこと言わないでったら。こんなの初めて着るのに」
ジュリオの感想に何の気もないことくらい、わかっていた。それでもこそばゆい気持ちになって、両手の指をもじもじと編みあわせる。
「サマになってるから心配すんなって。なあ、ロッティ?」
「そうよ、チトセは磨けば光るんだもの」
しばらく三人で語らっていると、壇上にレオナルド王子が現れた。マントにはアスガル王国の象徴、ペガサスが描かれている。
貴族たちは押し黙り、チトセもジュリオの隣で姿勢を正した。
「楽にしてくれ、今宵は堅苦しい挨拶は抜きにしよう。友人を招待しているのでね」
レオナルド王子の視線が、チトセの顔にぴたりと留まる。
「皆にも紹介したい。……チトセ、ジュリオ、ロッティ、出てきてくれ」
「は、はいっ!」
一番に名を呼ばれるとは思わず、驚いてしまった。
貴族らがチトセの背伸びがちなスタイルに注目する。しかし見られているのは、持ち前の白髪ではないようだった。
「おぉ、ガラスの靴でございますな」
「まあ……! お決めになったのかしら」
サイズがぴったりのガラスの靴が、美しい輝きを放つ。
チトセら壇上に出揃ったところで、レオナルドは一名ずつ紹介を始めた。
「皆も知っていよう。先日のスカイレースで一位の栄冠に輝いたのが、このジュリオ=マクスエだ。勝者にふさわしい、思いきりのよいフライトだったね」
不自然に襟元を押さえつつ、ジュリオが聴衆に一礼する。ネクタイが解けそうになっているのかもしれない。
「ありがとうございます。っと、その……光栄です」
優勝者にしてはぎこちない挨拶を、貴族らは拍手で称えてくれた。
「こちらのレディーがロッティ=イクサー。トッド=イクサー技師の娘でもある」
「ご紹介いただきまして、恐縮でございますわ、殿下」
次はロッティがしずしずと歩み出て、会釈する。言葉遣いも丁寧になり、本物さながらの淑女として、一同の拍手に応えた。
「美しいお嬢さんと侮ってはいけないよ? ジュリオくん以上に豪快なフライトで、僕も危なかったところさ」
「いえ、そんな……殿下にはとうとう追いつけませんでしたし」
「はははっ。そして、もうひとりが……」
紹介を兼ねた三人の挨拶は、無難に進行する。
ところがチトセの時だけ、レオナルドがそっと背中に触れた。
「ジュリオのパートナーを務めた、チトセ=マクスエだ」
「あ、はい。チトセと申します……」
どきりとしながら、チトセはロッティの見様見真似で頭をさげる。
それきりレオナルドの手も離れた。単にチトセの動きが遅かったから、軽く押しただけらしい。ジュリオとロッティは気づいてもいなかった。
「今夜は楽しんでくれ。部屋も用意させてある」
「ありがとうございます、レオナルド様」
全員に飲み物が行き渡ったところで、レオナルドは声高らかに音頭を取った。
「王国の繁栄を願って、乾杯!」
「乾杯ーっ!」
貴族らがジュリオやロッティの周囲で輪になり、笑みを弾ませる。
「ジュリオ殿は輸送業を営んでるとか? よろしければ、王国の企業を紹介しますぞ」
「女子で三位だなんて素晴らしいことですわ、ロッティ様」
称賛を受け、一位のジュリオと三位のロッティは困ったふうに照れていた。チトセは胸を撫でおろし、彼らから適度に距離を取る。
貴族の方って偉そうなイメージだったけど、そうでもないのね。
爽やかなサイダーで一息ついていると、貴婦人らがチトセのもとにも集まってきた。興味津々といった顔つきで、パーティー初心者のチトセを囲む。
「こんばんは、チトセ様。よろしいかしら」
「えぇと、こんばんは。構いませんよ」
彼女らはチトセのドレス姿をしげしげと眺め、納得したように頷いた。
「よくお似合いでしてよ。その髪もお綺麗ですわ」
「……そうですか?」
チトセは白い髪に手櫛を入れ、その毛先を指に巻く。
老いたものとは違い、チトセの髪にはシルクのような光沢があった。綺麗ではあっても奇異の目で見られることが多く、辛辣な評価を受けたこともある。
「病気で色が落ちたんじゃないかって、言われることもあるんですけど……」
「失礼なことをおっしゃる方がいるのね。髪は女の命ですのに」
しかし同性からの評価は概ね高かった。光を弾きやすい色合いのおかげで、今もシャンデリアにひけを取らない輝きをまとっている。
「殿下のお姉様、クローディア様もとてもお美しい方ですのよ。うふふ」
「クローディア様がご結婚なさってからは、殿下も塞ぎがちでいらしたの。お元気になられたのは、チトセ様のおかげかしら?」
貴婦人たちの友好的な態度に、チトセはふと違和感を覚える。
おそらく歓迎はされていた。けれども探りを入れるような質問の数々に、何やら意図を感じずにいられない。
「ご両親はどんなお仕事をしてらっしゃるの?」
「喫茶店です。お母さんがお店をやってて、あたしもお手伝いを……」
無難に答えつつ、チトセは横目で貴婦人らの隙間を窺った。向こうではジュリオやロッティのグループが、笑い声が弾むほど盛りあがっている。
スカイレースでは大活躍のふたりだったからこそ、話題も多いのだろう。高名な技師の娘であるロッティは当然のこと、王子に勝利したジュリオの注目度は高い。
それに比べ、『ジュリオのオマケ』でしかないチトセには何の面白味もなかった。そんなチトセを気遣って、貴婦人らはとりとめのない話題を振っているのかもしれない。
「都会島に出てきてもよい頃合いでなくて? ご将来のためにも」
「私にもチトセ様と同じくらいの娘がおりますのよ。王立アカデミーにお通いになるのでしたら、きっと仲良くなれますわ」
妙な押しの強さに、チトセはたじたじになった。
「ありがとうございます。ですけど、フラン島を出るつもりは――」
「こらこら。そんなふうに囲ってしまっては、客人が動けないじゃないか」
そこへ王子がやんわりと割って入ってくる。
レオナルドは赤ワインのグラスを片手に、悠々と佇んでいた。その笑みは表情を緩めたものであっても、まなざしは力強く、王者の風格を忘れない。
貴婦人たちは扇子を口元に当てながら、道を空けた。
「まあっ! 配慮が至らず申し訳ございません、レオナルド殿下」
「少し借りていくよ。おいで、レディー」
「え? ……は、はい」
レオナルドに連れられる形で、チトセはパーティー会場をあとにする。
ホールは四方が中二階になっており、そこからバルコニーに出ることができた。優雅なパーティーの雰囲気を背に、チトセはレオナルドとともに涼やかな夜風を受ける。
暗黒の夜空では夏の星座が黙々と煌いていた。
レオナルド様とふたりきりだなんて……怒らせちゃったら、どうしよう。
緊張のあまり、チトセは両手で手すりに掴まる。こうしていれば、レオナルドと正面から目を合わせずにいても、無作法にはならないだろう。
「そう固くならないで」
レオナルドがテーブルにグラスを置き、ぱちんと指を鳴らす。すると老齢の執事が早足で現れ、チトセにいくつかの飲み物をトレイごと差し出してきた。
「好きなものを選ぶといい」
「で、でも……お酒はちょっと……」
「会って数日の女性を酔わせるほど、僕は浅はかな男に見えるのかな?」
厳かな風貌の割に、レオナルドの冗談は軽い。女性の扱いに慣れているらしいことは、世間に疎いチトセでも容易に想像がついた。
チトセは透明感のあるレモンスカッシュを選び、そっと口をつける。
しかしグラスの縁に口紅の色が残ってしまった。
ハンカチは……あれ、こっち?
慣れない作法に、慣れないドレス。場違いなところに来てしまったと痛感しながら、チトセはようやく見つけたハンカチで、グラスの口紅を拭おうとする。
「ははっ。無理に気取らずともいいさ」
それをレオナルドが穏やかに制した。チトセのレモンスカッシュを自分の赤ワインに並べて置き、チンと音を鳴らす。
「強引に招待したのは僕だ。レディーが気を揉むことはないよ」
「……はい」
傍に控えていた執事が、王子の合図ひとつで去っていく。
中庭のどこかでフクロウが鳴いていた。後ろのパーティー会場では曲が変わり、バイオリンの巧みなソロが響き渡る。
「君の相棒にはしてやられたよ」
そう呟きながら、レオナルドは三日月を仰いだ。
「スカイレースは僕が優勝する手筈だったんだよ。無論、実力でね。でもまさか、民間の飛行艇にゴールまで逃げきられるとは……」
例年のものに比べて優勝トロフィーが豪勢だったことが、腑に落ちる。
今年のスカイレースはレオナルド王子にとってパフォーマンスの一環だった。
巨竜シグナートを駆ることから、レオナルド=アスガルは『竜王子』とも呼ばれ、畏怖されている。これでレースに優勝していれば、さらにカリスマ性が高まっただろう。
ところが優勝トロフィーは今、王子のもとにない。
「もしかして……ジュリオが勝ったの、まずかったんですか?」
チトセは不安に駆られて、声を潜めた。
レオナルドが笑みを含む。
「そうとも。だから今夜は『友人』として招待し、有耶無耶にしたかったのさ」
自分を打ち負かした勝者を、友人として好意的に迎え入れること。それはレオナルド王子の器の大きさを印象づけるとともに、意図になく王子の顔に泥を塗ってしまった、ジュリオへのフォローにもなった。
「ご迷惑をお掛けしました。レオナルド様」
「おっと、恩を売りたかったわけではないんだが……ふっ、まあいい」
レオナルドの指先が、チトセの白い髪に触れる。
「でも僕はね、体裁のためだけに友人を作ったりはしない。ジュリオくんやロッティくんはもちろん、君とも仲良くなりたいと思ってるんだよ、レディー」
チトセは柔らかな笑みを浮かべ、申し出に快く応じた。
「あたしでよければ。よろしくお願いします」
「こちらこそ、チトセ」
満天の星々を眺めながら、レオナルドもはにかむ。
優しいお方なのね、レオナルド様って。
異性に対し、『優しい』などと思ったのは初めてだった。ジュリオも優しくないわけではないが、チトセを家族として扱ってくれる一方で、遠慮がない。
デリカシーっていうのかしら……ねえ?
何かの間違いとはいえ、風呂を覗かれたこともある。
「ところで……君は空を飛んでいて、不思議に思ったことはないかな」
レオナルドは遥か夜空の、一際眩い星を指した。
「上の空は晴れるのに、下の空はずっと雲が掛かりっ放しじゃないか。おかげで、こんなふうに星が見えることもない」
「……え?」
意味深な語りにチトセはきょとんとする。
空の下に『海』が広がっていることは、自分だけが知っていた。けれども、巨大な塩の泉が月の引力によって波打つ、などという少女の空想は誰も信じてくれない。
「空っていうのは、上だけじゃないんですか?」
「どういう意味かな? 空に方向……なんてものがあるのかい」
チトセはレオナルドの横顔を、レオナルドは広大な星空を見詰めた。夜風がふたりの間を吹き抜け、チトセの白くて長い髪をさらおうとする。
「飛行艇が発明されてから、百年。われわれは多くの島を発見し、出会いを得た」
まだ飛行手段がなかった頃、ひとびとは望遠鏡や伝書鳩を用いて、ほかの島と交流していたという。やがて飛行艇が開発され、空の島探しが始まった。
それが大航空時代。
好奇心旺盛な飛行士らの努力と探索によって、すべての島が発見された――と結論づけられたのは、今より二十年ほど前のこと。
レオナルドは三日月を掴むかのように、右手を力強く掲げた。
「だが探求は終わってないんだよ。僕たちの知らないものが、まだ空にある」
チトセは密かな高揚感を胸に抱く。
もしかして……海が見つかったりするの?
自分しか知らない真実に、おそらく彼も迫りつつあった。
「白雲層の下にはなにがあると思う? レディー」
レオナルドの思わせぶりな問いかけに、チトセはごくりと息を飲む。
ここで『海』について話したら、信じてもらえるかもしれなかった。しかし『変なことを言いだす女』と思われたくもなくて、憶測の体で打ち明ける。
「……水がたくさんあるって思います」
「へえ? 水……か」
チトセの回答が意外だったのか、レオナルドは眉をあげた。切れ長の瞳が琥珀色の光を宿しつつ、チトセの、同じ色合いの瞳を覗き込む。
「面白いな。僕はまだ見ぬ新大陸がある、と思ってるんだ。アスガル王家にも古い伝承があってね、タイダリアという名の大きなものが、必ずそこに……」
「タイダリア……」
海上で新たな島が見つかる可能性もあった。
だが白雲層を突破するのは難しい。島の外では軽くなるはずの重力が、白雲層では島と同等になるうえ、乱気流の壁もある。並の飛行艇ではすぐさま制御不能に陥るだろう。
「シグナートで行くんですか?」
「気が早いね。まあ、そのための飛行艇ではあるかな」
ふと、後ろで誰かの気配があった。
レオナルドとともに振り向くと、柱にもたれ掛かっているジュリオと目が合う。
ジュリオは腕組みを解き、王子に一礼した。
「あっと、その……レオナルド殿下、本日はご招待ありがとうございました」
「君まで固くならないでくれ」
レオナルドがマントを翻し、先に一階のホールへと降りていく。
「さて、戻るとしようか。今夜の主役を独り占めして、月見に付き合わせていては、みなに申し訳ないからね」
すれ違いざま、レオナルドの手がジュリオの肩にぽんっと触れた。
チトセもジュリオと一緒に踵を返す。
「ふたりだけにされて、緊張してたんだろ」
「相手は王子様なのよ? しょうがないじゃないの」
「……どっかで聞いたな、それ」
馴染みの相手だからこそ、平静を装っていられた。けれども頭の中では、王子の言葉がチトセの記憶の扉を開こうとする。
『僕たちの知らないものが、まだ空にある』
誰も知らない、大空にあるもの。それはチトセだけが知っている。
物思いに耽るチトセの額を、ジュリオが指で弾いた。
「なにがあるんだろうな」
立ち聞きしていたらしい。チトセが『聞いてたのね』と呆れると、『聞こえたんだよ』とわかりやすい言い訳をする。
彼のネクタイはやっぱり結び目が解けかかっていた。
「じっとして、ジュリオ。なおしてあげる」
「いいって、そんなの」
「お城のパーティーなんだから。ちゃんと締めておかなくっちゃ」
チトセはジュリオの正面にまわり込んで、ネクタイを整えなおす。ところが結び方がわからず、幼子の稚拙な片結びみたいになってしまった。
「あれ? ちょっと待って……」
「難しいだろ? 俺もわかんねえんだよ」
ジュリオはネクタイを外し、襟元を開けてしまう。
「それより戻ろうぜ。なんつったっけ、すげえ美味い料理があるんだ」
「食い意地張らないでよ、もう。……ロッティは?」
「食ってるに決まってんだろ」
チトセは彼と会場に戻って、間もなくコルセットの苦しさを思い知らされた。
☆
ウインド号がフラン島へと針路を取ったのは、パーティーから二日後。
昨夜は天気が少々荒れたものの、今朝のフライトに影響はない。チトセとジュリオは朝日を背にして、青い大空をまっすぐ西へと飛んだ。
前方から綿飴みたいな雲が流れてくる。
操縦桿を操りながら、ジュリオは疲れたように愚痴を漏らした。
「買い物が長すぎるんだよ、お前ら」
「女の子はそういうものなの」
チトセはゴーグルを押さえ、少し前のめりになる。
予定では昨日のうちに帰るつもりだった。しかしロッティと一緒にショッピングに繰り出したら、あっと言う間に陽が傾いてしまった。
レオナルド王子の厚意もあって、昨夜はレストランでご馳走になっている。
殿下のお誘いを断るわけにもいかなかったものね。お母さん、心配してるかしら。
長居してしまったが、おかげでナナリーへのお土産も増えた。
マクスエ一家にチトセが加わって早四年。あの港の喫茶店が、今ではチトセの帰るべき場所となっている。だからこそ、そろそろ娘として『母』に何かを返したかった。
「気に入ってもらえるかしら、お母さんに」
「昨日買った服か? お前にもらえるなら、なんだって喜んでくれるさ」
「……うん。そうよね」
ウインド号が速度をあげ、風をまとう。
今までは迂回せざるをえなかった、都会島の上空に入った。おかげで帰りは早い。
「明日から営業再開だぜ。免許も取れたし、忙しくなりそうだ」
王国主催のスカイレースで優勝したのだから、ジュリオの名はじきに知れ渡るだろう。家族の目覚ましい活躍が嬉しくて、チトセも浮かれてしまう。
眼下には雑多な町並みが広がっていた。もしかしたら、町の子どもたちがウインド号の雄姿を見上げ、はしゃいでいるかもしれない。
空を飛んでるのね、あたし……。
そんな当たり前のことを、とても不思議に感じた。
澄みきった蒼穹がチトセに爽快感をもたらす。鳥が見ているのと同じ光景が、そこにはあった。一羽の燕がウインド号と別れ、だんだんと離れていく。
「帰りましょ、ジュリオ」
「おう! しっかり掴まってな」
こんな空がいつまでも続くと、思っていた。
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